五月の苺
委員会、部活の勧誘週間も無事に過ぎ、今はゴールデンウィークである。キイトは寮の自室でキッチンの前に立っていた。
鍋はくつくつと音を立て、部屋には濃厚な甘い匂いが漂っている。キイトは中身が焦げないようにリズミカルに木べらを動かす。
キイトはジャムを作っていた。イチゴジャムだ。
粒がある程度残るように苺を潰しながら火にかける。木べらで描いた線が気持ち消えにくくなったら完成だ。コンロから下せば宝石のように鮮やかな赤が目に映る。
冷凍してから作った方が色がきれいだ。冷凍しないと冴えない灰色がかった赤になると感じるのは俺だけだろうか。
冷める前に瓶に詰める。自分用に一つ、お裾分け用に六つ。零れないように慎重に鍋を傾ける。余れば冷凍庫行きだ。
なぜキイトはジャムを作っているのか。
そこに苺があるから。
小量なら、たぶんそのまま食べただろうし、多少多いならタルトかケーキにしたはずだ。キイトは甘いものは苦手ではないから。多少より少し多いなら友人たちに分けただろう。しかし、じいちゃんの友達が送ってきた量は尋常ではなかった。
コトシホウサク。シバラクシタラ、イク ゲンジロウ
電報のごときメールが届いた。昔の癖が抜けないのはわかるが、その日は意味が分からなかった。わかったのは翌日、寮母さんに大きな発泡スチロールの箱を渡された。三つ。一つを開ければ甘い匂いが広がった。二つ目を開ければ艶やかな赤が目に美しい。三つ目を開ければ溜息がでる。つまるところ、全て苺だった。
こんなに食えるか、そう思うのは不可避であった。
(しばらく苺は見たくない)
キイトはジャムを作り終え、続いて明日喫茶同好会に持っていくタルトを作りながらそう思わずにはいられなかった。
扉の前でインターホンを押す。一拍おいてぴろんと間の抜けた電子音が部屋の主人を呼び出した。
「あれ、キイト?珍しいね、藤寮に来るなんて」
「お裾分けだ。消費の助力を乞う」
マヨに瓶詰のイチゴジャムと生の苺を二パック押し付ける。
「ありがとう。タルトは?」
流石我が幼馴染だ。俺の行動を的確に把握している。相当苺がないとジャムか苺、どちらかのお裾分けになるからだ。付き合いの浅い双子とユラギは気づかなかった。
「おまえの分はない。小麦粉とバターが切れた」
「そう」
言ってからしまったと思った。もう遅い。すうと目が細くなる。幼馴染がサンダルから運動靴に履き替え戦闘準備を整える前に、俺は今度作ったら持ってくるからと言って戦略的撤退を敢行した。明日になればマヨは忘れている……はずだ。
放課後、マヨに何も言われなかったことに胸をなでおろし、敷地の東を目指す。
喫茶同好会は休み明けの放課後と決まっている。
お茶は常に部室とは名ばかりの小さな屋敷内の一室にズラリと並んでいる。茶葉はいつの間にか誰かが足していて消費が追いついていないらしい。
お茶請けは気が向いた人が持ってくる。ただ、持っていくときは前日の正午までに連絡をしなければならない。誰も何も持ってこない時は喫茶室でお茶を飲みつつカードをしたり、読書をしたり、雑談をしたりだ。茶室もあり、茶道部が使うこともある。
なぜ部室が豪華なのか。それはひとえに橙嶺家の特徴にあるだろう。橙嶺家は代々執事や従僕、侍女を輩出してきた家で、光家の筆頭執事は橙嶺の当主である。喫茶とは切っても切り離せないのだ。開校したとき当時の橙嶺家当主は、お茶好き、もしくは人に仕えるのが好きな人間を見つけ、そして配下にしようと画策した。
効率よくそんな人材を集め教育するために資材を投じてこの屋敷――夕暮れ茶館が建てられた。今でこそあまり人気はなく寂れているが、最盛期は面接をしたそうだ。
似たような理由で七家がスポンサーの部活が存在する。
「キイトさん、今日はお菓子持ってきたんですか?」
期待に目をきらきらさせて俺を見るのはカンナだ。森林演習の時の腹ペコ少女である。あの時完全に料理上手――いや、おいしいものをくれる人と認識されてしまったようだ。
彼女もまた喫茶同好会の一員である。道に迷ってうろうろしていたところを、同好会の先輩に保護されたらしい。なし崩しで入った同好会だったが、案外楽しみになってきた今日この頃である。
◇◇◇
喫茶室でのんびりしているとお茶と菓子が運ばれてきた。柑子が手ずから紅茶を淹れてくれる。柑子は同好会で、悔しいが一番お茶を淹れるのが上手い。自慢の副会長だ。入会当初は、とてもではないが飲めたものではなかった。泥水の方がましだったかもしれない。それを思いだすと感慨深い。
すっきりとしたディンブラ。タルトのクッキー生地はほのかに塩が利き、さくりと口の中で崩れ、甘い苺とお互いを引き立てる。もう一口紅茶を含めば口の中はリセットされて、また甘いものが恋しくなる。
次にスコーンに手を伸ばす。最初はそのまま。小麦の豊かな香りとほのかな甘みが口いっぱいに広がり、咀嚼するほど強くなっていく。もう一つスコーンを手に取り、今度はバターとイチゴジャムを乗せる。口に近づくほどに高まった期待は裏切られなかった。甘酸っぱいジャムに、こってりとしたバター、こっそりとだが自己主張する小麦。すばらしい。
榊はクロテッドクリームを買い忘れたらしい。柑子がスコーンを預かったときに尋ねたところ、あ、と言っていた。しかし今日は城守がジャムまで持ってきていた。神の采配と言わざるをえない。
城守は料理が上手い。俺の舌に狂いはなかった。あの時語りに語って入会してくれるまで粘った甲斐があったというものだ。……茶やコーヒーを淹れるのが下手くそだったのは誤算だった。
榊は隠れた名店に行きつく確率がやたらと高い。このスコーンの店も聞いたことのない名だったし、以前分けてもらったクッキーもうまかった。新歓週間にこれを保護した甘利は表彰ものだろう。
俺は期待の新入生に目を向ける。早々に自分の分を食べ終えた榊が、城守の手元のタルトを凝視していた。本人はチラチラ見ているつもりかもしれないが、タルトにはグサグサ視線が刺さっている。城守も気づいているらしく、無表情だが心で笑っていた。
「柑子先輩のお茶はおいしいですね」
あからさまに時間を稼いでいる。ダメだ、榊の視線は全くぶれない。しかし、時は無情にも過ぎ、ついに城守がフォークを手に取った。殊更ゆっくりとタルトに近づけていく。榊の顔が段々と悲痛に、口がああー!と言いたげに開かれていく。城守が途中でピタリとフォークを止めれば、榊の顔の変化もピタリと止まる。
城守はタルトの皿にフォークを置いて榊の方へ差し出した。榊の顔がパッと輝く。そこで皿を今度は榊から引き離せば、さっきの表情に逆戻りだ。頑張って表情筋を固定しているが、やばいかもしれん。横を見れば柑子の顔は真っ赤だし、甘利は声を殺してケラケラと腹を抱えて笑っている。
流石に可愛そうになったのか、遊びつくした詫びなのか、城守は食べる?と聞いた。
「いいの?」
期待に満ち溢れた目は城守の頷きにより更に輝き、お礼を言って幸せを全身で表しながらもぐもぐと食べ始めた。
「先輩方も、我慢しなくていいと思いますよ?」
健康に悪いですよ。そう言われて俺たちは一斉に爆笑した。榊は不思議そうにこちらを見ているが、興味は食べかけのタルトに戻ったらしい。
今年も愉快な一年になりそうだ。