はじまりのはなし
アーノランド皇国は始祖神であるアルノの加護のもと、発展の途を築いている。北に豊かな水源となるアズモ山岳、南にアーノランドの台所とも称される広大な農村地、西の樹海を越えた先にスズラジア国、東のアズモ川向こうにカントラと呼ばれる小国の同盟地域がある。地理的な優位に加えアーノランドの精霊と呼ばれる光の思念体は他国に類を見ない強力さをもち、その豊かな土地に貢献している。ゆえにアーノランドでは始祖神アルノを始めとする光の神柱に対しての信仰心がとても強く、聖教会が国を率いる形で今なおその権威を立脚している。
皇国の爵位は他の君主制度同様に公・侯・伯・子・男をとっており、それぞれが聖教会に信仰心と忠誠を誓う形で連なっている。特に公爵家は皇帝に次ぐ地位、聖教会第一師団の長を担っており、代々皇国に少なからぬ影響を与える家格として重んじられてきた。
「闇の神霊は穢れであり、故に公爵家は皇帝を守護する盾として存在する……。」
何度も読んだ歴史書の背表紙は厚紙がよれて破けている部分がある。手のひらに馴染んだその感触を味わうように撫でつけていれば、覗き込んだ顔に一房髪が落ちてきた。
闇色の髪の毛。
光の守護者である聖教会が最も厭う色。皇帝の盾である公爵家の者が、持っているはずもない色。わたしはこの世で最も忌まれる人間だ。公爵家当主は金髪碧眼、夫人はストロベリーブロンドで翡翠色の瞳をしていた。だからわたしが生まれたとき、当然のように夫人は不貞を疑われた。黒髪黒眼の悪魔のような娘が産まれたと分かった瞬間厳格な緘口令が敷かれ、ついで夫人は産後の肥立不良を装って殺されてしまったために、真実は永遠に失われてしまったけれど。ただ、今になって思う。この皇国に、闇色の毛髪に闇色の双眼を持つ人間なんてわたし以外にいないのにと。
けれど多分、夫人が不貞をしたか否かの事実なんて重要ではないのだ。重要なのは、この皇国を支える公爵家から闇の神霊を象る凶兆が現れてしまったということ。当主はわたしをいなかったものとした。殺すには得体が知れなさすぎる、生かすには目障り極まりない。だから当主は生まれたばかりのわたしを公爵家の地下室に押し込めた。金で買った不幸な娘を乳母として、2人もろとも永遠に日のもとに出て来れないようにして。
「ーーステラ、またそれを読んでいるの?」
ランプの光に照らされたエラーーわたしに唯一与えられた乳母がその細い眉頭をひそませた。
「アルノ神はどうして闇の精霊を助けてあげなかったんですか?」
アーノランド皇国の歴史を辿るページを見せて、わたしは構わず首を傾げた。エラが公爵家や皇国に賛美的なこの本を好まないのは分かっていたけれど、その存在が生まれた時から壁の向こうであるわたしは、寝物語の一種がごとくこれを扱っていた。
「アルノ神が天界をかき混ぜた時、光と闇が分かれてしまったと話したでしょう?光は慈悲を、闇は欲を持ってその袂を分かってしまった。欲深い闇の精霊は生まれたばかりの人間をみんな食べてしまおうとしたの。だからアルノ神は闇の精霊を地の奥底に追放したのよ。」
「どうして闇の精霊は人間を食べようとしたんですか?」
「闇の精霊はアルノ神の御加護を得られなかったからよ。」
光の精霊はアルノ神の加護を糧としている。いわばアルノ神の分身的存在。闇の精霊はその加護が得られず、力を得るために人間を食べようとしたという。今でも闇の精霊たちが人間を襲うことはあるらしく、聖教会はそうした闇の力を滅亡させるために存在しているとも言える。
内容などとうの昔に覚えてしまったページに視線だけ投じてぼんやりと瞬きをする。
エラはランプの位置の調整をやめて、わたしの横に腰を下ろした。
「またなにか余計なことを考えているでしょう。」
「…なにも」
「そんなわけあるものですか。何年一緒にいると思ってるの?」
もう17年になる。
この国の成人であり、社交界の花として夜会に出席し、想う相手がいるならば結婚をする年齢。ひと1人がそこまで成長する期間を、エラはずっとここにわたしとともに押し込まれている。
「また自分が闇の精霊かもしれないって思ってるの?」
「……それは、」
「そんなわけがないといったでしょう。」
こっちを見て、と頬に手を当てられて顔を上げさせられる。虚にぼやけた視界に、ランプの光に滲むエラがいた。わたしの家族。お母さんのようなひと。そして、呪われ子を押し付けられた不幸なひと。
「ステラ、あなたは光。闇にあっても輝きを失わない星。」
抱きしめられて、その匂いを嗅ぐ。いつもエラからは暖かい匂いがする。彼女は彼女の不幸の始まりであるわたしに星の子と名をつけてくれた。夜の旅人の案内になるという星の光。わたしはきっと、惑わせてばかりなのに。
「エラ…、」
「うん?」
「ありがとうございます」
ごめんなさい。あなたを救えなくて、ごめんなさい。