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先輩はどっちか判らない、けど好き。  作者: 村岸健太
後輩くんは帰れない。
10/30

闇夜に這いずる

 それは、先輩であった。

 後輩くんはもし立ってその言葉を聴いていたら、腰を抜かしていたんではないか。であればこそ、ユカにすっ転ばされた状態であったことはむしろよかったと言うべきところであったかもしれない。

「ええ? 聴いてんのよ。アンタ、アタシの後輩くんに何してくれてんの?」

 声はいつもより低くて、ドスが効いている。しかし言葉ははっきりと女性のそれだ。

 ……難解だ!

 後輩くんは混乱に突き落とされた感覚である。もちろん、どうしてとっくに猪熊へ向かって帰ったはずの先輩がここにいるのかという点もそうなのだが、それ以上に、先輩みたいな人がそういうことしないでください、という類の混乱に後輩くんは苛まれているのである。

 そういうことっていうのはつまり……、余計どっちだかわかんなくなるようなことを!

 先輩、可愛くって、そうものすっごく可愛い人、性別のはっきりしない人。男性かもしれない女性かもしれない、後輩くんは出会って一ヶ月が経ったけれどいまだ読み取ることができない。顔からも輪郭からも声からも、極端なぐらいに性の特徴を覗かせないのが先輩なのだ。

 その上でいまの振る舞いは……。言葉は女性のものである。結構おてんばな感じの女の人が使う言葉をユカに向けて発している。けれど声は男性のものなのだ。先輩そこまで声低く出せるんですね知りませんでした、後輩くんはいろんなことが出来る先輩にまた改めて感服するのだ。男のものと捉えることへの躊躇いがいつもよりも半分以上減った硬い声は「イケボ」なんて言葉で表現してもいいのではあるまいか。一旦、そういう楔を噛ませた上で、球体がバウンドするように弾んで跳ね上がり、実際に聴き取れる声は普段の先輩のそれに近付いているのだが、しかし声の質が違う。弾んだときに球体に付着した「男」の絵の具が、高さを上げてもまだ残っていて、到底聴き逃すことなんてできない。

 そういう声で、はっきり女性的な言葉を放つとどうなるか。

 先輩の性別が、もう全く判らなくなってしまうのである。

 正直なところさっきまで後輩くんは先輩が男性か女性かどっちかにベットせよと言われたなら「女性」のほうにチップを置いていただろう。中寉さん、蒔田さん、共に可愛くって美しい男性たちだけれど、先輩とはちょっと違う。そして上之原さん白湯川さんとは明らかに違う。ということは女性であろうという消去法的判断として。

 しかし、いま再びまるで判らなくなってしまった。先輩は男性ではないか。男性でなかったらここまではっきりと、ミツルママのような人、つまり世間言うところの「オネエ」の振る舞いは出来ないのではないかという気がするのだ。女性っぽい振る舞いをして見せることでかえって男性的に見えてしまうというのも妙なものであるが、どうもそんな気がする。

 先輩を振り返ったユカの後頭部は明らかに戸惑っているのだった。ただ、その困惑は「先輩がどっちか判らない」からではなかった。

「ひ……、ヒセーサンシャ!」

 極めて汚い言葉だと、後輩くんでさえ思った。

 先輩の纏う空気が、すぅっと冷たくなったのが、一メートルほどの空気を隔てて後輩くんのところまで伝わってくる。

「……そんなひどい言葉を叩くのはどの口かしら」

「だって、ヒロが言ってたもん! 宿木橋のやつらは、ヒセーサン的で、あんなやつらと関わったら魂が汚れるって……、ヒロが言ってたもん!」

 どうやらヒロというのがユカの彼氏の名前であるらしい。いや、「彼氏」というよりは、思想教導をしている者と見たほうがいいかもしれないが。

「……大日氣弥益のところは、『家族』至上主義だもんねぇ。性的マイノリティは家族関係を崩壊させるもんだって習って来たんでしょ」

「そうだよ、だってそうじゃん!」

 ユカが噛みつく。先輩に向かって飛び付きそうな彼女のパーカーの裾を、今度は後輩くんが掴んだ。

「男同士とか、女同士とか、気持ち悪い。やったって何にもならないじゃん! 汚いし、病気になるし、家族にだってなれないんだよ」

「なれるよ」

「なれない!」

「なれる」

 押し問答、しかしがっぷり四ツに組んで、先輩は一歩も退かない。

「男同士だろうが女同士だろうが、人間はなりたいものになれる。二人が、あるいはそれ以上の数の人間が集って、何かになろうと思いを一つにしたとき、法や制度が整備される前であろうと……、もう既に、何かになっている」

 先輩の声だ、と思った。いまのはいつもの先輩の声だ。男性か女性か判らない、それを判断するとっかかりに乏しくて、滑らかに潤い美しく艶めいた先輩の声。

「ま、アンタみたいなお子ちゃまには判んないかしら?」

 あ、いまのはまた、男性の声だ。くるくると、表情さえも先輩は器用に変えている。男性、オネエ先輩の顔は、……こんな言いかたしちゃっていいのかな、と案じながらではあるが後輩くんは「あだっぽい」という言葉を用いたい。童顔に紅の光が射して、目元と口許がなんだか見つめているとぞくっとしてしまうぐらいセクシーに見える。

 先輩という人はきっと千変万化、これからいったい幾つの顔を見せてくれるのだろう。もう目を離すことなんか出来ないだろう。ああ、中寉さんも蒔田さんもミツルママもみんなそれぞれに違う個性を持って、後輩くんの心を惹き付けてやまないけれど、でも、先輩が好きだと後輩くんは思うのだ。先輩だけを見ていなきゃダメなんだ、そうでなければ「好き」と思う自分にだって正直でいられない!

 先輩は静かで冷たい目を、ユカに向けて注いでいた。冷たいけれど、決して攻撃的ではないと後輩くんは思う。先輩はこの少女に怒っているのではない、叱っているのだ。

 よく言われている通り、「怒る」と「叱る」は違う。後輩くんもそこに違いのあることについては同意するつもりである。怒る、とは個人的な感情の発露であり、他者がそれをどう受け止めるかというところまでは──少なくとも、その感情表現をしている段階では──充足の要件には入らない。一方で叱るという行為は他者の受容を期待して行われる。いまのケースであれば、先輩はユカという初対面の少女を前にして、自身の言葉が彼女の中の収まるべきところに収まることを期待している。

 後輩くんはまだ先輩に叱られたことがない。叱られるようなことはしていないと言い換えることも出来ようけれども。

 お子ちゃま、と軽んじられたユカが、また、ぐっと先輩に向けて前のめりになる。後輩くんは必死になってパーカーの裾を掴む。彼女の小さな身体に怒りの声を発するための力がぎゅうっと溜まるのが判った。誰からのものであれ、そんなものを正面から浴びせられたら堪らないと思ってしまうのが常人の感覚だろうし、後輩くんは常人の域を出ないので、きゅうっと身構える。

「バカにすんなぁ!」

 という甲高い怒鳴り声を、

「お黙り!」

 先輩は鋭い正拳突きのような声で、真正面から迎え打った。ユカがびくんと震えた。後輩くんも衝撃波を食らったみたいな気持ちだった。

「アンタのその舌、……薬をやってるわね」

 先輩は怖い声を出した。

 後輩くんは動揺する。舌、ユカの舌は、見たこともないぐらいに青かった。薬って、そういうことになってしまうものなのか。後輩くんは二浪したもので二十歳の大学一年生ではあるし、いろいろと苦労も多い人生を送っているけれど、いまのところまだ道を大きく外れることないもので、そういう方面には全く疎い。

「そんなの、アンタには関係ない!」

 ユカが反射のように金切り声を上げても、先輩は全く動じる気配はなかった。ポケットに手を入れて、肩を竦めて溜め息をひとつ。

「そうねぇ……、確かにアタシには関係ないわ。でも、アンタは、大日氣弥益の信者なんでしょ。アンタと『ヒロ』は大日氣弥益で繋がってるんでしょ。それなのに、アンタはそんな色の舌をしてて平気なの? アンタの大好きなヒロの前でも、アンタはそんな色の舌で紡いだ言葉を喋るの? 大日氣弥益は煙草が嫌い……、その理由、アンタは考えたこともないわけ?」

 確か、……悪魔の草を燻した煙を身体に取り入れる行為だから、だったっけ。それゆえに、大日氣弥益の信徒たちは喫煙を固く禁じているし、喫煙者のことは「喫煙邪」と呼び忌み嫌っている。

「アンタたちの宗教は、煙草は健康を害する、早死にする、だから家族を不幸にする、親不孝な行為だって。でも、アンタ自身がやってることってどうなの? アンタだって誰かの家族なのよ、それなのに、アンタは自分自身の身体をそうやって傷付けて平気なワケ?」

 思うに、「ヒロ」もユカが青い舌をしていることは承知しているはずなのだ。

 ヒロという男が、真に彼女を愛しているのであれば、そんな馬鹿な真似はするんじゃないと止めるのが本筋である。しかし彼女は一度だってそうされた経験はないのだろう。自分を愛していない男の言うなりに、日々こうしてトミチューを訪れる人間に勧誘行為を続けている。

「そんなガリガリに痩せて、薬やって。早いところ何とかしないと、アンタ、このままだと死ぬわよ」

 先輩は声のヴォリュームを落として、冷酷な宣告を下した。それは十代の少女にはあまりに苛烈な刃となって襲いかかる。後輩くんのほうが身を縮ませたくなってしまった。

 しかし、ユカはまだめげない。

「そんなの、みんなやってる、ここにいるみんなやってる」

「じゃあ、みんな揃っておッ死ぬのよ。自分の命を粗末にする馬鹿なこどもたちがいなくなるだけなら、誰も何とも思わないでしょうけどね。でも、……いいこと」

 先輩はポケットから両手を取り出して、前髪を掻き上げた。強さを持った目ではあるが、僅かばかり痛ましい悲しみのようなものが籠っていると思うのは気のせいではないはずだ。

「アンタたちみたいなガキでも、死んだら悲しむ人がいるってこと、忘れないで頂戴。人間は産まれてきたときから一人じゃないのよ、どんなに一人でいたいと思ったって、一人ではいられないもんなの。そんなことも判らないんなら、アンタは大日氣弥益どころかそこらへんの石ころだって拝む資格なんてありゃしないわ」

 極めて辛辣な言葉に、ユカがグッと退く力を働かせる。先輩にもそれが伝わったのだろう。

「アンタはアンタ自身と向き合わなきゃいけない。他の誰かとか、存在もしない神さまなんて拝む暇があるぐらいなら、自分自身と。でもそうするためにはまず何より、きちんとした栄養を摂ることよ。それからだって遅くはないわ」

 先輩はくるりと背中を向けて、

「後輩くん」

 相変わらずオネエの声で言う。

「その子連れて、付いていらっしゃい」

 連れて、って。こんな暴れん坊な子、どうやって。

 そう思ったのに、後輩くんの腰に跨がったままのユカは、痩せ過ぎた少女相応に、もはや羽毛のように軽かった。

「……あの……、えっと、ユカ……、さん?」

 後輩くんは恐るおそる声を掛けてみる。パーカーの裾から手を離しても、彼女はもう先輩に飛び掛かったりはしない。病的に細い手首を隠すように伸ばした袖で、自身の顔を覆い、声を殺して泣き始めた。

 これぐらいの女の子、……に限らず、人の涙というものへの耐性なんて十人並みのものしか備えていない後輩くんは途方に暮れるばかりであるが、先輩はどんどん先に進んでしまう。どこへ行こうというのか判らないけれど、周囲の視線もあることだし、いつまでもユカをお腹に乗せているのも妙である。

 だから後輩くんは、

「行こう。……ね、先輩に任せておけば、何でも悪いようにはならないから」

 と彼女を抱え起こす。少女の身体に触るなんてものすごく不馴れだし恐ろしいことだと思ったけれど、それ以上に恐ろしくてたまらなかったのは、パーカーごしに感じるユカの肩から腕にかけてが、いまにも壊れてしまいそうなぐらいに細いことだった。





 ユカのことを支えてやりながら先輩の後を随いて歩いて、再び宿木橋界隈まで戻ってきた後輩くんだった。さっきの先輩とユカとのやり取りで、ようやく後輩くんもこの街がどういう場所であるか、ここにいる男性の皆さんがどういう人たちであるかを理解したが、後輩くんは「そうか」と思うばかりである。そうか、というか、そうだったのか、と。

 中寉さんも蒔田さんも、とても美しい、そして愛くるしい。なるほどな……、と自分がどこまで理解できているかどうかは判然としないくせに、そんな言葉を呟きながら顎を触りたいような気持ちだった。

 ユカは宿木橋界隈に入ってからあからさまに緊張、というか、恐怖を覚えているようだった。大日氣弥益の信者からすればこの街は言わば禁断の地であるのだろうから。

「アンタも」

 尖った声を、ユカは向けてきた。「アンタも、ここにいるやつらと同じなの」

 あんまりそういう失礼な言いかたしないほうがいいよ、と後輩くんは思ったけれど、黙っていた。まず、どんな言葉で返すのが本当か、判らないので。

 だって後輩くんだって同性愛者かもしれないのだ。

 少なくとも、そうであるかもしれないことを後輩くんは否定できない。後輩くんは後輩くんの先輩の性別が判らないまま好きになってしまった、ということはつまり、先輩の性別が自分と同じであったとして、だからどうしたぐらいの気持ちでいるということだ。先輩の側がそれに対してどこまで寛容か──中寉さんをはじめとするご友人がそうであることを容認するというレベルなのか、それともご自身がそうなることさえ受け容れられるのか──判然としないが、不自然なことであるとか非生産的であるとか、赤の他人がまた別の人間の群れに向けて言うことは正しくない。わざわざ後輩くんが言うまでもないことである。

 人間は生きものであり、生命の拡大再生産を行うことがDNAに組み込まれている。多くの人がその抗いようのない指令に従うことで、異性に惹かれ、こどもを作る。社会の成立のためには一定程度そうした指令に対して従順な人間がいないといけない。

 人間以外にも同性愛をする生物がいて、しかしその生物が絶滅していないことからしても妥当だろうし、逆に言えば一定程度同性愛者がいたぐらいでは社会を成り立たせるために何の問題にもならないことを意味している。

 にも関わらず同性愛に対して寛容であることを、社会成立のための障害のように言う人がいるならば、それは何か別の理由があると見ていいし、理由があろうと差別的な態度であるという指摘は甘受しなければならないだろう。少なくとも同性愛者にこの国よりもずっと寛容な国々においては人口減の傾向は見られない一方で、いまだ同性同士の婚姻を認めないこの国においていびつな人口ピラミッドが築き上げられている以上、同性愛者の存在は社会の成立の障害にはなり得ないことは明らかだからだ。

 ユカももう、後輩くんから答えは帰ってこないものと諦めかけていたのではあるまいかというぐらいに長い沈黙の末に、後輩くんは口を開いた。

「そうだったとして、何か問題があるかい?」

 周囲が、今日もう三回ぐらい見たな、という景色になった。もう夜十時半を回っているが、通りはますます元気が溢れている。誰になんと言われようと知ったこっちゃないと、命を燃やして生きる人たちは健全である。彼らは少なくとも自身とパートナーのことぐらいは幸せにして生きていくぞという、明るい花を咲かせている。その命の煌めきを、誰であれ否定なんて出来ないはずだ。

「君だって、いつかそうなるかもしれない」

「なるわけない」

「そうかな。……君がいつからこういう暮らしをしてるのか知らないけど、いまの君みたいな君になることを想像していた? 望んでいた? いい意味でも悪い意味でも、人はみんな『こんなはずじゃなかった』って思いながら生きてるんだよ」

 ユカは黙り込んだ。

 これは後輩くんが後から知ることになるのであるが、大日氣弥益を信じる者たちは、同性愛に対して極めて差別的な言動を繰り返している。またそうした発言をする政治家が実は選挙のときに大日氣弥益から支援を受けていたというケースもあるという。

 彼らにとって最も大事なのは「家族」である。さっきユカが、恐らくはヒロの受け売りなのだろうけれど、同性愛者は家庭を作ることが出来ないと指摘した。大日氣弥益の信徒たちにとってそれが重要なのは、彼らの信徒拡大が家庭に染み込む形で行われている点が大きい。一人ひとり地道に増やしていくよりは、世帯単位で浸透させていったほうが効率的である。その考えに基づくと「日輪山」のようなサークルは一見非効率的だが、入信させた学生が実家に帰った際、親兄弟を勧誘するための教育を施しそれが成功することを期待するなら、コストパフォーマンスは悪くない。

 しかし、そう考えると家庭からはぐれたユカみたいな存在を勧誘する意図は? 後輩くんはあくまで常識的な考えかたしか出来ないもので、ファナティックのアイディアまで想像することは難しいのだった。

「……ところで、後輩くん」

 長らく前を歩いていた先輩が、先輩らしい声になって振り返った。同じ人から発される声がこうまで極端に違うのを目の当たりにしたなら、「なんじゃこりゃ」というリアクションをすることはそうおかしくはない。たまたまそこにあるものだからと後輩くんの背中に隠れたユカを責めることは出来ないだろう。

「君はなぜあんなところにいたのだろう」

 それは、僕のほうが訊きたいものだと思った。

「冨緑駅とは方向が違うし、あのあたりは君には似合わない」

 そんな場所に、どうして先輩が現れたのか、と。後輩くんが答えあぐねているうちに、先輩の足は止まった。再びオネエさんになって、

「お入り」

 と手を掛けたのは、「緑の兎」のドアだった。ユカはなぜ自分が「こんな店」に連れて来られたのかまるで判るまい、ただ、後輩くんは少し察しが付いた。先輩がさっきこの痩せた少女に言ったことを思えば、もはや自明と言ってもいい。

「おや」

 と声を発したのは中寉さん。蒔田さんもいる。上之原さんも帰って来ていて、代わりに白湯川さんとミツルママはもう帰ってしまったらしい。お客さんはいなくて、中寉さんと蒔田さんはカウンターでスマートフォンのゲームをやっているところだった。

「了、悪いけどこの子にごはんを作ってあげてくれるかな」

「それは構いませんが、……どなたです? 未成年ですよね。こんな時間に」

 先輩はふーっと長く溜め息を吐いて、

「依頼人のお嬢さんだ」

 ユカの肩に手を回して言った。

 ユカが反射的に逃げを打とうとする。後輩くんもいま初めて先輩があの場所に現れた理由を察したばかりだが、自身の為すべきことは理解できていた。しっかりと彼女を掴まえて、離さない。あまりにも華奢で、いまにも壊れてしまいそうな少女の身体だった。





 ユカ、本名は天沢有華と言うのだそうだ。年齢は、ひょっとしたら中学生かもと思ったが十七歳。つまりそれだけ栄養状態が悪かったということだ。

 有華が家を出たのは二ヶ月半ほど前の九月頭だったという。

 有華は中寉さんの作った具だくさんのお味噌汁をゆっくり時間をかけて食べ終えたあと、声もなくぽろぽろと涙をこぼし始めた。もうすっかりお化粧も落ちて、あどけない顔が隠せない。

 学校に行きたくない、というのが最初の切っ掛けだったそうである。

 大学一年生の後輩くんではあるが、高校二年生のころというのはもう三年も前のことになってしまう。それでも、まだ有華に共感できる部分は後輩くんの中に息づいていた。

 彼女は夏休み明けの実力テストで悲観的な点を取ってしまったのだ。

 もとより彼女は大学進学を前向きには考えていなかった。将来の夢があったし、ラクロスをやっていたんだそうであるが、部活にも非常に熱意を持って臨んでいた。いまの姿からは考えられないぐらいのいい子であるが、有華のご両親はそうは思わなかった。遊んでばっかりいて、真面目に勉強しない子……、というのが彼女に与えられた評価だったようだ。

 無論、こうした例は枚挙に暇がない。

 後輩くんも中学のときには漫画が大好きで、自分もいつかは漫画家になりたいと絵の勉強に本腰を入れ掛けた時期があるのだが、お父さんとお母さんにはただただ「くだらない」という言葉でしか評されなかった。きっと、その言葉に心を折られることなく真面目一徹に邁進出来る人が夢を叶えられるのであろうし、そうでなかったとしても一応勉強をきちんとやれば──そして、後輩くんぐらい困ったうっかりさんでなければ──大きく道を出外れることにはならない仕組みが、この国にはある。

 有華が恐る恐る提出した試験結果は、有華の思っていた以上の苛烈な言葉をご両親から投げ付けられる結果になったのだという。それというのも、ご両親は有華に相当な期待を注いでいたから。有華は一人っ子で、有華の言葉を借りるなら「カスッカスのところから産まれてきた」という、ご両親とも後輩くんの両親よりも十個以上歳上、心から望まれて願われてこの世に生を享けたのが有華という少女だったのだ。その事実と現状を関連付けるつもりは後輩くんにはなかったが、ご両親は幼いころから相当に厳しい教育を有華に対して施してきたのだそうだ。有華にどんな意図があろうと、お父さんとお母さんが認めたことでなければ許さない、学校もそうで、小学校こそ公立だったものの、中学高校はいずれも有華の志望は汲まれずご両親の命じるところを受験し、……結果的に成績は有華曰く「落ちこぼれ」になってしまった。

 抑圧の力が強ければ強いほど、人の反発の力は強く激しいものとなる。人は流体として型に填まってそのまま成長出来るものではないのだ。教育は、四角いスイカであれと命じるものとなった瞬間に人権侵害の側面を持ちうる。

 有華は両親から苛烈な言葉を、

「言葉だけじゃなかった」

 ……ぶつけられた翌日、学校へ行く振りをして家を出た。

「両親は、さ。うちの、両親は、年寄りだから。だから、アタシがちゃんと、働いて、養ってかなきゃいけないって。アタシが、ちゃんと、働いて、両親の選んだ、認めた、許した男と結婚して、そうしなきゃ、そうできなきゃアタシはクズだってさ。でも、出来るわけないじゃん、そんなの、アタシ、無理って思って。だったら、さ、だったら、どうせ無理なんだったら、もう、なんも知らないって」

 トミチューの話は噂には聴いていた。自分には全く無縁だと思っていた場所は、思いのほか優しく彼女を受け入れてくれたそうだ。

 最初に声を掛けてくれたのが、ヒロ。

 名字は?

「知らない」

 本名かどうかも判らないが、彼は有華に食事を与え、自身の住むアパートに連れて行ったという。

 それは、どんな場所?

「どんな……? なんか、普通のアパートみたいな……。でも、櫻木山会館って書いてあった」

 彼女に問い掛けているのは先輩であるが、ここで先輩と後輩くんは思わず顔を見合わせてしまった。

 猪熊沼のほとりで「日輪山」の藤村菊地の急襲を受けた際、藤村の口から出た言葉の中に「櫻木山合宿を敢行する」……というものがあったことを、先輩はもちろん後輩くんだってちゃんと覚えていた。

「そこの人たちの中で、ヒロは、若いほうだった。だけど、『地区長』って呼ばれてて、みんなに尊敬されてたんだ。アタシ以外にも、アタシと同じぐらいの女子もいたし、あと大学生みたいなのも、おじさんもおばさんもいたよ。みんなそこで暮らしてて……。どんなこと? ……どんなことって? 変なことなんてされてないよ。ただ、よくわかんないお経みたいなのを、一日に二回、一時間ずつ唱えて……」

 地区長。ここでまた、先輩と後輩くんは顔を見合わせた。カウンターの中では中寉さんが柿を剥いている。

「ここで暮らしていいから、代わりに仕事をしなきゃいけないって言われた。……そう。友達を作って、連れて来なさいってヒロは言ったんだ。そうしたら、ずっとずっとここにいていいよって」

 ここにいろ、ではない、「いていいよ」なのだ。命令だと未成年者略取、しかし有華自身の判断に基づくならば。両親から自身の判断が尊重されたことのない有華にとって、自身の努力によって自身の居場所を掴むという体験はさぞかし甘美なものであったことだろう。有華はなりふり構わず勧誘活動に取り組んだ、トミチュー周辺の人々に片っ端から声をかけ、……根っこが真面目な子なのだろう、結果的に、酷い目に遭ったことは一度や二度ではなかったはずだ。

「でも、頑張れば、ヒロに褒めてもらえる」

 それだけが彼女の支えだったのだ。両親からそれを享けられないと知ったとき、彼女はもう、ヒロからの褒め言葉を愛情と解釈して、ひたすらにそれを求めてトミチュー界隈をさ迷い歩いた。薬との邂逅は、なかなか結果を出せないプレッシャーから逃避するためだったそうだ。

「……ふつーに、売ってるやつ」

 後輩くんも最も不眠に悩んでいた時期に購入を検討したことがある、睡眠改善薬。トミチュー界隈では「ミンザイ」なんて略称で呼ばれているのだそうだが、濡れた目を拭くためにタオルを取り出すために開いた彼女の鞄の中には、そのパッケージが少なくとも四つ五つは入っているのだった。ほかにも、風邪薬らしきものの瓶なども。

 医薬品は本来とは異なる使いかたをしてはいけない。薬という言葉をひっくり返してはいけない、なんて言い回しを持ってくるまでもなく、薬は本来身体にとって異物であるから、みだりに身体に取り入れるべきではないのである。そういう知識が備わっていたから、後輩くんは睡眠改善薬を購入することには抵抗があって、結局買わなかった。

「通常、ドラッグストアでそういうものをまとめて買うことは出来ないはずですね」

 中寉さんが剥いた柿にピックを刺して三人の前に並べる。中寉さんも先輩に負けず劣らず博識だ。

「へー、そうなの?」

 これは蒔田さん。横から手を伸ばして柿をひょいぱく。

「風邪薬などは、特別な理由がなければ一人一点という制限がかかっているはずです。夏に僕と皐醒がいっせーのせで風邪をひいたときに、マスターがまとめて薬買いに行ったとき、結局一個しか買えなかったことがあったでしょう」

 マスター、上之原さんは少し離れたところで黙ってグラスを拭いていた。

「だから、ひとつの店じゃなくて、あっちこっち歩き回って……。あと、それ売りに来る人もいた」

 有華が答える。

「売りに来る人?」

「バイニン、って言ってた。お店で買うより、全然安い」

 ユカたち「トミチューキッズ」はそうして手に入れた一般用の医薬品、主に眠気を催す作用のある睡眠改善薬や風邪薬、咳止めなどをいちどきにとんでもない量、服用する。そうすると、まあ後輩くんはあまり想像したくないし知りたくもないのだが、ある種の「パキッた」「キマッた」状況になるのだそうで……。

 常識的な判断力が機能すれば、そんなこと絶対にしないはずだ。

「煙草のほうがまだ多少はマシではないかな」

 先輩が眉間を抑えて嘆息した。言葉遣いがもう、いつもの先輩に戻っている。

「……その腕の傷は?」

 憂鬱そうに、蒔田さんが問うた。

「俺もさ、有華ちゃんぐらいのとき、いじめられててさ。そんで、自殺考えたことはあるよ。でも、死ななかった。痛いの嫌だし、死体になるのって、ぐちゃぐちゃになるのって、つらくない?」

 有華は首を振った。

「あんま、覚えてない」

「おおかた、薬で前後不覚になっているときにしているのだろうな。致命的な事態になっていなかったことは不幸中の幸いだ。とはいえ、あちこちの臓器にどれほどのダメージが蓄積しているか判ったものではない……」

 先輩は柿には手を伸ばさず、一度椅子から降りた。

「家には帰んない。アタシはヒロと一緒にいる」

 ごく暗い声で、有華は言った。そう宣したからと言って、彼女の願いが叶うことなどない。しかし宣すれば、ヒロに殉じたことになる。

「……私の勤める事務所に、君のお母さんから依頼があったのは、昨日のことだよ」

 先輩はそう言ってから、カウンターから離れた。どこへ行くのかと思ったら、灰皿を持って一番遠い席に座り、煙草を吸い始める。有華はどんなにかすごい目をして睨むのだろうと思ったが、彼女は憑きものの落ちたような顔で遠い先輩を見ているばかりだ。

「……今日日、君らぐらいの年齢の子が行くところなんてそう多くはないだろう。トミチュー界隈にいるのだろうなと思って、まあ、今日の場合はついでの用事もあったし、探していればそのうち見付かるだろうと思っていた。この店を出たあと、公園でたむろしている少年少女に声を掛けてみたら、君が繰り返し現れていることはすぐに判ったので、現れたら連絡をくれるよう伝えておいたんだ。予想通り連絡はすぐ入ったよ、……後輩くんが一緒だったのは全くの想定外だったがね」

 ひょっとしたら後輩くんが取っ捕まるのを待つまでもなく、先輩が一人で佇んでいたならそれだけで有華に声を掛けられていたかもしれない。後輩くんより先輩のほうが、ずっと彼女と同世代に見えるから。

 それはさておき、である。

 後輩くんとしては、先輩が何か不機嫌になったりへそを曲げたりして独りで先に帰ってしまったのではなかったことが判って一安心である。先輩は、アルバイトとはいえプロの探偵さんなのだ、仕事のことが頭にあったら、沈黙し思考に耽る時間があったって仕方がないではないか……。

 いや、それはさておき、なのである。

 有華が家出をしたのは二ヶ月半も前のことだと言っていた。それなのに先輩の勤める事務所に依頼が入ったのは昨日。後輩くんは人の親になったことがないし、自分の両親を見ていても、「親」なるものの思考回路はほとんど理解できないということだけ判明している。でも、なんというかそれにしたって、とは思うのだ。

 まだ十七歳の一人娘が家出をして、二ヶ月半もの長い間放置する親なんているものだろうか?

 先輩は憂鬱そうな顔で紫煙を吹き上げた。探偵にはバーが似合う。小さな先輩であっても、探偵である以上、バーと煙草が似合うのだった。暗がりに座って、後輩くんは先輩が痛ましさを堪えるように目を伏せるのを見た。

 親御さんに二ヶ月半も放置されていた少女というだけで、後輩くんの胸も締め付けられるぐらいに痛む。先輩が苦悩するのは、彼女が「ヒロ」の庇護のもと、櫻木山なる場所で暮らしていたほうがマシなぐらいの現実が待ち構えているのかもしれない。

 親に捨てられた娘。後輩くんは隣に座る有華の中へ、二ヶ月半に渡って探されなかったという事実が冷たく染み込んでいく様子を見た気がした。

 先輩が煙草を灰皿に潰す。しばらくは、自身が煙草のにおいを纏っているという自覚があるからだろう、ソファに腰を下ろしたまま動かなかった。

「君が、『地区長のヒロ』なる人物のところに戻ると言うのなら、それはそのまま、依頼人である君のお母さまにお伝えすることになる」

 依頼人はお母さんだけなのか、と後輩くんはちょっと意外な気がした。むしろ男親のほうがテンパって駆かずり回りそうなものだけど。お父さんはなぜ動かなかったのだろう? ひょっとして、世間体的なものを気にする人なのだろうか?

 それとも……。

 先輩がついさっき言ったことを思い出す。

 ──今日日、君らぐらいの年齢の子が行くところなんてそう多くはないだろう。トミチュー界隈にいるのだろうなと思って──

「でも」

 後輩くんの中でじわじわと、とても冷たくて嫌な感触の考えが形を成し始めた。

 聡明な先輩のことだ。後輩くんが思ったようなことに、もう気付いているのではないか。あるいは、今日、どこかでこの仮説が正しいことを、既に確認した後なのではないか……。

「それは、今すぐにでなくても出来ることだ。君が本気で彼のために、大日氣弥益の信徒となる道を選ぶと言うのであれば、それはきちんと段取りを踏んでからでも遅くはない。家に帰り、きちんとご両親に事情を説明したまえ、……必要なら、私は私の個人的な意見を封印した上で君の力となろう。だがね、……それは別に、急ぐことではないと思うんだ。……マスター」

 不意に話頭を向けられた上之原さん、その瞬間には、長身の背中を丸めてノートパソコンの画面を覗き込んでいた。話を聴いていたのかどうなのか判らないが、ちょっと意外そうに「なに」と顔を向ける。

「彼女が仮にそれを望んだ場合、彼女をこの店のアルバイトとして雇ってあげることは可能ですか」

「はぁ?」

 いまのは有華の声だが、後輩くんもビックリした。後輩くんが──恐らく、先輩も既に──想定した懸念があるなら、彼女をこの街に置くなんて最もリスキーだ。

 上之原さんの返答よりも先に、

「どうせ僕、大学がありますからね。来年春に卒業できればいいんですけど、そういうわけにも行かない気がしています」

 中寉さんが言葉を挟んだ。

「了、亀沢さんみたくなっちゃうよ。あ、亀沢さんって王子様部の永世名誉部長ね」

 蒔田さんが茶々を入れる。あの、あんまり長く王子様を続けてしまったせいで、学業が疎かになり、留年を繰り返してしまったという伝説の人である。

「ちょっと……、ちょっと待ってよ、何勝手なこと言ってんの? 意味わかんないんだけど」

「そう? 俺判るけど。あ、柿もう一個剥くけど食べる?」

「僕食べます」

「じゃー剥くね。……っと危ない名前言いそうになった。そう、探偵のファルヴィイが言ってるのはね……」

 中寉さんも蒔田さんもごくマイペース、そして二人とも同性愛者だということがもう判明しているけれど、それがどうしたという感覚に、もう後輩くんはなっている。見ていて目が癒されるぐらいに、二人とも美しい。

「宗教やんのなんていつでも出来るけど、宗教と結婚しちゃったら一生それっきりだよってことだよね?」

 遠くで、先輩が頷く。

「その、……ヒロ? って男がどんな顔してるやつか知らないけどさ、そいつ、俺とか了とかより顔いいの?」

 蒔田さん、本気の目をして訊いている。

 有華が呆気に取られた。中寉さんは蒔田さんの剥いた柿をひょいぱくと食べて、顔をしかめ、口の中に残った皮をぺっと吐き出す。

「代わってください、僕が剥きます」

「そう? じゃあよろしく」

「あと、君みたいな顔面の人と僕を同列に扱わないでいただけますか。僕は立つ瀬を探す時間があったらもっと別なことに時間を割きたいです」

 後輩くんに言わせれば、中寉さんと蒔田さんはタイプこそ違えどいずれ劣らぬ美青年である。

 有華はドン引きもいいところであるが、同時に、一瞬でも蒔田さんの問いの答えを検討してしまったことを恥じて悔いているようでもある。美しいことはすべてではないが、美しいことには確かに価値がある……、中寉さんと蒔田さんは、そんなことを力づくで納得させてくるような顔面をお持ちでいらっしゃるので。

「世の中にはねぇ、有華ちゃんがまだ出会ってない、もっといい男がいっぱいいるかもしれないよ? ねぇ?」

 後輩くんに同意を求める。後輩くんは曖昧に頷くようなそぶりを見せるぐらいしか出来なかった。

 有華は、……しばらく黙り込んでいた。彼女の中でいまこの瞬間、どういう考えが、どんなスピードで回り巡っているのかは、後輩くんには全く想像も付かない。ただ、考えに沈んだ彼女に、煙草のにおいが届かない程度の距離まで先輩が近付いた。

「……君のお母さんからは、『無事かどうかを知りたい』としか言われていない。君の無事を、……無事と言っていいのかは意見が分かれそうなところだがひとまず生存していることを伝えられたなら、私の仕事はおしまいということになる。とはいえ……」

 先輩はポケットに手を突っ込んで、後輩くんを見た。

 後輩くんは自分がどんな表情を浮かべているか自覚はなかったけれど、ひょっとしたら、いまの先輩と同じぐらいにつらそうな顔をしていたかもしれない。

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