始まった夏季休暇
夏休みのプロローグ的な。
「ただいま」
家族の眠る墓に帰宅の挨拶をする。軽く掃除をして、水をパシャリと掛ける。じりじりと照りつく日差しは、緑に生い茂った桜の木々に阻まれて疎らな光を投げかけていた。
(高校は、楽しいよ。友達もできた。まだ入って四ヶ月も経っていないけど、いろいろあったよ)
墓の前に立ち、瞼をそっと閉じ今日までを思い出す。数か月ぶりなのに、ひどく家が懐かしい気がした。
ふと振り返れば、桜越しに屋敷の屋根が目に入る。じいちゃんがここに越してくる前からひっそりと佇んでいるという、この木造の洋館。
ここには、祖父との記憶を刺激するものが多い。そういえば、幼い頃、桜の木の下でじいちゃんと母さんと、毎日のようにパズルをしたっけ。
(じいちゃん、俺頑張るよ。例えじいちゃんが望んでいなくても)
決意は、誰にも聞かれることはなく、蝉の鳴き声がうるさく響くだけだった。
◇◇◇
ゲンジロウは桜に囲まれた墓にとくとくと酒を注いでいた。おもむろに墓の正面に座り、瓶に残った酒を呷る。きりりとした味が舌を楽しませ、焼くように喉を過ぎていった。
「久しいのう、キイチさん。あんたの孫は、強くなったよ。まるで昔のあんたみたいだ」
瓶を横に置いて胡坐を掻く。
「あの子は何かを探してる。鬼気迫る勢いで、あんたの書庫を漁っていたよ。……キイチさん、あんたはあの子に何を残したんだい?」
答えなど、返ってこないことは百も承知。そもそも答えなど最初からわかっている。しかし問わずにはいられなかった。
「キイトは、優しいから、殺された家族の仇を討ちたいんだろうが……」
今は見る影もないが、昔は天真爛漫を表したような子供だった。優しくて、情に厚い。十二で両親は亡くなり、感情が外に出づらくなった。十四で祖父も亡くなり、表情はほとんど溶けることはない。両親は事故だったが、祖父は明らかに他殺。人格者で有名だったキイチが、殺されるほどの恨みを買うはずがない。
警察に圧力がかかったのか、捜査は宙ぶらりんのまま。圧力をかけられるのは、貴族に限る……。
「相手が七家じゃあなあ、分が悪すぎるのお」
瑞々しい白い花が、そよりと風に揺られた。キイトが朝、供えたものだろう。どこからか迷い込んだ一匹の蛍が、ふよふよとゲンジロウの前を漂い、桜の向こうに消えた。
◇◇◇
時は少し遡る。
ぺらり、ぺらり。
ミーンミンミンミン。
ぱらぱら。
紙をめくる音と蝉の鳴き声だけが部屋を支配している。ほかには年を重ねた本と木の、独特の匂いがするくらい。キイトは既に何日も書斎に籠り、ゲンじいの修行に連れ出される時間以外は本を読み漁っていた。
今読んでいるのは、『光の縁』という作者不明の本だ。学校から借りてきた禁書である。
――皇家には、皇族とはまた別の親戚がいる。皇家は鏡の一族であり、人の内面を映しだすことに長けている。橙嶺家もまた心を映し出すが、こちらは幾分単純であり人の善性を見極めるが、皇家の血の鍵は本人の意思により他者の深層にのみ反応する。彼ら光の一族の、祖とでも言うべき、いわゆる自身の鍵を血の鍵にした大日本皇国初代の帝、光には兄弟がいた。色が混じれば白と黒が生まれるように、光があれば明暗ができるように。光を弾く白練家と光を吸収する烏羽家が生じた。
――それぞれもまた血の鍵を有し、皇家を支えていた。残念なことに鍵の能力は明らかにはなっていないが、とても重要なものだったらしい。しかし、いつしか彼らは時の流れの中に消え、名を聞くこともなくなった。一説によれば、白練は既に絶えているが、烏羽は名を変えて存続しているという。
今まで読んできた本とは雰囲気が違うが、なんだかあんまり関係なさそうだ。力を失っているなら、警察に圧力など掛けられない。そもそも、七家がなんで俺の家族を殺したんだ?
何度も頭に浮かぶ疑問は解消されないままだ。考えても仕方がないので、次の本を手に取る。今度はこの書斎にあった『血の鍵の秘密に迫る』を開く。
――鍵が受け継がれる条件は、一体何だろうか。昼夜問わず各国が研究している鍵。しかし、血の鍵――世代を超えて受け継がれていく鍵は我が大日本皇国にしか存在していない。本当はあるのかもしれないが、聞いたことはない。七家の当主及び、後継者がよく他国の者達に狙われるのはそのためである。
――鍵の深化という言葉を聞いたことがあると思う。まだまだ研究途上の分野であるから詳しいことはよくわかっていない。現在発見されているのは第三段階まで。血の鍵になるにはおそらくその先の深化が必要である。発現している者が七家の初代に限られている点から、彼らに何かしらの共通点を見出さねばなるまい。挙げられる候補としては……
面白い考察ではあるが、どれもピンとは来ない。ただ、参考になる気がして鍵の深化に関する本を漁る。一度読んだことがあるものもだ。『鍵の起源』『鍵史』『世界の鍵・分類の新研究』『深化論』などなど。
いつの間にか眠り込んでいたらしい。肩にはブランケットが掛けられていた。ゲンじいだろう。日は既に落ち、丸い月が出ていた。ゲンじいは墓参りをしているのか、墓の方から気配がする。
「っと」
起き上がろうとしてふらつき、積み上げられた本が崩れた。あちゃー、と溜息をつき軽く片付けようとした時だ。
(ん?)
真っ白な本だ。丁寧な装丁だが、題名も作者も書かれていない。それどころか、中に何も書かれていなかった。ノート、というわけでもなさそうだ。絶対に初めて見る本なのに、なんだかとっても懐かしいような、不思議な本だ。
はらり、と音がして床を見ると、白い栞が落ちていた。どうやら挟まっていたらしい。拾い上げて引っくり返すと、じいちゃんの字があった。
『この本を見つけたということは、時が来て、お前は資格を得ているということだ。私の日記を探しなさい』
その字は俺が読み終わると段々と薄くなり、初めから無地の栞であったかのように真っ白になった。不思議な栞だ。じいちゃんの鍵の能力だろうか……。じいちゃんは自分の鍵については何も教えてくれなかったからなあ……。
それに、じいちゃんの日記?そんなもの、見たことない。とりあえず、白い本を自室に持ち帰り、日記は明日探すことにする。見当もつかないものは、落ち着いて調べねば。冷静であろうとする俺が、そう囁いた。真相に一歩近づき、三歩遠ざかったような、そんな気分で俺は書斎を後にした。
ブロロロロロロ……
科学技術及び、鍵の研究が進んだ今の時代も、正確なもの、正式なものは紙媒体で扱われている。なぜ唐突にこんな話をしたのかと言えば、キイトの目の前に二通の封筒が届いているからだ。差出人は、一通は紅崎レイナ、もう一通は橙嶺アキヒトである。……なんで俺の住所を知っているのかとか、聞いてはいけないんだろうな。
キイトの目には、禍々しいオーラが見えてならない。しかし開けないわけにもいかないので、覚悟を決めてびりびりと封を切った。近くにペーパーナイフなどないのである。探せばあるかもしれないが。
キイトが初めに封を切ったのは、紅崎先輩のほうである。どうせなら、悪い知らせから。それがキイトの考えである。拝啓から始まる、手紙のお手本のような手紙だ。
『元気にしているかしら、しているわよね。八月の半ばに紅崎所有の訓練所で合宿があるの。来なさいな』
要約すればこんな感じだ。女性らしい柔らかな筆跡の問答無用な命令である。
今度は橙嶺先輩の手紙だ。こちらは簡潔で用事のみだ。
『八月末に今年の学園祭の出し物を決めるから、うちに来い。招待状は同封しておく』
二つともあまり良くない知らせだろう。もしかしたら敵地だ。橙嶺の招待には応じねばなるまい。これからも会うし、関係悪化は避けたい。問題は紅崎先輩の招待状だ。手紙と睨みあうこと、数分。俺の目の前から手紙が消えた。
「なんじゃ、あの小娘から訓練の誘いか?よし、行ってこい」
ゲンじいの命令が下ったところで、俺の行動は決定された。ゲンじいは、恋文ではないのか、つまらん。そう言って手紙を放り出した。俺は慌ててそれを拾う。
でも、よくよく考えれば紅崎の訓練所では色んな貴族がいるだろう。何か情報が得られるかもしれない。そう前向きに考えることにする。暑い夏は、まだ始まったばかりだ。