Yuno the girl on the steet.
猪熊駅のペデストリアンデッキが、酔っぱらった九隅大生の歌い踊るリズムに合わせて揺れている。
「もし! そこの貴方!」
王子様部代表・メルネス王子こと中寉さんはインディーズのバンド「ヴェル・デ・ラ・ビット」でボーカルを務めている。学祭の夜にはライブで見事なパフォーマンスを披露なさって、後輩くんはその姿に圧倒されたのであるが、いま中寉さんはライブのときに匹敵する声量で、猪熊駅のランドマーク「イクマヌマオくん」のモニュメントによじ登らんとする学生に向けて怒鳴っているところである。
「危ないですからお降りなさい! もし!」
中寉さんはいつでも飄々としてマイペース、考えの読みづらい無表情な人であるし、そもそも卒業の遅れている大学四年生には見えない──中学二年生ぐらいに見える──人なのだが、それでも法と秩序と人民の平和を実現するために生きている王子様としては、ひとときの酔いに任せて無鉄砲な真似をする姿を見せられて冷静ではいられないのだろう。
とはいえ、声は頑張って張り上げているものの、百六十五センチの後輩くん、より少し低い先輩、から更に五センチほど低い中寉さんであるもので、あんまり実効力は伴わない。そこはそれ、王子様部きっての肉体派マッチョ王子であるところの、三年生の加蔵さん──王子様ネームは「プロヴェンツァーレ」──がひょいひょいと身長二メートル八十のイクマヌマオくんの肩によじ登っていた酔っぱらい大学生の足を掴んで引き摺り下ろす。何事も向き不向きというものがあって、ついさっきイクマヌマオくんに上ろうとしている学生を見付けたとき、中寉さんは反射的にその学生の足に飛び付こうとしたのだけれど、後輩くんと先輩で慌てて止めたのだ。
「中寉さんじゃ無理ですよ!」
「あの学生のためのみならず君のぶんまで救急車が必要になる」
こんな具合に、クリスマス二日前の猪熊駅前は騒がしい。
ただでさえ忙しい年末年始、予定なんて一個でも少ないほうがみんな楽に過ごせるだろうに、どうして人は「クリスマス」って聴くと妙に浮き足だってしまうのか。三年前にあの恐ろしいウイルスが流行する以前から冬の人混みに出向くことは風邪をひくリスクを高める行為であると誰もが判っているはずなのに、結局のところ人というものは束の間の喜びを求めて動くことしか出来ないのかもしれない。特にアルコールが絡んでしまうと、ますます刹那的・享楽的ないきものへと堕落してしまう。
そうした人たちのトラブルを未然に防ぎ、「九隅文科大学は学力高いのかも知れないけど民度が低いわねえ」なんて言われないようにするために、今夜も九隅大「王子様部」と探偵である先輩、そしてその助手として採用された後輩くんは、パトロールに励んでいる。王子様部はいつも王子様ごっこのお茶会──なんて表現をすると怒られてしまいそうだが、サークル案内の「主な活動内容」の欄には「ハイソサエティお茶会」との記述がちゃんとあるのだ──ばっかりしているわけではなくて、この猪熊駅前の見回りも重要な活動の一つなのである。一応、王子様部は分類上「ボランティアサークル」ということになるそうなので。
そして王子様部の面々と相互協力関係にある先輩の所属する探偵事務所、駅から二分の雑居ビルの五階で営業しているその事務所は猪熊駅北口商店会に所属している。会員は地域のために何らかの奉仕活動をしなければならないルールだそうで、事務所のアルバイト探偵である先輩が、王子様部と仲良しということもあって、共に駅前見回りに励んでいるのである。
そして後輩くんは先輩に個人的に雇われた助手として、先輩と一緒に見回りをして、喧嘩があれば仲裁し、怪我をしたり具合の悪くなってしまった人を見付けたら救急車を呼んだり、落としもの無くしもの迷子──酔っぱらうと大人でも迷子になるのだということは、後輩くん自身がつい先日学んだばっかりだ──がいれば助けてあげる。王子様も探偵も世の中の平和を願うという点では共通していると言えるようだ。
「全く……、酒を呑むなとは言わないが、もうちょっと節度を持って楽しむということは出来ないのかな」
後輩くんは先輩ご本人に伺ったことはまだないのだが、先輩はたぶん冷え症なのだ。マスクマフラー耳当てコート手袋と完全防寒した結果、本来より一回り膨らんだ輪郭で見回りに臨んでいる。家電量販店の最上階に設けられて時刻と交互に表示される温度は二度だそうで、だいぶ冷え込んで来た。
後輩くんもここのところ、寒くなると前髪の陰のおでこが疼く。
「僕は、まだつい先日お酒を知ったばかりなので何か言える立場じゃないですけど……」
後輩くんは肩を組み千鳥足の二人連れにどーんと思いっきりぶつかられそうになったところを素面特有の軽やかなサイドステップで避けて、
「お酒を呑めるようになったら大人なのではなくて、先輩みたいにお酒を呑んでも自我を保っていられる人のことを大人って言うんだろうなって思いました」
中寉さんほどではないにせよ、だいぶ小さくて、相当に童顔。訊いて確かめたことはまだないが、お酒やタバコを買うときに毎度しっかりめの年齢確認をされそうだなと後輩くんは思っている。身分証明書を出してなお「本当にご本人?」って訊かれることになるのではないか。いまだ後輩くんは先輩の、年齢も、名前も、性別さえも知らないままでいる。
だけど先輩のことが好きなので、こんなに寒い冬の、しかもちょっと前までは出歩かなかったような時間帯であろうと、一緒にいられるなら喜んで一緒にいるのである。
先ほどのよじ登り酔っぱらいへのお説教を済ませた中寉さんがやって来た。
「先輩、そして後輩さん、十時を回りました。今夜はそろそろ解散といたしましょう」
酔っぱらいたちがより危険な存在になるのもこれから、というタイミングであるが、これ以降は幾つかの理由があって活動を継続することが難しい。中寉さんがいまから宿木橋のお店で働かなければならないし、より厄介さを増す酔っぱらいの面倒を見続けていてはこちらの身がもたない、ミイラ取りがミイラになってしまうおそれもある。少なくともここまでの時間で注意喚起は十分できているはずという判断は合理的であろう。
善意のボランティアではある一方で、後輩くんは先輩から個人的に雇われている立場である。後輩くんは大いに遠慮したのだけれど、先輩は後輩くんの厳しい財政状況をよくご存じであって、
「どうしても現金を受け取れないと言うのなら、……では、そうだな、見回りのあとの晩ごはんに付き合いたまえよ」
と言ってくれる。また王子様部からは活動費名目で部外協力者である二人一日五百円が支払われていて、これは先輩が後輩くんにスルーパスをする。
本当は先輩と一緒に過ごせる一分一秒が僕にはだいぶ高価な報酬なのです……、なんてことを言う勇気はいまのところまだ後輩くんの中に湧いて来る気配はないので、恐縮しながら猪熊駅周辺の、遅くまでやっているごはん屋さんの中から「今日はここにしよう」と先輩が選んだところに随いて行く後輩くんなのである。
「昨日はあそこのうどん屋さんだったな、一昨日は向こうのカレー屋さんだった。……寒い夜だから暖まっていいだろうと思ったが、汗を冷やして却って風邪をひきそうになってしまった。あとは向こうにトンカツのお店があるけど、この時間にトンカツというのもね……」
先輩は無駄な動きが少ない。やみくもに歩き出す前に考えをまとめてからまっすぐに歩き出すというのは、容姿はどうあれ大人っぽい。そして後輩くんは思考しているときの先輩の横顔を、いつも美しいと思っている。先輩の左に立って、先輩より五センチほど高いところから見ると、睫毛の長さにどきどきする。赤みがかった瞳はどことなく怪しく、左の目元に、北極星のように一つ、ほくろが目を惹くが、透き通るような白い肌。そこをスクリーンに、取って付けたようなイルミネーションの明滅が色を溶かしている。
「そうだ……、後輩くん、よかったら私の事務所へ来ないか」
不意に先輩の顔がこっちに向いた。見とれていたことを気取られていたとしたらとても恥ずかしいが、先輩の意外な誘い言葉にもどきりとさせられた。
「私の、なんて言うと偉そうだけど。でも鍵は持っているし、ロッカーやデスクは私に支給されているものだし、冷蔵庫の中身だって自分で揃えた、コーヒーメーカーも、あと、彩りが欲しくて置いたサボテンもね。だから、所長からはいつでも入っていいと言われている。遅くなって変えるのが面倒になった日には泊まらせてもらうこともあるんだ、シャワーがあるし、……五分ほど歩くけれど銭湯もあるからね」
先輩の事務所。
つまり、探偵事務所。なんて格好いい響きなのだろう。後輩くんは世間一般の人と同じく、「探偵」というものに対して何かこう、計り知れない魅力を覚えている。先輩と出会った直後に先輩が何歳なのか男性なのか女性なのかそして名前は何というのか教えてもらうよりも先に探偵であることを教わってしまっていたもので、先輩は何かではなくただただ探偵さんなのだ。アルバイトであろうと断じてそうなのである。
「何なら君も泊まっていくかい? シャワーは狭いから、シェアするのはちょっと難しいだろうけどね」
先輩は何気なく笑う。先日のホテルで、一緒にお風呂に入ったことを言っているのだ。後輩くんにとってはいま考えても「えらいことをやってしまった」と全身の肌がサウナに入ったときみたいにパーンと熱くなる。先輩に誘われたからといって、あんな、二人ともすっぽんぽんで! 先輩が後輩くんと同性であれ異性であれ、あんなもんもうほとんど……!
先週、クリスマス前の駅見回りの依頼を先輩が中寉さんから受けたあと、中寉さんとお話する機会があった。後輩くんが先輩の「助手」になったという話をその前にしていて、中寉さんはあどけない顔で「ほう」なんて言った。涙袋の目尻側がいつも赤くて、そのせいで童顔ながらいつでもちょっとお酒が入っているのかしらんと思わせる人は、表情をあまり変化させなくてもぬくもり感のようなものが醸せる稀有な人である。
「僕は先輩と後輩さんは『探偵と助手』になる以前から、とうに『恋人同士』なのだろうと思っていましたが」
後輩くんはちょうどその時、遅めのお昼ごはんで、購買で売れ残って三十パーセント引きのシールが張られていた玄米おにぎりをかじっているところだった。まさかそのタイミングを狙って言ったのではないだろうけれど、悪意がないからと何を言ってもいいというわけでもないはずだ。
「だって、後輩さんぐらい先輩に可愛がられている人は見たことがありません。僕は二年ほど前から先輩を存じておりますけど、あの人は興味のない相手に対してはもっとずっと冷たいです。いまぐらい親しくおつきあい出来るようになったのは今年には入ってからですよ」
中寉さんは後輩くんの背中を擦ってくれながらそう説明をくれた。
「先輩は穏やかで柔らかそうにに見えますが、相当に頑固ですし、心はそんな広くありません」
先輩ぐらい和やかで寛大な人ってそうそういないと思うけれど。
「でも、あの人はああいう見た目をしているでしょう」
ご自身も相当に特徴的な容姿をしている中寉さんは他人事として言う。
「多くの人が先輩に惹かれて、……判りやすく申し上げるなら言い寄って、けんもほろろとはこのことかと思うようなあしらわれかたをされて来ました。後輩さんのことはさぞお気に入りなのだろうと思います」
後輩くんは頬の熱くてしかたのない思いをしつつ、この上「このあいだ一緒にお風呂に入りました」なんて言った日には、もう既成事実として付き合っていることにされてしまうのではないか……、と思って耳まで赤くなりそうだった。
後輩くんは先輩のことが好きであって、……そう、先輩が男性であろうと女性であろうと好きであって、ずっとずーっと一緒にいられたらいいなあと思っている。中寉さんはご自身が同性愛者であるから、先輩と後輩くんの性別(中寉さんは当然ご存じのはずだ)が異性であれ同性であれ恋人として付き合うことに少しの問題もないという考えをお持ちなのだ。
もちろん後輩くんだって何の問題もないと思っている。
けれど、まだお互いに「好き」という言葉を用いないで、一緒に過ごしている時間を重ねたら、もう付き合っていることになるのだろうか?
恋人みたいな時間をたくさん重ねたあとで、振り返ってみたとき「恋人」って読み取れる足跡になっているんだろうか? それとも、なんだかそれっぽいイミテーションにしか見えないんだろうか……。
「どうする? 後輩くん。事務所にはアルミ鍋のおうどんがあるけど」
ポケットに手を突っ込んで先輩が訊く。先輩は、先日のお風呂の一件をこうして冗談めかして蒸し返せるぐらいには、さほど重たくは思っていないのかもしれない。後輩くんが夜中に思い出すたびベッドの上でのたうち回りたくなってしまって、でもお父さんが床で寝ているからそういうことは出来かねる、結果として膝を抱えてぎゅーっと身体を縮ませるぐらいしか出来ないのだ。平気な顔をしている先輩がほんの少し憎らしいので、あえて表情から無駄な力を抜く。
「僕は、はい、どこでも大丈夫です」
好きという気持ちを否定することはもう出来ない。先輩が進む背中を追って歩くことを後輩くんは選んだので、先輩が歩けば一緒に歩くし、先輩が止まれば止まる。先輩は黒猫みのある人だけれど、後輩くんはわりと忠犬である。先輩に「待て」と言われたなら、置いていかれてもう二度と会えなくなったとしても、永遠に待ち続けるのだろう。いや、さすがにしばらく待ったところで「もういいか」って、違う道を自ら進み出すようになるのかもしれないが。
先輩が立ち止まった、ので、後輩くんも立ち止まる。先輩の背中が少し縮んで丸くなるなら、後輩くんも同じように。
「やあ、君。こんな時間にこんなところでどうしたんだい」
先輩の、いつも滑らかな潤いを帯びた声がもう一段ぐらい優しさの比率を上げた。なぜって、相手がこどもだったから。
女の子である。
小学校の高学年ぐらいか、あるいはもう中学生になっているのか。キリッとした目元が印象的で、髪を二つ結びにしていなかったら男の子かなと思ってしまっていたかもしれない。濃い紫のパファーコートを着て、ポケットからスマートフォンカバーに付けているのであろう、特徴的な滴型のお守りがこぼれていた。
いや、後輩くんはそれが「お守り」であると正しく認識できるけれど、先輩はどうだろうか。
彼女は先輩をちらっと見て、
「待ち合わせしてるんです。ほっといて」
と冷たい声で言った。
周囲にあるのは、先輩と昨日入ったうどん屋さん──立ち食いに毛が生えたぐらいだろうと期待していたのだけど、かきあげが揚げたてで美味しかった──とコンビニ、あとは風俗店の入った雑居ビル……。
これは後輩くんが赤州という田舎の出であることと無関係ではないだろうけど、つい先日、夜の街の住民である中寉さんたちに誘われて人生はじめて夜の繁華街を経験し、今夜もこうして夜十時を回っても外をほっつき歩いているわけだけど、基本的には「夜九時を過ぎたらこどもはおうちにいなさい」という価値観を持って生きている。夜にこどもが外にいると、人さらい/野犬/クマ/蛇などなどに襲われる、例外は大晦日だけ(初詣にこどもを連れて行くからだろう)であると後輩くんは習ったのだ。
猪熊には野犬やクマは出ないだろうけど、人さらいはいるかもしれない。まだ「トミチュー」の記憶も新鮮な後輩くんである、ましてこのところ夜の猪熊駅の見回りをしてきて、ここもここで危ないことがないわけではないんだな、と学んでいたところでもあった。先輩が一緒でなかったとしても、正義に基づいてなけなしの勇気を振り搾って彼女に声をかけていた可能性が高い。
「おうちの人は、君がいまここにいることは知っているのかな」
先輩はあくまで優しい声を保って訊ねる。少女は先輩の目を見て「知ってる」と素っ気ない。
塾帰りではないだろうな、ということは、彼女が手ぶらであることから後輩くんにも察しが付いた。先輩が警戒レベルを高めたのが判る。先輩が何者であるかはまだちっとも判然としないけれど、善なる光を纏って生きる人であることは確かだ。
「では……」
おうちの人に連絡を、と言うのかな、それとも、僕が交番に駆けて行っておまわりさんを呼んできたほうがいいのかな、と後輩くんが心の準備をしたところであった。
「あーごめんごめんなさいごめんなさいごめんなせぇっ」
左耳に高く跳ねた女性の声が飛び込んできた。振り向いて、後輩くんは思わず身を固くする。目にも鮮やかな金色の髪を左側でサイドテールにして、季節感のない小麦色の肌、寒いのにおへそがちょっと出ていて、そのおへそにはピアスが光った。華やかな顔だちをいっそう引き立たせるようなお化粧、カラーコンタクトをしているのか瞳が独特な黄色みを帯びているのだが、その上でアンダーリムの眼鏡を掛けている。背はさほど高くなくて、先輩と同じぐらいなのだけど、先輩がもし女性であったとしたら、その身体的特徴は先輩と極めて対照的であった。
「ごめんなせぇウチの子がぁ……。いい子なんですよぉ目付きちょっとケンあるかも知れないですけどほんとはすっごいいい子なんですよう」
この女性は、恐らくは後輩くんたちと同じ大学生であろう。一瞬、既視感めいたものを覚えて、すぐにその理由に思い至った。この女性も女の子と同じ濃い紫色のパファーコートを着ていてお揃い、……そして、よく見れば目元にどことなく面影がある。
「エリねーちゃん」
女の子がそう呼んだことで裏付けられた。二人は姉妹か、そうでなくても親戚なのだろう。女の子は「エリねーちゃん」のことを見上げて、
「うんこ間に合った?」
ごく当たり前のような顔をして訊いた。
「ばっ……こっおっ」
慌てて女の子の口を両手で塞ぐ。ボーイッシュな子で、人前でも平気で「うんこ」とか言ってしまえるのは微笑ましいと言っていいのではあるまいか。
つまり、こういうことらしい。
この女性は、ちょっとこう、自然の成り行きに基づく急用が出来て、一時的にこの女の子と離れて、どうやらそこのコンビニのトイレに駆け込んだのところだったのであろう。そこへ先輩と後輩くんがやって来て声を掛けた。
「ご無事で何よりです。……失礼ですが」
朗らかに先輩は言う。真っ赤になっていた女性は、肩を縮ませて、
「あい……。あの、この子の、従姉の、外目黒と言います……、です。うんこではなくて外目黒です……、外目黒だってうんこぐらいしますので……。この子はユノっていいます、ユノもうんこはします」
ぼそぼそと涙目で言う。
「お腹はあまり冷やされないのがいいでしょうね。九隅大のかたですか」
先輩は自然にそう問うが、後輩くんは彼女のような人はまだキャンパス内で見たことがなかった。「私学文系の雄」なんて言葉で表されることも多い九隅大ではあるがキャンパスは狭く、これぐらい目立つ容姿の人がいれば認識していてもおかしくない。
「あ、いえ。あの、今日は二人で親戚の家に泊まりに来たとこで……。その、……東英大学の二年生でーす……」
大学の名前を、外目黒さんはちょっと言いづらそうだった。
理由は明らかである。先輩も、後輩くんも、思わず身を強張らせてしまった。
東英大学。
九隅文科大学とともに「私学文系の雄」の名を得る、というか、世間一般的には東英大のほうがそう見られている可能性もなくはない、名門大学である。しかも規模が大きくて、学力が高いのみならず野球と駅伝が強く、文学部と経済学部しかなくそもそも都心から離れたのどかな沼のほとりに小さなキャンパスを構えている九隅大に比べ、都心に立派なビル何棟ものキャンパスを持ち各ジャンルの学部を設け、最寄りである地下鉄の風呂水駅においては「ふろみずー、ふろみずー、東英大学前です」というアナウンスまでされるという……。
こういうことにやけに詳しいことからも察しがつくだろうけれど、九隅大生はうっすらとした対抗意識というかコンプレックスというかを東英大学に対して抱いていて、それは当人たちは「うっすら」程度のレベルだと思っているのであるが、東英大生からは煙たがられているというのが現状である。
つまり、この猪熊駅のペデストリアンデッキから階段で地表に降りたところ、テリトリー的には九隅大生のものであるところに、東英大生である外目黒さんがいる、という状況が、レアなものであることはもう半年以上は九隅大生をやっている後輩くんとしても理解しているのである。後輩くんより何年か長く九隅大生でいる先輩は、ちょっと言葉を失っている。後輩くんは「先輩を困惑させることは難しい」と思っているが、先輩は実のところ結構いろんなことで困惑するのである。
「……駅周辺にはお酒の入っている九隅大生が多くいます。ご自身が東英大生であることは、出来るだけ隠しておかれるのがいいでしょう」
先輩は声を潜めて言った。
後輩くんとしても自分の通う大学の恥を晒すような真似はしたくないが、酔っぱらって気が大きくなっていてしかも徒党を組んだ九隅大生は、この金髪の女性が東英大生であると見るや、よってたかって「歴代の総理の人数はこっちのほうが多いんだぞう歴代卒業生の数ではずっと少ないのにふははははすっごいだろう!」「地下鉄の駅で『東英大学前』って言われていい気になってるのかも知れないがこっちにはそのものずばり『九隅文科大学』って名前のバス停があるんだぞうむふふふんどうだまいったかぁ!」などと攻撃しかねない歪んだ性根を持つ者も少なくないし、彼らに比べれば遥かに穏健な後輩くんとしては、この女性と、連れた女の子までそんな目に遇わされるのは不条理すぎる。
慎重な顔で頷いた外目黒さんはユノちゃんを抱き寄せて不安そうに訊いた。
「駅の向こう、行きたいんですけど、そんなに危ないですかね……?」
「あの、先輩」
後輩くんが全て口にするまでもなく、先輩はそのつもりだったに違いない。
「私たちでよければ、南口までエスコートしましょう」
外目黒さんは心底からほっとした顔になった。失礼ながら、外目黒さんは容姿が東英大生っぽくない(後輩くんも、東英大学に通う女子学生はみんなしゃなりしゃなりとしたお嬢さんで、男子学生はみんな短髪でカチッとした人なんだろうと勝手な想像をしていた)ので、コンコースを抜けるぐらいで危ない目に遇うとは考えにくいが、ペデストリアンデッキではどこからともなく九隅大学の校歌「猪熊学舎」の合唱が始まっている。
こうして見ると、九隅大生は変人の割合が多いようである……。
自分たちも普通の九隅大生であると、
「あーかきー、ひのひかりー、いーくま、ぬまのほとりー」
「こーころー、きよきわこうど、わーれら、わーれらーががくしゃー」
先輩と二人で口ずさみながら、北口に比べればずっと平和な南口へ至ってようやくひと安心。
「東英大学に通っておられるのに、親戚のかたが猪熊にお住まいとは。いえ、そういうこともあるのでしょうけど……」
先輩が苦笑する。外目黒さんもようやくひと心地ついた様子で「助かりましたぁ」と頭を下げる。
「この時間にこのへん歩くの初めてだったんでぇ……、はー、こんななってんですねぇ……」
それから彼女はユノちゃんとお揃いのパファーコートのポケットからスマートフォンを取り出した。親戚にいまから向かう旨をメールするのだろうと察しが付いたが、それ以上に後輩くんが見たのは、ユノちゃんのポケットから覗いていたものと同じ、滴型の……。一瞬後輩くんは、ユノちゃんのスマートフォンがいつの間に外目黒さんのポケットに移動していたのだろうとユノちゃんのほうを見たが、彼女のポケットからは先程と同じように、滴の形のお守りが覗いているのだった。
人は見かけによらない、という言い回しがある。
誰に対しても、どんなケースにおいても使うことが可能な言葉だ。極論、先輩が探偵をやっているという話においても、「人は見かけによらないですね」と言う人は言うだろう。後輩くんにしたって、傍目にはたぶんそんなにシャープに脳が回るようには見えないだろうから「九隅文科大学に通ってます」と言ったら「人は見かけに……」と言われてしまうかもしれない。
それにしても、外目黒さんとユノちゃんが滴型の、非常に特徴的なお守りを所有していることに関しては、その言葉を用いたい気がした。
なぜって、後輩くんも同じものを持っている。
普段は持ち歩かないので、先輩は知らない。
そして先輩が見ても、何のお守りであるか判らないだろう。これは厳密な統計に基づくものではなくて後輩くんの印象論だけど、全世代性別で言えば六十代以上の、おおむね男性が持っている確率が一番高いはずだ。もちろん二十歳である後輩くんや、同じくもう二十歳になっているかもしれない外目黒さんが持っていたっていいのだけれど、まあ珍しい(少なくともおしゃれ目的で持つようなものではない)し、ティーンエイジャーにもなっていないユノちゃんが持っているというのは、不思議の一言である。
そのお守りは、波主守、という。
とんだ奇遇があるものだ。後輩くんは自分に波主守をくれた人と、明後日、会う約束をしているのだ。
「ほんとに助かりました、ありがとうございます。ほらユノもお礼!」
「ありがとーございました」
当たり前のことではあるが……、大学間の屈託を先輩・後輩くんと外目黒さん・ユノちゃんの間に持ち込む必要はない。こちらはあくまで紳士的に二人を見送る。ユノちゃんがずいぶん離れたところで振り返って、こちらに向かって手を振ってくれた。無愛想な子、なんて思ってしまったことを謝らなければいけない。後輩くんは──先輩の性別によっては──同性愛者かも知れないけれど、ロリコンではないのだが、それでもちょっと、胸がきゅんとした。
先輩は彼女たちが持っていたお守りについては言及しなかった。先輩は有能な探偵に違いない、と後輩くんは確信しているが、その理由は頭の回転の速さ、知識の豊富さ、観察眼、そして記憶力である。こういう人はえてして将棋が強いのだが、そんな先輩をして知らなくて仕方がないのが波主守である。
「……さて、こっちに出てきてしまったね。後輩くんのおうちもこっち方面であることを考えると、いまから事務所に向かうのはいかにも遠回りになってしまうね」
先輩はくるりと周囲を見回す。後輩くんには見慣れた南口の風景だが、先輩はこちらへ来ることはあまりないのだろう。南口、ではなくて「勝手口」とか「裏口」と言ったほうがいいのではないかと思うほど寂れていて、こちらには九隅大生の姿はほとんど見えない。そもそも、ペデストリアンデッキもない。ぱっと見た限り、コンビニと、居酒屋が数軒、あとは、赤い提灯に黒太の筆文字で「らぁめん」と大書したラーメン屋さんがある。後輩くんはまだ入ったことがない。先輩は赤い光に吸い寄せられるように近付いていって、「味噌ラーメン……」と呟く。風の冷たくて寒い夜には、魅力的な食べものである。
「僕はどこでもいいです」
先輩の事務所も魅力的ではあったけれど、先輩の口はもう味噌ラーメンになってしまっているのではないか。
店に入るなり、ふわぁと食欲をそそる油とニンニクのにおいと暖気が迎えてくれた。照明は落とし気味、クリスマスソングのインストゥルメンタルが流れる店内で食券を、先輩に後輩くんのぶんまで購めてもらって、テーブル席に着く。北口のお店はこの時間もどこも混んでいるはずだが、こちらは空いている。先輩はしっとりとした美人──仮に男性であったとしてもその形容が相応しくないということはないだろう──ではあるけれど、がっつりしたものも好きであって、こういうお店だって入るのだ。「今日私とてもお腹空いているのでここでいいかな」と、トンテキのお店に連れて行かれたときにはずいぶん驚いたけれど。
おすすめだという野菜たっぷりラーメンが早々に着丼した。いためたキャベツとモヤシ、豚肉が乗ったガッツリ系、黄色い太麺がボリューミィ、しかしおつゆは意外なほどまろやかで野菜の甘味がしっかりと効いている。暫し二人でやんちゃな少年になって、言葉もなくお腹を満たすことに集中する……。
「……後輩くんは、クリスマスってなにか予定はあるのかな」
先輩にそう問われたのは、二人の丼の中身がすっかりなくなったタイミングだった。お客さんが少ないせいか、店員さんが食器を下げに来る気配はない。もうしばらくはこのお店にいても良さそうな雰囲気である。
後輩くんはどきんと催した緊張を押さえつつ、レモンの香りのする水を一口飲む。
「郷里の……、中学のときの後輩に会いに行きます。その、たまたまこっちに、この週末に来ていて、なので、特にその日を選んだというわけではなくって……」
明後日がクリスマスイヴであることは、もちろん後輩くんも頭に入っている。そういう日に、故郷の後輩と会う……、なんて言えば、先輩にどう受け止められるか考えないで発言しているわけもない。後輩くんはこれまで見てきた通り、わりと人に配慮できるタイプの人間であるから。
俯いていた顔を恐るおそる上げて、先輩の顔を伺う。先輩は、別に怒ってはいないようだったが、狐につままれたような表情を浮かべてじーっと後輩くんを見詰めているのだった。それから、「……ああ、そうか……」とやけにイノセントな声で呟いた。
「そうだよね。君にも後輩がいたっておかしくはないんだった。失礼、いつも『後輩くん後輩くん』と呼んでいるものだからうっかりしていた……」
そう、実は後輩くんにも後輩くんはいるのである。後輩くんだって「先輩」と呼ばれることがあるのだ。でもって、後輩くんは以外にも「先輩」として自身の「後輩くん」の人生にプラスの影響を与えたことさえあるのだ。
人は見かけによらない、……後輩くんも意外とそういう要素を持っているのだ。