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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは判らない。
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後輩くんの後輩くん




 後輩くんは、後輩くんの後輩くんであるところの小熊(こぐま)寿羅(じゅら)くんのことを考えるとき、いつも決まって寿羅くんが頭を抱えている姿が思い浮かぶのだった。

 当時、「先輩」であった後輩くんの指した、盤上の、なんてことのない一手を目の当たりにして、

「ひぇー」

 ってすっとんきょうな声を上げて、両手で頭を抱えて、固まること数秒。

「……うぁ、あの、あの、先輩、いまのそれ、なかったことに出来ないですか」

 当時後輩くんは中学三年生、寿羅くんは一年生だった。まだこどもこどもして小さい寿羅くんは将棋部の後輩として入ってきて、でも、確か対局するのはそのときが初めてだったはずだ。季節は秋。「南中杯(なんちゅうはい)」予選の真っ只中であった。

 南中杯とはなにか、という説明を、まずしなければならないだろう。これは後輩くんが通っていた赤州市立南山中学校の将棋部において毎年行われるタイトル戦であって、年によって増減こそあれ、まあせいぜい十人ちょっとの部員の中で一番将棋が強いのは誰かを決める、内輪のタイトル戦である。後輩くんは三年生の秋ということで受験勉強に忙しく、一学期も夏休みもろくに部活に顔を出さずにいたのだが、この南中杯の期間だけは、これまで一年生のときに十二人中四位、二年生のときは十一人中三位と優勝まであと一歩ということもあって、毎週木曜の放課後に活動場所である理科室へやって来て、予選を戦っていたところであった。今年は部員が十三人、総当たり十二戦行われる予選で上位の二人が決勝を行い、勝ったほうが先生直筆の表彰状を得る。別にそれが欲しいわけでもないのだが、せっかく三年間やって来たのだから出来れば勝って終わりたいという一心で、後輩くんは初の対局相手となる寿羅くんと当たるまで八人と当たって八連勝。

 対して寿羅くんは、たぶんこのときまで一勝か二勝しかしていなかったか、あるいは、一個も勝てていなかったか。

 よろしくお願いします、と頭を下げ合って寿羅くんの先手番で始まったが、駒の動かしかたこそ飲み込んでいるものの、まだ戦術について語れるレベルではないようで、しばらくは様子を伺っていた後輩くんも、無慈悲なようだがこれなら時間を掛ける必要はないと判断して攻めに転じて淡々とポイントを稼いだ。

 冒頭の「ひぇー」は中盤、いつまで経っても動かない寿羅くんの玉の左右に陣取る金を狙って、両取りの桂馬を跳ねたときに出た。なおその桂馬は五手前から「いつでも跳ねられますよ、対策しないと金の両取りになっちゃいますよ」という場所で陣取っていたのだが、寿羅くんはそれにまるで気付かなかった。要は、しっかりと三年間将棋を勉強してきた後輩くんと、基本的なところがまだまだこれからという寿羅くんというマッチアップ、しかも南中杯はレギュレーションで平手ハンデなしで指すと決まっているので、勝負になるはずがないのだった。

 待ったを掛けられて、後輩くんは思わずのけぞりそうになった。

「……仮に待ったをしたとして、どうするの?」

 寿羅くんは盤上に目を泳がせて、なんだかおぼつかない指先で金を指差した。

「この金を、上がって……、先輩の桂馬が跳んで来たら、取ります」

「少し前からこの桂馬はいつでも跳べるようにセットしていたよ。君はずっと気付かなかった。あと、他にも気付いていないところがあって、こっちの銀、ずっと角で睨んでる」

「あっ……、じゃ、じゃあ、その銀を、動かして……」

「そっちに動かすと香車に捕まる。……『待った』をしたところで、という状況なんだよ」

 寿羅くんは黙りこんでしまった。

「こうなる前にどうにかしなければいけなかった。でも、追い詰められたといって簡単に諦めるべきじゃない。まだ指せる手はある。それを指さずに相手に譲ってもらおうなんて考えるのは……」

 後輩くんは別にサディストなつもりもない。後輩くんも「先輩」になることがある、という事実ほどは裏表のない性格であり、基本的には穏和で平和主義。ただ、藤村菊地に先輩が乱暴されそうになったときに片鱗を覗かせた通り、幾らなんでもそれはという状況においては怒りの拳を振り上げることだってある、……つまり平凡な人である。だからこのときも、寿羅くんを深く傷つけて追い詰めるつもりがあったわけではない。

 ので、寿羅くんの大きな両目にみるみるうちに涙が浮かんで、間もなくぽろぽろとその頬に零れ落ちるのを見て、心臓が止まりそうになったのだ。

 平凡な平和主義者にとって誰かを泣かせるなんてそうそう耐えられるはずもなければ慣れられるはずもない。当たり前だ、平和主義者というものは、人をいかに泣かせないで生きていくかを人生の最重要テーマにした人間である。

 公平に見たとき、後輩くんはそんなに酷いことを言ったわけではなかった。これは後輩くんがのちのちずいぶん深く悩んだ末に「泣くことはないじゃない」という結論に至っている。相手がまだ小学生に毛の生えた、……いや、まだ産毛程度しか生えていないのかもしれない、つまりそれだけ未熟なこどもであって、打たれ弱くて脆くてワガママだっただけ、という解釈でよかったはずだ。しかるに寿羅くんを泣かせた後輩くんはその後、結局南中杯を優勝することが出来たのだけど、「後輩を泣かせた鬼の指し手」なんて言われることとなってしまって、ずいぶん苦い思いを味わったのだ。





「まあ、ね。将棋に限らずなにごとも負けるというのは嫌なものだ。自分が無力で、惨めでね。特に二人零和有限確定完全情報ゲームにおいて負けるのは、まるっきり救いがない気持ちにさせられるものだ」

 二人零和……、というのは要するに将棋やチェスのように運の要素を一切省いたゲームのことである。トランプならば配られたカードが致命的に悪いというケースも起こり得るだろうが、将棋では全くそういうことがあり得ない。つまり、勝ち負けはそのまま完璧に実力の証明になる。

 だから、たかだか盤上のゲームで負けただけなのに、「僕は何をやらせてもダメだ……」という気持ちになってしまうし、そう予想できるから負けるのが嫌すぎて震えることさえある。

 後輩くんはいまでこそ、先輩に負かしてもらうことが楽しみになっている、……これは後輩くんが変態だからではなくて──そんなにものすごい変態ではないはずだ、たぶん、と後輩くん自身は思っている──こと将棋に限ったことでもあるまいが、負けることで学ぶことも多いのだという理解に至っているからだ。負けることを恐れ、負けたことがない人間は、ただ戦わなかったというだけだ。事実、中学三年生のころから止まったままだった後輩くんの棋力は先輩にたくさん負かしてもらっているうちに、再びの成長期を迎えたようだ。

「で……、その寿羅くんという子に会うと。君に泣かされたのに会いたいと言ってくるのだから、きっと相当将棋が上達したのだろう。ひょっとして奨励会にでも入ったのかな」

 後輩くんは慌てて首を振った。

「いまも将棋を指してるかどうかは判りません。いえ、ひょっとしたらとんでもない成長を遂げてるかも知れないですけど、なんか、それはあんまりない気がします」

 先輩は首を傾げる。

 後輩くんも、寿羅くんとの記憶は「泣かせた/泣かされた」だけで終わって仕方がないと思っていたし、南中杯が終わってからは後輩くんもいよいよ受験勉強に専念しなければいけなかったから、寿羅くんのことなんてもう英単語や日本史の年号語呂合わせによって追い出されてしまって。

 離れたままで終わるかに思われた二人が再び交わるのは、年明け三月、卒業式まであと数日というタイミングまで待たなければならなかった。





 無事に志望校に受かった後輩くんは、三学期最後の午後授業のその日の放課後、間もなく別々の道を歩むこととなるクラスメイトたちと教室で放課後に無駄話をして、グラウンドを眺めながら帰る道の途中、ひときわ煌めく一人の生徒の姿に目を惹かれた。

 グラウンドではそのとき、サッカー部が隣町の中学を迎えて練習試合をしているところだった。

 その中にあって、小柄ながら鮮やかなスライディングで体格に優る相手からボールを奪い取ると、スパイクに吸い付くようなドリブルで電光石火サイドを切り裂き、角度のないところから左足を振り抜き、走り込んだ二年生の頭へ的確なクロスを上げる……、絵に描いたようなサッカーの格好いいシーンを独演しているそのサイドバックの姿に見覚えがあった。

 小熊寿羅くんである。

 寿羅くんは、サッカー部と将棋部を兼部していたのである。将棋はあの通りからっきしであったけれど、サッカー部では一年生ながらレギュラーとして試合に出る活躍をしていたらしい。

 将棋盤の向こうでめそめそ泣いている姿が印象に残っていたもので、……人は見かけによらないものだなぁ、なんて後輩くんはしみじみ思ってしまったのだ。いまの寿羅くんは、サッカーにそれほど興味もない後輩くんもうっかり憧れを抱いてしまいそうなぐらいに眩しくて、なんだか、違う世界の人みたいだ。

 けれど寿羅くんは、

「あっ、……せんぱーい!」

 思わず立ち止まって、クラスメイトたちに置いていかれていることにも気付かず見とれていた後輩くんを見付けて、ヘディングシュートを決めたフォワードを祝福するのもそこそこに後輩くんのほうへと走って来て、にへへへ、と笑う。

「先輩、受験終わったんですね、お疲れさまっす」

 もうすぐ寿羅くんの中学一年生としての一年、陽の当たる部分とそうでない部分とを分けたなら、後輩くんがいたところは明らかに日陰である。後輩くんは、この子すごいな……、と素直に感服したのだ。自分だったなら、……自分を泣かせた人がぼけーっと突っ立っていることに気付いたとしたって、わざわざ声を掛けようとは思わないだろう。まして、もうすぐ卒業するって判っているならなおのこと、さっさと忘れたいと思うのではないか。

「先輩、高校どこなんですか」

 やがて──ご存じの通りの紆余曲折を経た末に──二年遅れで九隅大生となる後輩くんは、地元でも一番の進学校に合格していた。

「あーそっかぁ……、そうっすよねぇ、先輩めちゃめちゃアタマいいっすもんね。でも、じゃあ、東京の大学行くんすね!」

「さあ……、そんな先のことは、まだ……」

 この子すごいぐいぐい来るな、と後輩くんは驚いてもいた。交流はたった一度、しかも嫌な印象を縫い付けたはずの自分に、寿羅くんはずいぶんなついてくれている。

 寿羅くんはまっすぐな目をして、

「先輩のおかげで、自分、サッカー頑張れてるんです」

 後輩くんを見上げて言ったのだ。

「諦めちゃダメだって、簡単に相手に甘えちゃダメだって、先輩に叱られたから、とことんまでやってやろうって思って……、あの、将棋は相変わらずぜんぜん下手なんすけど、でも、サッカー、頑張ってます、将棋もきっといつか、もっと上手くなります。そしたら、あの、先輩が大学生になって東京行くころ、自分もサッカーで東京行けるぐらいに、きっとなってるんで、また将棋の相手してください!」

 自由な、そして勝手な夢。

 後輩くんはなにもそんな大それたことを伝えるつもりで寿羅くんの「待った」を咎めたわけではない。単純にルール違反であるから、ダメだよそういうのは、と指摘しただけである。

 しかるに、後輩くんに寿羅くんの解釈を止める権利はない。寿羅くんは好きなように解釈し、好きなように夢を見て、好きなようにものを言って、

「じゃ、失礼します!」

 身を翻してグラウンドへ戻って行った。

 後輩くんはまだ小さなその背中いっぱいにオレンジの夕日を浴びた寿羅くんを、まだしばらくぼうっと眺めて、立ち尽くしていた。





「……そういう、ちょっと変わった後輩がいまして。その子が、今週こっちにいるんです。その、僕が回り道してるうちに、就職してて。それで、まあ、何度か会うつもりで、でも会えなくてっていうのを繰り返して、結果的に明後日になったというだけで、その日が十二月二十四日であることに特別な意味なんてものはこれっぽっちもなくってですね」

 後輩くんは焦り始めていた。どこに地雷があったのか全く判然としないのだけど、先輩の目がじわじわと冷たくなっていくのがはっきりと判ったので……。

「ふーん」

 後輩くんが語った寿羅くんとのエピソードへのリアクションは、そんな淡白な言葉だった。立ち上がって、ラーメン屋さんを出て、

「じゃあ、おやすみ、私の後輩くんである以前に私以外の誰かの先輩だったことのある、後輩くん」

 という言葉を残して、夜の街へと消えていってしまった。暗い、黒い、背中を、後輩くんは呆然と見送ることしか出来なかった。

 明後日、寿羅くんと会う約束は、もう二ヶ月以上前、……つまり先輩と出会う前から決まっていたことだ。でもって、学生の後輩くんと違って、もう社会人となっている寿羅くんは時間の融通が効かないから、優先されるべきは寿羅くんということになってしまう。

 仮に、である。

 後輩くんは、後輩くんの後輩くんとどこで会うのかな、と先輩に問われていたなら……。

 水鳥川(みどりかわ)です、と猪熊から電車で二十分ほど都心方面に向かった先の地名を、後輩くんはきっと白状していたはずだ。ひょっとしたら先輩は「水鳥川」と言ってもピンと来ないかもしれない。しかるに、……例えばさっきの外目黒さんとユノちゃんなら、「へー」と、すぐに察するだろう。いや、地名を出せば、聡明な先輩だからやっぱりすぐに理解するかもしれない。いずれにせよ後輩くんは、……僕は先輩と知り合う以前、父が転がり込んでくるまで、時々独りで水鳥川へ行っていました、と白状することになろう。仮に先輩に「へえ、そう。つまり君はそういう子だったのだね」と失望されることになったとしても、先輩に嘘はつけないと思ったし、たぶん先輩はそこまで悪い印象は受けないのではないか。

 日付も場所も、指定したのは後輩くんではない。寿羅くんに指定されたのであるが、寿羅くんが決めた(・・・)わけではなく、仕事の都合でそうなったというだけ。その予定が立った時点から、今日こうして先輩のご機嫌を損ねることまでが組み込まれていたのだとしたら、そんなに残念な話もない……。

 しょんぼりと自分のアパートに帰ると、お父さんがいなくなっていた……、なんて奇跡がクリスマスを待たずに起こってくれてもいいのになと思ったけれど、お父さんは普通にいた。独りしかいない部屋なのに暖房をつけて、スマートフォンで動画共有サイトを見ていた。後輩くんの生きる世界は、先輩がご機嫌ななめになってしまった時点でもうかなり、マイルドめであっても地獄である。

 それにしても。

 設定温度を下げたシャワーを震えつつ浴びながら、後輩くんは外目黒さんとユノちゃんのことを思い出していた。波主守を持った女子大生と推定女子小学生。いや、いないとは限らないけれど、結構珍しいはずだ。滴型の小さな石に、渋い金色のプレートがついていて、五桁の数字が刻印されている。後輩くんの手元にあるものは「17116」という数字が振られているが、外目黒さんとユノちゃんのそれにはどんな番号が刻まれているのだろう。

 どんな、……いや、「誰の」と言うべきか。誕生日だとかラッキーナンバーだとかを刻む人もいるけれど、大抵は誰かの(・・・)番号を刻んでいる。そして、それをとても大事にしている。

 シャワーから上がった後輩くんはお父さんがずーっと飽きもせずスマートフォンを見ているのを見ないふりをしながら、引き出しを開けて波主守を取り出して見る。

 後輩くんはこれを、寿羅くんから贈られた。今年の三月、やっとの思いで合格した九隅大に通うため、上京準備を着々と整えていたとき。もうちょっと具体的に言うと、徐々におうちが大日氣弥益によっておかしくなりつつあったころで、魚屋「魚神」はかろうじてまだ営業していたが、お母さんがあっちこっちに貼って回る怪しげなお札のせいで、一般のお客さんの足はすっかり遠退いてしまっていた。

 寿羅くんはそんな家に、突然訪ねてきたのだ。信じがたいことだが、これが中学卒業以来の再会である。住所もメールアドレスも知らないはずなのに「先輩んち、魚屋さんだって聴いてたんで」という、あまり種明かしにもなっていないようなことを言い、あんまり懐かしそうな素振りも見せることはせず、

「はい、これ」

 と後輩くんに波主守を差し出したのだ。

「人生山あり谷ありで、波に揉まれて沈んだり浮かんだりするもんですけど、これがあればなんとか乗りこなしていけるでしょっていう、そういうお守りです」

 人生山あり谷あり。ぼんやり、「ありがとう」なんてもごもご言う後輩くんに向けて、寿羅くんはごくざっくりと自身のこれまでと現在について語った。

「サッカー、辞めたんです。ヒザやっちゃって、高一のときですけど」

 ショックを受けた後輩くんに、寿羅くんはにへへへと笑う。

「結構絶望しました。自分はサッカーで偉くなるんだって思ってたんで。でも、先輩の言ってたこと思い出して。……起きちゃったもんはしょうがないや、いま出来ることないか、全部やってって……、投了するのは、にっちもさっちも行かなくなってから、それからでもいいかなって思って」

「ちょっと待って僕そんなたいそうなこと言った覚えないよ」

「そうすか? でも自分はそう解釈したんです。そんで、リハビリして、高校出て、養成所行って」

「よう……、ようせいじょ……?」

「はい、レーサーの」

「レーサーの」

 寿羅くんは後輩くんに手渡した波主守のプレートを指差した。17116、五桁の数字が刻まれている。

 ぴっ、と音が立ちそうなぐらい鋭い指先の敬礼、まっすぐに伸びた背筋が凛々しい。

「ボートレーサー登録番号17116番っ、赤州出身、宝崎支部所属、小熊寿羅です!」

 ボートレーサー。

「え……、えっ……、ぼ、ボートレーサー……、ボートレーサーに、なったの……?」

 後輩くんは人生において、この瞬間まで、競馬、オートレース、競輪、そしてボートレース……、公営ギャンブルに触ったことは一度もなかった。それが、自分の後輩である寿羅くんが、だいぶ根深く都合のいい勘違いに依るものであったにせよ、自分の影響で選手になってしまったのである。

 なお波主守の滴型の石は石英の一種で、元々ボートレース場のある宝崎湖の湖岸で採取されていたものだそうな。現在ボートレース場などで販売されているものはもちろん本物の石英ではない代わりに、付属のプレートに好きな五桁の数字を刻印して、推しの選手の応援グッズとして用いるのだ。

 ボートレーサーが命がけの職業であることは、後輩くんでも知っている。何せものすんごいスピードで駆ける舟の上を、防具を身に付けているとはいえ身一つでいるのだから。

 そうした選手たちにとって波主守は、荒波を掻き分ける力を与えてくれるものとして密やかに珍重されていたらしい。

「先輩、九隅大に行くんすよね」

 田舎では珍しいぐらいの名門大学への進学であるし、現状、「魚神」が悪い意味で目立つようになってしまっているものだから、ずいぶん広くその情報が流れてしまっていたようだ。

「九隅大って、東京っすよね。あっちにはレース場たくさんあるんで、よかったら見に来てください、自分、きっと偉くなって見せます!」

 この子、僕のこと好きなのかな。

 後輩くんは──うわなんだこいつ気持ち悪っ、と思われるかもしれないことは覚悟の上で──そう思ってしまったのである。だって、大したこと言ったわけではない、それはもう明らかに大したことを言っていない後輩くんのところへわざわざ訪ねて来て、ボートレーサーになったことを報告するのみならず、後輩くんの人生がいまだいぶしんどい状況に陥っているのを知った上で、励ましの思いのこもったお守りをくれたのだもの。

 正直、ちょっと嬉しくて、心臓が強く打ったことも事実である。いやしかし、すぐにそれは考え過ぎだと打ち消した。あと、真に受けて「うわぁ先輩気持ち悪いっすね!」と言われるのは嫌だと思ったし。その、ハスモリ? とかいうお守りだって、きっといろんな人に配っているんだ、そうに違いない、サッカー部には後輩くんよりももっと寿羅くんの人生に好影響を与えた先輩だってたくさんいただろうし。

 後輩くんはこういうところとても慎重である。

 ともあれこの日、後輩くんは寿羅くんとアドレスの交換をした。プレゼントとアドレス、つまり寿羅くんから心を受け取ったと解釈していいと思った(やっぱり後輩くんは少々気持ち悪いところがあるのかもしれない)が、寿羅くんからメッセージが届くことはなく、三ヶ月ほどが経過した。

 それは六月のある土曜日、アルバイト先の入ったビルが全館停電で仕事が休みになり、後輩くんにはぽっかりと休みが出来た。ここで寿羅くんのことを思い出した後輩くんは一念発起、猪熊から一番近いボートレース場のある水鳥川へと赴いたのである。のちに「用もないのに午後九時過ぎのコンビニに行く」ことを「冒険」と称するような後輩くんであるから、これもかなりに勇気を振り絞った末のことであったのだが、……これががっくり来る結果に終わってしまった。

 いや、レース自体は率直に言って楽しかった。風と水流でうねる水面をぶいーんと走るボートの疾走感、スタートラインはるか遠くから助走をつけて、コンマ一秒未満のスタートを来そう緊張感、そしてスタートして最初のターンマークでの競り合いなど、素人の後輩くんも思わず血の熱くなるような感覚を味わったし、このころはまだお父さんが転がり込んで来てはいなかったのでお財布にも多少の余裕があって、買った舟券が当たった──謙虚で賢明な後輩くんはそれがビギナーズラックであることをもちろん理解している──ことも、場内のお店で食べたものも美味しかったことも手伝って、すっかりボートレースが好きになってしまったし、また来ようと思い決めたのだけど、肝心の寿羅くんに会うことは出来なかったのである。

 どうしてだろう? と寿羅くんに教わったアドレスにメッセージを送ってみたら、二日後、わざわざ電話を掛けて来てくれた。

「あの、すいません先輩、自分今日まで宝崎で走ってて……」

 赤州の隣県にあるボートレース場である。なるほど、と後輩くんはこのとき学習したのだ。ボートレース場はあちこちにある。レーサーたちは、それぞれあちこちの場に赴いてレースをしている。水鳥川に行けばいつでも寿羅くんが走っている姿が見られるのだという勘違いを、後輩くんはしていたのだった。

「水鳥川で走るときには、事前にちゃんと先輩に連絡しますね!」

 元気な声でそう言われてから、更に約四ヶ月。

「再来月! とうとう! 水鳥川で! 走ることになりましたぁ!」

 鼓膜にビリビリ来るような声の報告があった。

 ただその時点というのが、十月、つまり後輩くんが先輩に出会う直前、つまりお父さんが転がり込んできて不眠症になるわ、お金はどんどんなくなってっちゃうわ、ああもう本当にどうしたらいいのかなというタイミングであったもので、それまでのように月に一度か二度、悠長にボートレース場に赴いて散財していられるような状況ではなくなってしまっていた。

 それでも、後輩くんにとっては心の琴線にちょこんと留まる寿羅くんのことである。可愛い後輩、と言って言えなくもない。

 寿羅くんの出走するレースは、スマートフォンで欠かさず見守ってきた。寿羅くんは率直に言ってまだまだへたっぴで、スタートでフライングをしてしまった罰則で三十日間もレースに出られなくなってしまったり、無茶なターンをしようとしてボートごとひっくり返ってしまったり、他の艇に迷惑を掛けてこっぴどく叱られたり……。駆け出しのボートレーサーなんてものはだいたいそんな感じなのだということは後輩くんも理解しつつある。

 寿羅くんは、残念ながら天才ではない。養成所時代も、根性はあるけれど腕は平凡、という評価だったようだ。まあ狭き門を潜り抜けてプロのレーサーになれただけでものすごく立派ではあるのだけれど、夜空の星の一粒が天の川の中にあって際立った輝きを放つというのは、やはり難しい。

 後輩くんが見に行ったところで奇跡のように見違えるようなレースが出来るようになるはずもないのだが、そこは気持ちの問題である……。

 長くなったが、先輩よりも寿羅くんがどうこう、という話ではないんです。ただ、先輩が僕のことを(たぶん)可愛がってくださっているように、僕も後輩である寿羅くんのことは、やっぱり可愛いなって思うので……。

「……イヤフォンして」

 動画を見ているお父さんに溜め息混じりに言って、後輩くんはベッドに横になった。クリスマスというものをこれまで特別視したことはなかったけれど、今年初めて、その日が意味を持ってしまった。

 ああ、そうか……、と目と鼻の先の壁を見ながら、後輩くんは顔をしかめた。

 僕の後輩が走るんです、よかったら一緒に行きませんか。

 僕がそう言えたらよかったんだ。悲しいかな、行って先輩に楽しんでもらえる自信が後輩くんにはなかったし、楽しむためのお金もないのだった。後輩くんは明後日、入場料と交通費以外にお金は一切使わない予定である。ごはんも、コンビニで菓子パンでも買って行って済ませよう、飲みものは、場内に無料の給茶機があるからそれで……。

 世界で一番惨めなイヴの過ごしかたかも知れない。

 もう年内は授業がない。明日は後輩くんはアルバイトで、王子様部の駅前見回りにも呼ばれていないので、次先輩に会えるのは年明けということになりそうだ。

 それまでに、先輩のご機嫌が直っていればの話だが……。

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