下駄箱は開かない
軽快な音楽が流れる体育館では、いつにない華やかさと独特の緊張感が混ざり合っていた。
「じゃあ、もう一回初めから通すから」
目の前の大きな鏡をにらみつけるようにして、手首に大きなタンポポのようなシュシュをつけたリーダーが言う。神妙な面持ちでうなずくメンバーの中で一人、八紘は、自分がげっそりと疲れた顔をしていることに気付いた。
音楽が流れ始める。八紘は、音楽に合わせてぎくしゃくと腰を回した。
◆◆◆
体育は嫌いではないし、どちらかというと得意な方だ。
でも、と八紘は眉を顰める。今回の選択体育にはいまいち気が乗らない。
なにせ、「柔道」と「創作ダンス」の二択だ。
手芸部の先輩からも色々と噂を聞いてはいたが、「創作ダンスは人数が多くてさぼりやすい」とか、「女子だったら柔道の方が先生の評価やさしめだよ」とか、クラスや年代によって様々違うらしい。
クラスメイトたちも同じような情報を聞いていたらしく、仲の良い友だちも決めかねていたので、いっそ相談せずに提出してみようかという話になった。
どうしていっそ、ただ走るとかただ筋トレをするとか、単純な種目にしてくれないんだろうか。しばらく悩んで、八紘は「柔道」の隣の「創作ダンス」に丸を付けた。
どうせやるなら、大人になってからも使えそうなものがいい。八紘は自分が芸のないタイプだと重々承知している。創作ダンスで少しかじっておけば、大人になってから何か一発芸をしなければならない時にも、「踊ります!」で何とかできるのではないか。
――などと思っていた八紘は、自分の認識の甘さに深くため息をついた。
「私、体かたいのかな……」
腰に手を当てて息をついた八紘に、リーダーが小走りで近寄ってきた。
汗で前髪が額に張り付いているが、楽しくて仕方がないというように、輝かんばかりの笑顔を浮かべている。彼女は普段運動している様子はなかったのに、やはり好きなことというのは別のようだ。
「上桐さん、まだ動きが硬く見えるよ。もっと力を抜いて、腰を回すときはこう、手はこう」
「こ、こう……?」
「うーん、惜しいかな。もっと重心をこっちにして、こう」
「う、うううん……?」
まるで別の生き物ではないかというほど滑らかに腰を動かし、右手を海藻のように揺らめかせるクラスメイトを見て、それをまねるように振付を繰り返す。しかし、鏡で見る限り、八紘の動きはどうやらラジオ体操のそれとそう変わらないようだ。
中学での陸上部で嫌というほど味わった感覚を、再びじりじりとかみしめた。残酷なことに、人には明確に得手不得手がある。そしてどうやら八紘は、ダンスは不得手なのだった。
クラスメイトも同じことを考えていたらしく、首を傾げて八紘の動きを見ていたが、ふと窓を振り向いた。
「――なんか、猫鳴いてない?」
「猫?」
八紘も耳を澄ませてみると、確かに外から猫の鳴き声が聞こえてくる。
他のメンバーも気付いたようで、数人がつま先立ちで窓を覗き込み、猫を探している。すると、すらりと背の高いバスケットボール部の女子生徒が「ああ、あれね」と口を開く。
「最近、その辺で鳴いてるみたいなんだよね。迷い込んだのかと思ってバレー部の子たちとも探してみたんだけどさ、声は結構するのに全然見つけられないの」
「そうそう、さすがに学校では飼えないじゃん。敷地から出したいんだけど見つかんないんだよね。誰か餌付けでもしてるのかって、部でもちょっと問題になったよ」
隣のバレー部らしい生徒もうんうんと頷いた。体育館を使う部活では有名な話らしい。バスケ部員は腕を組んで渋い顔をした。
「うちらが個人的に猫を見てみたいってのもあるけどさ、アレルギーの子もいるんだよね。先生たちは一応捕獲用の網とか準備してるみたいだから、見かけたら連絡してもらっていい?」
八紘たちが各々頷くと同時に、創作ダンス担当の若手体育教師・桃井が授業終了の集合をかける。猫の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
◆◆◆
終業のチャイムに背を押されるようにして体育館に出ると、柔道が終わったらしい学生たちが武道場からぞろぞろと外に出てきているようだった。
選択体育は隣り合う二クラス合同で実施されるうえ、体育館と武道場の双方を使うため、混雑緩和を目的としてそれぞれが使う経路を指定されている。
体育館から武道場を経由する形で校舎まで通っている渡り廊下は、基本的にダンス選択者が使う経路だ。武道場は、大会の会場としても使用できるように外に向けての出入り口が大きく作られているので、柔道選択者は昇降口から外を通って入室することになっている。
思えば仲良しの友人――秋山 茜は、合同となる隣のクラスに彼氏がいたのだった。
男子は柔道を選ぶことが多いから、それもあって柔道を選択したのだろう。一発芸のことを考えていてすっかり忘れていたので、珍しく茜と選択授業で別のコースとなった。
いつものように一緒に更衣室まで戻ろうかと渡り廊下側の武道場入口を覗き込んでいると、クラスの男子に声を掛けられた。
「上桐さん、もしかして秋山さんのこと待ってる?」
「あ、うん。一緒に戻ろうかと思って」
「多分、下駄箱のところにいるよ。ほら、隣のクラスの雛田いるじゃん? 下駄箱、開かなくなったっぽい」
「ええ!?」
「あれ、立て付け悪いみたいで時々ひっかかるんだよな。で、隣のクラスの体育委員と雛田と秋山さんで一緒に下駄箱開けようとしたらしいんだけど、どうしても開かないんだってさ。さっき秋山さんが先生に言ってるとこ聞いたよ」
「そうなんだ……。行ってみるね、ありがとう!」
クラスメイトに軽く手を振って、武道場へ向かう。隣のクラスの雛田とは、面食いの八紘から見ても百点満点の美男子・雛田 享のことだ。彼は残念なイケメンならぬ「可哀そうなイケメン」として校内でも認知されつつある。トラックに轢かれかけた翌日に原因不明の体調不良が全快する等、幸と不幸のバランスが極地で取れているような彼は、今日も変わらずささやかなアンラッキーを引き当てたらしい。
ちなみに、隣のクラスの体育委員――薄葉 史郎という――が茜の彼氏である。おっとりと穏やかな薄葉のことをしっかりものの茜が放っておけずに、いつものように付き添っているようだ。
渡り廊下から武道場へ入ると、確かに道場の向こう側にある玄関口あたりに数人の人影が見えた。八紘は、小走りで道場を横切り、玄関口にしゃがみこんでいるような数人の姿に声を掛けようと口を開いた。
――と、どこからか小さく猫の鳴き声が聞こえた。
思わず足を止める。武道場の外から、誰かを呼ぶように、にゃあんにゃあんと声高に鳴いているようだ。
声の大きさから、うろうろと歩き回っているらしい。しかし、八紘のすぐ左側の小窓から声がしたときに外をのぞいてみても、声ばかりがするのみで姿はとらえられない。
内心首を傾げつつ玄関口へ行くと、こちらをまっすぐ見つめる青年とばっちり目が合った。
「お、上桐じゃないか。どうしたんだ、こんな所で」
雛田は涼しい顔で、八紘を見ながら「上桐じゃ」と「どうし」と「んな」のタイミングで、下駄箱の扉を強く引いた。その度に扉はガタガタと何かが引っかかっているような音を立てて震えるが、開くところまではいかないようだ。
八紘は一度、沈黙した下駄箱に目をやって、「い、いや……」とおずおずと口を開いた。
「雛田くんこそどうしたの? 下駄箱開かないって聞いたけど」
「そうなんだ。この通り、何か中でつっ、かえているらしくてまった、く開かない」
「あー、そんな感じするね。でも待って、そのよくわからない力の入れ方はどういうこと?」
「栗林先生が『変なタイミングで引っ張った方が相手も油断する』って言ったから、なるべく適当に引っ張ってみてるんだよねえ」
雛田の陰からひょっこりと顔を出したのは、例の薄葉だった。
色白でふっくらとした顔に不安げな表情を浮かべている。身長はすらりと背の高い雛田と並ぶほどだが、全体的にぬいぐるみのような丸みを帯びた体つきで、威圧感を全く感じさせない。
八紘は、もう一度下駄箱に目をやってから、薄葉に視線を戻した。
「……相手って何?」
「正直よくわかんないんだけど、ここまで開かないと僕らとしても『なるほどな』って思っちゃって」
「あ、そう……?」
「今は先生が工っ具を持ってくるまで、とりあえっずできるこっとをしている、んだ」
「あっ駄目だよ雛田くん、文節で区切ると気付かれるよ!」
「いや、ここまで来たら逆にっあえて来そっうなポイントでも引いてみよう」
「視線! 視線で気付かれちゃうよ雛田くん! 下駄箱の方見ちゃダメだよお!」
体育の栗林先生は40代前半のベテラン教師だ。
小柄ながら彫りの深い顔立ちで、剣道を長く続けているせいかガラガラと掠れた大声をしている。剣道部顧問のイメージもあってか、担当していないクラスの生徒にはよく怖がられているが、実は気さくで冗談好きな先生だ。
おそらく今回も真顔で冗談を言ったのだろうが、そのおかげで男子生徒が二人、真面目に下駄箱を出し抜こうとしている。八紘は軽い頭痛を覚えた。
「おう、開いたか」
「栗林先生!」
凄みのある掠れ声に顔を向けると、ジャージ姿の栗林が玄関口の外に立っていた。薄葉が「まだ開いてませんー」と弱弱しく言うと、眉間にしわを刻んで「そうみたいだな。一人増えてるし」と重々しく頷いた。手には釣りで使うような網を持っている。念のため、八紘は尋ねてみることにした。
「先生、それ工具じゃないですよね」
「そりゃあそうだろう上桐、これはどう見ても網だ。桃井先生がホームセンターで買ってきた」
「工具を取りに行ったんじゃないんですか?」
「体育館の準備室にあるからな。秋山に行ってもらってる」
「あれ? 私、あっちから来てすれ違わなかったですけど」
「準備室には桃井先生か柿本先生がいるだろ。外から声かけて窓からもらって来るはずだ。それより猫見なかったか、猫」
「猫?」
雛田と薄葉は顔を見合わせて、首を横に振った。
「確かに声はしていましたが、ここでは見ていません。こちらには来ていないと思います」
「そうか……。武道場で鳴き声が聞こえたから外をぐるっと回ってみたんだが見つからなくてな。床下にでも潜り込んだか、七不思議が増えるか、だな」
「えっ、こ、怖い話ですかあ?」
七不思議と聞いて途端に顔色を悪くした薄葉に、栗林はにやりと笑った。
「七不思議なんだから不思議な話だろうが。怖いかは個人による。お前たち、新聞部の夏季特集読んでないのか?」
「僕、あれ怖くて見たくないんですよねえ……」
「え、うちの新聞部ってそんなのやってるんですか?」
「例年夏季特集は七不思議と怪談で別紙出してるからな。俺が学生の時からあるモンだが、現部長の神足が入学してからえらく作りこんでるぞ」
神足の名前が出て、八紘は閉口する。雛田も心当たりがあるのか、「想像がつきます」と神妙に頷いた。ちなみに八紘は、一年の夏は悪質な胃腸炎にかかっていたため、夏休み中に一人で期末試験を受けた記憶しかない。
「この学校の七不思議は割と頻繁に更新されてるようだし、このまま夏まで我々体育科教員が捕獲できなきゃ、件の猫も『不思議入り』するんじゃないか? ああ、不甲斐ないねえ」
先生は大げさに首を横に振っているが、不甲斐ないなどとはかけらも思っていないような声色だ。雛田は下駄箱から手を離して思案するように腕を組んだ。
「俺からすると、俺の靴しか入っていないはずの下駄箱が開かない事も十分不思議ですが、これは『不思議入り』していないのですか?」
「いいところに気付いたな、雛田。俺の学生時代はこれも七不思議に入ってたぞ」
「えっ」
「それも怪談込みでな」
「ええっ!?」
怪談と聞いた途端、薄葉は肩を跳ねさせて下駄箱から距離を取った。
栗林はその反応に満足したように一度頷き、「俺がまだお前らくらいの時にな」と話し始めた。
「町はずれのスクラップ工場が潰れるっていうんで、そこに置いてたこの下駄箱が寄付されたんだ。その工場、死亡事故があったらしくてな。機械に人が巻き込まれて、バラバラになって亡くなったらしい。だが、片腕だけがどうしても見つからない。現場にはこの下駄箱もあったそうだ。寄付された時はまだこんなに錆びてもない、綺麗なもんだった。だが、今みたいに時々開かなくなることがあってな。そこからある噂が立ったんだ」
“――内側から、腕が扉を押さえているんじゃないか。”
「もしかしたら、事故にあった人間の腕が今もまだこの中にあって、こうやって扉を押さえて――」
「や、やだあああ!」
薄葉は情けない声と共に、雛田の両肩をしっかり掴んで下駄箱と対峙した。盾にされる形になった雛田は、冷静に下駄箱を見つめて口を開く。
「……しかし、普通は寄付前に中を改めるのではないですか? 綺麗な状態だというなら猶更、クリーニング等をかけた可能性もある」
「それに、年末は武道場も大掃除してますよね? 中に何か入ってるっていうのはあんまり考えられないと思いますけど……」
「しかもこれ、下駄箱だからな。金庫とかならまだしも、死してなお開けられたくないというのもおかしな話だろ。……ということで、次の年の七不思議からは早速外されたわけだ。薄葉は騙されやすそうだから今後の人生では気を付けろよ」
「う、ええ……?」
どうやらからかっただけらしい。きょとんと瞬きをして、薄葉はおそるおそる下駄箱を見つめている。なんだか気の毒になって、八紘はつとめて明るい声を出しながら、開かない下駄箱の上部に暗く口を開けた細い窓へ右手を突っ込んだ。
「こんなの、立て付けが悪いとか錆びちゃって動かないとか、そんな感じじゃないかな! ほらっ、ここにも別に何も――」
「何も無いしね!」と言おうとした八紘は、指先に何か細く硬いものが触れたため、そのままの勢いで手を引き抜いた。
「何かあるよ!?」
振り返りざまに言うと、薄葉は「ひえええ」と雛田の後ろに引っ込んだ。
「やっぱり腕が入ってるんじゃないかあ!」
「い、いや待て上桐、俺の靴が入っているんだ。何かあるにはあるぞ」
「そ、そうか……それもそうだよね! うん!」
「なんだ、俺の怪談も捨てたもんじゃないな。落ち着いてもう一回確かめてみたらどうだ?」
確かにそうだと思い、一度深呼吸してからもう一度手を入れてみると、どうやら人差し指から小指までなら、指の付け根あたりまで入るようだ。四本の指で先程の感覚があった場所を恐る恐る探ると、細い棒のようなものが触れた。指を滑らせてみると、カサカサと乾いた質感だとわかる。
木の枝のようだが、もしかしたら、人の手が乾ききったらこうなるのだろうか。ふと頭をよぎった思いつきにぞっとして、八紘は静かに手を引き抜いた。
「や、これ……靴って形じゃないと思う。木の枝? みたいな?」
「そ、それって人の手がカラカラに乾いたやつなんじゃ……」
薄葉はどうやら八紘と同じことを考えたらしい。前から見ても皴になっているほど雛田の体育着を強く掴んでいる。だが、当の雛田は「誰かがいたずらで木の枝でも入れたんだろうな」と実に現実的な見解を口にして、自身で納得したように一つ頷いた。
と、次の授業への予鈴が響いた。栗林はちらりと腕時計を見て、「もうこんな時間か」と呟いた。
「そろそろ次のクラスの奴らが来るな。上桐、ちょっと秋山を見てきてくれるか?」
「わかりました」
「ぼ、僕が行きますよお!」
震える声で言う薄葉を、太い眉の下から強い眼光で見据え、先生は「駄目だ」と無慈悲に言う。
「お前は雛田と下駄箱開けラストスパートだ。枝が引っかかってるだけなら、力ずくでやって折れれば開くだろ」
「確かにそうですね。薄葉、一緒に開けてみよう」
「枝ならね、枝ならいいけど! これで腕だったらやだよお!」
八紘が薄葉の泣き言を背に、玄関のサンダルに足を入れて体育館へ向かおうとすると、視界の端に何かがちらりと光った。
咄嗟に目で追うと、どうやら「糸」のようだ。行く末を追って振り返ると、銀のような灰色のような糸が靴箱から伸びている。蜘蛛のそれと見まがうような細い糸だが、確かに外に繋がっていた。
それを追うように外へ足を向けると、武道場から体育館方向へ折れている。糸の意味はわからないが、目的地は同じようだ。
人差し指と親指で軽く銀糸をつまんで、辿るようにして小走りで体育館へ向かうと、武道館の陰から人影が飛び出してきた。
「わっ、茜!?」
「八紘? どうしてこんなとこにいるの?」
ポニーテールを揺らし、いくらか息を弾ませた茜は、右手に工具セットを持っていた。目的のものは手に入れたらしい。
「一緒に帰ろうと思って待ってたら、雛田くんの下駄箱開けようとしてるって言うから。でもよかった、先生も工具待ってるよ!」
「ああもう、八紘まで待たせてごめんね! 桃井先生、これを中々見つけられなくって。着替えは次の休み時間になりそう――ひいっ!?」
突然飛び上がった茜は、その勢いで一歩後ずさった。驚いて茜の足元を見ると、淡い色の三毛猫がこちらをじっと見上げている。茜の足をするりと掠めて現れたらしい。左足を上げた格好のまま、茜は首を傾げた。
「猫? どうしてこんなとこに?」
「この子、噂の迷い猫じゃないかな。最近この辺に紛れ込んじゃったらしいよ……ん?」
首のあたりでちらりと光った何かを見ようとしゃがみこむと、猫もゆっくりと八紘に近づいてくる。淡い茶色の毛に覆われた首元を覗き込むと、光の正体が首輪ではなく、八紘がつまんだままの糸だということが分かった。
「…………え? なんで?」
低く呟いた八紘に構わず、猫は八紘の人差し指をべろりと舐めた。ざらざらとした感触に思わず指を開くと、三毛猫は先程下駄箱の中の枝に触れた指先に鼻を当て、何度か確かめるようにぺろぺろと舌を這わせている。銀色の糸は、首の動きに合わせてふらふらと揺れていた。
「……八紘、あんたお菓子でも食べた?」
「私? ダンスの授業中に? まさかそんな」
訝し気な表情でこちらを見つめてくる茜に反論しかけたところで、にゃあんと猫が短く鳴いた。茜と共に視線を落とすと、三毛猫は突然、八紘の背後へ猛然と走り始めた。
「あっ、猫逃げた!」
「待てっ!」
中学時代スプリンターだった八紘は、低い体勢から振り返りざまに地を蹴ってふわふわの後姿を追う。背後から茜の「そこ左! 曲がった!」と声を受け、流れるように左に曲がると、武道館の玄関口に飛び込む尻尾が見えた。中から「うわあ」と小さく悲鳴が聞こえる。
サンダルの裏を滑らせながら中に飛び込むと、猫はまっすぐに閉ざされた下駄箱を見上げていた。
「――いいか、誰も動くなよ」
網を構えた栗林がすり足で猫に近づく。雛田は下駄箱の扉に手を掛けたまま、薄葉は尻餅をついた格好で固まっている。
三毛猫は尻尾をふらりと揺らし、背をそらすようにして「にゃあん」と長く鳴いた。同時に、栗林が網を振り下ろし、八紘が「待って!」と叫ぶ――
――途端、雛田が手をかけている下駄箱が、ガタガタと暴れた。
下駄箱全体が揺れるほどの勢いで、この箱の中で何かが跳ね回っているようだ。
雛田が咄嗟に扉を引くと、中から茶色く干からびたような“何か”が滑り落ちる。五本指のついた、干からびた右手のような“それ”を、雛田の腕に足を掛けた猫がくわえ、後ろ足を蹴って玄関口から飛び出していった。
入れ違いで駆け込んできた茜は、息を切らせながら外を指さす。
「八紘、猫出てっちゃった! マタタビみたいなのくわえて、そこの木上って塀の外にぴょーんって……って、どうしたの?」
全員どこか呆然とした様子で茜を見つめていることに気付き、眉を顰めて問うと、茜のおっとりとした彼氏は、いつになく湿っぽい声で「腰抜けちゃった……」と呟いた。
八紘と栗林が雛田の後ろから下駄箱を覗き込むと、靴の上には色褪せたキャットフードの袋が、まるで昔からずっとそこにあったかのように置かれていた。
雛田は袋を持ち上げ、下から靴を引き出す。袋の口は開いており、中身はどこかくすんだ色をしていた。
「――亡くなった人は」と、雛田はぽつりと言う。
「あの猫に、こっそりエサをやっていたのかもしれないな」
下駄箱の中には、もはやあの銀の糸は残っていない。誰の思いだったのかは結局わからないし、中で暴れた“何か”のことも、猫のことも、確実なことは一つもわからない。ただ、八紘も、雛田が言ったことが正解であるような気がした。
栗林は、顎を撫でながら唇の端をにやりと上げる。
「こりゃあめでたく再度『不思議入り』だな」
「――七不思議のことですかァ、センセ?」
背後から猫なで声が聞こえて振り向くと、体育着姿の新聞部長――神足 巡夜が、不気味なほど愛想良く微笑んでいた。
◆◆◆
『開かずの下駄箱』(新聞部夏季特別号 19●●年/7月)
武道場の下駄箱には、時折開かなくなる扉が一つある。
昨年、倒産したスクラップ工場から寄付されたその下駄箱は、死亡事故現場に置かれていたものだった。機械に人が巻き込まれて、バラバラになって亡くなった事故は、企業の倒産にまで繋がった大事件だったが、いくら探しても被害者の右腕だけがどうしても見つからなかった。そのため、時折開かなくなる扉は、見つからなかった被害者の腕が内側から押さえているのではないかと言われている。
<続報>
・腕、謎の猫によって盗まれる? 被害者の飼い猫の霊?←興味深い
・いたずら説ぬぐい切れず。キャットフード等を一時的に隠すために利用したか。
・古いキャットフード入れる→マタタビ入れる→開かない/目的不明。これも怖いな。
総括:雛田事案以来、下駄箱に不調なし。解決してしまった可能性有、載せるなら今年。
うん十年ぶりに返ってくる七不思議はおいしい。⇒採用予定。要取材!
うっすらホラーものその2。
下駄箱とかポストが開かない時、内側で何か押さえてたら嫌だなあと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
【おまけ/体育教師の皆さん】
栗林先生:剣道部顧問。40代のベテラン。おじさん。真顔で冗談を言う。自分の冗談に自分で笑う。
柿本先生:体操部顧問。30代の女性。現役時代はインターハイに出場していた。怒らせると怖いらしい。
桃井先生:野球部副顧問。20代の若手。熱血系だがから回っていじられている。網は1つ700円で購入。