月の砂上にて
「さ〜〜つきちゃ~ん!今日の課題、見せて下さい!」
「またぁ?加奈、あんた何回目よ?自分でやった回数の方が少ないんじゃない?」
そう言いながらもちゃんと友人にノートを渡しているあたり、さつきちゃんこと皆川砂月は友人に甘い。
「頼む!俺にも見して!」
「私も!今回の板書する問題自信なくて……」
「分かった分かった!いいよ、適当に見て!」
砂月の中での『友人』の枠は大層ゆるく、彼らが彼女のノートを求めて群がるのはいつもの事だ。写し終わった友人たちはお礼を言うこともそぞろに、彼女の元から散ってゆく。すると、最初からずっと砂月の机の隣に座り込む、友人の加奈が話を振ってきた。
「いや~毎回だけどさぁ、あの先生課題多すぎ!しかも予習までしてこいとか、まじムリだって~」
「いやいや、加奈は新聞部だし部室で課題し放題じゃん?もうちょいがんばれよ〜」
「新聞部も忙しいんだよ?取材とかあるしさ?」
「それでも私が行くときはいつもお菓子食べながらスマホ見てる所しか見ないんだけど?」
「残念、いつもの事だよ」
「いや、ダメじゃん」
あははは、と二人は笑い合う。ちょうどその時、チャイムが鳴った。さっきまで散々人が群がっていた砂月のノートもちゃんとチャイムギリギリには砂月の元へ戻ってきた。無事に当てられた問題をクリアした友人の一人は視線でありがとうを伝えてきた。よくあることだ。笑顔を作り小さなピースサインを返す。これも、よくやる返事の仕方だ。
すでに佳境をこえた授業を聞くことをやめ、砂月はぼんやりとした思考の中に自分を潜らせる。
『春になって私は二年生になった。所属する演劇部での発表は六月に演劇コンクール、七月の学園祭と三月の定期演劇会だ。新入生も必死の新歓活動で十人入れた。でもこれでもまだギリギリだ。何とか先輩達の集大成のコンクールと学園祭に間に合わせないと……』
なんて、ぼんやり外を眺めながら考えを巡らせる彼女はさぞや格好の的だっただろう。
「えー、皆川さん③お願いします」
その声で皆川砂月は、一気に現実に引き戻される。もう内容は終わったと思っていた授業がまだ進行していたのだ。慌てながらもヨロヨロと黒板に向かう。幸い予習してある範囲だったのでなんとか解けた。
「はぁ〜」
解けた安心感でため息が出る。でも今度こそ、一度当たったのだから今日はもう当たらない。砂月は残り時間もぼんやりして過ごすことを選んだ。
「ねえねえ!演劇部ってさ、学園祭でやる演目とかって決まってる?」
加奈が珍しくちゃんとしたことを聞いてきた。本人に聞かれたら間違いなく怒られるだろうなと砂月は思う。
「うん?うん、決まってるよ。今年は『人魚姫』だよ」
「ほーう、いいね。じゃあ今度取材行くわ」
「ちゃんと前もってアポ入れてからにしてよ」
「だーいじょうぶだって!」
全く大丈夫に見えない彼女の様子に、ふふっと笑ってしまう。加奈のこのルーズさは何だかとてもちょうど良くてなんでも許してしまうのだ。
「お疲れ様でーす」
挨拶しながら部室に入る。お疲れ、お疲れ様です。など各方向から返事がたくさんくる。返事がいつもより多く感じたのは気のせいではなく、ほぼ全ての部員が揃っていたかららしい。
「さて!新入生諸君!まずは演劇部に入ってくれてありがとう!前回台本を渡して役割を決めたのは覚えているかな?今日はそれを使って立ち稽古をしよう。立ち稽古っていうのは……」
と大げさに説明をしているのが演劇部の部長白坂先輩である。「よっし、じゃあやってみよう。各自位置について」
この演劇は三年生の実質最後の舞台だ。毎年出場している、演劇コンクールで使う演目でもある。いつもより気合をいれなければ。そう思った砂月は、新入生よりもずっと前から貰っていた台本に改めて目を通す。
「私の役は〈王子を最初に見つけた娘〉か。後に王子の正妻になる予定の女ね」
*人魚姫*
禁を破り海上に上がった人魚姫は船の中の王子に一目惚れ。しかし王子の船が難破してしまい人魚姫はそれを助けにいく。王子が浜の人に見つかり無事が確認されると、隠れていた人魚姫は海へ帰る。人魚姫は歩ける足が欲しいと魔女にねだりその美しい声と引き換えに足ひれを二本の足に変えてもらった。その足は一歩歩くごとに酷く痛む代物だったが、人魚姫は気にせず、王子に会いに行った。しかしそこで待っていたのは、砂浜で王子を助けた女がさもフィアンセのような扱いを受けている光景。それでも、顔を王子に気に入られ同じ船に乗せてもらえることになった。この船は本国に向かっており、到着間もなく王子の結婚披露宴があるらしい。魔女との約束はもう一つあった。王子と結ばれなければ人魚姫は死ぬ。このままでは泡となり消えてしまう。すると事態を把握した姉たちが魔女のナイフを海から渡してくれた。これで王子を殺せば貴女は人魚に戻れるからと。人魚姫はナイフを使わなかった。なぜなら、王子のいない世界に生きることは彼女にとって死と同様だったのだ。今もまだ泡となった人魚姫が海をたゆたっているかもしれない。
人魚姫:白坂はる③
王子:次見晴人③
フィアンセ:皆川砂月②
魔女:栗野咲②
従者:他
姉たち:他
「よーい、始め!」
~~~~
「キミ……はどこかで会ったことがあったのかな、ごめん思い出せないや。改めて、君は誰だい?」
人魚姫は必死に海を指さし助けたことを主張している。
暗転スポットライト
「ああ、あああの娘はいつぞや王子を助けていた人魚!まずい、私が命の恩人だということにしなければプリンセスの座が!」
明転
「よくわからないがキミ、すごく美人だね。僕好みだ。……それにキミ、言葉が話せないんでしょ?それに足も不自由そうだ。働き先には苦労することだろう。だから、僕専属の侍女としてキミを雇おう。ま、ほとんど夜のお相手が仕事だろうけど、よろしく頼むよ」
人魚姫が呆然とした顔で王子を見ている。
「王子様ぁ!この者に何かされていませんか?この娘は大層野蛮だとこの辺りでも話題で!」
「ああ、心配しなくていいよ、子猫ちゃん。彼女は今から僕の直属の侍女になったから」
「え……それはどういう?」
「彼女、言葉が話せないみたいなんだ。仕事に就くのも困るだろうし、『僕の侍女』ならそんなの気にする必要ないからね。それに彼女はすごく美しい顔をしている。人間じゃあないみたいだ。だから、僕のものにすることにしたんだ」
「!それでは私との結婚の約束は……!?」
「それはもちろん果たすよ。大切な恩義だ。でもそれと彼女を連れ帰るのには何の関係もないだろう?」
「それはそう……ですが……」
「だろう?さあ話は終わり!浜のみんなに挨拶してきなよ。多分これが最後だからね」
「……分かりました」
暗転スポットライト
「どうして!どうして気付いてくれないの!海から陸に運んであげたのは私なのに!海の中ではキスだってしたわ。それにいざ会ってみたら誰かも分からないのに顔が好みだからって侍女って名ばかりの夜伽の相手?バカじゃないの?ふざけてるわ。こんな人……」
「人魚姫が来たことで王子が思い出さないかヒヤヒヤしたけど全然大丈夫ね。ここまでバカ王子だとは思わなかったけど。人魚姫が可哀想に思えてくるわ。顔を買われて夜伽の相手なんて。ああでも一人目の子どもは私が産まないとね、ずっと安泰でいたいもの」
明転
船が出る。本国までは丸一日ほど。昼過ぎに港を出た船はちょうど夕焼けに染まっていた。
「どうしよう。このままだと泡になって死んでしまうわ――あれは、姉さん?海から追いかけて来てくれたんだわ!これを?王子に……!?ありがとう。姉さんたちの気持ち受け取ったわ」
「――おい、お前。王子がお呼びだ」
『ああ!どうしよう。好きって気持ちで近づいたけどいきなりこんなのってないわ。でも、殺すなんて……ああ、そうだわ。とてもいいことを思い付いた』
「王子、お待たせしました。女をお連れしました」
「ああ、ごくろう。下がっていいよ」
「来てくれて嬉しいよ。さっきは名前も聞けなかったからね」
「……」
「ああ、そうか。口が聞けないんだったね。……まあ、それでも遊び相手にはなるだろう」
王子はぐっと人魚姫を引き寄せ、組み伏せる。そして、口を寄せた瞬間、人魚姫は王子の胸に深々とナイフを突き立てた。
「なっ……」
「これで、これで私は声も足ヒレも取り戻せる!元の人魚に戻れるんだわ!」
「人魚だと!?まさか、あの時の……!」
「今さら気がついてももう遅いのよ。私も貴方もどうやらお互いの顔だけが好きみたい。それなら、私があなたを海へ連れ帰れば全て上手く解決でしょう?」
人魚姫は王子を抱きかかえ海へ飛び込む。その足はすでにヒレへと変わり、王子が人魚姫の言葉をどこまで聞けていたのかは誰も知るよしもない。
暗転
「こうして、王子と人魚姫は海の中にて結ばれ、陸上のことなど、もはや興味もなく幸せに暮らしたのでした。めでたしめでたし」
ぱらぱらと遠慮がちに拍手がおこる。内容が内容なのだ、当然だとは思う。だが当然拍手は伝播する。最終的には学園祭ので演劇のトリに相応しい、体育館に響き渡る拍手が湧き上がった。カーテンコールで砂月が現れるとクラスメイト達が皆、手を叩いているのが見える。それはもちろん砂月への賞賛で、誇らしさと僅かな照れを浮かべながら彼女は舞台上で大きくお辞儀をしてみせた。これで三年生は引退だ。今回演じた『人魚姫』は先月行われた、県内演劇コンクールで最優秀賞をとった作品でもある。ずっと弱小であった砂月の高校に初めてもたらされた大金星であり、その輝かしい結果をもたらしたのは当然部員たちの努力の成果と、天性の才能と評を受ける脚本・演出担当の三年生の水島葵の存在があったからだった。彼女の描く脚本は、簡潔に言うならとても人間くさい。人間の悪い部分をさらけ出し、その上で人の心情や感情を表現する作風で正直、学園祭などではウケは良くない。今回も悲恋のストーリーをサイコパスなストーリーに変えてしまった。でも、葵たち三年生はこれを気に入って彼女をずっと脚本・演出に置いていたのだ。……砂月からすると葵は尊敬はしていてもよく知らない存在だった。葵は寡黙な人で部活でも指導以外で積極的に話しているところをあまり見なかったからだ。
『もっと、話してみたかったな』
そんな思いとは裏腹に撤退が始まる。先輩達は泣いているし、ドタバタしたまま慣れない一年生がセットを片付けてくれようとしている有り様だ。
「もー、みんな最後なんだから泣いてないで働けー。一年生にセットのばらし方も教えないでどうすんの」
砂月は意外な人が喝を入れたことに驚く。
「葵先輩だ」
その声は葵には届かず彼女はこちらを見ることはなかったのだが。そんなことよりも砂月は、先輩がみな号泣している中、葵だけがいつも通り毅然としていることに気がついた。片付けの指示を出していたのは珍しいけれど、脚本・演出という立場の中で思う所はたくさんあるだろうに。
『やっぱりよく分からない人だったな』
そうして片付けを終え、みんなで写真を撮って、このメンバーでの舞台は終わりを迎えたのだった。
~~~~
「わーっ砂月!教室移動じゃん!急ご急ご!」
「そういうあんたが一番散らかってるじゃん!」
「ごめんってー。待って待って待って!」
加奈に振り回されながら離れた棟の教室へ向かう。学園祭も終わって、学校全体が大学受験へと針路が変わった八月。進学校を自称する我が校に夏休みは無く、お盆までは午前中授業を行っているのだ。
「もーまじ遠いんだってー」
「ほんとそれな~」
普段と変わらない一歩を進めたその時。
私の視界が急に揺らいだ。走っていた足は上手く地面を掴めず、教科書で塞がった手は体を支えることができない。私は無様にも廊下に倒れ込んでしまった。
「砂月!?どうしたの!大丈夫?」
加奈が懸命に心配してくれるが、私の視界は未だはっきりとしなかった。
「う、うん。大丈夫。多分貧血とかだから落ち着いたら保健室行くよ……」
「本当に?ついて行こうか?」
「いいよいいよ、悪いし。それに授業始まっちゃうよ」
でも~、と加奈はしばらくごねてくれたが、授業開始のチャイムを聞き、何かあったら連絡しな!と言い残し教室へ向かっていった。
情けない……。そう思いながら加奈が拾い集めてくれた教科書を手に取り、のそのそと保健室へ向かった。
保健室には小林先生がいた。先生は椅子に座りながら驚いた声を上げる。
「どうしたの?顔真っ青よ?」
「普段なることは無いんですけど、多分貧血とかだと思います……」
本当に心当たりがないのだから仕方ない。でも先生があれだけ驚いた声を出すのだから、私の顔色は余程悪いのだろう。
「とりあえず休んでいったら?顔色がマシになるまでくらいは」
「そうします……ありがとうございます」
そう言ってベッドのひとつを借りて横になる。するとふらついていた頭も安定し、自然とまぶたが落ちる。自覚するよりも早く、私の意識は浅い眠りへと沈んだのだった。
目を開けると白い天井が目に入る。ああそうか保健室にいるんだ。そうしてまだぼんやりとした頭をゆっくりと起こすと、気分の悪さも頭のふらつきも治まっていた。時計を見るとちょうど今日最後の授業が始まる少し前だ。カーテンを開けて立ち上がると、まだ少しふらつくけれど動くのに支障は無さそうだった。
「先生」
事務机に向かって書類を見ていた先生に向かって声をかける。
「あら、まだ寝ててもいいのに」
「いえ……目が覚めちゃったし、まだ授業間に合いそうなので……」
「そう?多分疲れが溜まってるのよ、酷い顔色だったもの。今日くらいもうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
「でも……」
何故だろう。何となく戻らないといけないような気がしていた。戻らないと、私の居場所が無くなっているんじゃないかって根拠もない漫然とした不安が心をじわじわと締めつけていた。その後も先生は心配してくれたけれど、顔色はどうやらマシになっていたようで最後は、
「無理しないようにね」
と、送り出してくれた。私はまだ少しぼんやりした頭を支えながらゆっくりと自分の教室へ向かった。
教室では見慣れたクラスメイト達が好き勝手談笑していた。私に気づいた女子のひとりが、
「あれ?砂月ちゃん、大丈夫?倒れたって聞いたよ?」
それを皮切りに、
「砂月ちゃん」「大丈夫?」「心配した」「倒れたんだって?」「元気になったなら良かった」
など。女子特有の同調の力のすごさ、というか有り難さを全身で受け止める。
「いやあ、実は昨日徹夜しちゃって寝不足だったんだよねー。だから軽い貧血だよ。めっちゃ元気だから大丈夫!ありがとう」
嘘だ。徹夜なんかしていないし寝不足でもない。貧血なのは本当でも、元気ではないし大丈夫でもない。でもこれは言わない方がいいことだ。「皆川砂月」はいつでも人の面倒を見ることが好きで、その代わり人に面倒をかけることを酷く嫌っていた。……きっと今までも無意識にそう考えてきたんだろう。
『それが良いことなのかは分からない』
それでも気づいてしまったからには気にせずにはいられない。私はひとまずいつも通り授業を受け、帰るころにはみんなから心配されることも無くなっていた。
「じゃあまた明日ねー!」
「ばいばーい!」
部活や帰宅の途に着くクラスメイトや友人に手を振り、私は演劇部の部室へと足を向ける。本来演劇部は夏休みの練習は行っていない。それは今日という日も例外ではなく、部室には誰もいない、はずだった。
旧式の木製の扉を開く。開いた扉からは涼しい風が吹き、どうやらエアコンがついているらしい。砂月は驚き室内を見渡すと、奥の棚近くに置かれた椅子に三年生の水島葵が座っていた。その手には何かの舞台の脚本が握られており、扉が開いたことにも気づいていないらしい。
「お、お疲れ様です」
たどたどしく出た砂月の挨拶に葵はようやくその端正な顔を向けると、
「ああ、お疲れ様」
と一言だけ、その整った眉目ひとつ動かさず答えた。砂月は特に用があって部室に来たわけではなかった。なんとなく、落ち着く気がしてやって来ただけだ。
「ねぇ、皆川さんって今日倒れたんじゃないの?」
「え……どうして、それを?」
砂月は驚くことしかできなかった。倒れた廊下はここからは見えない。そもそも二年生とは違って受験生である三年生は一日中授業があるはずだ。昼休みの今以外は教室にいるはずだった。
「午前中部室にいたら、移動でここの前を通った君のクラスメイトがそんなことを言っていたから」
「ああ、なるほど……って先輩、授業に行かなくていいんですか!?」
「君は野暮なことを言うね。サボりだよ、サボり」
ひらりと葵がページをめくる。脚本から一度も顔を上げることなく次々と言い放たれた言葉に砂月は困惑を隠しきれなかった。驚いた。葵先輩はこういう感じの人だったのか。
「それで?大丈夫なの?体調悪いなら早く帰った方がいいよ」
ようやくここでページから視線を上げてくれる。目が合った。彼女と目が合うのはこれで何度目だろう。なんにせよ両手に収まる程度な気がする。二年間も同じ部活にいながら。
「あ……もう大丈夫です。心配して下さってありがとうございます」
「ならいいけど。――君は相変わらず取ってつけたピエロみたいな笑い方をするんだね」
砂月は笑顔を貼り付けたまま固った。特に親しくも、なんともない先輩から唐突に浴びせられたその言葉は突然すぎて、砂月には全く意味が理解できなかった。
「えっと、それはどういう……」
「相手に笑ってもらうための笑顔ってこと。部活ではそんなに思わなかったけど、今その笑い方してるってことはもしかしてクラスではずっとそう[#「そう」に傍点]なの?」
二の句が継げなかった。今日まさにその事を思い知ったからだ。無理をしてまで授業に出たのは元気なキャラクターで通っている私が休めば、みんなから好ましく思われているこのキャラクターが壊れてしまうから。……いいや、もっと怖かったのは空席になった私の席に他の人間が座り、私の居場所がなくなってしまうことだった。私なんかより良い人はきっとたくさんいる。そんな人達はちっぽけな私などかき消し、私がいなくとも楽しい世界をつくるだろう。……つまるところ私は、自分に不要の烙印が押されるのが怖いのだ。自分で自分が要らないと、見て認めてしまうのが恐ろしいのだ。……だから、いつも笑って自分を見て必要としてもらうために旗を降る。それがみんなに認めてもらえる手段だと信じて。
「……」
「……何も言わないってことはまさか図星?本当に?」
――行動も言葉も、全てその場を上手く回すため。私の周りの人間はみんな笑顔でいてもらわなくちゃいけない。そうでなきゃ私の存在する意味はない。みんなの笑顔のために私は笑う。道化をする。――昔から変わらないことだ。いつからこうなってしまったのか。いつから、私は――。
ほとんど私の独白だった。最後まで葵先輩は話を聞いていてくれた。
「……まずは座りなよ。話をするなら立ったままはアレでしょ」
今さらのように椅子を勧めてくれる。私は小さくお礼を言いながら先輩から少しだけ離れた席に座る。
「それで君はずっとそうやって道化師をやっているの?」
「はい、多分……」
「ふーん、『私の周りの人はみんな笑顔じゃないといけない、私が笑顔にしないといけない』なーんて、«ヒーローごっこ»もいい所。それに、それは偽善に見せかけた『嫌われたくない』って思いの末路じゃない?嫌われて指をさされる所を見て自分が嫌われていることを認識したくない、その場面を見たくない。そのために他人を笑わせる。逆説的で面白いけど、弱虫を守るために道化を演じて結局傷つくなんて、これは余りにもナンセンスが過ぎる。……笑顔にするったって人に頼りたい時はどうすんの。誰かに助けてほしいときはどうすんの?その時『誰か』は笑っていない。むしろ困るかもしれない。そんなとき君はどうするの」
「人に頼りたい時は……できるだけ作りません。人に迷惑をかけないようできる限りのことをします。それでも、頼りたいと思うときは、涙を堪えて明るく務めて、頼らなくても大丈夫になれるようがんばります」
私はなぜだか泣きそうだった。何に対して涙が出るのか不思議だった。きっと私の仮面の下の傷が痛くて涙が出ているのかもしれないと、そうだったらいいと思った。
「君、さ。君は神様じゃないんだ。人には嫌われるものだし、君に迷惑をかける人間がいるんだから君も迷惑をかけていいんだ、当然だろ?初めは嫌われるのがこわくて始めたピエロだとしても、君はもう大人で周りの人間も大人になった。大人になるためには多くのものを捨てる。そのひとつが『みんな』に好かれること。人は段々みんな、『個人』を大事にするようになるからね。今の君の道化じゃいつか限界が来る。そのとき苦しむのは、君だ」
「――ずっと子どもでいたかったんです。みんなと無邪気に笑えたらそれで良かったのに。求められるままずっと大人のふりをしていたから私は子どものまま中途半端な大人になってしまった」
「クラスではそれでもいいんじゃないの?この学校の生徒は結構みんな、子どもだろ?……ゆっくり自然と『大人の皆川砂月』に慣れればいいと思うけど」
「はい、そうですね。がんばります」
自然と涙がぽたぽた落ちた。
「がんばるんじゃなくて、頑張らないようになるために、がんばるんだよ」
「はい、」
涙が止まらなかった。すると目の前にハンカチが飛んできた。先輩の方を見ると、
「ちゃんと洗って返してよ」
また一言だけ。でもこれは、分かりにくい葵先輩の優しさだろう。有難く甘えさせてもらうことにした。きっとこれが初めて他人に甘えた日だろうから。
それから砂月は授業が終わると部室に足繁く通うようになった。毎日葵は砂月より早く部室にいて、いつ来ても同じ場所に座っていた。
「お疲れ様です、葵先輩!」
勢いよく扉を開け、いつもの席に向かって声をかける。
「まったく君は静かにできないのか」
そう言いながら葵は持っていた台本を閉じこちらを見る。
「相変わらずピエロのように元気なことだな」
いつも通り、人を小馬鹿にしたような笑みで迎えてくれた先輩に、私はいつもと違って冗談で返した。
「そういう先輩こそ、そろそろ授業に出たらどうですか」
売り言葉に買い言葉だ。ずっと疑問だったことを葵に聞いてみた。藪をつつくかもしれないとは分かっていた。
「私は推薦で進学するから休みまで投げ打って勉強する必要ないんだよ」
何百回と人に話したんだろうという言い訳が返ってくる。
「でも推薦がダメだったら一般入試で勉強がいりますよ?」
これは砂月たち二年生でも耳にタコができるくらい先生に言われることだ。当然葵もそんなことは分かっているだろう。だからなのか、彼女は少々語気を強めて、能天気な後輩に言い返す。
「私はそもそも勉強のために進学する気がないからいいんだ。私は自分の目指す演劇ができるところなら専門学校でも劇団でも気にせず進学するつもりだからね」
これがきっと本当の理由だろう。親や教師が聞いたら真っ先に否定しそうな理由だ。実際、話してはいないのだろうし、上手く条件を満たす志望校を並べるだけならいくらでもできるだろう。大学も劇団も今や星の数ほどあるのだから、選択肢は無限だ。
「……先輩はプロを目指してるんですか?」
「さあ、なれればいいけど、厳しい世界だからね。進学を諦めてないのはその予防線だし、本気でやらなきゃ通用しない世界相手に予防線を張るなんて、この時点で失敗しているのかもしれないね」
らしくない。砂月は一番にそう思った。ここ数日、葵と同じ時間を過ごして気づいたことだが、葵はかなりの負けず嫌いだ。それこそ人間観察が趣味になるほどに、常に他人を分析し自分はそれよりも高みに行けるよう努力を重ねる。……もし彼女が真面目に受験勉強に取り組んだなら日本最高峰の大学に合格したと聞いても不思議はない。それと同時に葵は超がつくほど現実主義だ。自分が目指すことにはちゃんと勝機を確かめてから挑む。
「……珍しいですね。先輩が弱気なことを言うなんて」
それもつい先日、他人の心配なんかする前に自分のことを考えろ、と遠回しに諭した後輩に対して愚痴のようなことをこぼすなんて。
「別に弱気じゃないだろ。ちゃんと現実を見た結論だ」
「でもまだ先輩はその世界をその目で見た訳ではないじゃないですか。いつもは目指すと言う前にはその目で確かめてから決めるのに」
そう。うちの演劇部は規模も小さく、いつもなら賞なんて引っ掛かりもしない。だが、葵先輩が二年生に上がるとき、『私が演出する作品、つまり今年一年間は少なくとも県一位となる作品を一つ以上は生み出す。みんな、そのつもりでかかってくれ』――当時入部したてだった私はその言葉に痺れ、未経験ながらも役者に立候補した。後に聞くと一年生の間からずっと、県内の高校、日本ブロックで分けた時の強豪校はリサーチしていたらしい。あの言葉も分析に基づくもので単なる鼓舞や発破ではなかったのだ。――そして、先輩が三年生の時の最後の舞台コンクール、私たちは県内最優秀賞に選ばれた。葵先輩の言葉は見事達成されたのだ。
「……」
「先輩が目指すって言ってるんですから、達成できるに決まってますよ。――それとも、挑む前から『負け』って決めちゃうんですか?」
その言葉がトリガーだった。ずっとページに視線を落としたままだった葵はその言葉を聞いてゆっくりと砂月の方を向いた。その目は大きく見開かれ、信じられないことを聞いたように口も開けている。
「……ふふふ」
再び下を向いて葵は笑った。
「ふふ、あーはっはっはっ!」
それから上を向いて、普段の落ち着き様からは想像もできない大笑いをしはじめた。その笑いはしばらく収まらず、近くで見ていた砂月が心配し始めた頃にようやく、くくくっと喉を鳴らし始め、
「あーあ、こんなに笑ったのはいつぶりだろう。ふふ、しかもこんな後輩に言い負かされて笑うなんて」
笑いの残滓が残ったまま、葵はまたゆっくりと砂月を見る。
「君の言う通りだ。できるかできないかは私の目で直接見て判断し、目指すかどうかはそれを元にして、私が決めることだ」
葵の迷いが消えたのが分かった。その目はいつも通り軽く細められ、人の心の中まで観るように。そしてその顔は、自信に溢れた不敵な笑みをたたえる。
「ふふふ、そうと決まれば君たちは三月まで私のより厳しい指導に付き合うことになる。今のうちに自主練に励むんだな」
「えっそれはどういう、」
「ああ、言ってなかったかな。三月の定期舞台だが、演出は私がやる。これは顧問と次期部長からは了解が得られていることだ。夏休みが明けてからサプライズとして演目と一緒に発表するつもりだったんだ。すっかり君に言うのを忘れていたよ。……よろしく頼むよ、主演殿?」
数秒の間が空く。
「え、ええ~~~!先輩が演出で、私が、主演……。っそんな大事なことどうして今まで言わないんですか!」
「いやあ、だから忘れてたんだよ。ごめんごめん~」
主演なんて、そんなの初めてだ。しかも葵先輩の演出。初主演がそんな豪華でいいのか、とか私に務まるのか、とか、頭に浮かんだ不安や心配は数えきれない。でも、その中でも一等輝くのは、
『また先輩と舞台ができる』
という喜びだった。今までの舞台では先輩のことなんて何も知らなかった。でも今は水島葵という、人間を知っている。それがあるのと無いのじゃきっと、全然違う舞台ができる。それくらい喜べるくらいには私は水島葵が演出してきた舞台にのめり込んでいるのだ。
「ちなみに、演目は……?」
「んー、まだ未定。一応決めてたけど、今日の君の言葉で白紙にした。約束どおり休み明けまでには決めておくから、楽しみにしててくれ」
そう言って軽くウインクをして話を流してしまった。
「さて!これから忙しくなるぞ、何せ君の言う『私の目』で直接本物を見に行かなければ。砂月!私はしばらく留守にする。ここの鍵は顧問の大橋先生に言えばもらえるし、帰る時も同じように返せばいいからな。じゃ、留守は頼んだ!ばいばーい!」
嵐のようだった。まさか本当に本物を見に行くのか?というか私だって鍵の管理くらい知っている。……それにしても今日は情報量が多すぎる。主演?葵先輩の演出?プロを目指す先輩?まずい。どうにかなりそうだ。
「ていうか、先輩、留守を頼むって言った?」
私は部室で留守番を言い渡されたのか。
「まあいいや。いつも通り課題やっとけばいいんだし」
それが終わっても、先輩が普段居た椅子のそばには過去の脚本のバックナンバーが所狭しと並んでいる。それを好んでここに座っていたのだろうが……。
『私もこれを読破してみるのもアリだ。』
そう思うと、明日からの放課後も少しは楽しみになってきた。まあ、今日までの日々とは全然比べ物にならないのだが。そう決めると、砂月は今日のことを頭でゆっくり噛み締めながら、部室の鍵を取るとのんびりと帰路に着いた。
葵先輩のいない夏休みは思っていた以上に退屈だった。二年生の授業はお盆休みの前日に終わっている。だからお盆休みが明けてから学校に来る用事は部室の留守番だけになってしまったのだ。山ほどあった課題も、先輩のおかげで全て片付いてしまっている。多分、葵先輩は授業態度や課題提出の出来はものすごく悪いのだと思う。大体これらが良い人は夏休みの授業を全部サボるなんてことしない。でも、要領がいいのか、はたまた得意の分析なのかは知らないが、勉強はできるのだ。私が悩んでいた問題もあっさり、分かりやすい解説つきで教えてくれた。きっと教師や親からも期待されているんだろう。分かりにくいが根が優しい人だ。だからきっとそれらも無下にはできず、ずっとここでページをめくっていたのだろう。
私も、先輩のおかげで最近の日常が生きやすくなった。普段無意識にずっとピエロをしていた私は、先輩の正論に叩き伏せられた後、無制限のヒーローでいることを辞めた。いや、厳密には辞めつつある、だけど。でも少しそうやって気を抜くだけで驚くほど心は軽くなった。それに、私がヒーローを辞めても、私の世界はうまく回っている。これはちょっと寂しいけれど、私が休憩しても他の誰かが埋めてくれる。昔みたいに、私しか旗を振る人間がいない訳じゃない。私はやっとこれからゆっくり、自分と向き合うのだ。
私は葵先輩の席に移動して座り、ぼんやり本棚を眺める。何となく手に取ったのはシェイクスピアの『ロメオとジュリエット』。超有名劇作家による超有名大悲劇だ。手に取ったのはその本だけ少し本棚から引き出されていたからで、特に理由は無い。パラパラとページをめくりながら次、自分が演じる役は一体どんなだろうと思い浮かべる。だが、すぐに無駄なことだなと頭を振った。あの先輩のことだ。何が来てもおかしくない。きっとこんな考えも無駄だろうな、と。
日も傾きかけ、そろそろ帰ろうと立ち上がると、扉の開く音がした。反射的に振り向くと、
「おう、皆川か」
顧問の大橋先生が立っていた。期待を裏切られたという顔を隠しながら、
「どうしたんですか?何か用なら……」
「いや、用ってほどでも無いんだが……最近水島は来てるか?」
「葵先輩なら、演劇修行に行ってます」
「演劇修行ぉ?てことは親御さんからの情報は本当だったってことか」
「どういう情報なんですか?」
「『やりたいことを見つけた、今からそれを見に行ってくる』と告げてから二、三週間ほど帰ってきてないらしい。居場所は東京、らしいがそろそろ連れ戻さないと新学期始まっちゃうだろ?連絡はついてるから把握してはいると思うが……」
「うーん、葵先輩なら帰ってくると思いますよ。だって新学期になったら、定期舞台の練習が始まりますから」
ニヤリと笑いながら私は言う。
「全く……定期に使うのは合格してからって言ったのアイツ聞いてないなこれは」
なるほど。そんな条件があったとは。
「まぁ今回の高跳びも演劇目当てならもう俺の手には負えねえなあ。後は帰ってきた本人に任せるしかねえ。……でもそんだけ演劇にお熱なら定期のために帰ってくるだろ。よし。じゃ、邪魔したな。お疲れ」
そう言って大橋先生は帰って行った。『俺の手には負えない』、世話焼きな顧問の先生のことだ。もしかしたら葵先輩と、先輩の担任や親御さんとの橋渡しをしていたのかもしれない。先生は先輩が演劇の道に進みたがってるのを察して、上手くやりとりしていてくれたのかも。担当学年でなくとも部活顧問なら話はしやすいだろう。これらはあくまで推測なのだが、私の中では先生の株が爆上がりすることになった。
九月一日、始業式が始まった。全生徒が体育館に集められる。夏休みが終わってもまだまだ暑く、千人ほどいる全校生徒が密集する体育館は灼熱のサウナと化していた。
「暑い~溶けるぅ~」
「暑いって言うの今から禁止」
「ええ~そんなことしても涼しくならないよ~」
暑さで半分溶けているのは友人の加奈である。脳まで溶けかかっているのか、先ほどから「暑い」「死ぬ」以外の言葉を発しなくなった。まあ空調もない体育館だ、無理もない。砂月は隣の友人は放っておいて、背伸びをして三年生の群れを凝視することに専念することにした。目的はひとつ、葵が帰還しているかを確かめるためだ。
『昨日で夏休み最終日だったのに、部室に来なかったからなぁ』
流石に今日は来ているだろうと、式が始まる前から探しているのに見つからない。……結局、体育館では葵を見つけることはできなかった。悶々とした気持ちの中、クラスでのオリエンテーションを終え部室へ向かう。
『もし部室にもいなかったらどうしよう』
そんなことを考えながら部室の扉を開く。大方の部員は揃っている。だがそこに、葵の姿は無かった。
「はーい、じゃあ揃ったみたいなので始めまーす」
声を上げたのは砂月たちの代の部長になる結城くんだ。彼は夏休み明けから新体制となること、次の三月の舞台では一年生もフル参加になること、など必要事項を話したあと、部室の中を見回す。
「えっと、三月の舞台では特別に三年生の水島葵先輩に脚本と演出を頼むことになってるんだけど……」
語尾が続かないのはその当人である葵がいないからだろう。他の部員たちもざわつき始め、結城も参ったなあという顔で頭を掻いている。
その時だった。これまでに無いほど荒々しく扉が開かれた。その場にいた全員が、扉に釘付けになる。そして、その扉から入ってきたのは。
「皆さん!遅れてすまない!」
葵先輩だった。先輩は今までのクールな印象とは裏腹に、肩で息をし余裕のない様子の中、落ち着きを取り戻しながらもどこか上気した声で、言い放った。
「三年の水島だ。三月の舞台で私が演出・脚本を担当することになったのは、結城くんから聞いたと思う。その舞台では、『新作』をやる。今までにやった脚本をしないというだけではない。そこの後ろに山ほどある脚本たちでもない。私が、書いた『新作』だ」
新たにトップとなる二年生は呆気にとられていた。何も分からない一年生はぼんやりとその言葉を聞いていた。
「ちょ、ちょっと待って下さい先輩!先輩が書いた、っていくら何でも素人の脚本では無理が、」
全部員の疑問を部長が代弁してくれる。この中では一番葵先輩の実力を知っていると思われる私でさえ、そう思うのだ。
「うん、そう思われるのは当然だ。だが、私は夏休みに東京のある劇団を訪ねたんだ。何週間か見学したり、アドバイスを貰ったりした。この脚本は、そこの監督に指南を受け、お墨付きを頂いたものだ。その監督はメディアにもそれなりに名が出ているような所謂、プロだ。私のような素人の脚本では不満かもしれない。主軸となる二年生には初舞台を波乱で満たしてしまうかもしれない。それでも、私はこの脚本を今この時にやりたいんだ。不満があるなら言ってほしい。これは私のわがままで度が過ぎているのは分かっている。降ろすというのなら甘んじてうけよう。どうか、頼む」
部員たちは戸惑っていた。クールで物静かで通っていた先輩が突然自分の脚本をやらせて欲しいと頭を下げ、それを部長すら知らなかったというイレギュラーだ。当然である。
「私は、水島先輩を信じたいです」
そんな中で私は、手も声も震えることを自覚しながら静かに手を挙げた。今までではありえないことだ。周りの空気を乱さないことに徹していた私が、自ら空気を壊したのだ。その小さな驚きも部員たちの間を伝播する。
「え、ええ……皆川、それはまたどうして?」
「一先ず、その脚本を読ませてもらうのはどうかな。判断はその後でも遅くないよ」
結城くんの疑問に同級生の柿原が続ける。
「確かに……。水島先輩いいですか?」
「もちろん。ありがとう」
お礼を言いながら先輩は人数分の脚本を配る。その表紙に書かれていたのは――
『月の砂上にて』
西暦XX年、地球は繰り返される環境破壊、紛争、その他多くの原因により滅亡までのカウントダウンを確実に進めていた。そんな中、惑星全土で他の星への移住計画が浮上し、その計画はゆっくりとだが着実に進められていた。
一方、そんな計画とは無関係に少女(砂月)と青年(朔)は出会う。お互い惹かれ合い、結婚の約束までした二人だったが元々体の弱い砂月が、流行の病で倒れる。新型のウイルスによるもので効果のある薬もなく、弱る一方の砂月。砂月を励まし支える朔だが、何も出来ない。ついに医者は、治療を諦め残り時間を楽しみに使うことを提案。朔は拒むが、砂月はそれを了承。残り時間を大事に過ごす中で砂月はある日「私、死んだら月の砂になるんだ」と言う。「そうしたら死んでも会いに来れるでしょう?」日本は月への移住計画を進めていた。冗談と笑う朔。実際移住できるようになるまで百年はかかる。他愛ない夢物語だと思ったのだ。やがて砂月は亡くなる。朔や家族に看取られての死。死後、砂月は病院に検体として身体を寄贈することを決めていた。朔はそれを知らなかった。砂月の検体としての希望は、月への移住計画のために月へ送ること。砂月は文字どおり月の砂になる事を望んでおり、朔に発した冗談も本気だった。「いつか月の砂上でまた会おう」その言葉を信じ、日々月を見上げては砂月を想う朔。永遠に何度でも彼は愛を叫ぶ。いつか月の砂上の彼女に届くことを願って。
恐らく全員が読み終わった頃、砂月は自分がこの少女を演じるのだと思った。そしてそれは、読み終えた皆が思ったことでもあった。段々と顔を上げる部員が増えた頃、葵が脚本について説明を始めた。
「見てもらって分かる通り今回の脚本は皆川砂月を主演とした前提で書かれたものだ。贔屓をした訳じゃない。彼女なら適任だと今までの舞台を見て私が独断で判断した」
「……」
「主演の皆川砂月には、青年(朔)の役をやってもらう」
一気に室内が騒がしくなる。砂月と同じ名前が与えられながら、その役は彼女が演じるのではないのだという。それなら何故、わざわざ砂月という名を使ったのか。口々に囁き合う部員たちの声が聴こえた。
「この物語はシェイクスピアの『ロメオとジュリエット』を踏襲しながら作ったものだ。届きそうで届かない、悲恋をテーマにしたものだ。……主人公の名前の朔とは新月のことを指す。つまり初めから、月そのもので在ろうとした砂月とは結ばれない運命だったんだ。このことは作中では語られない。脚本にはなくとも、この絶望、届かない愛、悲恋の運命……これらを演技を通して伝えられるのは皆川砂月、君だという判断を下した。名前が同じだからと言って彼女のために役を作った訳じゃない。……まあ、彼女の名前から着想を得た、というのは正直ある。だが、この脚本がえこ贔屓でない、ということは理解してもらいたい」
今度はあまりざわめきが起こらなかった。脚本の一ページ目には(仮)とは付いているが主力の二年生がそれぞれ担当する役名書かれていたからだ。恐らく、それぞれの役者に合わせて考えられた役回りになっているのだろう。皆川砂月が特別という訳では無い。それが、皆に理解された瞬間だった。
「あの、水島先輩の今までの舞台の雰囲気とは大分違ったストーリーになっているのは、大丈夫なんですか?」
そう、今まで散々他の作品に大幅な脚色を加えて評価された先輩がこんなに真っ直ぐな作品を作るなんて、正直意外だった。いつもどこかひねくれた影のある作品を好んでいたあの水島葵が。
「ああ。真っ直ぐだからこそ演技に妥協は許さないつもりだ。物語をねじ曲げず、正攻法で舞台に向かえるよう、君たちもこの物語を通してレベルアップしてくれ。来年から私はいないのだからね」
その言葉で、部員はみな背筋が伸びる。そのあと、部長がこの脚本で臨むかどうかの決をとり、『月の砂上にて』は無事、三月の公演で発表されることになった。
私は考える。朔という青年が砂月と出会い、別れ、それを通してどんな感情を胸に抱き、喜び、悲しんだのかを。若干二十代にして最愛の人を喪い、叶わぬと分かっている約束に縋りながら愛を紡ぎ続けるも、運命すら彼の愛を無下にする。それでも抗いながら月に向かって愛を叫ぶ彼は、一体何も思い、何を砂月へ伝えようとするのか。
――答えは、本番を迎えようとしてもまだ、出なかった。
「……それじゃあ本番三秒前、明転まで三、二……」
幕が上がる。眩しいくらいのライトが無数に、私へ降り注ぐ。何度も音を乗せた言葉はごく自然にセリフとして流れ、物語が始まった。地獄のような練習の賜物だ。今の私は完全に、悲恋の主人公、朔へと変貌していた。悲劇のヒロイン砂月との出会い。天に昇るほどの幸せな時間。それを一瞬で消し去るような悲しみ、苦しみ。そして、終わりまでの日々を数えながら過ごす偽りの幸せ。
「ねえ、朔」
「ん?どうした?」
それは一般的なベランダで、彼女がふいにもたらした言葉だった。
「私、死んだら月の砂になるんだ」
夏の空、狂おしいほどに美しい月を一点に見上げて、彼女はそう言った。
「何だよそれ。縁起でもねえ」
俺は珍しくもない彼女の冗談に、いつものように相槌を打った。
「だってそしたら、いつか月まで会いに来てくれるでしょう?」
――どうして俺はこの時に、『近くにいてくれ』の一言も言えなかったのだろうか。
「何だそれ。そんなのあと何百年かかるか分かったもんじゃないだろ?」
「ふふ、良いじゃない。月の砂の上で再会とかロマンチックで憧れるよ」
「そんなもんか……?」
「そうだよ。だから、『いつか月の砂の上で』待ってるね、約束」
彼女が自分の小指を出すから、俺もつられて小指を伸ばす。その指を彼女は器用に絡めとって、指切りをしま。
――こんな約束でいいのなら、なんて考えが、彼女の真意を聞く選択肢を俺から消した。
病は残酷に、驚くほどあっさり彼女の魂を攫って行ってしまった。俺は最期まで何もしてやれなかった。今も彼女の家族と共に、哀しみに暮れることしか出来ない。そんな時、彼女の主治医が告げた言葉は俺の心を絶望で満たすのに充分すぎるものだった。
「生前、砂月さんはご自身のご遺体を検体として寄贈することを希望されていました。寄贈先は、月です」
月。月だと?……まさか、あの時の……ありありと、つい昨日の事のようにあの夜のことが思い出された。
『私、死んだら月の砂になるんだ』
『いつか月の砂の上で、また会おうね』
あれは、あれは冗談なんかじゃなかったのだ。本当に彼女は、月の砂へ、なるつもりだったのだ。どうして、どうして!俺は自分を責める。あの時、もっとちゃんと追及していれば!あの時、もっと彼女のロマンチズムに耳を傾けていれば!
自分を責め抜き、その末に彼に残ったのは最後の約束。最後の彼女の願い。
『いつか月の砂の上で、また』
それから俺は毎夜彼女がいたベランダに立ち、彼女への愛を紡ぐ。毎晩現れる月へ向かって。
「なあ、今日見つけたんだけど、砂月が好きだったあのカフェあっただろ?あの店新商品を
出してたんだ。お前の好きそうないちごのパフェ。俺は甘いものあんま好きじゃないけど、試しに頼んでみたんだ。でも、やっぱりダメだ。お前がいなきゃ何にも味がしねぇよ……」
「――それと、今日俺は最悪なことを知ってしまったんだ。砂月、お前の名前は『砂の月』月そのものだ。対して俺の名前は『朔』この字は新月を表す。月そのもの、満月を示す砂月に、新月の俺は、一生追いつけない。運命すら、そう言うんだ。俺はやっぱりお前が……砂月がいないと……」
俺は毎夜泣くことしかできない。あの狂おしいほどに美しい月へ向かって。あの砂月を攫った輝く星屑を眺めながら、恨めしそうに。
「――ああ、そうだ。どうせ愛を伝えるなら」
朔はゆらりと立ち上がる。
「こうする方が良いに決まっている」
再びベランダへと手をかける。そして。
「俺は、砂月のいない、地球なんかに用はねえ!お前のいない世界なんて、もうたくさんだ!」
その時、美しい月に狂わされた末路か、はたまたその月にいる、誰かに呼ばれる声がしたのか。朔はベランダから手を伸ばし、その身を空に踊らせた。空に浮かぶ美しい満月へ向かって。
「ああ、砂月。これで約束を果たせるな」
心なしか先ほどよりも近く見える月に俺は、ずっと手を伸ばす。
暗転、スポットライト
「どこか安心したように、そう呟いた彼は、その後どうなったのか。それを知る者はおらず、また、月の砂上にて逢瀬が叶ったのかなど、誰も知らない。ただひとつ、確かであることは、彼らの愛は波乱と不幸で満ち溢れていたが、それを超えてあまりあるほど、彼らは幸せであった、ということだ。」
――ナレーターの最後のセリフが終わる。舞台には暗黒のみが残り、やがて幕が下ろされる。
そして次の瞬間、万雷の拍手が劇場の中で唸りをあげた。決して大きくはないその舞台の客席では私たちを讃え賞賛する人々で溢れかえっていた。
そうして、カーテンコールが始まる。順々に仲間たちが登壇し、喝采を浴びていた。砂月役の柿原が舞台へ上がる。一際大きな拍手が彼女を包み込んだ。彼女がこの役を演じるために懸けた努力や苦労を全て昇華できる正統な称賛だ。彼女は感極まったように涙目で、だがそれでも、はつらつと生き抜いた砂月をもう少しだけ演じるように、舞台上で明るく振る舞いそして丁寧に頭を下げた。
「さあ、行ってこい」
葵先輩が私の背を押す。主演を演じた、私の番だ。
私は、舞台へ向かいながら朔という青年へ思いを馳せる。……今日の本番まで練習で何度も彼を演じてきた。当然、先輩の指導は厳しく、周りの部員からもたくさんの意見を言われた。そうして私は、私なりの『朔』を作り上げ、先輩からも監督からも他の部員たちからもお墨付きをもらった。――でも私はその後も、ずっと彼のことで分からないことがあった。『砂月を失った朔は、永遠に愛を叫び続ける』これが台本のエンディングだ。叶わぬ約束を遺し、意図したのかは分からないがこの約束で砂月は朔を永遠に縛ることになる。縛られた朔は永遠に愛を叫ぶことしかできない。……本当に?叶わぬ約束は砂月の朔への思いの顕現だ。それなら、愛し合っていた二人なら、朔だってそれに見合う愛を示してもいいはずだ。その愛は、永遠に叫ぶだけで済まされるものだろうか。いいや、『朔』ならきっと……。
皆川砂月は舞台へ踏み出す。今まで感じた中で一番眩しい光が彼女を舞台へ迎え入れ、今まで受けた中で一番大きな感情が彼女を舞台へ誘う。だめだ。……私はまだ、『朔』だ。泣いてはいけない。泣き崩れてはいけない。私はすっと背筋を伸ばし、快活で明るく、そして誰より砂月を愛した青年へと姿を変える。悠々と舞台中央へ進み、胸に手を当て深々とお辞儀をする。客席へ向ける表情は、笑顔で。そうして挨拶を終えると、先に登壇していた砂月に駆け寄り、額にキスを落とす。少しだけ湧いた客席と驚く彼女を見つめながら隣へ並ぶ。最後に脚本・演出の葵先輩と監督を務めた結城くんが同時に登壇し、監督の結城くんが挨拶を終えたところで本当に終幕だ。全員でお辞儀をすると、再び大きな拍手が起きて、物語には完全に幕が下ろされる。――ああ。この幕がずっと、下りなければいいのに。そうすれば、もっと。
当然そんな想いは届かない。幕は下り、物語は終演する。お客さんにお礼を言いに行くため砂月たちは急いで舞台を降り、劇場の出入口へ向かう。去年賞をもらったお陰か客席はほぼ満席。県のお偉いさんも来てくれていて、監督や役者たちに激励の言葉をかけてくれた。ちなみにだが、加奈も見に来ていて大泣きしながら砂月の手を取り、ブンブン振りながら
「よかったよぉぉぉぉ!」
と大層褒めてくれていた。
ほとんどのお客さんを見送ったあと、私たちは舞台上に集まる。最後のミーティングをするためだ。
「皆さん、公演お疲れ様でした!」
監督の結城くんが前に立って、みんなの苦労を労う。拍手と共に「おつかれー!」や「ヒューヒュー!」といった喝采が起きる。結城くんは満足そうに笑いながらそれが収まるまで待って話し出す。
「今回の公演は異例に次ぐ異例だらけで最初はどうなることかと正直、とても心配でした。水島先輩の助けがあるとはいえ、この公演は僕たちの代の演劇部の旗揚げだし、次のコンクールにも繋がるものだったからです。でも、それも杞憂でしたね。水島先輩のお陰で僕らの代の演出も監督もかなり鍛えられました。もちろん、役者たちは言うまでもありませんね」
あははは、と部員から笑いが起きる。
「僕は、本当に今回の公演は大成功だったと思います。たとえ主演が本番で大幅なアドリブを効かせてきたとしても」
結城くんが私を見る。それに合わせてみんなが私を見てくるので、申し訳ないと言う代わりに顔の前で手を合わせる。
「まあそれも、裏方たちのいい経験になりましたしね。正直、この演目でコンクールに臨んでもいいのでは、とも思っていました。でもそれは水島先輩に止められたので、明日からはまた新たな物語に全力で取り組みましょう。とりあえず今日は本当にお疲れ様。あとは撤収を残すのみ、もうひと頑張りです。頑張りましょう!」
お辞儀をして結城くんがはける。本来なら舞台上ミーティングで話すのは部長だけ。片付けがあるからだ。でも今回は違った。入れ替わりに葵先輩が出てきたのだ。
「皆さん、お疲れ様でした。今を逃すと話をする機会もなさそうなので、特例として喋らせて下さい。今回の公演は私の執筆した脚本、私の演出などたくさんの私のワガママを通して頂きました。本当にありがとう。本番のラスト、朔のシーンで皆川が今までにないアドリブをした時、咄嗟の事だったのに裏方さんは私が指示するより先に動いていました。これを見て私は、もう私の力は必要ない、みんなは新たなメンバーで次を目指せる、そう思いました。……最後の朔のエンディングは私も大きく迷った所でした。でも何度考えても脚本以上のものは産まれず、本番当日になっても僅かにずっと不安を感じていました。でもそれを皆川さんは本番の舞台でぶち壊してくれましたね。皆川さんの演技を見て私は『ああ、これが月の砂上にて、だ』と思いました。本番で大きなアドリブなんて本来なら説教コースですが、今回は目をつむります。むしろ、この物語に最良のエンディングをくれてありがとう、そう思います。このアドリブがあったからこそあれほどの拍手を頂けたんだと思います。皆さんはこれからコンクールや学園祭など多くの舞台に立つと思うけど今回の指導が役に立てば幸いです。これからの演劇部に、大きな幸いがあることを願って。ありがとうございました」
そう言って葵先輩は深く頭を下げる。自然と拍手が起き、それと同時に明日から先輩がいないという寂しさが一気に現実味を帯びて私を覆い尽くした。
その後、慌ただしく舞台から撤収した私たちは学校へ戻って部室に集合する。ささやかながら打ち上げをするのだ。この打ち上げをもって完全に『月の砂上にて』は終了する。普段開けた教室に、机や椅子を並べお菓子とジュースで乾杯をする。その準備が整い、部員たちが席に座りだした頃砂月は葵がいないことに気がついた。部室を出て、廊下を見渡すと葵は荷物を持って階下に降りようとしていた。
「葵先輩!打ち上げ始まりますよ、行きましょう!」
「砂月。いや、私は打ち上げはいいよ。上級生がいると気を使わせてしまうだろ?挨拶はしたし、この辺りで……」
「でも、先輩にお礼を言いたい人たくさんいますよ!卒業式も終わって先輩もうここに来ないでしょう?お礼を言えるのはもうここしかないじゃないですか」
「おーい、皆川、と水島先輩!始めますよ、はやくはやく!」
部長の結城が部室から顔を出し二人を急かす。結城に見つかり、帰るに帰れなくなった葵はしぶしぶと言ったように砂月とともに部室へと戻った。
「かんぱーい!」
部長の音頭と共にジュースの注がれた紙コップが掲げられる。目の前の机には、これでもかとお菓子がばらまかれている。これらの多くは引退した三年生が、本番の後に差し入れてくれたものだ。前期試験の終わった先輩の多くは代替わりした後輩の舞台を見に来てくれる。たくさんお褒めの言葉をもらったし、次への激励の言葉もたくさん頂いた。打ち上げでは、主演が挨拶をする慣例だ。今回の脚本は朔と砂月のダブル主演であるため、演じた二人が順番に話す。砂月役の柿原は、今までにない大役でなかなか納得してもらえる演技ができなくて大変だったこと。先輩の演技指導は厳しくて涙が出たことも数えきれないこと。それでも着いて行ったその先の本番は、眩しくて自分でも感動してカーテンコールは涙を堪えるのに必死だったこと。次のコンクールではこの涙の経験を生かしてもっと良い演技ができるよう励むこと、それらを晴れ晴れとした顔で話して、席に着いた。次の番である朔役の砂月は彼女から視線を外すとゆっくりと立ち上がり話し始める。
「皆さん、今日までお疲れ様でした。まず私は皆さんに謝らなければいけないことがあります。そう、ラストのアドリブです」
砂月の自らの大仰な謝罪に部員たちから笑いが起こる。
「えー、あのアドリブに合わせて、照明や最後のナレーターを変えて下さった担当の皆さん、本当にありがとうございました。他のたくさんの人も肝を冷やさせてしまい、大変申し訳ありません。でも、私は今回の『月の砂上にて』という物語では本番でのエンディングがより良い終わり方だと思っています。私はずっと朔という青年を演じてきてこのラストだけがどうしても腑に落ちませんでした。考え続けて、相談にも乗ってもらったりしてそれでも納得できませんでした。ようやく納得できたのは本番、ラストのシーンが始まってからでした。物語の終盤、私はもう朔という青年と一体化して彼ならどう振る舞うのか、ようやく理解を得たのです。その結果たくさんの人に迷惑をかけてしまいました。これ以降、変なアドリブを入れたりすることは絶対にしません、多分……。ですのでこれからもどうかよろしくお願いします。この役を演じられて幸せでした。ありがとうございました。」
ぱらぱらと拍手が起こる。主演の挨拶が終わればあとは自由に談笑するだけだ。砂月は照明係とナレーターにお礼を言いに行き、葵はお礼を言う後輩や教えを乞う後輩に囲まれていた。主演の砂月と柿原は今回の舞台について褒め合いつつ、次の主演を争う身として、お互いの健闘を称えたのであった。葵も普段のクールさから話しかけられなかった後輩に、色々多くのことを聞かれてまんざらでもないように見えた。
だが、別れの時はいずれやって来てしまう。完全下校の時刻だ。部員たちは名残惜しそうに散っていき、それは葵と砂月も同じことであった。もう会えないのだろうか。そう、思った。
――彼女とまともに話したのは、いつも通り茹だるような暑さのいつもと何ひとつ変わらない夏の日だった。その日も、やりたくもない知りたくもない、勉強とやらを強いる大人たちから逃げるため、私は一人演劇部の部室に引きこもり、多くの劇作家たちが遺した物語に身を埋めていた。この部屋は良い。時折、教室移動の生徒たちの声が聞こえてくるだけで、あとは空調の駆動音が静かな唸りをあげるだけ、静かなものだ。私の勝手に目をつむってくれている顧問の大橋先生には感謝しなければならない。だから、その声が耳に入ったのも単なる偶然なのだ。
「砂月ちゃん倒れたんだって」
「貧血かな?だから一時間目いなかったんだ」
パタパタとかけていく女生徒たちの声。良くあることだ。何も気にとめなかった。
その声を再び思い出したのは校内が昼休みで騒がしくなってきてからだ。ガチャリ、と普段なら決して開くはずのない扉が開き、動揺した様子の皆川砂月がそこには立っていた。
「お、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
彼女も演劇部員だ。部室に来てもなんの不思議もない。だから初めは関わらないようにするつもりだった。……しかしその時、廊下から聞こえたお喋りがふと蘇ってきたのだ。
「ねぇ、皆川さんって今日倒れたんじゃないの?」
人違いの可能性も大いにあった。だが何となく聞いてしまったのだ。当然彼女は驚いていたが、それも適当に流すつもり、だったのだ。……今にして思えばどうしてあんな、彼女の核心を突くようなことを言ったのか、自分でも分からない。何故なら彼女とは話したことすら数少なく、こうして目が合ったことすら両手に収まるのではないかと思うほどだ。あの日の彼女の姿があまりに無様でイラついたから、あんな話をしたのだろうか。少なくとも普段あまり人と関わりを持たない私にとってあれはイレギュラー極まりない出来事だった。
それから砂月は無邪気にも私に懐き、毎日授業が終わると部室にやって来て同じ空間で過ごすようになった。私が彼女に話題を振ることはほとんど無かったけれど、毎日どうでもいい話を私にしてくる彼女は、次第に作り笑いを張り付けるのを止め、心からの笑顔を見せるようになっていった。その笑顔は私にはあまりに眩しく、まるで光に引き寄せられるかのように、私はだんだん彼女に惹かれていった。
夏休みも中盤に差し掛かった頃、珍しく砂月が私に言い返して来たことがあった。私の進路のことだ。彼女は自らもまだやっとヨチヨチ歩きを始めた所だと言うのに、生意気にも私の選択に異議を申し立てたのだ。当然、ムカつきもしたが彼女の言うことは真理だった。私は、自分がヨチヨチ歩きの砂月に愚痴なぞを吐いたこととその答えがどうしようもなく正しいことに何故か笑いが込み上げてきてしまった。当の砂月は目を丸くしていたが、それから私は彼女の言うとおり自分の目で確かめるため、私の演劇の目標であるとある劇団に道場破りに行ったのであった。
プロの劇団はやはりレベルが違った。練習に潜り込ませてもらうには少々苦労したが、その分得るものは莫大であった。仲良くなった脚本家に、定期公演の台本も見てもらった。元々、定期公演では『ロメオとジュリエット』を演るつもりだった。でも、砂月に発破をかけられて気が変わったのだ。行きの新幹線で脚本を書き、それを直して見てもらった。
「ふぅん、良くある悲恋モノだね。ロミジュリが元なのも何となく分かる。これ、他に参考にしたもの、他にないの?」
他に?……それは。
「自分の恋愛、ですかね……」
「そりゃあいい。人物の心情や設定にも生かせる。お前の恋愛が元ってことは男がお前の心情だろ?大いに活用できるし、自分の理想像なんかを投影するのもアリだな」
ヒロインの設定は天真爛漫、はつらつとした少女。……道化師を辞めた砂月の姿と重なった。
相手役は快活で明るく、まっすぐに人を愛せる青年。……ひねくれた私とは真逆な性格。いずれ砂月が愛すであろうそんな青年。私ではなりえない人物。でもこの物語の中では彼は私だ。
そうして完成した脚本を持ち帰り、練習が始まった。本番を迎える頃には役者も全て申し分ない完成度だった。ただ一つ、ラストシーンを除いては。演者である砂月の演技は問題ない。ただ、この期に及んで未だに舞台の中でも愛を掴めない青年を虚しく思ってしまうのだ。私は彼に自分を重ねている。だから舞台上でも砂月への愛を手に入れられないことが今更になって哀しく思うのだ。ただの自己愛だ。分かっている。だから、何も言わない。そうすれば舞台はきっと成功する。そう念じて、私は舞台のそばで幕が上がって行くのを見上げた。
――そう。だからあの瞬間、何が起こったのか分からなかった。何万回と見た、青年のラストシーン。彼はその口から初めて聴くセリフを紡いでいた。それは、きっと私が望んだ結末。慌てて、照明とナレーターに指示を出す。……『月の砂上にて』は青年の愛が届く物語になったのだ。
ああ、満足だ。全て終わった。この幕が永遠に上がり続ければいいと思うほどに。それほどまでに私にとって幸せな結末だった。観客もこの結末を称えてくれているのだ。これ以上、演出家としても何を望むことがあろうか。部長の結城が、この脚本をコンクールで使うことを提案してくれたが、丁重に断った。私がいないこの脚本はきっともう上手くは行かない。
撤収も終わり、残すは打ち上げのみだ。私は参加するつもりはなかった。もう充分すぎるほどの達成感を得たからだ。なのに。
「葵先輩!打ち上げ始まりますよ、行きましょう」
なんて。ここらで打ち止めにしておかないと後々、苦しいのは分かっている。そのあと部長にも見つかり、結局楽しく参加してしまったのだけれど。打ち上げも終わり皆散った頃、私はもう来ることがないであろう校舎を見上げた。卒業式も終わり、受験も無事、親教師に有無を言わせぬ大学に受かった。申し分ない高校生活だったと言えよう。
「ただ、恋愛だけを除いては」
我が事ながら笑みがこぼれる。そもそも始まってすらいないのだから当然だ。だが、代わりに舞台上では届いたのだ。贅沢は言うまい。でも、
『ああ、砂月に会いたいな』
夜空には美しい三日月が浮かんでいた。
――「それで、どうして私は呼び出されたのかな?」
よく晴れた春の陽気ただよう午後。まだ三月といえども、桜も咲き進むほどの暖かさが町を包んでいた。
「どうして、って先輩の合格祝いですよ!何であんな難関大に受かったのに教えてくれないんですか?」
「何でもなにも、人に喋るもんじゃないだろう、大学の合否なんて」
「そうじゃなくても受験校くらい教えてくれてもいいじゃないですか。夏休みに言ってたレベルの大学からはかけ離れてるし!」
「ああ、それか。おかげさまで夏休みに東京へ行った時に、広い視野と多彩な知識はあって損は無いと気付いたんだ。だからその劇団に通える、できるだけ大きな大学を親に提示したのさ。演劇を続けることを交換条件にな」
「そんな、あっさり……!日本屈指の名門校ですよ?先輩が頭がいいのは知ってましたけどまさかそこまでだなんて……」
「まあ本気を出せばこんなもんってことさ」
カラン、と目の前のアイスコーヒーの氷が溶ける音がする。砂月はまだ、ムムムとむくれていたが諦めたのかすぐに目線を落とし自分の目の前に置かれたクリームソーダにスプーンを刺し始めた。
「その飲み物はそれが正解なのか」
「いえ?人それぞれだと思いますよ。どのタイミングでアイスを溶かすか、とか氷とアイスの周りにできるシャーベットみたいなのが好きな人とか。私はアイスもちょっと食べたあとに、全部ぐちゃぐちゃに混ぜて飲むのが好きです」
「へえ」
聞いておいてさして興味も無さげに、葵は机に肘をついて窓の外を眺め始める。二人の間には、砂月がアイスクリームをソーダへと溶かす軽くて甘い音だけが残されていた。
「葵先輩」
「何だ」
砂月の呼びかけにも葵は外を見たまま顔を動かさず、答える。砂月がアイスをつつくのを止め、スプーンをグラスに置く音がしたそのときだった。
「愛してる」
その瞬間。外の景色を映していた葵の瞳が大きく見開かれた。まだ二分咲きの桜を捉えていたその瞳はゆっくりと移動すると、まっすぐ葵を見据える砂月の満月のような瞳と重なった。そして葵は絞り出すように
「……何いってんの、君」
言いながら葵は自らの顔が平静を保てなくなっていることに気付いていた。こんなのは、どうせ何かの冗談に決まっているのに。
「告白のお返しです」
「……は?」
告白なんてした覚えも、当然する覚えもない。何いってんの、と再び問い直す前に砂月の言葉が続けられた。
「私気付いたんです。この間の本番のときに」
「……」
「私、ずっと朔という青年について考えていました。ラストシーンもこれで正しいはずなのに、どうしてもどこかが違う気がしてたんです。でも本番、自分が『朔』になりきれたことで気付きました。『朔は葵先輩に似ている』って。そして台本の朔はラストで思考を止め叫ぶだけ、諦めています。……何だか夏休みの先輩に似ている気がしたんです。そう思いはじめると思い当たる節がいくつもあって、ああ、朔は葵先輩の写し身で、また先輩は諦めようとしているんだって思いました」
「……だからラストシーンを無理矢理変えたのか」
「そうです。確かに世の中にはままならないことはたくさんあるけれど、せめて舞台上でだけでも葵先輩には幸せになって欲しいと思ったんです」
「あのエンドが幸せかどうかは人によると思うがな」
「ははは、そうですね。でも先輩は幸せだと思ったでしょう?」
「……さあ、どうかな。それで朔が私だとして、どうして告白なんて流れになるんだ?前にも言ったが『砂月』は役名であって君とは関係ない」
「そんなの、私に朔を演らせたことがすでに大告白ですよ!だって自分の抱いた愛を、相手にも抱かせているんですよ。これを告白と言わずしてなんというのか、ですね」
――完敗だ、そうとしか言えないだろう、こんなもの。
「その推論を持ってしての、告白の返事ということか?」
「そうです!」
はぁ、葵はため息をつく。全部きっぱり否定して言いくるめることもできなくはないだろう。だが、ここまで心中を言い当てられるとその気も失せるというものだ。
「……その返事とやらで君は私に何を伝えたいんだ?」
「だから、愛しています、と」
「いや、それはもう分かった」
「うーん?では、貴女にもらった全てのものごと貴女を愛しています、だったらどうでしょう?」
「……」
絶句である。葵には砂月がなぜ自分に愛の言葉を向けているのか分からなかった。
「その言葉に私はなんて答えたらいいんだ?」
「それは先輩が決めることでしょう」
全く噛み合わないこの会話に先に観念したのは葵だった。
「……『月の砂上にて』の君の推論、全て正しいと認めよう。それならば、分かるだろう?私が君に抱かせた感情は愛だ。それは敬愛や友愛といった生温いものではなく、恋愛や愛慕、欲望による愛だ。君が軽率に言うものとは違う。だから、そんな中途半端なもので、そんな重い言葉を言ってくれるなよ」
葵にとっては生涯まだ誰一人にも言ったことのない、彼女の一番脆い部分だった。普段は強気を気どる葵だが、この言葉はだんだんと尻すぼみになり、有り得ないと諦めることに慣れたはずの、葵の愛を肯定する言葉を願うように変わっていった。砂月は目の前の愛すべき先輩が、普段は決して他人に見せないであろう姿を自分に見せてくれていることに驚いた。すっかり目が合わなくなってしまった先輩に砂月はハンカチを渡す。まるであの夏の始めの日の再演のようだと思いながら。
「先輩。私ちゃんと分かってますよ。先輩の思い。その上で私は、愛してる、と言ったんです」
砂月のハンカチを受け取り、葵が少しだけ顔を上げる。
「届いたのは舞台上だけじゃないんです。ちゃんと、幕が下りても、届き続けているんですよ」
その言葉を聞いた葵は、柔く微笑んだ砂月と目が合う。
「……本気で言ってるのか」
「もちろん。私はもう嘘つきのピエロじゃないですから」
そう言って笑った砂月の表情はまさしく葵の好きなそれだった。
「『月の砂上にて』……この物語は砂月のために書いた物語だ。ああ、まさかそれが報われる未来があるなんて」
思わないだろう?その言葉は掠れて空へ消えていく。カラン、と音をたてたコーヒーはもうほとんど水になっていた。
「そうです、先輩にはまだまだ私のための物語を書いてもらわないといけませんから。一年ほど、先に行って待ってて下さい」
「まったく生意気なやつだな」
そう悪態をつく葵はいつもの調子に戻っていて、砂月はそれを見て笑う。
彼女たちは毎夜思い浮かべる。
月として輝く少女と月に魅せられた少女が、再び出会うまできっとあと少し。
Fine.