先輩は来てしまう
もちろん深く快い睡眠を摂ることなんて出来ないで、十二月二十三日の土曜日は朝から晩までバイトをし、迎えた日曜日。
人生で二十回目のクリスマスイヴ、後輩くんは生まれて初めて、この週末を大好きな人と過ごす人たちにうっすらとした嫉妬を覚えながら家を出て、呆れるぐらいに空の青く澄み、冷たい風の吹く中を、交通費が三十円安くなる隣の駅までてくてく歩いて、……こんなとき隣に先輩がいなくてよかったな、と思う。あんまりにもケチ臭いということは自分でも判っているし、予定通り昨日のバイト帰り、ちょっと安くなっていた菓子パンを買って、今日のお昼ごはんとして鞄に入れてきた。
電車の中の空気もなんだかイチゴと生クリームのにおいがするように感じられる中、心のスイッチをオフにして揺られて着いた水鳥川駅からは、無料のシャトルバス。家電量販店や衣料品店の並ぶ国道の視界がやがて開け、長い橋を渡ると車窓は一転、マンションや物流倉庫が建ち並ぶ中、バスは水鳥川ボートレース場に到着する。混んだバスから吐き出されたギャンブラーに混じって、後輩くんはせっかくバスの中で蓄えた暖気がみるみるうちに抜けて冷えていくのを覚えつつ、早足に場内へ駆け込む。入場料は百円也。券売機にもマークシートにも目を向けず、水面を見下ろす日向の二階スタンドへ腰を下ろした。いまちょうど、今日最初のレースに出走する六名の選手が水面上に姿を現し、これから展示航走と呼ばれる足見せを行うところだ。
後輩くんが、まだお金があって舟券を購入して遊ぶことが出来ていたころ、予想の材料にしていたのがこの展示航走である。
ボートレースの「節」と呼ばれるひとつの開催単位はおおむね四日から六日間。前半で予選を行い、その結果(着順)に応じた点数を加算していき、上位の選手が準優勝戦を行い、それを勝ち抜いた六名によって優勝戦を争う。節の始めにモーターとボートが抽選で選手それぞれに割り当てられ、選手は節中にモーターを整備したりプロペラを叩いたりして、自分好みの「足」に仕上げていく。展示航走はそれぞれの「足」の仕上がり具合がどうかを見る場なのだ。加速のいいモーター、最高速度の早いモーター、ターンで減速したあとの再加速が鋭いモーター……、どういうわけか後輩くんは、他の舟券購入者よりもそれを見分ける眼力が備わっているようだ。わりと普段から人の顔色を伺って生きているからかもしれないが。
このレースでは、大外、つまり六号艇のモーターが優秀であるように感じられた。
ボートレースは同じところをぐるぐるぐると三周するスポーツである。スタートして最初のターンマークで百八十度走る向きが変わる、と言えば、「ならインコースが圧倒的に有利だね」ということは誰でも判るだろうし、実際に一号艇が一着になる確率は、ざっくり五割を超えるし、六コースは圧倒的不利枠ということになる。そういう大前提を知っているだけで、無茶な買いかたはしなくなるし、そもそも六艇しか走らないものだから、儲かるかどうかは別としても大怪我を負うリスクが少ないのがギャンブルとしてのボートレースである。
逆に言えば、なんらかの理由に基づいて一号艇を買わない、代わりに六号艇を買う……、ということが出来れば、大儲けが出来るということである。人の行く裏に花ありというのは経済用語であるが、ギャンブル全般にも当てはまる言葉ではある。
……一号艇もそんなに悪くはないな、抜けて悪い艇はいない、強いて言えば四号艇の直線が弱いしスタートも少し遅れる。一つ外の五号艇が四号艇の鼻面を叩いて攻めていく。その先、三号艇と二号艇の足は、普通ぐらいはありそうだ。とすると五号艇はそこで引っ掛かる。
一号艇が先に回る。内の懐を二号艇が差して狙う。この両者は互角ぐらいだけど、二号艇のほうが乗っている選手の腕がいい。この両者が一着を争う。四は早々に脱落、五は三に引っ掛かり、三は五に抵抗してターンが膨らむ。
となれば……、1-26-26が面白い。
後輩くんは無表情にそこまで考え、オッズを見て、当たるかどうかは別としてこれで安くとも三十倍も付くのか、美味しいな……、なんてギャンブラーの発想を転がして、はっと我に変える。違う違う、僕は今日舟券を買いに来たんじゃなくて、寿羅くんの応援に来たんだ。お目当ての寿羅くんは今日間違いなくここで走る、このあとの第二レースと、お昼過ぎの第七レース。この二つを見届けたならあとはもうまっすぐ帰る。舟券を買って遊ぶために来たのではない……。
けれど。
いいじゃん買っちゃえよ、当たれば三千円だぜ、三千円あれば何が出来るよ。菓子パンもそもそ食って無料の茶をすするなんてさもしい真似しなくて済むんだぜ。
悪魔が囁く。後輩くんの中にも多少、こういう口の悪い人格はいるのである。
一方で、天使が袖を引っ張る。
そんなことをしてはいけないよ。君のお金はもう百円だって無駄に使ってはいけないんだ。君がここにいるのは何のためだか忘れたの? 遊びに来たんではなくて、寿羅くんを応援にしに来たんだろう……?
二度、三度、腰を浮かせては下ろす、そんな落ち着きのなさを演じたあとであった。
後輩くんと同世代であろう青年が、たいそう立派なカメラを携えて、後輩くんの後方からやって来た。彼は後輩くんの珍妙なダンスには目もくれず、スタンドの最前列で腰を下ろし、カメラに望遠レンズをセットする。コートの右腕には撮影許可証──多くのボートレース場では、撮影の際に事前の申請が必要なのだ──のパスケースがぶら下がっている。趣味の撮影だろうか、それにしては、装備が本格的であるが。
後輩くんは天使と悪魔の戦いを保留して、その青年を眺める。後輩くんはカメラのことなんて全然詳しくなかったが、その青年の手際がとてもいいことはすぐに判った。水面では一レースの展示航走が終わり、一旦引き上げていった六艇に変わって、更にそのあとのレースに出走する選手たちが試運転を始めていた。青年は大砲のようなレンズを水面に向けて、ちたたたた、ちたたたた、ちたたたた、とシャッターの音を響かせる。水面で行われているのは試運転、青年もまた肩慣らしの試運転をしているのかもしれない。右斜め後ろから見ているので後輩くんには青年の表情は伺えないが、背中は真剣そのものである。
何度かボートレース場に足を運んできた後輩くんであるが、若者一人、というのはなかなか珍しい。一人できているのはだいたいおじさん以上の年齢の人で、そういう人たちはここへ来ると顔見知りがいて、なんとなく合流しておしゃべりをして……、という姿をよく見る。若者はたいていグループで賑やかにわいわい騒いで当たった外れたと表情豊かに楽しんでいるのだ。
後輩くんはと言えば、これまでのところ毎回独りぼっちで、あまり表情も変えることはない。たまにおじさん以上の年齢の人に「当たったかね」「次はどっから買うよ」なんて話し掛けられて、しどろもどろに応対するぐらい。ひょっとしたらおじさんたちが放っておくことにしのびなさを感じるぐらいに寂しそうに見えるのかもしれないが、後輩くん自身はおひとりさま時間をぞんぶんに楽しんでいた。舟が走る姿を見るのも楽しいし、おじさんたちを観察しているのもいい気分転換になる。しかるに、なかなか自分以外の若者独りというのは見なかったから、いかにも興味を惹かれてしまう。
青年はひとしきり「試運転」が終わって、ふう、と一息着いた。それから不意にレンズの角度を変えて、水面よりずっと手前に向ける。そこは水面際の、走路にいちばん近いところから見たい観客たちのためのスペースである。
そこへ向けて、ちた、ちた、ちた、と青年がシャッターを切っていく。はて、誰か芸能人でも来ているのかな。ボートレース場というのは意外と芸能人がよく来る場所なのである。後輩くんも、歌手の真喜志譲一を見たことがある。ファンではないのでサインをねだることはしなかったけれど、握手を求めるおばあさんが何人もいた……。
どれ、と後輩くんはそうっと腰を浮かせて水面レベルを伺って、びゃっ、と声を発してしまいかけたので、慌てて口を塞ぐ。
知った顔が、そこにはあったから。
いや、ただそれだけならばここまで驚くことはなかっただろうけれど。
一昨日、猪熊駅にいた外目黒さんとユノちゃん。
波主守を持っていたことからも想像できた通り、やっぱり彼女たちはボートレースファンだったのだ。一昨日は、なんだか親戚の家に行くとか言っていた。親戚の家から電車で二十分のところにボートレース場があるなら、彼女たちがここに来ることは別にそれほど驚くべき偶然とは言えまい。
問題は、彼女たちと一緒にいる人である。
……どうして先輩がそこにいるんですか。
先輩は一昨日、彼女たちとアドレスの交換なんてしていなかったはずだし、波主守がどういった性質のものであるかも知らなかったはずである。
そこまで考えたところで、「あ」と今度こそ後輩くんは声を漏らした。慌ててスマートフォンで「小熊寿羅」と入れてみる。プロスポーツ選手であるから、検索窓に入れた時点で公式サイトの選手名鑑のところへ飛ぶ。先輩はそこを開いて寿羅くんがレーサーであることを知ったのだろうし、今日水鳥川で走ることも知ったのだ。そうして赴いてみたら、外目黒さんとユノちゃんがいたので、再会を寿いでいる……、というのが後輩くんのいま見た景色の答えである。
ユノちゃんはさておき、意外なことだが、外目黒さんもクリスマスイヴを一緒に過ごすパートナーはいないらしかった。あるいは、いるけれどボートレース場に来ることのほうが彼女にとって重要なのか。まあ、それはさておき。
どうしてわざわざ先輩は来たのだろう。何のために。
後輩くんは考えてみたけれど判らなかった。判らないのが後輩くんという人なのだ。とりあえずしたことと言えば、発売締め切りまで五分を切った一レースの舟券を買うことは諦めて、席に座り直し、……やっぱり寒いな、思って無料の給茶機にお茶を汲みに行くこと。
気持ちの落ち着かないうちに、一レースが終わった。結果は一着が一号艇、二着が二号艇、三着に六号艇で、後輩くんの予想した通りになった。買っていれば当たったのだから損、という考えが頭をもたげたけれど、ここで当たったら調子に乗ってあれもこれもと買い始めて、結果的にはマイナスになっていたに違いないと自分の中の悪魔に言い聞かせる。水面上は変わって二レース、いよいよ寿羅くんの出走するレースである。寿羅くんは五号艇、カポックと言われる乗艇服の色は黄色であり、ヘルメットを被って顔は見えない、……けれど、ボートには「5小熊寿」と書かれたプレートが貼り出されていて、間違いなく後輩くんの後輩くんであるところの寿羅くんである。
水面際の先輩たちにバレないように、そうっと一段、また一段とスタンド前方へと降りて、手すりを掴んで覗く。
他の五選手はベテラン揃い……、寿羅くんのお父さんお母さんよりも歳上の選手さえいる中で、まだ十八歳の寿羅くんが同じ条件で戦うのだ。
ヘルメットの向こう、表情を伺うことはできない。しかし、遥か後方から助走を付けて、コンマ〇一秒でも速いスタートを切ろうという姿勢を伺うことはできる。それは若干空回りして、フライングになってしまったし、そのあとのターンでは明らかにハンドル捌きが危なっかしくて、他の五艇に比べても経験のなさを露呈してしまっているけれど……。
それでも、後輩くんの胸はずいぶん熱くなったし、まだこれは展示であって、つまりこのあとが本番だと頭では判っているのに、うっかり涙ぐんでしまいそうになってしまった。
僕に将棋で負かされてめそめそ泣いていたあの子が、いつの間にこんな立派になって……、と。
ちたたたたた、ちたたたたた、青年はシャッターを切り続けている。レンズの角度と音とで、後輩くんは彼が一号艇の選手の写真を重点的に撮っているのだと判る。そのことに、それほど驚きはなかった。だって一号艇は、艇界屈指の人気選手である。
持筑幸夫、四十五歳。
かつては大レースで活躍していたものの、怪我で調子を落とし、長らく低迷していた。そのままフェードアウトしてしまうかに思われていたが、二年前、奇跡のような復活優勝を果たし、そこから再び輝きを取り戻して今に至る。持筑選手の復活は後輩くんがボートレースと出会うよりも前の話であるから、この物語はウェブの記事で知ったに過ぎないけれど、「何度も諦めかけたけど、自分がどんなに落ちぶれても応援し続けてくれた娘を喜ばせたい一心で……」という熱い思いで辿った彼の足跡は、一読しただけでちょっと目が潤んでしまったほどである。ルックスも渋さと苦さの入り交じった、いわゆる「イケおじ」であるので、年齢のわりに女性ファンも非常に多いようだ。
と。
展示航走も終盤に差し掛かろうというタイミングで、青年のカメラがまた水面際に向いた。彼のレンズが捉えるのは、水面際の三人、すなわち、外目黒さん、ユノちゃん、……そして先輩である。女子大生・女子小学生・どっちか判らない人の視線が、揃って一号艇の航跡を追っていることは明らかだった。ということは彼女たちの波主守のプレートには持筑選手の登録番号である「10898」が刻印されていると考えて良さそうだ。
後輩くんは想像した。
「もう、超カッコいいんですよ、持筑選手、いやモッチー!(これは後輩くんがいま考えた持筑選手のアダ名である)」
「そう、そう、ユッキー(これも後輩くんがいま考えた持筑選手のアダ名その二である)めちゃめちゃカッコいいし、強くて、あと男前!」
先輩も、ご自身の性別はどうあれ強くて格好よくて渋いおじさまは嫌いではないはずだ。
「なるほど。では私も二人と一緒に持筑選手を応援することにしようかな」
これはわりと、自然な成り行きではあるまいか。一号艇であるし、実力も他の選手たちと比べると頭一つ抜けているのが持筑選手であるから、ここでの一着は堅いと見てよい。もちろんたいして儲かるところではあるまいが、それでも舟券を当てさせてくれた選手に悪感情なんて抱くはずもなく、「推し」というのはごく安易に、そういうところから出来ていくものなのだ。
ともあれ、そんな会話をしていることが推定される三人を、青年は撮影している。
ちょっといやな感じを、後輩くんは受けた。
この青年は、先輩を撮っているわけではないんだろうな、という想像は妥当だと思った。撮影対象は外目黒さんではあるまいか。外目黒さんは、一昨日ちょっと話しただけだけど、とっても明るくて華やかで可愛らしい女性である。金髪である、という以上に何か、人の視線を引き寄せる要素が彼女にはあるようだ。
でもって、彼女はユノちゃんと一緒に、きっとこれまでもしばしばこのボートレース場に来ているはずである。猪熊に親戚がいて、ここまでのアクセスが至便であるということからも想像できる通り……。
この青年は、だから、つまり……。
後輩くんは慎重な考えかたをする。自分が正しい、などとはあんまり思わない。むしろ、自分が考えることなんてアテになんないな、というスタンスで生きている、謙虚で小心な人物である。よって、いま後輩くんが頭に浮かべた「カメラ青年=外目黒さんのストーカー説」はいくらなんでも荒唐無稽ではないかとは思う。けれど、選手の撮影目当てにこの場に通っている日々の中で、あるとき、眩しい金色の髪、鮮やかな小麦色の肌、溢れんばかりの愛嬌……、まるでボートレース場に舞い降りた天使のような女性に彼は恋をしてしまった。近付いて行って話しかける勇気はどうしても持てない。けれど、彼女を近くに感じたい。そんな思いから、いけないことだと判りつつも、選手を撮るふりでこっそりと彼女の写真を……。
どうでしょう、これぐらいなら無理なく飲み込めるんじゃないでしょうか……。誰にこの話をするつもりもないのだが、後輩くん自身は納得に至る。
止めるべきか、咎めるべきか、考えているうちに、先輩の肩がこちらに向きかける気配があった。やばっ、と咄嗟に身を縮める。どうして反射的に隠れてしまったのか──別に悪いことをしているわけでもないはずなのに──と考えて、ああそうか、まだ先輩にどういう顔で会えばいいのか決まっていないからだと後輩くんは気付く。
僕はまるで、そこの盗撮青年と同じみたいだ。
会えないと思っていた日に大好きな人に会えるというのは、とてもとても嬉しい。けれどいざ顔を合わせるとなったら、何を、どんなふうに言えばいいか判らない。盗撮青年がきょう外目黒さんが来ているのを見付けたとき、いったいどれほど嬉しいと思っただろう? していることはちっとも褒められたものではないけれど、僕がとやかく言えるほど悪いことをしているわけでもないんじゃないか……、どうも、そんな気がした。
後輩くんはこそこそと二階スタンドを離れる。寿羅くんの走る、きょう一つ目のレース。先輩たちがいなかったら水面際まで降りていって、声こそ出すまいが「頑張れよ」って心の中で声援を送るところなのだけど、まず間違いなく先輩に見つかってしまうことにはなるだろう。いや、そもそもの話として隠れていなければいけない理由についても、いまだ後輩くんははっきりと把握してはいないのだけど。
先輩がなぜここへ来たのかも、実のところ後輩くんには判らない。
先輩は嫉妬をする。これはご自身も認めているところなので、そういう人だとはっきり認めてしまってよかろう。先日は後輩くんが王子様部の部室で、中寉さんと寝た(誤解を招く言いかたではあるが、本当にただ、ただ寝ただけである)ことを知って以来、ジェットコースターみたいにご機嫌を乱高下させたすえ、一緒にお風呂に入ることを提案したのである。今回は、先輩が後輩くんをまだ知らないころに、後輩くんと心を通わせた寿羅くんが出現したことでご機嫌を損ねた。
後輩くんなりに考えを転がし、仮説を立てるならば、……と言って、それは「僕だったらこうする」という、小学生の国語のテストみたいなものでしかないのだけれど。
どんな顔をしているのか見でやろう、とか。
まだへたっぴのレーサーなら、みっともなく負けてしまうところを見て溜飲を下げよう、とか。
いや、と後輩くんは首を振る。先輩がそんな人間として程度の低いことを考えるはずもない。っていうかそういうこと考えちゃう僕って人間的にどうなのってレベルだな、と気付きたくないことに気付いてしまって、ちょっと凹みそうである。
しかしそうなると、先輩がなぜボートレース場にいるのかは、全く判らなくなってしまうのである。
後輩くんは先輩の、名前も年齢も性別も判らない。もっと言うなら、考えていることだって判らない。判らないけれど、そうっと覗いて表情を伺い、言っていることを想像することもできる。二レースの展示航走が終わって、先輩と外目黒さん・ユノちゃんはスタンドへ入って行く。目を凝らしてその横顔を伺ってみるに、……ごはんの相談だろうか?
「ここはねぇ、意外とおいしいもんいっぱいあるんすよ」
外目黒さんが明るく華やかな顔で言う。事実である。後輩くんは、ボートレース場のごはんが大好きだ。何かものすごく特別というわけでもないのだが、何を食べても期待している以上に美味しい。後輩くんはだからボートレース場に来るときにはお腹をぺこぺこに減らして来るし、今日菓子パンを携えて来ることを、とてもとても苦しい思いで選んだのである。食べものが絡むと、叶わぬ願いは余計に痛みとなって心身に響く。
ユノちゃんが外目黒さんの腕を引っ張った。
「ごはんはまだだよ、二レースのあと」
外目黒さんが「もちろん」と頷く。
後輩くんの読唇術がどこまで信用にあるものであるのかどうかは判然としないが、なんとなくそんなやりとりではあったように思う。しかるに、なにがもちろん、なのか、なぜすぐごはんではないのかは、次が持筑選手のレースだからに違いない。後輩くんを含むごく限られた人たちにとって次のレースは重要だが、場内にいるほとんど全ての人は持筑選手に熱い視線を送るのだ。そう考えて対岸の電光掲示板に表示されたオッズの数字を見るに、持筑選手からの舟券は安いものでは百円が四百円程度にしかならない。それだけたくさんの人が持筑選手の一着を期待しているということだ。
一方で……。
持筑選手からの舟券でも、ちらほら、ずいぶん高い返りがあるものも紛れている。それは三着・二着に寿羅くんが飛び込んで来たときに的中する舟券であり、いずれもマンシュー……、「万舟券」である。
誰も当たるなんて思っていないのだけど、まあ、夢を買うというやつだ。後輩くんは寿羅くんに夢というか、百円だって託すわけにはいかない(気持ちの話ではなく、シンプルにお財布の話である)のであるが、裕福ならば応援の意味も籠めて持筑選手との組み合わせ舟券ぐらいは買っていた可能性はある。
一円の舟券も買っていないのに緊張感を高めながら、トイレに行って戻ってきたら、もう舟券の発売締め切り三分前で、すぐに一分前。
水面際には先輩と外目黒さんも戻ってきていた。ユノちゃんは水際の柵にぴったり張り付いて身を乗り出している。印象としてはボーイッシュでクールな子だったから、無邪気に熱中する様子をあらわにしているのはちょっと意外だ。
締め切られると、六艇のボートが停泊する桟橋に選手たちが姿を現し、ストレッチしたり、じっと俯いて集中力を高めたり。持筑選手はいつもそうだが、ヘルメットのシールドを上げて天を仰いでから、ボートに乗り込んで、シールドを下ろすというルーティーン。一方で寿羅くんは整列している間は自分の左右の選手たちをキョロキョロ見回したり、後ろを振り返ったり、スタンドのほうを見やったりと、いつも集中できていないんじゃないかと思うほど落ち着きがない。まだ駆け出しの寿羅くんはボートレースにおいては不利とされる外枠の五号艇六号艇ばかりが割り当てられ、まだレースに参加して経験を積む段階なので、目にする景色あらゆるものを焼き付けて後々の役に立てようという魂胆なのかもしれない。
寿羅くん含め六人の選手がボートに乗り込む。観客から見えない位置のシグナルに合わせて、六艇が桟橋から飛び出した。ゆったりとしたペースで向こう正面に出たところで、スタートタイミングを示す大時計の針が動き始めて、スタートまで残り一分。ボートレースは自然の水流と風の止まらない水面で競う競技であるため、静止した状態からいっせーのせでスタートするのではなく、おのおの距離を取り、時計の針がぴったりゼロを指す瞬間(から一秒以内)にスタートラインを超えるよう助走するという特異なスタートのルールがある。その巧拙と、ターンの技術、そしてモーターの整備力の総体がレーサーとしての力量であり、いずれも経験によって磨かれるものである。稀に一年目二年目から輝きを放つ選手もいるようだが、寿羅くんはそんな奇跡のような存在では、どうやらないのだった。
だから後輩くんが願うのは、……どうか、無事に。
寿羅くんは遥か遠くから助走を付けて、他の五艇とさほど変わらないタイミングでスタートラインを超えた。直線の伸びはそこそこいい、トップスピードでは他の選手たちに混じって見劣りするものではない。しかし、最初のターンを迎えるところで、外を回るのか内に差し込むのか判らない。迷っているうちに艇が外へ流れ、バックストレッチに入るところではもう最後方になってしまった。
ただ、後輩くんは寿羅くんの航跡を追うよりも、
「いっ……けぇえええええええええ!」
という甲高い声に弾かれているのだった。
声の主は、水面際の女児、ユノちゃんである。
初対面でのクールな印象が吹っ飛ぶような熱い声援である。最初のターンマークを超えたところで早くも独走態勢を築き上げたのは一号艇の持筑選手、水飛沫の向こうにその勇姿を捉えて、「やったー!」と跳び上がって喜ぶ。
なるほど、ユノちゃんは持筑選手の熱狂的なファンなのだ。若い、いや幼いにしては渋い趣味である外目黒さんと比較して見ると、熱の入れようには歴然とした差がある。従妹のユノちゃんに合わせてボートレースに興味を持つようになった外目黒お姉さんだったのだろう。
外目黒さんと並んで立つことで、身長は大差ないのにいつもより男っぽい印象となった先輩は、二人とは少し違う角度に視線を向けている。
先輩が見ているのは、最後方から五番手の選手に少しでも差を詰めようと奮闘する寿羅くんの姿だった。
ボートレースというスポーツは、先行する選手が圧倒的に有利な仕組みになっている。というのも、先頭を行く艇は波のないところを走れるが、二番手以降の艇はどうしても先を行く艇の作った引き波を跨ぎ越さなければならないからだ。競馬のような逆転劇はまず起こらない、だからこそスタートが、そしてスタートから最初のターンが勝負に直結してしまう。
賢明な先輩のことだ、そんなことは一つでもレースを見れば、容易く把握してしまうことだろう。つまり寿羅くんは絶望的な位置を走っていることが明らかなのだが、先輩は寿羅くんに意志の篭った視線を送り続けている。
寿羅くんは最終周回となる三周目の、ラストターンとなる二つ目のターンマークでわずかに五番手の艇に差を詰めたけれど、結局六番手のままでゴールした。結果は一着が持筑選手の一番、二着に四番、三着に二番で、配当金は五二〇円。ガチガチ、なんて言われかたをするような堅い結果であって、ゴールしたあとの寿羅くんは静かに舟を翻して桟橋へと戻って行った。僅かに空を見上げて、肩を上下させる瞬間もあったようだが。
後輩くんは、慌ててまた身を引っ込ませた。ユノちゃん外目黒さんと先輩のほうを振り返ったとき、こっちを見た瞬間があったような気がする。相変わらずどうしてこんなにコソコソしているのかという話だが、後輩くんは寿羅くんが頑張って走る姿を見て、でも結局のところビリに負けてしまったところを目の当たりにして、なんというか感情がぐちゃぐちゃになってしまっていて、上手く説明することはできない。
そして後輩くんはいまさらのように気が付いたのだ。
先輩は今日僕がここに来ていることを知っている。
寿羅くんという目的があって来るのだからそれは当然のこととして。
僕がどこかから先輩を見つけて、でもなんだか気まずくて、話しかけに行きづらい気持ちでいることさえ、先輩はご存知かも知れない。だとしたら、余計どうしたらいいのか後輩くんは判らない。これまで先輩と出会ってから、先輩と会える日というのはどの一日として会えない日よりも間違いなく幸せであったけれど、今日に限ってはどう捉えるべきなのか。だって先輩、僕と寿羅くんがなにかこう心の深いところでがっちり結び付き合ってる的な誤解をしている気がする。僕は先輩一筋なんです、なんてほざくのも、後輩くんはつくづく気持ち悪い人になる気がして、とてもじゃないけど出来そうにない。
先輩は僕のことが好きなんだろうか。好きだから、僕が他の誰かと仲良くしてるのは嫌なんだろうか。
……ほらまた、気持ち悪いことを考えてしまった。見た目がどう思われているか判然としない(たぶん後輩くんに目を留める人なんてそうそういないのだ)し気にもしないけれど、内面を「キモいなぁ」と思われることには、なにかものすごく耐え難い苦しさが伴うものなのだと後輩くんは知った。
掛け値なしに初めて「先輩は僕のことが好きなのかもしれない」と思った瞬間、ずっと冷たい風に吹かれてきた耳が寒さを忘れるほど紅くなった。その純情を評して「キモい」とは言われないはずだと考えるが、どうだろう。後輩くんには自信がなかった。ひとまず、この場にいて蹲ったり悶えたり青くなったり赤くなったりしていて、見た目にも気持ち悪い人になってしまって、後輩くんの側が勝手に盗撮マンとして見做している青年にまで気持ち悪がられるのは避けたい。すたこらさっさと逃げ出して、無料の給茶機でお茶を飲みつつ、菓子パンをもそもそ食べて空腹を塞ぐ。次に寿羅くんが出走するまでの間、どこでどうするか、ちっとも思い浮かばない。
先輩に会いたいのだけども。
だって僕は先輩が大好きなのです。あんなに魅力的な人ってそうそういないぞって、後輩くんは信じて疑わない。頭がとてもよくて、その知恵を世のため人のために費やすことに少しも躊躇いがない。それでいて、根っから善良というわけでもないのがまたいい。優しいけれどそればかりではなくて、意地悪だったり、嫉妬深かったりするところもある人だ。
人間にはそういう凹凸がある。全くの球とか立方体なんて人はいなくて、変に尖っていたり窪んでいたり……、光と陰が出来上がって、だからこそ味わい深く、いとおしい。
後輩くんは先輩の凹凸が好きなのだ。困ったところまで、好きだなって思ってしまう。けれど、逆もまた真なりとは思えないのが人情というやつで、後輩くんは自分のよくないところまで先輩に好かれるかどうかという点についてはまるで自信がないのだった。
いまだって後輩くんはこんな具合に臆病で、どんな言葉を携えて先輩に会えばいいのかまるで判らない。先輩が、後輩くんがいることを知った上でこの場所に足を運んでいる以上は、……それこそ交通費に入場料、更には貴重な時間を費やして来ている以上は、仮令後輩くんが何も持っていなくても、大急ぎで先輩のところへ行かなければいけないのに。
だって、そうしないと、先輩のほうから来てしまう。
「何をしているんだい」
「っびゃあ!」
しょんぼりしながら菓子パンを食べ終えたタイミングで、一体いつからそこにいたのか、斜め前方、背中を丸めた先輩に声を投じられた。
「君、大切な後輩くんが走っているのに、いったいどこで見ていたのかな。君が思いを籠めて応援してあげなかったものだから、寿羅くんは最下位だったじゃないか。もっと近くで、ユノちゃんぐらい大きな声で応援してあげなければいけない」
口の中に残っていた菓子パンを慌てて飲み込んだせいで、空気を一緒に飲み込んでしまって苦悶する後輩くんの隣に腰掛けて、背中をさすってくれる先輩は、いつものように飄々と、男性なのか女性なのか判らない声で顔で、後輩くんの顔を面白そうに眺めている。見てそんなに楽しい顔でもないはずであるが、なんであれ先輩の心を和ませる理由が何か一つでも自分の存在に伴って成立するならば、そんなに嬉しいこともない。極論、パグやブルドッグの持つ愛嬌の一欠片でも持っていられたなら上々だと後輩くんは思う。