遠回りの果ての果て
当然のことながら……。
その人物には、名前がきちんとあるのだ。
なので、学生証には不景気な写真とともに漢字五文字の名前が載っているのだけれど、ひとまず「後輩くん」と呼ぶことにしよう。
後輩くんは、いささか地味な顔立ちを更に覆うように前髪を長くおでこに垂らしている。身長は百六十五センチであり、太っても痩せてもおらず、目立たない。着ている薄手のセーターはくすんだグレーであり、これは一枚二千円。
毎日二回シャワーを浴びるし、きちんも歯を磨いているので衛生的には何ら問題のない人物であって、先述のセーターにも毛玉はまだ付いていない。とはいえ人の目に留まることがあまりないので、清潔感があったところで加点材料として用いられることがない、そんな人物である。
九隅大学の文学部一年生、年齢は、本人も別に隠すつもりもないのだが、年末で二十一歳になる。つまり、二浪して大学生となったわけだが、籍を置いているのが九隅大学であることを考えれば、何であれ入ったことに価値がある。
つまり、容姿は目立たず、しかしなかなかの学力が備わった人物がこの「後輩くん」である。いま、九隅大学文学部キャンパス一号館の屋上の、薄水色に褪色したベンチに腰掛け、よく晴れた十月の日差しを右の頬に受けながらうたたねをしている人物である。
もうまもなくこの場所に、もう一人の人物がやって来る。
実はその人こそが、いま、夢が不意に暗いほうへと転じたのか「うぅん……」と唸った人物に「後輩くん」という渾名を授けることになる。
後輩くんは、後輩くんと呼ばれて気分が良かったので、後輩くんと呼ばれたい。なので、一貫して「後輩くん」で在り続けると決めたのだ。
当然のことながら。
後輩くんは自分に渾名を付けてくれた人物のことを、「先輩」と呼ぶのである。
○
「君。……ねぇ君。こんなところで寝ていては風邪をひいてしまうよ。あと、一個しかないベンチを独り占めするのはあまり感心しないな。ねぇ、君」
相反する二つの要素を提示されると、人間というものは、こんなふうにぼうっとしてしまうものなのだ。「後輩くん」は事実として、目を開けた自分の顔に日陰を作って覗き込んでいる人の持つ、いくつもの二つ一組の要素を同時に提示されて、寝起きだからと言い訳をするには長い時間、言葉からはぐれてしまったのである。
例えば、まず、……そう、人間なのかそうでないのか。
その人は真っ黒い髪に、黒いタートルネックの長袖、黒いスキニージーンズという服を着た人間なのか、それとも黒猫なのかという、まだ夢の続きにあるような幻想的な選択。さすがにこれは「人間である」もしくは「黒猫の擬人化である」という合理的な解釈をするに至った。
ショートボブ、という形容でいいはずの黒髪でサイドは少し長め。整髪料の類は一切付けていないようで、髪先からサラサラという音が聴こえてくるようだ。
後輩くんの緩慢な覚醒を察知して、その人物は丸めていた背中を伸ばした。小柄で、身体の薄い人である。
「滅多にないことだよ、この喫煙所に私以外の誰かが来るのは。しかし君は煙草を吸いに来たのではないようだね。一限の終わりに私が吸った一本きり、灰皿の中には落ちていないから」
高く澄んで滑らかな潤いを帯びた声であるが……。
「君は一年生かな。昼寝の場所を探して、ここへ迷い込んだんだろう。違うかい?」
この人は、どっちだろう?
凛々しさを感じさせるツリ目をしている。左目に涙ぼくろがある。淑やかさを感じさせる長い睫毛だが、メイクをしているようには見えない、……いや、その白い肌も淡い紅の唇も、ものすごーく上手に作り上げたものなのかもしれないが、後輩くんには判別しかねた。
骨格は細いが、柔らかさには乏しく、喉は隠れていて、その他、特徴が顕れる場所を視線で浚って答えを出すという真似は出来かねたので、そう、とどのつまり後輩くんは、自分を起こしたこの人が、男なのか女なのか、まったくもって判らない。煙草を吸いに来たと言ったが、しかし大人なのかこどもなのかも判らない。やっぱり黒猫なのかもしれない。
「いち……、一年生です」
ふむ、と彼もしくは彼女は、いや、
「そうか。では君は、『後輩くん』だね」
先輩は、知性を感じさせる笑みを浮かべて言って、ベンチの座面に目を向けた。
「座ってもいいかな」
「あ……、はい……、すみません……」
先輩は背負っていたリュックサックを膝に置き、ジーンズのお尻ポケットから煙草とライターを取り出し、「吸っても構わない?」と訊いた。先輩は後輩くんが頷くまで待ってから、咥えて火を点けた。先輩が成人しているのなら、それは先輩の有する正当な権利である。
細くて綺麗な指に、白い煙草が挟まり、唇が吸った。少しの余白を挟んで、……紫煙を空に向けて吐き出す。
流麗な仕草の一サイクルを見てもまだ、後輩くんはこの人が少なくとも自分と同じかそれ以上の年齢であるらしいことが、なかなか信じられなくって困った。
「で……、君はなぜここに?」
後輩くんに煙が掛からないように顔を背けた先輩は、しかし言葉だけはこちらにきちんと寄越した。とても整頓された言葉を紡ぐひとだ、と後輩くんは少しく感動する。なおかつこの先輩の声は、なんとも抑制が効いていて耳に心地よい。高いが、金属的ではなく、低いけれど、暑苦しい厚みはない。
男性の声であれ、女性の声であれ、ここまで清らかな響きを持つ声というのはなかなかない気がする。耳が癒される、いつまででも聴いていられる、そんな稀有な声だ。
というのも、後輩くんはこのところ、耳ざわりな音に悩まされていたので。
であればこそ、この先輩の声に耳を傾けている時間には、寝不足でずっと重たい胃腑が僅かばかり軽くなるような心持ちがする。
「君はどうやら私や他の、この場所に寄り付く人間のような、哀しい喫煙者ではないようだね。にも関わらず、わざわざ地上五階までえっちらおっちら階段を上がるという苦行の末にここまでやって来るメリットと言えば、……このとおり、ひとけがなくて、つまり静かで、しかもこの季節は爽やかな風が吹き渡り、なおかつ今日は天気がよくてぽかぽかしていて、つまり日向ぼっこから昼寝に至ることを考えたとき最適な場所であるという点ぐらいしか思い浮かばないのだが」
先輩の、淡々としていながら、どこかしら面白がっているような、……じんわりとこちらに向く興味のあることを決して隠そうとはしないもの言いが、後輩くんには却って心地よかった。好意に基づく気遣いは重たいお節介と捉えてしまいそうな気分である、……そういうものを向けてくれる人に愚痴はこぼしづらいものだから、軽くいなしてもらえたほうがありがたい。
「はい、ご指摘の通りです。僕は眠りたくて、ここに来ました」
「では、起こしてしまったのはまずかったかな」
いえ、と後輩くんは首を振った。
「もし誰もここへ来なかったら、僕は夜まで眠りこけていたと思います。夕方ぐらいにはきっとそこの、階段室のドアに鍵を掛けられてしまうでしょう」
「そう言ってもらえるなら、私は安心していいのだろうね」
「先輩のおかげで寒さに凍えずに済みました」
九隅大学の文学部キャンパスのある猪熊という地域は、北からカラッ風が吹き込む地形になっていて、十月でも朝晩は上着が要るほどまで気温が下がるので、後輩くんの謝辞はあながち大袈裟とも言い切れないのである。
「しかし、十五分程度のうたたねならこのベンチでもよかろうけれど、本格的に寝入るためには少々窮屈なのではないかな。……君は自分のおうちでゆっくり眠れない事情があるのかい?」
先輩は煙草を灰皿に潰して訊いた。
この人はいま、暇なのだろうか。僕が思うままに言葉を転がしていくことに、時間を設けてくれるのだろうか……。
後輩くんがそう懸念したことを察知したのだろうか? 先輩は少しの風がご自身の前髪で遊ぶのを許して、後輩くんに細いながらも凛々しい角度の眉を見せてくれながら、
「構わないよ、煙草を吸ったら帰るつもりでいた。それより、君はいいの? もう三限が始まる時間だよ」
少しだけ、腰が浮きかけた。けれど、後輩くんは立ち上がることを選ばなかった。後輩くんの中で気持ちが固まったことが判ったのだろう。
「ちょっと待っていたまえ」
先輩はそう言い残して立ち上がると、軽やかな小走りで階段室の裏手へと回る。戻ってきたとき、先輩の手には缶コーヒーが二つあった。初めてここに来た後輩くんは気付いていなかったが、自動販売機があったらしい。
「何かの縁だ、ごちそうしてあげよう」
○
私学文系の雄……。
という異名が、この九隅大学にはある。
とりわけ国文学科は研究者や教育者、文筆家のみならず、政治家も多く輩出しており、短命に終わったとはいえこの五十年で二人の総理経験者がいることが自慢の名門、……しかしキャンパス自体は都心から電車で五十分、車窓に緑が増えてきたなあ、でもでかい団地がたくさんあるなぁ、大きな駐車場を擁するスーパーや家電量販店も見えるなあ、なんていう猪熊駅から徒歩十分というところ。多くの学生が近隣のアパートマンションに部屋を借り、都心に出るのが少々不便であるもので、都市の誘惑に晒されないで済むがゆえに、優秀な人材を輩出している可能性は少なくない。
後輩くんは二浪の末にこの大学に籍を置くこととなった。出身は赤州の合戸(これで「ごうべ」と読む)というところで、方言がきつい以外はそれほど特色のある場所ではないが、後輩くんはこの赤州で有数の進学校とされる県立赤州高校で優秀な成績を修めている。にも関わらず、後輩くんが九隅大学の門を潜るまでに二年もの余計な時間を要したのはなぜであるか。
多種多様な不幸が後輩くんを襲ったからである。
多様性を尊重しなければいけないご時世ではあるが、不幸のバリエーションにまで丁寧な対応が求められるなんて聴いていなかった。
最初の受験の年というのがおととしである。二年前というと、二〇二一年、ということはまあ敢えて言うまでもないことだが、例の新型ウイルスが猛威を奮っていたころである。緊急事態宣言が発令されたと思ったら、それが解除されて、でもまた感染者数が増えてきたので緊急事態宣言が発令されて、合間には蔓延防止等なんちゃらも出て、とにかくもうこの国のみならず世界中が、いやでもやっぱり特にこの国が、危地における対応力のなさを露呈し、みっともないヘルタースケルターっぷりを大いに見せびらかしていたころである。
当時受験生であった後輩くんは指先がぼろぼろになるぐらいに手洗い消毒を励行、家の中でもマスクを着用、そもそも学校以外には表にも出ず、同居する家族以外と顔を合わせることも稀という鉄壁の防御態勢を敷いて受験の前々日を迎えていた。九隅大学があるのは東京だから、受験のためには前日には上京していなければならぬ。その支度を整えて、もちろん受験票もしっかり準備して、あとは明日の朝の出発を待つばかりというタイミング。
……で、通りを挟んだ向かいの家が小火を出した。
八十代の夫婦が二人で仲睦まじく暮らしていた家から黒煙が上がっていることに気付いたのは、換気のために開けていた窓を寝る前に閉めようと机から立ち上がってカーテンを開けた後輩くんである。
後輩くんの心根は善良である。また後輩くんは、決して器用なほうではない。
このとき、夜の十時過ぎであり、後輩くんの両親は、朝が早い仕事(後輩くんの家は魚屋さんなのである)なのでもう眠っている。
向かいの老夫婦は、後輩くんがまだほんの赤ちゃんだったころから知っていて、何度もお世話になっている。
僕がなんとかしてあげなくちゃ!
善良で、また不器用でもある後輩くんはその瞬間、119番に電話をするとか、また両親を叩き起こすとか、そういう考えには一切至らず、階段を駆け降り玄関から飛び出してしまったのだ。
後輩くんは五分ほど前に当の老夫婦自身からの通報を受けて駆け付けた消防車にぶつかって、全治一ヶ月の大怪我をした。
後輩くんはこうして、一回目の受験に失敗した。
○
「……火事の原因は何だったのだろう」
先輩は後輩くんの話を、途中から消沈した顔になって聴き、最後にそう訊ねた。
「ご高齢のかたと聴けば、ついついストーブの消し忘れとか、あるいは煙草の火の不始末といったあたりを想像してしまうが」
先輩は一度、灰皿の中を確かめるために覗き込んだ。
「おじいさんもおばあさんも、煙草は吸わない人でした。その、二人とも熱心な宗教家で、決して吸ってはいけないことになっているんです」
ほう……、と先輩は納得した様子で頷いた。その特徴的な教義を聴いて、博識そうな先輩には何という宗教であるかは察せたらしい。
熱心な宗教家、しかし、老夫婦は後輩くんにとって、後輩くんの家にとって、不快な人たちではなかった。
後輩くんが三歳のころ、インフルエンザをこじらせて入院したときには、まるで自分の孫を思うように毎日お仏壇に手を合わせて回復を祈念してくれたという。また、宗教の話がなければ優しくて、また昔気質で奉仕的な人々で、家業のお得意さんであるとともに、多忙な後輩くんの両親に代わってしばしば面倒を見てくれた。
だから後輩くんは二人をまるで本当のおじいちゃんおばあちゃんのように思っていたし、自分はそのお仏壇に守ってもらえたのだという感覚さえ抱き、自らも見よう見真似で小さな両の掌を合わせて拝む格好を形作ったものだ。後輩くん自身には信心なんてものはこれっぽっちもなかったのだが、それをやるとおじいちゃんおばあちゃんはとても喜んで、砂糖でコーティングされたくにゃくにゃしたゼリーだとか、口の中がぱっさぱさになる栗饅頭だとかをくれるので、小狡くお利口さんのふりをして見せたものだった。
こう書くと後輩くんはちっとも善良ではないみたいだが、幼いこどもなんて誰しもそういうところがあるものだ。
「換気のために開けていた窓から吹き込んだ風で、カーテンがはためいて、お仏壇の燭台を倒してしまったそうなんです。だものだから、おじいさんたち大慌てで119番に通報して、ちょうどそこに僕が……、あの、先輩、笑っていただいてもいいんですよ」
先輩があまりに沈痛な表情を浮かべて聴いているので、思わず後輩くんはそう言ってしまった。このぶんだと、この可愛らしい(という言葉で形容していいはずだ)先輩は、話があまり上手くない僕の物語が現在に至るころには具合が悪くなってしまっているんじゃないかと心配になってしまう。笑い話にしてもらえるならば、後輩くんとしてもコーヒーをご馳走してくれた先輩の気持ちを明るくすることが出来たということだから、ずっといいのだけれど。
深刻な顔をしながらではあるが、先輩はブラックの缶コーヒーを両手で大事そうに包みつつ、なかなかそれに口を付けようとはしないのだった。いつまでもいつまでも、ふうふう、ふうふうと、艶のいい唇を尖らせて飲み口を吹いてばかりいる。もうすっかり冷めてしまっているはずだし、後輩くんはとっくの昔に、……具体的には、向かいの老夫婦の家の窓に赤く光る火が見えたことを語ったあたりでもう飲み干してしまっていたのだが。
先輩は猫舌であるらしいと後輩くんは知った。黒猫みたいな先輩だ。
「……それで、君、怪我はもうすっかり癒えているんだろうね?」
あんまりに心配そうな顔で先輩は言う。右目の、細い眉の上に覗けるおでこ、ただでさえ白いおでこから頬にかけては心痛のせいか青褪めてさえいた。
「それは、はい。大袈裟に入院なんてしてしまいましたが、別に命に別状があるとか、頭を強く打ったとかそういうものではなかったので」
不幸中の幸いではあろう。しかしその怪我の療養に専念せねばならなくなったせいで一度目の受験に失敗したわけだから、やっぱりそれは、不幸の中に一粒だけの幸せでしかない。
ふう、と嘆息して、ようやく小さな一口を、先輩は啜った。
「君が眠れない原因は、その不幸な事故によって浪人生活を強いられたことに依るのかな」
心優しい人なのだろうと、後輩くんは想像する。他人事の痛みなのに、この人はわざわざ時間を割いて、苦味を舌に乗せて、一緒になって味わおうとしているのだ。
後輩くんは久し振りに人間に対して好意めいたものを抱いた。
人間の心というものを思ったときに、希望のあることを確信することが出来た。
「浪人生活は、廻り道でしたけど、決して悪いものではありませんでした。ですけど、僕は二度目の失敗をするんです。去年の春に」
「……また、不幸な事故に遭ったのかな」
事故、と言えば事故である。そして、不幸であることは間違いない。
「受験の半月前に、母が感染したんです」
「……つまり、後輩くんは濃厚接触者になったということ? しかし、それならば……」
新型ウィルス感染によって正規の日程で受験することが叶わなかった受験生は、後輩くんに限ったことではなかった。九隅大学においても救済措置として、正規受験日から二週間後に特例の試験日を設けていた。
当然ながら後輩くんはそれを受けるつもりでいた。内容がどれほど難しかろうとも、受かる自信もあった。
しかし……。
「母が、後遺症で、味覚や嗅覚に障害が出てしまったんです。うちは魚屋で、母が作った煮魚も看板の一つだったんですけど……」
この話、もうやめたほうがいいんだろうな、と後輩くんは思い始めている。先輩は、後輩くんが話を進めるたびに、はっきりわかるぐらいにしょげ返ってしまうのだ。猫は表情の数が少なく喜びの表現が得意ではない生きものだが、マイナス感情はびっくりするぐらい器用に表情や尻尾によく顕すものだ。
「そのことで母が、ずいぶん、……気持ちのほうを病んでしまったんです。受験のためとはいえ、家を離れてこっちに出て来られる事態では、もうなくなってしまって……」
先輩は平静を装おうとしているのだろう。何気ない仕草でコーヒーをまた一口を飲んで、むせて、小さく「むほん」と咳払いをした。
「あの、でも、僕はこうして無事にこの大学に入れたわけです、二年遅れですけど。なので、はい、そんなに不幸せなわけではありません」
後輩くんは笑って見せたけれど、この笑顔にどの程度の肉が詰まっているかどうかは、正直なところ判らなかった。後輩くん自身で覚束ないのだから、きっと先輩には振るとからから音がするぐらいに見えたのではあるまいか。合わせて無理に微笑んでくれたけれど、かえって痛々しく見える。
そしていまだに後輩くんには、先輩がどっちなのか、判断を下しかねていた。
どっちだったら、どうだというのか。
後輩くん自身にも判らない。判らないけれど、どっちであったとしてもいい顔だなと先輩を見ていて思う。曲線的なのだけど、鋭さもある。
美しさは性の垣根を超えて成立するものだ。例えば少年と呼ばれる男子の一群が、女子以上に可憐な美で性的なまなざしを惹きつけずにはいられないように。あるいは少女の中に、あらゆる男の心を屈服させる逞しさを持つ者がいて、強さの象徴として憧憬せざるをえないように。
先輩はその二重瞼に、明確な憂いを浮かべた。
「……しかし、いまので全てではないだろう。君は、君の語った二つの事件、……いずれも容易く乗り越えられるものではないと思うし、私は過去を振り返って笑うことが出来るという点だけで、君に敬意を表したいものだと思ったけれど、逆に言えばその二つの出来事を、君は克服しているということだ。であるならば、……それらは君の不眠の直接的な原因ではない、しかし、無関係な出来事というわけでもない。そうだろう?」
後輩くんは、賢い先輩の言葉に頷いた。先輩は睫毛がとても長くて、ぱっきりとした二重瞼ではあるのだけれど、目をあまり見開かない、ほんの少しだけ眠たげである。そのせいで、言葉からは動揺をはっきり伺わせる一方で、表情はどこか淡々として見えた。
「……そうですね、僕がいま眠れないのは、この二つの出来事から導き出された出来事のせいと申しますか……」
先輩は、コーヒーをまた一口、もうすっかり冷たくなっているに違いないのに、ちくんと飲んだ。きっと、少し緊張を催したのだ。
先輩は俄かに目を伏せて、
「二つの出来事は、まるで繋がりそうもないが。強いて言うならば距離的にごく近いところで、一年の間を置いてほぼ同じ時期に起きたということぐらいかな。それが、いまの君の眠りの妨げになっている」
静かに独語する。
後輩くんは到底辿り着くことは出来ないだろうと思っていたのだ。ほとんど無関係な二つの出来事、全然縁のない、六桁ぐらいの整数を二つ足したら、ずらずらっとゼロが並んだキリのいい数字になる、みたいな話だから。
しかし、先輩は閉じていた瞼を開くと、
「……向かいのご夫婦の家の小火の原因は、蝋燭の火だと言っていたね」
狙い澄まして焦点へと矢を放った。