光
有華は一旦家に帰ることに同意してくれた。蒔田さんの言葉が効いたのかどうかは判らないが、「ヒロよりいい男」なる、実在するかどうか判然としないなりに、若者にとって希望の光となりうるものを追い求めるのは、きっととても健全なことではあるはずで。
「夜遊びをなさりたいなら、どうぞ、いつでもいらしてください」
タクシーを手配した中寉さんが、有華に言った。
「他ならぬ先輩のご紹介なので、一日一食はサービスいたしますので」
「ついでに俺のまかないもただにならん?」
「皐醒はきちんと一食四百円払ってください」
華やかな太陽のような蒔田さん、静かなる月のような中寉さん、繰り返しになるが、いずれ劣らぬ美青年であって、鑑賞に値する。この美しいお兄さんたちにもてなされる場所がこの世に存在して、櫻木山なる場所にいては「ヒロ」しかいない、そのヒロにしたって、ひょっとして本当はアタシのことなんてわりとどうでもいいのではという疑いのあることを、彼女は今夜知ってしまった。
彼女の顔は、ほんの少しだけ健康になったように見える。十七歳、まだまだこれから、人生に楽しいことはいくらだってある──と、まだ二十歳の後輩くんは「そうでなければやってられない」という切ない願いを携えてそう信じている──のだから、一つところに閉じ籠って時間を重ねてしまうのは、あまりにもったいない。
今後、薬物の濫用は厳に慎むべきだ。言ってしまえば薬も宗教も、適切な使用をしてこそ心身の健康に役立つものであって、後輩くんのお母さんを例に挙げるまでもなく、過剰な摂取は毒である。
もちろん、彼女自身の努力のみならず、周囲の適切なサポートが不可欠。
周囲の……、と思うと、後輩くんも先輩も、ちょっと気持ちが暗くなるのだけど。
「では、おやすみなさいませ」
という中寉さんの言葉に見送られて、「緑の兎」の外へ出たのはもう十二時近くだった。明日は日曜日、だから宿木橋の通りには、たくさんの人たちがごきげんである。後輩くんは先輩に導かれて、左右並んで、時に前後縦列になって、雑踏をすり抜ける。「宿木橋」を渡って冨緑駅への上り坂並木道、ようやく後輩くんの記憶に引っ掛かる場所に辿り着いたところで、日付が変わった。すぐ近くのカフェバーのデッキで呑んでいたグループの誰かが誕生日を迎えたらしい、「おめでとー!」という声が高らかに上がり、そばを通りがかった人たちが、よく判らないまま拍手をする。この街の夜は、まだまだ長い。
「……ああ、そうか」
先輩がスマートフォンを見て顔をしかめる。
「私としたことが迂闊だった、今日は土曜日、いやいま日曜日になったのか、終電が早い、もう猪熊には帰れない」
後輩くんを振り返って、すまなそうに頭を下げる。
「君は彼女のことは放っておいて、一人でまっすぐ帰ってもよかったんだよ?」
たぶん、いや、ほぼ確実に、独りで「緑の兎」を出たらまたトミチューあたりで「あれぇ……?」ってきょろきょろしていたに違いない。となれば、独りぼっちでしょんぼりと朝を待つことになっていたかも知れない。
であるならば、これが最善である。何より、先輩と一緒に夜更かしをしているというのが嬉しいし、……先輩と後輩くんの中にはきっと、同じ形をした憂いが息づいている。
「疲れてはいない?」
「はぁ、まあ、まだそんなに」
「……そうか、そういえばお昼寝をしていたんだっけね。では、ちょっと歩くけどいいかな」
先輩が騒がしい呑み屋街に背を向けて歩き始める。後輩くんは黙ってそれに随いて行く。夜の、後輩くんには全然親しみのない道を、先輩と並んで歩いていた。同じものを見ていて、時おり、ぽつりぽつりと会話をする。
「後輩くんは了や皐醒や、……他のみなさんがゲイであると知っても対応が少しも変わらないんだね」
「それは、そうですね。みなさんとてもいい人なので」
「中には色眼鏡で見る人もいる」
「そうかも知れません。僕ももう少しこどもだったらわかりません。でも、人が誰を好きだってことと、その人のことを好きかどうかっていうのは関係ないと思うんです。あの、うまく言えないんですけど」
「ああ、判るよ」
「僕、昔漫画家になりたくて、好きな漫画家さんがいたんですけど」
「初耳だ、後輩くんは絵が描けるのか」
「ぜんぜん、あの、たいしたアレじゃないですけど。……その、好きな漫画家さんが好きって言う漫画家さんが、僕にはまるでピンと来なくて。でも、だからと言って好きな漫画家さんのこと嫌いになるわけじゃないですし」
「それはそうだろうね。……うん、誰が誰を好きでも、その人のことを好きになるかどうかということとは全く関係ない、本来はそうあるべきだ」
不思議な感覚だった。左隣を歩く先輩の顔は見えない、けれど声は聴こえている。後輩くんが大好きだなと思う、柔らかくて滑らかな声だ。さっきの「オネエ先輩」もなかなか格好よかったな、と思い返しながら、先輩と同じものを、ほんの少し違う角度で見ながら、同じ歩調で歩いている。
後輩くんの踏む道は、明かりの消えた雑居ビルばかりが両サイドに並び、車道と歩道がガードレールで区切られていない二車線道路。大きな通りの気配が常に近くにするのに、この道には車も人通りもまるでなくて静かだ。自分がいまどのあたりを、どこに向かって歩いているのか、後輩くんには全く判らない。けれど、先輩の靴底が踏む道を一緒に辿っていると思うだけで、少しも怖くなかった。
やがて前方に、けばけばしいネオンが見えてきた。先輩と何度か言った「レイクサイドヴィラ」と同質のホテルであることは明白である。それが、何軒も何軒も林立していた。
「泊まりになってしまうから、ちょっと掛かってしまうけど、私に付き合わせてしまったのだからね、君は出さなくていいよ」
そういうわけには行かないと慌てたけれど、よくよく考えたら月曜日までお金は全然ないのだった。そもそも、そうだ、「先輩、あの、これ」中寉さんからお釣りとして預かっていたぶんも返さなければいけない。
「ああ、ならばますます君は一円も出す必要はない。……私としては了と皐醒に、君が心行くまで楽しめるようにと置いていったつもりだったんだ」
先輩はひょいと部屋を取って、もう後輩くんとの名もなき時間に慣れた足取りで部屋へと向かう。室内の壁はピンク色だが、二人はモノクロームのグラデーションだ。
「先輩、……さっきの、有華ちゃんのことですけど」
言うときには眉間に皺が寄り、額に少し、ひきつれるような痛みが走った。
先輩は鞄からハーブティーのティーバッグを取り出す。二人でホテルに来るたび、それをご馳走になっている。後輩くんがせめてすることと言えば、小さな電気ポットでお湯を湧かし、カップを用意することぐらいだ。
「君も気付いていたようだね。……彼女のお父さまは、どうやら宿木橋の住民なんだろう」
先輩の言葉に、後輩くんは頷いて、……ひょっとしたら今日、どこかですれ違っていたかもしれない、その可能性に思い至って、なんだか胸が苦しくなる。
「探偵に頼めば、……ああ、まず言っておくけど、私は探偵としても下の下、そもそもアルバイトで、能力なんてないに等しいのだけど、そういうレベルの人間であっても、ここからほど近いところに家のある高校生が家出をしたとなったら、トミチュー界隈を捜索することになる」
お湯はあっという間に沸いた。カップを先輩と自分のぶん、ローテーブルに置いて、注いだお湯に先輩がティーバッグを浸す。穏やかな顔をしたカモミールの香りが、ゆっくりと室内に広がっていく。
「無論、事務所の上司も先輩も昨日、……いや、もう一昨日か、彼女のお母さまが事務所にいらした際に、警察へ行くよう強くすすめたよ。未成年のことでもあるし、まあここでこう言うことを差別的とは言われないだろうけど、女の子でもあるしね」
「……あの、先輩がお勤めの事務所って、猪熊ですよね」
「駅の裏手の雑居ビルの中だよ」
「何で有華ちゃんのお母さんはわざわざ先輩の事務所の門を叩いたんでしょうか」
探偵事務所……、というものは、後輩くんが思っていたほど特別なものではないらしい。とりあえず偶然知り合った大学の先輩がそうした事務所でアルバイトをしているぐらいには。石を投げて当たるぐらい探偵がうろうろしているわけでもなかろうけども。
「彼女のお父さんがやっているのは警備会社だ。その会社に勤めていたのがうちの所長なんだ。お父さんは彼女が出ていってすぐ『知り合いの探偵に頼んで探させている』と言って、……しかし実際には一切そんな話はしていなかった。当然だね、していれば所長だろうと誰だろうと対応するし、まず警察に行くことを勧める。依頼人である有華さんのお母さんは一昨日うちの所長がそもそも依頼を受けていないことを知って驚愕していたよ」
後輩くんは嘆息し、ハーブティーをそっと口に含む。冷えていた肺が、少しだけ暖まる気がする。
有華がトミチューに入り浸っている(実際には櫻木山だったようだが)公算が高いことを、お父さんは認識していた。……あるいはお父さんは自身に縁のある探偵ではなくて別の誰かに依頼して、既にしっかり把握していたのかもしれない。いや、そうである公算が高いと後輩くんは思った。
思うに、先輩は有華の安否確認とは別に、もう一つ依頼を受けている。
ひょっとしたら、……メインとサブという言葉を用いるならば、まだ口にしていない、恐らく決して口にはしないもう一つの依頼のほうがメインだった可能性さえある。
後輩くんがそのことに辿り着いていることを、察知しているのだろう、先輩は、
「私に言えるのは、残念ながらここまでだよ、後輩くん」
申し訳なさそうに言った。先輩は少し、傷付いているように見えた。
「……これ、僕の独り言です。ですので先輩は、なにも仰らないでください、聴き流して頂けるとありがたいです」
「寝なくてもいいのかな」
「お風呂もまだですし、……あと、せっかく先輩と一緒にこういうところにいるのに、まだ僕らは将棋を指していません」
先輩はちょっと目を丸くした。それから、ふぅっと針金を抜くように笑った。
後輩くんの先手番だった。
○
先輩が、いえ、先輩のお勤めになってる探偵事務所が有華ちゃんのお母さんから受けた依頼っていうのは、有華ちゃんの安否調査だけじゃなくて、お父さんの素行調査だったんじゃないかなって思うんです。
「……ほう、『7八飛戦法』か。一手目で戦型を決めてしまう、奇襲の一種という捉えかたもできるが」
そもそも、……あの、こういう言いかたをしちゃうのはどうかなって思うんですけどね、あの、でも、怒らないで頂ければいいなって思うんですけど……。
十七歳の女の子の安否確認って、すごく大事なことだと思うんです。おおごと、ですよね。その依頼に対して動くのが、アルバイトの先輩っていうのは、ちょっと。
だから、こう思ったんです。ひょっとしたら、……有華ちゃんの安否は、有華ちゃんが櫻木山……、でしたっけ……、あの人たちの保護下にあるってことまで判ってて放って置かれてる。
お父さんとしては、そこまで判れば一安心なんですよね。
距離的にはすぐ近くだけど、有華ちゃんが大日氣弥益の信徒たちと一緒にいるってことは、ご自身が「宿木橋の人」であることがバレる心配はないですから。
「うん……、格調高い手だ。……相当研究を重ねているな。そして……、うん、時間を気にしないで指せるのは久しぶりだね。相振り飛車の相穴熊、いいとも、存分にやり合おう……」
たぶん先輩は、有華ちゃんの捜索依頼がお父さんから「出たことにされていた」っていうことを知った時点で、お父さんが宿木橋にいる可能性についてお気付きになったんだと思います。先輩がそうであったに違いないようにお父さんも有華ちゃんがトミチューにいる可能性には察しが付いたと思いますし、あそこにいればすぐに櫻木山へのスカウトがやって来る。お父さんはひょっとしたら、有華ちゃんが熱心に周りに勧誘してる姿も見たかもしれません。
二人の生活圏は、坂を介して隣り合っています。
でも二人が鉢合わせる心配はないわけです。
有華ちゃんは性的マイノリティを差別する教育を大日氣弥益の人たちから吹き込まれていますから、自らの意志で宿木橋を渡ることはあり得ないですものね。だから、「知り合いの探偵に頼んだ」って嘘をついた。
一方で、お母さんもお母さんです。
本気で有華ちゃんのことを心配してるなら、お父さんが何をしようが、すぐに警察に駆け込むべきでした。そして、……お父さんの宿木橋通いは、有華ちゃんが家出をするもっとずっと前からあったことだと思うんですよね。それなのにどうしていまになって急に、調査を依頼したのか。
有華ちゃんのお母さんは、離婚を考えていたんじゃないかなって思います。
「初めて君と盤を挟んで向かい合ったときと比べると、攻め手がだいぶ鋭くなってきたようだね。もともと君は受けが巧みだったから、攻めが研かれれば一気に成長することだろう……」
卵が先か鶏が先かみたいな話になりますけど……、離婚したいなって思ってたところに、旦那さんの宿木橋通いが出てきたのか、旦那さんの宿木橋通いがあったから離婚したいって思ったのか。普通は後者だと思うんですけど、……僕は、前者かも知れないなって思っています。それは、有華ちゃんが櫻木山っていう、大日氣弥益関連の施設に寝泊まりしてることを、お母さんも、お父さんよりもっと早い段階で認識してた可能性があるからで。
ええ、そうです。僕もそうでした。入信してる親は、こどもにも同じ門を潜らせようとします。有華ちゃんがその「ヒロ」っていう、地区長って言ってましたっけ、そういう人物に引っ掛けられたの、僕が日輪山ハイキング倶楽部に誘い込まれたのと同じ仕組みだと思うんです。
お母さんとしては、地区長のヒロに任せてあるから、有華ちゃんを心配する必要がなくて。お父さんももうとっくに心配する必要はなくって……。
お父さんとお母さんは、期待通りに育たなかった有華ちゃんを、それぞれ別なやりかたで捨ててしまったんだと思います。夫婦間で意思の疎通が取れていなくて、お互い「あっちがなんとかする」ぐらいの気持ちでいたせいで、有華ちゃんはあやうく救いようのないところまで落としてしまうことになりかねませんでした。
僕も、ちょっと前までなら「親がそんなことするもんか」って思ってたはずなんですけどね。
でも、親だって人間だっていう、いきものだっていう事実を、僕はもう、わりと、悪い形で認識しちゃっているので……。
僕の先輩である探偵さんがいなかったら、彼女は救われませんでした、お薬からも、大日氣弥益からも。
○
しかし、先輩と後輩くんが今日したのは、一つの家庭の崩壊、そこへの手助けであると言うこともできる。もちろん後輩くんにはいまとなってはその自覚があったし、先輩もそのつらさを帯びて行動していたに違いない。宿木橋に有華を導くことでお父さんと遭遇するリスクを高めさせた。また有華と中寉さんたちとを結びつけたことで、彼女と大日氣弥益との縁を遠ざけた。そうすることで、彼女と彼女の母親との縁を細めた。彼女の母親が娘と、離婚を経て櫻木山にて再会することを予定していたに違いないことも、自然と浮かび上がる予想である。
しかし、後輩くんは悪いことをしたなどとは微塵も思わない。
先輩が盤面から顔を上げた。
「私は、……繰り返しになるが、正確な依頼の内容について話すことは出来ないよ、ここが密室であり、君が信頼できる人物であることをよく知っていたとしてもだ」
後輩くんは、もちろん頷いた。だから「独り言」と言ったのである。なお盤面は、先輩に褒められる手をかなりの数繰り出した後輩くんではあるものの、穴熊、……将棋の守備陣形「囲い」の中でも最も堅い部類に入るものが、蟻のような「と金」に食い付かれて小さなほころびが生じたことをきっかけに、蜂のような香車、蜘蛛のような銀将に寄り付かれ、遥か遠くから龍馬が牙を剥いて睨んでいるという状況にまで追い込まれていた。有段者の強者である先輩を相手に、喋りながら指して勝とうなんて、はじめから甘い目論見ではあった。
「だが、敢えて訊こう。君は彼女のお母さんが大日氣弥益の信徒であることを想定しているわけだね」
「はい」
「では、今日、彼女は……、我々がここにチェックインするよりもだいぶ早いタイミングでおうちに着いていると思うけども、それで、どうなっただろうね」
「これといって」
後輩くんは悪足掻きに守りの金を打つ。
「何も起こらないのではないでしょうか」
先輩は視線を動かさない。
「お父さんもお母さんも、今日有華ちゃんが帰ってくることは想定してないはずですし」
先輩は盤面に目を落として考え込む。ざっくり十三手詰めだが、初手で香車を切らなければいけない。香車を後輩くんに渡して、もし詰ませることが出来なかったら、先輩のほうが崩壊してしまう。だから、慎重に読みを入れているのだ。
「……後輩くんは、いま、何のアルバイトをしていると言っていたっけ?」
唐突な質問だったので、後輩くんはびっくりする。
「アルバイト」
「あ、……ええと、スーパーの品出しとレジ打ちです」
「週に四日と言っていたんだっけ。それで生活に足りる?」
きっとご存知のはずだ、お父さんが転がり込んできて以来、ぜんぜん足りていない。
「……空いている日に、私のアシスタントをやらない?」
「はい?」
「具体的には資料の整理と仕事への同行。了に頼んだこともあるのだけど、彼はあの店で働いていて、生活リズムが私とはだいぶ違うのでね……。あとあの子、王子様をやりながらバーで働いて、それから学生をやりつつ、あとバンドもやっている」
優先順位がだいぶめちゃくちゃだが、バンドをやっているというのは意外だった。どんなバンドなのだろう。
「了がボーカルで、皐醒がキーボード、あと皐醒のパートナーがギターで、もう一人、宿木橋で働いている美しい青年が笛を吹いている」
「笛を」
「四人揃って女装をしてね。いや、イロモノのようだがなかなかに本格的だよ。去年、学祭でライブを披露していて、大変な盛況だった。今年も、……了が卒業できなさそうだからたぶん来年もライブをやる。ああ、話が逸れてしまったね。私としても一人で調査をしていると、今回のように少々気の滅入ってしまうような事態に直面するケースはあるのでね」
先輩は十三手を読み切った。迷いのない指先で香車を切り捨てる。あとはもう一本道なので、後輩くんは「負けました」と頭を下げた。
「……彼女が帰宅し、お父さんとお母さんはきっと驚くだろうね。それは正真正銘の驚きだろう。無事であることが既に確認できていて、なおかつ帰って来ることはないと思っていた娘がこのタイミングで帰って来たのだから」
「見た目上は、一時的に当たり前の親子のような形を演出することが出来ると思います。でも、決して長続きはしないでしょうね」
同感だ、と先輩は言って立ち上がり、お風呂にお湯を溜め始めた。今日に関しては、時間的に感想戦は省略すべきだろう。
「今後、あの家はどうなるだろう?」
親子関係というものに対して悲観的にならざるを得ない現状にある後輩くんである。実際、有華が母の差し金とは知らず、ただヒロへの思いに従うかたちで大日氣弥益の信徒となり、櫻木山に入り浸る可能性は低くなさそうだ。また、お父さんとお母さんが離縁するまでにそう時間は掛かるまい。下り坂を転がり落ちるように、スムーズな経緯を辿って行き着く結論である。
しかし、僅かでも未来に希望を抱くとするならば。
「……たぶん、『ヒロ』より蒔田さんと中寉さんのほうが魅力的だと思うんですよね」
ほう、と先輩がソファに座り直す。
「あの二人見てると、目が癒えます。有華ちゃんがここ二ヶ月半見てきたものよりもずっと、見てて楽しいと思うんですよね。薬を変な飲みかたして具合悪くしながら見る夢よりもずっと健康的だと思います」
先輩は、腕組みをして笑う。
「……そうだね。それは間違いなくそうだ。『ヒロ』をはじめとする大日氣弥益のところの人々にどんなことを吹き込まれたか知らないが、宿木橋の住民たちと関わっていくうちに、君が達しているレベルの考えかたも出来るようになるだろう。そうすれば自然と、大日氣弥益の考えに疑問を抱くようになる」
「宿木橋でお父さんとばったり……、ってこともあるかもしれませんけど」
言ってみて、
「……それがきっと、一番いいですよね」
という気持ちに、後輩くんはなった。先輩はふっと笑って頷く。
先輩と、こんな時間にこうしてお話をしているのが不思議な気持ちだった。今日は、長い長い一日、昼寝をしたせいでこんな時間まで起きている。先輩が不機嫌だったり普通に戻ったり、オネエのふりをしたり、探偵さんとしての表情を見せてくれたり。トータルで見れば「よかった」と思う一日が、まだもう少しだけ残っている。
湯面を叩くお湯の音が変わってきた。後輩くんは立ち上がってバスルームのお湯を止める。まろやかな楕円形をした、ピンク色のバスタブ、一人用のサウナも併設されている。
「たまには先輩がお先にどうぞ。いつも僕の昼寝のために、先に頂いてしまっているので」
「君の浸かった後のお湯が具合悪いとも思わないけども」
夫婦でも家族でも恋人でもない、そもそも先輩がどっちか判らないのに、もう何度も、順番にお風呂に入っている。中寉さんたちにはまだこういうことは話していない。蒔田さんにはきっと「どこまでいったの」と訊かれるのではないか。
「では、二人で入ろうか」
何もしてません、と先輩と二人で言ったって、ますます怪しまれることになりそうだが。
「はい。……はい? あの、え?」
灯りが消えた。ひとつ残らず。
テーブルに置かれた先輩のタブレットが、後輩くんの投了した画面のまま止まっている。二人で向き合う将棋アプリ、将棋には長考がつきもので、場合によっては一手に十分も二十分も要するケースもあるから、しばらく放っておいても画面がスリープしないのだ。
「私はあんまり人に肌を見せて嬉しい気持ちにはならないし、君の肌をあんまりじろじろ見るのもどうかというぐらいの感覚は持ち合わせているのでね。でも、きっと私がお風呂を上がるまで待っているのは君が退屈だろうし、私は眠ってしまうおそれもあるから」
立ち尽くす後輩くんの耳に、衣擦れの音が届いた。先輩はここへ着いてすぐ、コートを脱いでいる。
枚数……、という言葉が、後輩くんの頭を一瞬過った。先輩が脱いでいく衣服の枚数を数えたら、それは、先輩の性別を判定するためのヒントになる。
けれど、それはあんまりにも。
「あ、あのっ、あの、先輩」
「なに」
指先が震えているところを、後輩くんは先輩には見せたくなかった。ほっぺたが真っ赤になっていることも。そういう意味では、先輩が灯りを消してくれたことは、後輩くんにとって二重の意味でありがたいことだった。
「僕、……先輩のお名前を、まだ知りません」
先輩がぴたりと動きを止める。……それから、じゃらじゃらと鳴ったのは、先輩のウォレットチェーンの音だ。先輩は後輩くんとそんなに年齢も違わない(はずである)のにウォレットチェーンを愛用している。
「私も君の名前をまだ知らない」
「なのに、あの、なのに、一緒にお風呂なんて入っちゃっていいんですか」
先輩は、少し笑ったようだった。
「私の名前、知りたい?」
後輩くんは、答えあぐねる。先輩の、名前だけじゃない、年齢、性別、……いろんなことを、もっと知りたい。
けれど、いま初めて、後輩くんはその決定的な線を踏み越える最高の機会を得ながら、怖い、と思ってしまった。
先輩がどんな名前であれ、歳上であれ、歳下であれ、後輩くんは意外な気持ちにはならないだろうと思うのだ。男の人であれ、女の人であれ、そのどちらでもなかったり、両方であったりしても、あらゆる先輩の欠片の一つでも手にしたとたん、それをどう扱ったらいいのか判らなくて、この手から取り落としてしまうような気がした。
今日、……今日、という言いかたでいいはずだ、中寉さん、蒔田さん、同性愛者の友人が出来た。上之原さん、白湯川さんにミツルママ。彼らと良好な関係を築いていくことは後輩くんの願いだ。
もし仮に、先輩が自分と同性であったとして。
異性であったとして。
後輩くんはどんな顔で、どんな体温で、その事実を手のひらに乗せて、先輩を傷つけぬよう包むことが出来るのか、まだちっとも判っていなかった。判っているのはただ、なにも知らない先輩のことを、ただ、ただ、漠然と、その輪郭をその声を言葉を、好きだなって思っていることぐらい。
「私も、知ろうと思えば幾らだって知ることが出来るけれど、……いっそ、知らないままでいるのも面白いかなって思っているところだ」
ちゃりん、という音がまた一つ。ベルトの金具が鳴った音だろう。
「意地悪をする気があるわけじゃないんだ。でも、後輩くんもきっと経験がないだろう、相手の名前も知らないまま時間を重ねて仲良くなっていくことなんて。そういう間柄って、大抵は儚いものだろうからね」
名前を知らない相手、……一度も出会ったことのない人は、当然ながら後輩くんの中に名前が埋め込まれることなく忘れ去られていく。きっと、たくさんいたはずなのだ……、名前は知らないけれど、話した人、短い時間だけ一緒にいて、なんだか楽しかった人。先輩が儚いという言葉を使った通り、もう思い出せなくなってしまって久しいけれど。
先輩のことを忘れてしまう未来なんて、あるはずもない。けれど切なくなってしまったこともまた事実だ。知りたい、教えてほしい、だけど。
「私がどんな人間であるかは、……これから先、一緒に過ごす時間が増えて行けば行くほど、君には隠せなくなっていくんだろうな。そうであったとして、……君に嫌われることがないといいなと思っているんだけど、どうだろう」
後輩くんも同じ気持ちだ。いずれ、先輩は後輩くんの、出来れば隠しておきたいなと思っている部分を見てしまうことになるだろうし、見せることで嫌われてしまうリスクだってある。人間同士、いろいろを隠したままでいたほうが上手く行くことも少なくない。天沢有華の家族が、今夜過ごす時間を考えてみても、きっと。家族でさえそうなのだ、「先輩と後輩」なんて間柄ならもっと。
だけど後輩くんは青臭い夢を見る。
「名前を知らない私たちは、余計な情報を全部取り払って、極めて純粋な向き合いかたが出来るかもしれない。礼儀としてどうなのかという意見もあるかもしれないが、これはね、後輩くん、私たちだけの秘密の実験だ」
先輩の声が、裸足の足音を残して遠退き、暫し、「……あれ……? おかしいなこのへん……、これか……」と手探りに手桶を探して、湯を汲み取って浴びる音がする。
「今日私は、……早速と言うか何と言うか、君によくないところを見せてしまった」
掛け湯をした先輩は、またひとしきり手探りにバスタブの位置を確かめている様子である。真っ暗な中でお風呂に入るなんて、だいぶ危ないことをしていることは事実なのだが、先輩はどこかしら楽しんでいる気配もある。
「君を動揺させてしまったんではないかと、心配で仕方がなかった。……あらかじめトミチューに張らせていた協力者の少年から、彼女がいたという情報が届いたから、きちんと謝らないまま店を出てしまったんだけど」
「先輩はなにも……、謝らなきゃいけないことなんてしてません」
「君は優しいからそう言ってくれるけどね」
後輩くんは、なお立ち尽くしている。裸の先輩が、お湯に浸かっている。お湯の中から、
「後輩くんは、本当に入らないのかい?」
なんて訊いてくる。
先輩が男性であろうと女性であろうと。
これが今日のことであろうと明日のことであろうと、二人で名前を知らないまま過ごして十年を経た後のことであろうと。
「……入ります」
後輩くんは、そう答えるだろう。
「足元に気を付けて。君の歩幅で言うと、……いや待てよ、まずどっちがお風呂かは判るだろうね? タブレットの光を右に見て……。転んだら大変だから、ゆっくりおいで」
先輩に導かれて、手桶を掴む。何度掬ってもお湯が入らないと思ったら上下が逆になっていた。本当にこんなことするもんではない。
楕円形のお湯の中に、後輩くんは膝を抱えて入った。先輩は、真正面にいるようだ。後輩くんのように縮こまって膝を抱えているかどうかは、全く判然としない。
「……嫉妬をしてしまったんだよね」
後輩くんが先輩の位置を捉えるためには、その声の出どころを探る以外に方法はなく、そうなると後輩くんは先輩の声、言葉、そのものと向き合っている感覚になる。
先輩の形状が重要なのではないと解る。
「……何にですか」
暗闇の中で、同じお湯に浸かっている。後輩と先輩の体温はいま、同じになっている。先輩の小さな輪郭から心が熔け出し、後輩くんの中に染み込んでくるとして、少しも不思議ではない。
「君が、了と一緒に寝ていた、……という事実に直面して、ちょっと」
先輩は、少しもじもじとお湯の中で組み合わせた指を動かしているのではないだろうか。というのは、後輩くんが両の膝を抱えて組んだ指先を、落ち着きなくもじもじさせているから。
「私以外の誰かとでも、後輩くんはすやすや眠るんだって思って。……後輩くんがちょっとでも眠れたのならば、それはとてもいいことだ、私以外にも君を安らがせてくれる存在があるんだってことは、私にとっても喜ぶべきことなのにね。それからずっと……、今日、君が了や皐醒やミツルママと喋っているのを見ていて、……肺の中がちくちくして、胃がむずむずして、あと、頭皮がじわじわして……、待って、今のは無しだ、私ちゃんと毎日家を出る前にシャワーを浴びて頭を洗っているから……、あくまで感覚的な話だよ、でも……、そういう感覚に陥ってしまって……」
先輩の指の動きはまだ続いている。後輩くんは、ぴたりと止まっていた。
「……こんな私でいては、君に嫌われてしまうかもしれない。君に嫌われてしまうのはとてもいやなのに、君に嫌われてしまいかねない私になってしまったんだ」
同じ温度の中にいて、後輩くんはもう、鼻の頭に汗が滲み始めているのを自覚しているというのに、先輩がちっとも温かさを感じていないことは明らかだった。
「私の中に、私の知らない誰かがいるんだということを、私は今日初めて知った、私の護りたいと思うものを噛み千切ってしまいかねないものがいたんだ」
だって、その声は少し震えている。
「彼女を探している間、どれだけ君に謝りたいと思っただろう。君と、もう会えないんじゃないかと思って、怖かったんだ。君に嫌われてしまったんじゃないかって、そう思って。君をあの公園で見付けたとき、私がどんなに安心したか君は判らないだろう……」
まだ、握手をしたぐらいの人なのに、名前も知らない人なのに、後輩くんはこんなことを思ってしまった、……いとおしい、抱き締めてあげたい。こんなことを誰かに対して思うのは、二十歳の後輩くんには初めてのことだった。
それなのに、後輩の口から出てきたのはこんな言葉だった。
「……先輩は、ミツルママさんの真似がすごくお上手でした」
へらへらっと笑う顔を──どうせ見えないのに──形作って、組んだ両手をぎゅーっと握る。ほどけませんように、先輩に嫌われるリスクのあることは、一個もしないで済みますように。
先輩も、つられたように笑った。
「そう? 本当に?」
「ビックリしました。先輩は、いろんな声が出せますね」
「まあ、人よりは得意なほうかも知れない。ミツルママほどの迫力は出せなかったかもしれないが、彼女には性的マイノリティに対しての偏見が植え付けられているだろうからね……、あからさまにそういう対象から痛いところを突いてあげたほうが、こちらの思うように動いてくれるだろうかと、まあズル賢いことを考えたのさ」
「効果覿面だったと思います」
「そうかな。なら自信を持っていい?」
「先輩はいろんなとこ自信持っていいと思いますよ」
先輩の温度が、少しだけ戻る。後輩くんは恐るおそるほどいた手で湯を掬い取って顔を洗う。中寉さんも蒔田さんも美しい人だけど、後輩くんが心の底から可愛いって思えるのは、もう先輩しかいないのだ。それというのは、有華に蒔田さんが告げた言葉の正しさとはどう考えても矛盾するのだけれど、でも、どうやらはっきり本当のこと。
誰にも信じてもらえないかもしれない、けれど二人で事実だけを確認するならば、ものすごく久しぶりに後輩くんは夜の穏やかな眠りを満喫した。後輩くんが起きたとき、先輩も同時に起きて、お互い、いつもホテルでそうであるようにバスローブを身に纏ったまま眠って目覚めたのだ。
後輩くんはその朝、先輩の頭に寝癖が付いているところを初めて見た。先輩は手のひらで跳ねているところを抑えながら、こんなことを言った。
「……誰が見たって、誤解するだろうね」
そう言う顔が変わらず天使のように清純であると映るのだから、後輩くんだってそれは同じ。先輩と同じ布団で、きっと別々の夢を見て、でも仲良く(掛け布団の奪い合いなんてもちろんしないで)目を覚ました。そして、光の射し込むお風呂で、順番にお風呂に入った。
まだ名前も知らない、性別も、結局のところ判らなかった、でも後輩くんの大好きな人は、猪熊駅まで戻ってから、改札中のコーヒーショップで遅めの朝食を後輩くんにごちそうしてくれた。
そんな日曜日の朝の、別れ際の挨拶が、
「じゃあね、後輩くん、また明日」
であったことが、後輩くんの生きる世界にとって、どんなにか救いだろう。