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 どれほどの時間が経ったかわからないが、レアは大海原にぷかぷか浮かぶカメにつかまっていた。しかもカメは死んだようにひっくり返り、波に流されるまま動きやしない。レアはさながら流木に捕まる漂流者だ。救助船はまだ見えない。


「ねえ」


 レアはカメの腹をノックする。すると、もぞもぞとヒレが動いて、半分水中に沈んでいた頭がひょっこり出てきた。


「あんたまだいたの。わしゃ知らんがね。ここ以外のどこにも行ったことはない。こんなとこ、ほかに何もないだろ。しーらんぺしーらんぺ」


 カメは歯抜けの老人のようなふにゃふにゃの声で答えた。


「こっちは残念ながらしーらんぺではすまされないの。やっと掴んだ頼みの綱を放すわけにはいかないわ。面倒くさがらないで教えて! そうしなきゃ、意地でも離れないから!」

「しつこいなあ」

「あなたがちゃんと答えてくれないから!」


 三度目ともなるとレアもイライラしてくる。

 レアが海に着水し、次に空を見たときにはもう赤毛のブタは形も音もなく飛び去っていた。もらった羽根は飾った具合がよかったので、キャノチエに挿した。それから周りを見渡しても人っ子ひとりいない。きらきらの海、はるか頭上で輝く太陽。パラソルが欲しくなる夏のような日差しにキャノチエを深くかぶり直した。それから数年ぶりの水泳にひいひい言いながらあてもなく泳ぎ回り、ようやくここの住人に出会えたのである。しかし、このカメはなまけもので、何を聞いてもしーらんぺと言って、死んだふりをする。


――君がここでこのカメに出会ったということには意味があるはずだ。


 手首に巻かれた糸の先にいるヴァルハマにしきりに言い聞かせられなければ、レアはとっくにひっくり返ったカメをさらにひっくり返してやっただろう。


――心に誰かが入ったとき、持ち主は無関心ではいられない。知ってほしい、でも知られたくないという二つの思いがあって、それがここの住人と君とを近づけるのだよ。つまり君が動き続ければ、いずれ出会える。


 レアが今唯一頼れるものは、いつ切れるともわからない金の糸だけで、ヴァルハマだった。人の心を癒せる《魔法使い》を信じるほかなかった。依存しているな、と思ったら、ヴァルハマがぴしゃりと言った。


――私ばかりに頼っていけない。糸はいつ切れるともわからないと言っただろう。


 あっけなく突き放された。美しいドレスが引き裂かれたように、胸が苦しくなる。嫌なことを思い出そうになる。


 レアは胸の中でさえこぼれるのを恐れて、それから二度カメの腹をノックしている。


「うーむ。しーらんぺはしーらんぺ。外のこともしーらんぺ。さかさまのわしにゃなんにも見えん」

「だったら仰向けをやめればいいじゃないの! そうすれば見えるものも見えるようになるでしょ!」

「やだ。見えることは見えなくなるだろ。だったらわしゃ寝る」


 カメが首をふたたび水中に沈めようとして、レアはあわててそのまんまるな体を揺さぶった。


「待って待って! だったら何でもいいから、お話しましょう。わたし、ここからどういけばいいのかわからないの。それがわかるまででいいから! お願い!」

「めんどくさいなあ。あんたにべったりくっつかれると重いし、疲れるし。ふーむ」


 ぱたん、ぱたん、とヒレが思案げに水面を叩く。レアを見つめる黒い瞳はさながらビー玉のように、内面を見せなかった。レアは唾を飲み込んで、その返事を待っていた。


「あんたと話すのはごめんだわ」

「あなたも頑固なひと……じゃなくて、カメねえ。だったら意地でも」


 言いかけた言葉尻をカメがさらった。


「教えると言っているんじゃ、ボケ」


 レアはまじまじとカメを見つめる。


「知ってるの」

「知ってることが見たいとは限らないからなあ。見るのもめんどくさい。あんたが見たって、しょうもないもんだ。つまらん。あんたはもっと怒るぞ」

「別にわたしは怒るつもりはないわよ」


 カメは肩を竦めるように首をひょいと引っ込めた。おお、怖い、と言わんばかりに。


「さてね、わしゃ知らん。しーらんぺ。あんたがここを通り抜けようともしーらんぺ。あんたがなにを見てもしーらんぺ」


 ソレ! カメが掴まっているレアごと身体をひっくり返した。水中に引きずり込まれ、世界がぐるん、と半回転する。レアは水をたくさん飲んでしまった。ぎゅっと目を瞑って後に開けて、半回転した世界を見渡す。やはりそこも海だった。でもカメは仰向けじゃない。レアはその固い甲羅の上にちょんと乗っていた。息もできる。


 レアは砂時計をひっくり返すように、頭から水中に浸かったはずなのに、そのまま水中から頭を出したような形だった。


 なんだか妙な感じ、とレアは思った。感覚がとっちらかって、ぐちゃぐちゃになりそう。


「ほれ、あんた。あっちを見てみい」


 めっきり普通のカメになったカメが、ヒレで前方を指差した。すると、一艘の舟が漂っている。舟には二、三の人影がある。風に乗ってはしゃいでいるような声が届いた。


「これでいいだろ。なんもかも、あんたの望みどーり」

「ええ、ありがとう。感謝するわ」

「わしゃ、なにもしーらんぺ」


 その声はちょっぴり優しかったかもしれない。でもレアはそんなにすぐには気づかなかった。なぜなら、カメがそう言った途端に続けて、じゃ、帰る、と言って、ブクブクと海中に沈んでいってしまったから。レアはひとりきりで海に放り出されてしまった。また掴まるものがない。とはいえ、やることは決まっていたから、舟を目指して、泳ぎだす。顔を上げたままの平泳ぎだが、二度目ともなるとなんとかなるもので、レアは少しずつ舟に近づきつつあった。


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