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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは帰れない。
12/30

プリンス・ガーデン

 大学の学祭ってなんであろうか、と後輩くんは考えてみたのである。

 大学生であるから、企画力、実行力というものは社会人に準じたものになっている。とはいえその一方で、やっぱりなんといっても学生であるから、営利を突き詰めたことは出来ず(あんまり金儲けに走っていると学生課に目を付けられる、という事情もある)結果だけ見るとおままごとの域を出ない、という印象は否めない。だもので、運動系サークルを除けば露店も()しものも自己満足的である傾向が強く、高校の文化祭に何本か毛を生やした程度のものも散見される。

 その点、サークル創立から今年で来年で十年、……サークルの数が多く、「五年続けば老舗」と言われる九隅大においては、もう伝統と格式を誇ってもいいレベルの王子様部がグラウンド脇の芝生広場で催している「プリンス・ティー・ガーデン」は安定感のある出来映え。

 学祭の価値というのは、それをやる側、つまり大学にとっては来年度の新入生にキャンパスと学生の雰囲気を知ってもらう場である。ゆえに主催側からは一定の品格というものが求められるのであるが、その点でも王子様部は十分なものを保っている。

 芝生の上に並べられたテーブル、チェア、パラソル。三十分、メイドさんの供するお茶とお菓子を楽しみつつ、王子様と過ごす知的な語らいのとき。

 来春に受験を控える高校生たち、主に女子が多いことは仕方ないかもしれないが、メルネス王子こと中寉さんを筆頭に、鍛え上げられた武闘派騎士団長風プロヴェンツァーレ王子こと加蔵さん、おしゃべりの軽妙なハートランド王子こと本橋さん、男装の麗人という言葉があまりにもしっくり来る凛々しさのブラウワー姫王子の吉野さん、やんちゃなヤンキーの香りがする武者小路若旦那こと三摩くんといった面々を前に、一様にその頬を薔薇色に染めて夢見心地。私絶対この大学に来る! という決意を固めさせるには十分すぎる。

 彼女たちに茶菓を振る舞うのは、普段のイケメンぶりに変えて淑やかさのようなものを携えてマリアネッラこと蒔田さん、……お化粧も相俟って、どこからどう見ても女の人にしか見えないもので、声を聴いて度肝を抜かれる人が続出していた。そしてもう一人、長い前髪で目を隠して、どことなく緊張感の伴う動きが初々しくて後輩くんでさえ「守ってあげたい」なんて気持ちを催してしまう矢束さん(こちらも男性)というメイドさんが二人。

 華やかな空気が一層膨れ上がったのは、午後になってふらりとやって来た王子の存在ゆえだ。

「やあやあ、久しぶりだね諸君! 相変わらずこのキャンパスの空気はいい……、ほんのりとした沼の、藻の香り……、あと五号館食堂の一皿二〇〇円カレーのスパイスの……、懐かしき我が学び舎!」

 九隅大学王子様部OGであり、毎朝テレビの人気女子アナウンサー・原口ヒナコさんが王子様の格好をして現れたのだから、しばし即席サイン会のような様相を呈してしまった時間もあった。

「今年から値上がりして二五〇円ですよ」

「おのれ円安!」

 なお、カレーの価格について指摘したのは中寉さんである。

 すぐそばのグラウンドでは女子サッカー部や男子セパタクロー部が試合をやっていて、ときおりボールが飛んでくるという環境(もちろん王子様たちは身を呈して姫をお守りする)ではあるのだが、まったくもって幻想的な空間を広がっているのであった。

 後輩くんはそんな芝生広場を、例えば少し離れた一号館キャンパスの階段の踊り場であるとか、屋上の喫煙所であるとか、たこ焼き屋の屋台とラステカービベ……、いやベビーカステラの屋台の裏手から眺めていた。みんな知り合いなのだから後輩くんもお客さんとして行けばいいのであるが、行きかねる理由は二つ。一つは、知り合いであるだけに、僕なんかのお相手をさせてしまうのはよくないな、まだ王子様を知らない人たちにこそ王子様を知ってもらったほうが世のため人のためだな……、と思うから。

 そして、もう一つあるのだけど……。

「あっ後輩!」

 甲高い声が側頭部に飛んで来た。ちょうどそのとき後輩くんは、混雑するキャンパス中央、九隅大学の象徴たる噴水を遠く眺める図書館脇の喫煙所にいた。もちろん後輩くんは煙草を吸わない、安全地帯だからという理由でいるのだ。

 振り向いた先に、小さな少女がいるのを見て、思わずあっと声を上げてしまいそうになった後輩くんだった。だって、そこに立っていたのは天沢有華だったから。

 後輩くんがどうしてここへ、と問うよりも先に、駆け寄った彼女は後輩くんを見上げて、にいっと笑う。

「アタシ、ここの学生になる」

 その舌が、今日は青くない。相変わらず痩せてはいるけれど、血色は二週間前に会ったときよりよくなったようだ。

 彼女がこの二週間、どんなふうに過ごしているか、後輩くんはずっと案じていた。先輩はきっと、後輩くん以上に案じていただろうと思う。しかし、毎日のように顔を合わせても、有華の名前が出て来ることはなかったのだ。それというのはつまり、どう楽観的に考えても十七歳の少女には過酷な時間がいましばらくは続くことになるだろうという想像が、二人の中で共通認識として成立していたから。

 それだけに、元気な姿を、しかもこんな、猪熊ののどかな陽光の下で見ることが出来るとは思っていなかった。

「ここの……、九隅大の?」

 たった二週間で人はここまで変わるものなのか……、と後輩くんは頷く有華を目の当たりにして、心の底の震えるような気持ちである。

「了と皐醒が勉強教えてくれてる」

 呼び捨て。

 ああ、でも、理解できた。美しく優しいお兄さんたちに見守られることで、彼女の人生は正しく太陽を追うひまわりとなって、光を浴びることを願うようになったのだ。しっかりと大地に根を張って、ちょっとやそっとでは揺らぐもんかと。

 有華が性的マイノリティである中寉さん・蒔田さんと心を通わせるに至ったことも、後輩くんにはとてもとても嬉しかった。

「もう、櫻木山には……?」

「行ってない。ヒロ、アタシ以外にもいっぱいアタシみたいなのいたんだ。トミチューだけじゃなくて……、芦キタとか、エンコー坂とか、あと裏ジュクとか」

 憤然と有華が並べてくれた場所は、いずれもトミチューよりも規模は小さいながらも似たような場所であるのだが、後輩くんはそれぞれがどこにあるのかまるで判らない。とにかく大事なのは、理由はどうあれ有華が大日氣弥益の施設から自らの意思で脱したという事実である。

「んで、後輩、あのオネエさんは?」

「どのお姉さん?」

「ほらあの……、髪真っ黒の、了ほどじゃないけどちっちゃくて、ここんとこにほくろがあるオネエの人」

 有華は左目の下を人差し指で示した。先輩のことだ。

「先輩はオネエの人じゃないんだけどな……。ええと……、もうちょっとするとあっちに……」

 後輩くんがそっと目をやるなり、焦点は一瞬で結ばれた。

 ああ、そんなばかな。

 という声が、後輩くんの口から漏れる代わりに、

「あっ、いいな、いいなぁ」

 有華が目を輝かせて言った。

 先輩には黒が似合う。というのは、先輩はひょっとして黒い服しか持ってないんじゃないかしらんと思うぐらい、いつ見ても黒い服を着ている。ひょっとしたら赤や青や黄色、鮮やかな色彩を身に纏ってもばっちり似合ってしまうのかも知れないが、今のところ先輩が身につけた黒以外の色の服となると、一緒に行くホテルで纏うバスローブしかなくて、バスローブを「服」と言っていいのかどうかはまったく覚束ないものだから、適当な予想は許されない。

 しかし、有華の言葉の通り、先輩の姿はとてもいい。いつもと同じく黒主体ではあるのだが、……ああ、どうしよう、どうしたらいいんだろうって思うぐらいに、美しい。

 メルネス(中寉さん)やハートランド(本橋さん)と挨拶を交わした先輩、……銀の糸でゴシック紋様の刺繍が施されたタキシードに、銀のチェーンを襟元から合わせた純白のシャツ、ごく細身のスラックス、そしてステッキに、中折れ帽子という組み合わせ……、どこからどう見たって紳士である。

 つまり、ファルヴィニッヒ王子様である!

 あわわわわ、なんて声が出そうになった後輩くんだった。だって、ねぇ、嘘でしょう、えっ、本当に? マ? 僕はあんな素敵な人といつも一緒にいて、おしゃべりをしたり将棋を指したり、ラブホテルに行って同じ布団で寝たり。

 お風呂に入ったり……!

 ちょうど、「王子様待ち」のお客さんがいないタイミングであった。

「まっ、まっ、待って有華ちゃん待って」

 有華にぐいぐい引っ張られていく。いや、明らかにダメでしょ、あんな人に僕の相手なんかさせちゃダメでしょ、ねぇ! 後輩くんはすっかり尻込みしているのだった。後輩くんは中寉さんを眺めて「小さくて可愛らしい王子様だなぁ」なんて失礼なことを内心で思っていたのである。しかし小柄で童顔という点で、同じ「棚」に住む先輩はさすがに(失礼)中寉さんよりは(・・・)大きい(失礼)ので、先輩が王子様をやると聴いてもそれほど驚きはしなかったのであるが、想像と現実はこの通り大違い。

「ようこそいらっしゃいました、こちらへ」

 と導いてくれるメイドさん衣装の蒔田さんも大いに美しいのであるが、後輩くんにとって先輩はもはや、眩い光そのもの。

 目を合わせた次の瞬間、じゅっ……、と蒸発してしまったとして、何の不思議があろうかいやない。

「やあ、有華。来たんだね」

 その光のかんばせがこっちに向いてしまった。

「やばい、すごい普通に王子様やってんだ」

「やばい・すごい・普通と全部一緒に並べると何が何やらという感じがするが、この通りやっているよ。……後輩くんは何をしているのかな」

 両手で顔を覆いたいのだが、片手は有華に握られているのでそういうわけにもいかない。

「あうおああ」

「なに?」

「いえあのすいません。先輩、あの、先輩ですよね、先輩、ですよね?」

 何言ってんだこいつという、有華の軽んじる目は見ることが出来るのだ。しかし、面白そうにふふんと笑う先輩を直視することはどうしても出来ない。せっかくの機会だ、もっとちゃんと見ておかないときっと後で悔やむことになると頭では解っているのに、本当にもうどうしたらいいんだろうって思うぐらいに。

「後輩くん」

「ッピャー!」

 腰を抜かした後輩くんが(蒔田さんがスッ……、と引いてくれていた椅子に落下しつつ)脳天から発した素っ頓狂な声に、猪熊沼から鷺が一斉に飛び上がった。

「そんなに驚くことはないだろう」

 先輩の細くて美しい指先が、後輩くんの顎を捉えていた。

 至近距離から両の瞳に覗き込まれて、普段は気にしない色んなことが急に気になり始める。どうして僕はひと瓶七〇〇円の安い化粧水なんか使ってるんだろう! 先輩にこうされるって判ってたならもうちょっといいやつを!

「来てくれて嬉しいよ、私の後輩くん。……こういうお店は初めてかい? 何も気兼ねはいらないよ、普段通りの私と君との時間を過ごそうじゃないか……」

 美しい、声も、言葉に混じる吐息までも。後輩くんのお腹がきゅーっと捻れる。腸捻転か、さもなくば盲腸であろうか。思いっきり恥ずかしいのに、逃げ出したいぐらいに居た堪れないのに、もっとお願いしますと求めてしまう矛盾が、後輩くんの身体の中で四方八方にベクトルを散らしている。

「了、ここがわかんない」

 隣のテーブルでは有華がカバンから取り出したノートを開いて中寉さんに見せている。

「いまだけはメルネス王子と言ってくれませんか。教えますけど」

 天に至った意識がなかなか降りて来ない。蒔田さんがそれぞれのテーブルにたいへんに香り高い紅茶と、モンブラン、それからラズベリーのケーキ、それぞれに一口サイズだが、何とも愛らしくて、御伽噺の世界に来たようだ。

「どうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ」

 言うまでもなく蒔田さんも蒔田さんですごいのだ。背は、女性にしては高いなと思う。身体付きも、輪郭も、細身ではあるけれどきちんと男の人のそれなのだが、そう認識できることが却って妖艶さのようなものを演出する結果に繋がっているのだ。特に、その脚線美ときたらどういうことか。食べているものが自分とは違う気がして、ついついじろじろと見てしまう。

「……あの、蒔田さん」

「マリアネッラと申します」

「マリアネッラさん」

 元々蒔田さんが成人男性としてはとても美人であるという点はあろう。そこに、上手なお化粧をして、こういう格好をしたなら。後輩くんは同性愛者コミュニティに知識がなく、宿木橋にもあの日に一回行ったきり(どうやら僕は方向音痴らしいと自覚できたので、一人で行っても迷子になるばかりだと思ったし)なので、そこに属する人たちの文化に関してはまだまったく明るくない。詳しくなってどうするのかという話ではあるが、なんでも知らないよりは知っておいたほうがいいに決まっている。

「どうしたらいいんでしょう、僕は、あの、すごく平凡な、現実世界の人間なので、こういうときどういう顔をしていたらいいのか判らないんです」

「そんなの私でなくて目の前の王子様にお伺いになってみてはいかがですか。あと、あの、王子様がすごい目をして私のこと睨んでるんで私じゃなくて王子様のほう向いてあげてください」

 蒔田さん(マリアネッラさん)の言葉に応じてファルヴィニッヒ先輩王子を振り向くと、何事もなかったような顔で紅茶をふうふうしている。そりゃそうだよねという話ではあるが、王子様になっても猫舌であることは変わりないのである。ただ、先輩が意外なほどに嫉妬深いことはもう知ってしまったので。

 どんなときでも先輩の心を満たせる自分でいたいものだ、誰かに言われるまでもなく、当たり前のように、無意識にそう出来たなら。

「……後輩くんは、この(・・)私は得意ではない?」

 ほんのり寂しそうな声で訊かれて、後輩くんは心臓を冷たい手でぎゅうっと握られたみたいな気持ちになった。なんだろう、その目が反則なのだ。ものすごーく知的で鋭い光を宿すこともある先輩なのに、そしていまは「王子様」なのに、そんな儚い目をしないでいただけないでしょうか!

「そんっ、……んっ、んそんなことはありません、ありませんがっ、……その、先輩が、あの、あまりに、あまりに眩しくてっ……」

「……前髪の長い君がいうのだから相当だね。あるいはここ数時間でなにか薬なんて服用していないかい? 一部の薬を飲むと自律神経に影響を及ぼして異常な眩しさを感じてしまうことがあるそうだ」

 貧しさは常々感じているが、おおむねお父さんのせいである。お父さんは、まあ、今朝も相変わらずだった。そしてこの眩しさは、どう考えても先輩のせいである。

「ふむ、せっかく来てもらったのだから、私としても君には寛いでもらいたいところだ。では……、ちょっと待っていてくれたまえ、どこにも行ってはいけない、ここでいい子にしているんだよ」

「ぴゃい」

 いまの妙な声は、立ち上がった先輩がさらりと後輩くんの髪を撫ぜてくれたことで跳び出したものである。

 先輩はいつも一貫して麗しい人だけど、王子様になるともう、手に負えない感じになる。きっと、普段の格好に戻ってくれるつもりなのだろう、これで一安心。後輩くんは心臓を飼い慣らすことにゆっくりと時間を使いながら、ようやく紅茶を味わう。びっくりするぐらいに美味しい紅茶だった。

 落ち着きを取り戻して、周囲を見回す。異国のカフェのような情緒(それはすぐそこのグラウンドでセパタクローの試合をやっているからという理由もあるかも知れない)で、男性であれ女性であれ盛装した人と語らいながら過ごす時間というのは、たぶん一生の思い出になるだろう。

「すごい、ですね、なんかもう……、みなさんすごい」

 蒔田さんは、フフンと笑って後輩くんの髪を撫ぜてくれた。

「後輩くんも似合いそうだけど」

「まさか」

 もともとのつくりが違うということを、後輩くんは主張したいと思った。それは身体というか顔立ちに関してのみ言うのではなく、心がそもそも。後輩くんはどんなに立派な衣装を身に纏っても、ちっとも決まらないだろう。堂々としていることなんてとても出来ない。王子様部の王子様たち、そしてメイドさんたち(蒔田さんと矢束さん、二人とも男性であるが)はちっともおどおどしていないし、恥じらいもない。世界観に自信をフィットさせることが出来るのが強さである。

 してみると後輩くんは、いったいどこでなら後輩くんらしい振る舞いが出来るのだろう、自信満々の後輩くんというものを、……別に先輩はそんなもの「見たい」とは思わないだろうけれど、もしもそういう必要性に駆られることがあったとして、後輩くんはどこに行けばいいのだろうか?

 一箇所、あそこでなら……、という場所が思い浮かんだが、すぐに打ち消した。

 先輩をあんなところに連れて行けるわけがない……。

「後輩くん、これいる?」

 蒔田さんがポケットからスマートフォンを取り出して見せた。あくまで個人的な印象の話だけど、メイドさんにスマートフォンはあんまり似合わない気がする。

 後輩くんは危うく紅茶を噴き出しそうになった。先輩の、ファルヴィニッヒ王子様の写真である。

「なんですかこれ、合法的なものなんでしょうね」

「え、これなんかのポルノなわけ?」

「だってこんな、白い馬か銀の龍に跨って迷える衆生を救いに降りてきた神の遣いじゃありませんか」

「後輩くんがいっつも一緒にいるファルヴィイだよね」

「あんまりそういうこと言わないでくださいこんな人といつも一緒にいるなんて知られたらあらぬところから恨みを買いかねません」

「後輩くんはなんかSNSでもやってるの」

「いえやってませんけど」

「じゃあ平気でしょ。メルアド教えて」

 蒔田さんのアドレスは、たぶん、何かの唄の歌詞だろう。後輩くんのアドレスは、中学三年のときの出席番号である。先輩より先に蒔田さんのアドレスを受け取ってしまって、しかし届いたメールには先輩の王子様姿が映っている。きちんと順光で撮られた写真なのに、後光が差しているかに見えた。

 ものすごいスピードで保存して、でもさすがにスマートフォンの待受画面に設定したら気持ち悪がられるだろうなというぐらいの想像は後輩くんにもできるので、それはしないでおく。でも後輩くんはこれから一日に二回か三回はこの写真を見て、胸をきゅーっとさせながら熱っぽく湿っぽい溜め息を吐くのだ。だいぶ末期的な症状であるという自覚はあるのだけれど、誰に言われて始めたわけではない感情、ならば誰に言われてもやめるつもりはない。この気持ちを止めることが出来る人物がいるならば、……唯一その権限を有する人物、と言い換えてもいいが、もちろんそれは、先輩だけ。

「後輩くんって目ぇ悪い?」

「そんなに悪くないはずですけど、なぜですか?」

「めちゃめちゃ近くでスマホの画面見てるから。……あ、来た、デルフィネス(・・・・・・)

 デルフィネス。なんだっけ、そうだ、先輩のもう一つの名前。あれ、なんで先輩には名前が二つあったんだっけ? ぼやっと顔を上げて、不用意に振り返ってしまった後輩くんは、打たれた犬みたいな声を発することをどう努力しても止めることは出来なかった。

「『ファルヴィニッヒ』では後輩くんが緊張してしまうようだからね、これならば……、いかがですか後輩くん、……じゃなくって、マイ・マスター」

 メイドさん。

 先輩の、メイドさん……。

「あっ……、こ、後輩くん、どうした、しっかりしたまえ!」

 中寉さんみたいに先輩を困惑させることなんて僕には到底出来ないだろう……、と思っていた後輩くんだったのに、意識を失う直前に、先輩のガチの困り声を聴くことができたのは、喜んでいいことかも知れない。あとから話したら人を困らせて喜ぶなんて悪趣味なと叱られそうな話ではあるけれど、無意識だったら許されるというわけでもないはずだ……。

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