私のお兄様
「リリアベル・ローレル、可愛いくもないお前との婚約は破棄だ!」
数年前に侯爵家の権力を盾に強制的に婚約させられ、今に至るまで全く良好な関係を築けなかった婚約者フランツの言葉であったが、リリアベルは我が耳を疑った。
「お前なんかと婚約する見返りの資金援助額が法外だなどと王家に訴えやがって! この恥知らずが!」
リリアベルが呆気にとられている間に、定例のお茶会のためにローレル伯爵家へ参じたフランツがエントランスに響き渡る大声で、忌々しそうに吐き捨てる。
「大体、金のためにお前と婚約したのに、ローレル伯爵家が負債を抱えていたなんて冗談じゃない。下位貴族で美人でもないお前に好かれていると思うだけで不快だから、金輪際私には話しかけるなよ!」
フランツはそう言い捨てると、乗ってきた馬車に乗り込んで帰ってゆく。
その背を黙ったまま見送ってリリアベルは溜息を吐くと、心配そうに自分を見る使用人達の眼差しに居た堪れない気持ちになりながら静かに自室へと戻っていった。
はっきり言ってリリアベルはフランツに婚約破棄されたことは悲しくも何ともない。
それよりも可愛くないと言われたことと、今後のことを考えると自然に溜息が出た。
自室にある鏡台の前に佇み、リリアベルは鏡に映った顔を見て自嘲する。
童顔を隠すため濃いめに塗った化粧はチグハグで、幼児体型を隠すため胸に詰め物をしたリボンやレースがついたドレスは少し大きいサイズを着用しているため野暮ったい。
リリアベルとて、大人の女性が好みだというフランツに気を遣って用意したドレスや化粧が、自分に似合っていないことは解っていた。
「確かに、可愛くない」
ポツリと呟いてゴテゴテしたドレスを脱ぎ、化粧を落としていつもの簡素なドレスに着替えると、ゴロンとベッドへ横になる。
「別に私だってフランツ様を好きだったわけじゃないもの。でも、結局迷惑をかけてしまうことになってしまったわ」
今後のことを考えて憂鬱になったリリアベルは枕へ顔を突っ伏してしまった。
ローレル伯爵家のリリアベルとアルミン侯爵家であるフランツとの婚約は、リリアベルの亡くなった父親が侯爵家から無理やり押し付けられたものだった。
婚約当時アルミン侯爵家は投資の失敗で借金まみれとなっており、領地が隣同士だったことと、元々ローレル伯爵家では品質の良いワインの生産と堅実な経営により、資金が潤沢にあったことに目をつけられ、二人の婚約を結ぶ代わりに資金援助を強要されたのだ。
序列が厳しいこの国で、侯爵家以上の高位貴族が伯爵家以下の者と婚約するのは珍しいことだったが、要はお金のための政略結婚なのは明白だった。
家格の低い伯爵家は侯爵家からの要請を断れなかったのである。
婚約を結んでからのアルミン侯爵家の強要はすさまじいものだった。
ローレル伯爵家にあった資金はみるみるうちに消えてゆき、支払えない分は借金をしてまでアルミン侯爵家を援助しろと脅された。
幾ら窮状を訴えたところで無視され伯爵家の財産を貪り尽くしてゆくやり方に、リリアベルの両親は手の打ちようがないまま数年が過ぎていった。
その間にも侯爵家からの要求は年々度を超えた額となり、伯爵家の負債は膨らんでいった。
それでも婚約を理由に法外な資金援助の要請は続き、金策に駆け回っていた両親が馬車の事故で亡くなり、リリアベルの兄であるアルバートが家督を継いだのが一月前のことである。
両親は貴族の矜持もあって借金を公にしていなかったが、当主となったアルバートは全てを白日の下に晒すことにした。そうすることで少しだけでもアルミン侯爵家が譲歩してくれるかもしれないと踏んだからだ。
だが、ローレル伯爵家の窮状を公表しても、アルミン侯爵家からの要求は留まることをしらなかった。むしろ当主になったばかりのアルバートを甘く見て伯爵家の全てを毟り取ろうとさえする勢いだった。
また、羽振りがいい時は擦り寄ってきていた親戚は、父が亡くなり伯爵家が困窮していることを知ると手の平を返したように寄りつかなくなり、誰もローレル伯爵家を助けてはくれなかった。
万策尽きたアルバートが王家に伯爵家の財政難を訴え、侯爵家への資金援助を取りやめたいと嘆願したのがつい先日の話だ。下位貴族が上位貴族を告発するなど通常なら廃嫡どころかお家断絶ものの愚行だが、もうどうしようもなかったのである。
そうして覚悟を決めたリリアベル達だったが、意外にも王家は伯爵家の訴えを認めてくれた。
怜悧だが公正だという噂のまだ若い王太子は、アルバートが訴えたその日の内にアルミン侯爵家へ監査員を送り実情を調査すると、兄が提出した過去の帳簿や伯爵家の負債を鑑み、侯爵家が婚約を盾に毟り取っていた金額が、婚約に伴う資金援助というには看過できないほど莫大だったと結論づけると、今後の資金援助は禁止すると侯爵家へ発令してくれたのである。
帰宅したアルバートからそのことを聞かされたリリアベルは、安堵するとともに腰を抜かした。リリアベルは別にアルバートと一緒なら平民になっても構わなかったが、もしかしたら不敬罪で投獄されるかもしれないという最悪の不安が過り、兄が家を出てからずっと生きた心地がしなかったのだ。
兄といってもアルバートとリリアベルは、血は繋がっていない。
あの不当な婚約で、ローレル伯爵家の一人娘であるリリアベルがアルミン侯爵家へ嫁入りすることが決まったため、遠縁の子を養子にしたのだ。
こんな家に養子に来たばかりに、アルバートにはいらぬ苦労をかけてしまったとリリアベルは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それなのにアルバートは王家へ嘆願する前日、リリアベルに謝罪したのである。
割を食ったのは自分の方だというのに、アルバートはリリアベルを責めることも詰ることも一切なく、ただ自分が不甲斐ないせいで済まないと泣いたのだ。
兄の涙を見たのは後にも先にもそれが初めてであった。
アルバートはいつだって強く優しく、リリアベルを真綿で包むように守ってくれていた。
忙しい両親に代わって勉強を見てくれ、街への買い物や、ダンスの練習にも嫌な顔せず付き合ってくれた。借金取りがリリアベルへ手を出そうとした時は猛然と追い払い、街で貧乏伯爵だと揶揄された時は毅然とした態度で相手を言い負かしてくれた。
その度にリリアベルは婚約者のフランツとの違いに溜息を吐いたものである。
侯爵家ということを笠に着たフランツはいつだってリリアベルに横柄に接していた。
ブス、バカ、クズ、といった暴言は日常茶飯事で、時には髪を掴まれたり、頬を殴られたりしたこともあった。
婚約が決まってから今まで、定例のお茶会の前後はいつだって気分が沈んだ。
両親が侯爵家の顔色を窺っているのは子供心に理解していたので、フランツの心無い言葉にも微笑みは崩さず、申し訳なさそうにする両親をこれ以上傷つけたくなくて彼らの前では泣くのを我慢していたが、一人部屋に戻ると大粒の涙がいくつも頬を伝った。
そんな時、いつだってアルバートは会いに来てくれてリリアベルが泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。殴られた頬に気が付いた時にはリリアベルが慌てるほど激高して、フランツを追いかけようとした兄を使用人と止めるのは、かなり大変だったが同時に嬉しくて泣いてしまった。
自分を想って怒ってくれる人がいる。
そのことがどんなにリリアベルを勇気づけたか、きっとアルバートは解っていない。けれど、兄がいたから耐えられた。いや、兄さえいればどんなことでも耐えられるとさえリリアベルは思っていた。
だからこそアルバートの負担になりたくなかった。
王家が介入し、いくら今後はアルミン侯爵家から不当な資金援助の強要がないとはいえ、今まで搾取されたお金が戻ってくるわけではない。
アルバートが東奔西走して伯爵家を維持する資金をかき集めてくれたので、何とか生活はできているが借金がなくなったわけではないのに、あれだけの大金をとられた挙句に婚約破棄をされたことにリリアベルは落ち込んだ。
「これから、どうしよう……」
ポツリと呟くと、コンコンと扉をノックする音にベッドから跳ね起きる。
訪ねてくる相手は想像できた。だが、いつもは駆け寄って扉を開けて出迎えるのに今日は立ち尽くしたまま足が全く動かない。
いつまでも返事がないことを不審に思ったのか、焦ったように開かれた扉からアルバートが現れ、ベッドの脇で立ち尽くすリリアベルの姿を確認すると、安堵するように眦を下げた。
「良かった。部屋にいるはずなのに返事がないから心配した」
端正な顔に笑みを浮かべたアルバートは、押し黙ったままのリリアベルの側まで来ると、何故か上機嫌で妹を抱きしめ、その髪を優しく梳る。
「リリ、婚約破棄されたのだって?」
アルバートの抱擁はいつものことだが、告げられた言葉にリリアベルは項垂れた。
「お兄様……ごめんなさい」
「ん?」
謝罪をしたリリアベルに、アルバートは心底不思議そうな顔をすると、抱きしめていた腕の力を弱めて妹の顔を覗き込む。
「どうして謝るんだい? やっとあのバカフランツから解放されたというのに」
「だって婚約破棄なんて、伯爵家の名前に傷がつくわ。それに今まで侯爵家に費やしたお金のことを考えると申し訳なくて」
リリアベルは眉尻を下げたが、アルバートは瞳をパチパチと瞬かせると苦笑した。
「何だ、そんなことを心配していたのか? そんなの大した問題じゃないから、リリが気に病む必要はないよ」
「そんなことじゃないわ。私が可愛くないせいで婚約破棄されたから、またお兄様に迷惑をかけてしまうのだもの」
ぐっと涙を堪えたリリアベルだったが、アルバートは上機嫌から一転、氷点下の声音で問いかける。
「リリが可愛くない? ……それは誰が言ったの?」
「え?」
「教えてリリ、誰に言われたの?」
「それは……」
笑顔を湛えているのに瞳と声が笑っていないアルバートに問い詰められるが、リリアベルは言い澱む。自分の迂闊な発言で兄の怒りスイッチを入れてしまったと思い黙りこむリリアベルに、アルバートは小さく溜息を吐いた。
「フランツか……あのバカ、頭だけでなく視力も悪いんだな。いらない瞳ならさっさと潰しておくんだった。腕は引きちぎること確定だが……」
「お兄様?」
「いや、何でもない。それより、私のリリは世界一可愛いから、あんなバカの言うことは真に受けなくていいんだよ」
「そう仰ってくださるのは、お兄様だけですわ」
「そんなことはないけれど、ね」
リリアベルを傷つけないように、困ったように笑うアルバートの表情を見て、ぎゅっとドレスの裾を握りしめる。
(これ以上、お兄様の負担にならないように、私も努力しなきゃ。手始めに身嗜みを整えて結婚相手を探さないと! 少しでもお兄様の助けになる相手を見つけるために可愛くなりたい)
そう決意して、リリアベルは顔を上げる。
「私、これからお兄様のために可愛くなれるように努力してみます」
突然のリリアベルの宣言にアルバートが息を飲んだが、やがて蕩けるような笑顔で瞳を細めると、熱を帯びた声で囁いた。
「リリは十分可愛いと言っているのに……困った子だ」
困ったと言いながら愛しそうにリリアベルの髪を撫でるアルバートに微笑むと、兄もまた嬉しそうに笑い返したので、リリアベルは自分の決意が間違っていないことを確信する。
翌日からリリアベルは自分付きの侍女と相談して自分磨きを始めた。
化粧の仕方やドレスのセンスは勿論、優雅に見える立ち居振る舞いや筋トレまで熟し、お金がないなりに工夫を凝らして、ありとあらゆる努力をした。
今までオシャレに関心がなかったリリアベルが俄然やる気を見せたことで侍女達も張り切り、リリアベルはみるみるうちに自分でも見違えるほどに垢抜けていった。
リリアベルが自分磨きをする一方で、ローレル伯爵家の立て直しも兄の采配で順調に進んでいった。
もちろんリリアベルも手伝えることは率先して手伝ったが、リリアベルが街へ出たり商人と会談しようとすると、アルバートがあまりいい顔をしなかったので、専ら内向きの仕事ばかりだったが。
そうしてフランツに婚約破棄されてから一年が経つ頃には、ローレル伯爵家は借金は残っているものの、すっかり落ち着きを取り戻せたのである。
◇◇◇
自分に合ったシンプルなドレスを上品に着こなし、素顔が映える化粧を施したリリアベルが眉尻を下げた。
「えっと、お兄様?」
「何だい?」
困ったように隣にある端正な顔を見上げれば、甘く微笑んだアルバートがリリアベルの口元へクッキーを運んでくる。
差し出されたクッキーに「うっ」と言葉に詰まったリリアベルの顔は真っ赤に染まっていた。
何故ならリリアベルは今、アルバートの膝の上に座らされているのである。
「これは、その、かなり恥ずかしいのですが……」
「頑張ってるリリを労いたいからね。それに私も可愛いリリに癒されたい」
貧乏伯爵家の当主としてアルバートはいつも忙しい。
そんな兄が少しでも癒されてくれるならとリリアベルは恥ずかしいのを我慢して、兄が望むままに膝の上に座ったのだが、これはかなり恥ずかしかった。
ハグやお姫様抱っこは日常茶飯事なのだが、膝に乗せられ餌付けされるように口を開かされる行為に心臓が激しく打ち鳴らされる。
「食べなきゃダメ?」とばかりに上目遣いで見ると、アルバートが瞳を細めて促すので、意を決して差し出されたクッキーにパクっと噛り付く。
モグモグと咀嚼してコクンっと飲み込めば、よくできましたとばかりに頬を撫でられ、ついでにリリアベルの口元に付いたクッキーの欠片を親指で拭うと、その指を舌で舐めとった。
煽情的にも見えるアルバートの行動に、ボンっとリリアベルの頬が益々熱を持つ。
まるで恋人のような甘い雰囲気に、リリアベルの心臓がこれ以上ないほどに跳ね、思考がグルグルと回る。
優しい兄をずっと慕っていた。大好きな兄への感情が親愛から、もっと甘く切ないものに変化してしまったことに自覚はある。
自覚があるからこそ、リリアベルは戸惑っていた。
いくら血が繋がっていないからとはいえ、こんな感情を抱いてはいけないのに、兄の態度や言葉に勘違いしてしまいそうになってしまう。
(もしかしたらお兄様も私のこと?)
そう思ったことは何度かある。
けれでも怖くて確かめることはできない。
もしアルバートに拒絶されたらと考えるだけで身体が震えた。
(勘違いしてはダメ。絶対に気持ちを知られちゃダメ。私は妹なんだもの)
自分に言い聞かせるように心に念じて、リリアベルはアルバートとの幸せで苦しい時間を複雑な思いで過ごす。
そんなリリアベルをアルバートが心配そうにしながらも、搦めとるような熱視線で眺めていることなど知る由もなかった。
◇◇◇
リリアベルが鬱屈した気持ちに蓋をして表面上は和やかに過ごしていたある日、ローレル伯爵邸に珍しく来客があった。
「アルバート様! お会いしたかった」
エントランスの扉を開けるなり、アルバートの姿を見つけた令嬢が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「本当に久しぶりですわ。ずっと夜会やお茶会にお誘いしてましたのに、ちっとも来てくださらないんですもの」
口を尖らせて拗ねたように甘えてきたのはフレデリカといいウィーバー伯爵家のご令嬢だ。
両親が存命の頃にアルバートの婚約者候補になっていたが、両親が亡くなりその後のゴタゴタもあって、ここ暫くは疎遠になっていた人間の一人である。
フレデリカは婚約者候補の時からアルバートに熱心なアピールをしていたが、かなり強引なところがあるのでリリアベルはあまり好きではなかった。
今もまたアルバートの腕に自分の両手を絡めていて距離が近い。
それに通常であれば数日前に訪問の先触れが来るものだが、約束も無しにいきなりやってきた彼女に、リリアベルは溜息が出そうになった。
だがアルバートは慣れているようで、苦笑しつつも穏やかに対応している。
「お久しぶりです、フレデリカ様。当家は貧しいため何かと慌ただしいものですから、時間がとれずに申し訳ありません」
「あら? 貧しいのはアルミン侯爵家のせいだったのでしょう? あんな法外な額の資金援助など伯爵家が耐えられるわけありませんわ。そういえばリリアベルさん、婚約破棄されたんですって? 援助だけさせられて捨てられるなんてお気の毒に……」
気の毒にという言葉とは裏腹に侮蔑のこもった視線を投げかけられて、リリアベルは俯く。
婚約破棄された自分が社交界で傷物令嬢だと噂されていることは知っていた。
だがアルバートの前で、面と向かって侮蔑の視線を受けるのは少し堪える。別にフランツとの婚約破棄には傷ついていないが、下手な返答をしてあらぬ噂を広げられたら、また兄に心配と迷惑をかけてしまう。
どう切り返せばいいのかと逡巡している間に、フレデリカが以前と雰囲気が変わったリリアベルを眺めると、いいことを思いついたとばかりに両手をパチンと叩いた。
「そうだわ! 私がリリアベルさんに結婚相手をご紹介して差し上げます。以前のような野暮ったい見た目ではなく、多少マシになってきた今なら気に入ってくださる方もいるでしょうから」
フレデリカの棘のある言い方にリリアベルは内心ムッとするが、それよりも結婚という言葉にざわりと心臓が脈打つ。
確かに婚約者を探して家を出るのを目標にしていたが、まだこの家にいたい。アルバートと離れたくないと思ってしまう自分がいて、それがリリアベルの心を波立たせた。
アルバートに迷惑をかけないために結婚相手を探そうと思っていたのに、溺愛してくれる兄と一緒にいることが心地よくて、ついズルズルと甘えてしまっていた。それどころか兄妹としては不適切な恋情まで抱いてしまっている自分に、今更ながら最低だと気が付いたのである。
「いえ、私の妹のことでフレデリカ様のお手を煩わすわけには参りません」
罪悪感で何も言えなくなってしまったリリアベルに代わり、フレデリカの提案を拒否したのはアルバートだった。
「そんな遠慮はなさらないで。私はアルバート様のお役に立ちたいのです」
「ははは。そんなことより、中庭へ参りましょう。ちょうどダリアが見頃なんです。リリもおいで。今日は中庭でお茶にしよう」
リリアベルの結婚を『そんなこと』と言われたことに、リリアベルは弾かれたようにアルバートを見たが、すぐに視線を逸らして項垂れる。
兄にとって自分はあくまでも妹で、リリアベルの結婚など軽く流せる程度の話なのだと痛感させられた。
自己嫌悪と相まってすっかり気落ちしてしまったリリアベルだが、フレデリカに腕を掴まれたままのアルバートが心配そうに眉尻を下げたことに気が付いて、慌てて笑顔を作る。
その作られた笑顔にアルバートは怪訝そうな顔つきになったが、その視線から逃れるようにリリアベルは中庭へと向かう。
そんな二人を、フレデリカが突き刺すように睨んでいた。
◇◇◇
ダリアが咲き誇る中庭の一角でお茶を飲んでいた三人だったが、程なくしてアルバートが執事に呼ばれて席を外す。
当主として激務を熟すアルバートはいつだって忙しい。
リリアベルも少しは手伝ってはいるが、資金繰りや物流などのことで領内の商人達と会合しようとしたところアルバートが強靭に反対したので、専ら内向きの仕事だけをしていた。
(大切な交渉を私なんかに任せられるわけないものね。やっぱり最初の計画通りにローレル伯爵家にとって益があるところに嫁ぐのが、お兄様に対する一番の恩返しよね)
落ち込みそうになる気持ち誤魔化すように打開策を考えながら、リリアベルがぼんやりと兄が飲んでいた紅茶のカップを眺めていると、ふいに横合いから責めるような口調で詰問された。
「ねえ、リリアベルさん。婚約破棄なんてされて、貴女いつまでアルバート様に迷惑をかけるつもり? 前ローレル伯爵夫妻もこんなお荷物を残していくなんていい迷惑だわ。アルバート様も困ってらっしゃるのよ? 貴女がいるから彼は私との結婚を遅らせているの。そりゃそうよね? 婚約破棄された傷物の妹が片付かないのに、養子である自分が先に結婚するわけにはいかないもの。貴女のせいでアルバート様も私も幸せになれないことを自覚してらして?」
「私のせいでお兄様が……?」
まさか自分のせいでアルバートが結婚できないなんて思ってもみなかったことに、リリアベルが瞳を見開く。
それに兄がフレデリカと結婚する話が進んでいたことにも驚いた。てっきり兄の婚約は立ち消えになったとばかり思っていたが、婚約破棄された自分に遠慮して言い出せなかったのかと、リリアベルは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「そうよ。だからこの際、後妻でも商家でもいいから早く結婚してこの家から出ていってほしいの。それがアルバート様のためになるんだから」
「……」
畳みかけるようにフレデリカに言われ、激しい後悔に襲われたリリアベルは今度こそ覚悟を決める。
「ご迷惑をかけて、申し訳ありません……。こんな私でも貰ってくれる方を探してみます……」
絞り出すように呟くが、結婚相手を探す手段が思い浮かばず困惑する表情になったリリアベルに、フレデリカが一通の招待状を差し出した。
「独身貴族が集まる夜会の招待状よ。アルバート様のためを想うなら参加しなさい」
夜会は兄が許可した最低限のもの以外行ったことはなかった。
特に独身貴族だけ等限定的なものや仮面舞踏会などは、危険だからという理由で全て却下されていたが、フレデリカの「アルバートのためを想うなら」という言葉に促されるようにリリアベルは、その招待状を受け取ってしまう。
その後戻ってきたアルバートにフレデリカが楽しそうに話しかける様子を、リリアベルは上の空で眺めていた。
その横顔をアルバートがチラリと盗み見ていることなどには全く気付いていなかった。
◇◇◇
その晩、リリアベルはアルバートの執務室へ呼ばれた。
昼間の挙動を不審に思われていたようでアルバートに、「何か隠していることがあるのか」と問われたリリアベルは、意を決して夜会のことを告げる。
訝るようにリリアベルの話を聞いていたアルバートだったが、すぐに冷たい否定の言葉が返ってきた。
「ダメだ」
にべもない回答にリリアベルは怯むも反論する。
「でも、どうしても行きたいんです」
瑕疵がついたリリアベルが結婚相手を見つけるには、直接自分で探す方法しかないのだ。
だがリリアベルが必死で懇願すればするほど、アルバートの機嫌はどんどん悪くなってゆく。
「リリがそんな怪しげな夜会に出席する必要はない。それに招待状がなければ出席はできない」
「招待状ならあります!」
「何だと? なぜそんなものを持っている? リリへの不要な招待状は全て処分しているはずだが?」
「処分?」
「いや、こちらの話だ。それよりもその招待状はどうした?」
言っていいものかどうか悩んで、リリアベルは言葉に詰まる。
いくら好きではないフレデリカに貰ったものだとはいえ、告げ口みたいなことは言いたくなかった。
「その……」
言い澱んだリリアベルが涙目になるのを見て、アルバートは不機嫌そうな顔を一転させると、リリアベルの頬を撫でて優しく囁く。
「ごめんね、リリを心配するあまりつい責める口調になってしまった。でも、いきなり夜会に出たいなんてどうしたんだ? 怒らないから話してごらん?」
にっこりと微笑むアルバートに、リリアベルは瞳を彷徨わせたが、意を決したように口を開いた。
「その……結婚相手を見つけようと思って……」
「結婚相手? リリは、何を言っているのかな?」
笑っているのに何故かブリザードを纏ったアルバートに、リリアベルは泣きたい気持ちになってくる。
何が悲しくて好きな人に、結婚相手を探している話をしなければならないのか? 情けないやら滑稽やらで、やけくそになったリリアベルがアルバートを睨んだ。
「ですから、私の嫁ぎ先です! 婚約破棄された妹がいつまでも居座っていたらお兄様だって迷惑でしょう? だから自分で探そうと思ったんです」
リリアベルの言葉に一瞬呆けたアルバートだったが、次の瞬間凍るような眼差しを向けると徐に口を開いた。
「へえ……そう……なるほどね……よくわかった」
不自然な位に笑顔を浮かべながらも冷気を纏ったアルバートにリリアベルは困惑する。兄が嘗てないほど怒っているのは解るのだが原因が解らない。
「リリアベル、私は今、自分でも抑えが効かない位に怒っている」
リリアベルの頬を撫でていた手を止め、瞳に狂暴な色を灯したアルバートに、リリアベルの背筋に冷たいものが伝わる。
「そ、それは、私が勝手に相手を探そうとしたからですか? 私の結婚なんてどうせ『そんなこと』ですけど、それでも傷物令嬢の私では待っていても縁談なんてやってきません!」
「『そんなこと』と言ったのは、そういう意味じゃない!」
気丈にも言い返したものの、兄から初めて怒鳴られたことにビクっと震えたリリアベルを見て、アルバートは泣きそうな顔になると早口で捲し立てた。
「私のために可愛くなりたいと言ったのは嘘だったのか? やっとあのバカフランツから切り離したのに、どうして私ではダメなんだ? 商人と会合しようとしたのは結婚相手を探すためだったのか? リリが私以外の男と会うことなど許せるわけがなくて阻止したのが不満で、夜会に出るなどと言い出したのか?」
「え? あの?」
「本当は私から逃げて他の男の所へ嫁ぐつもりだったのか? 恋人のように振る舞ったのを嬉しそうにしていたのも、なすがままに甘やかされていたように見えたのも全部私の勘違いだったのか? 私の想いを心の中では嫌悪していたのか?」
「お、お兄様?」
「こんなに愛しているのに……! 結婚すると思っていたのは私だけだったのか……! そんなことは許さない! リリは私だけのものだ!」
叫ぶなり強引に顔を引き寄せられ、唇を奪われる。
息をする間もない激しいキスに翻弄されリリアベルの瞳から生理的な涙が零れたのを見て、アルバートは愕然とした表情になった。
「泣くほど嫌なのか……」
唇を離し、真っ青な顔をして呟いたアルバートの言葉は震えていた。
アルバートのその表情を見ながら、リリアベルの脳内で先程、兄が告げた言葉達が反芻される。
確かにアルバートは愛していると言った。この不毛な想いはリリアベルからだけのものではなく、兄もまた自分を好いていてくれたのだ。
信じられないような幸せな奇跡に、リリアベルの瞳から今度は大粒の涙が零れる。
だがリリアベルの涙を誤解したアルバートは、がっくりと肩を落とした。
「そんなにも嫌か……」
「泣いたのは嬉しかったからです」
「嬉しい? だと?」
焦燥したように項垂れたアルバートにリリアベルは首を縦に振る。
眉を寄せるアルバートにリリアベルは泣き笑いの表情を見せると、彼の背中へ両手を回した。
「だって、私の好きな人はお兄様ですもの。ずっと不毛な片思いだと思っていました」
「好きな人? 片思い? ……では何故、結婚相手など探そうとしたんだ?」
リリアベルの告白にアルバートは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐにまた不可解な表情になったのを見て、リリアベルは大きく溜息を吐いた。
「私達は兄妹なんですよ? 両思いだなんて普通は考えたりしません! だからお兄様への未練を断ち切るためにも結婚相手を探していたんです」
「兄妹と言っても血は繋がっていないじゃないか? リリはそんなことを気にしていたのか?」
あっけらかんと返された言葉に、今まで自分が抱えていた葛藤は何だったんだと頭を抱えたくなったリリアベルが、胸の内を吐露するように言い放つ。
「また、『そんなこと』ですか……お兄様は言葉が足りなさすぎます! 私がどれだけ苦しい想いを抱えていたと思っていますの? いくら恋人のようにされても言葉で伝えてくれなければわかりませんわ!」
「言葉で伝えればリリは私から離れていかないのか?」
リリアベルの気持ちを知って、どん底の表情から一転勝ち誇ったような笑みを浮かべたアルバートが悔しくて、リリアベルはちょっとだけ意地悪なことを言いたくなる。
「内容によります」
ツンっと顔を逸らせば、頭上から苦笑するような素振りと共に甘い声が降ってきた。
「好きだ。リリ、お前の全てを愛している」
直球の愛が囁かれ敢え無く陥落する心にリリアベルは我ながらチョロいと悶えつつ、好きなものは好きなので、おずおずとアルバートを見上げる。
「私も……お兄様を愛しています」
恥じらいながらもそう呟けばアルバートが、それはそれは嬉しそうに微笑んだのを見てリリアベルの頬が真っ赤に染まった。
その後、アルバートは翌日には結婚の書類を整え王宮へ提出しに行った。
「すぐに行動するためには何事にも準備や手回しが大事だからね。私は狙った獲物は逃がさない。それが愛する人でも憎い敵でも、ね」
あまりの準備の良さに目を丸くするリリアベルの頬を撫でながら、不敵に笑ったアルバートは電光石火で結婚式の日取りまで決めてしまう。
リリアベルは流石にその日程では無理だと思ったが、鈍いリリアベルにやきもきしていた使用人達が張り切ったおかげで、結婚式は予定通り開催された。
そんな二人の結婚式には王太子夫妻が飛び入りで参列し、ちょっとした騒ぎになる。
実は王太子妃が無類の酒好きで、特にローレル産のワインを好んで飲んでいたのだ。
アルバートがアルミン侯爵家を訴える直前に、密かに醸造することに成功した稀少なプレミアワインを王太子夫妻に献上し、ローレル伯爵家が終わればこのワインの製造方法も永久に失われると悲壮に訴えたこともあって、伯爵家に寛大な措置が取られたのである。
プレミアワインを殊の外気に入った王太子妃によって王家御用達となったローレル産のワインは、元々の品質の高さと侯爵家に搾取されなくなった利益から次々と新作が発売され、益々人気が高まった。
そのお陰でローレル産のワインを嗜むことが貴族のステータスだと言われるほどになったが、アルバートは過去の因縁を理由に、アルミン侯爵家へだけはワインを卸すことを頑なに拒み続ける。
その所業に怒り狂った侯爵家だったが、他の貴族達、特に伯爵位以下の下位貴族が軒並みローレル伯爵家を擁護し同調する動きを見せたため、今では様々な物流が滞り更なる苦境に立たされている。
そんな斜陽の侯爵家の嫡男であるフランツは日々鬱屈した時を過ごすようになり、ギャンブルで借金を作った挙句、繁華街の片隅で泥酔している所をならず者に襲われたのか両手の骨を砕かれ両の瞳は潰された。
元々、高位貴族としての選民意識が強く下位貴族を見下していたフランツに同情する者は少なく、ましてやそんな目に遭った彼に嫁ごうという奇特な令嬢は勿論皆無で、彼は我が身の不運を日夜嘆いているそうだ。
またフレデリカはアルバートとの結婚が諦めきれず、リリアベルを貶める噂を周囲に流し始めたが、やがてフレデリカの方が身勝手で非常識だと社交界で吹聴されるようになり、孤立してゆく。
その結果、同年代の令息達から避けられ続け、親子以上に年の離れた加虐趣味のある商人の後妻に貰われていった。
だが彼女の悪評を流した人物は終ぞ特定されることはなかった。
そんな他家の噂話など耳に入らないほど、ローレル伯爵家では今日もまた妻となったリリアベルをアルバートが溺愛している。
「私のリリは今日も可愛いね」
「お兄様、恥ずかしいです」
「お兄様?」
最早、新妻を膝の上に乗せる行為が常態化しているアルバートは、まだ恥ずかしがって赤くなるリリアベルの頬を撫でると眉尻を下げた。
微笑んではいるがアルバートの瞳が咎めるような色を灯したのを見て、リリアベルが「あっ!」と口を抑える。
「ア、アルバート様」
「様はいらないのに、でも困ったリリも可愛いな。これからもリリのことは全力で守るから、安心して私の腕の中に囚われていてね」
熟れた果実のように顔を真っ赤に染めながら名前を呼んだリリアベルを、さも愛しいというように抱きしめなおすと、ポツリと囁く。
きつく抱きしめられたため後半の言葉が聞きづらかったのか首を傾げたリリアベルだったが、彼女の髪に顔を埋めたアルバートは極上の笑みを浮かべると、愛してやまない新妻の香りを堪能したのだった。
ご高覧くださり、ありがとうございました。