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王子さまフルスロットルです

 レアは十六才。結婚はつまらないと思っている。盛りを待っていた若いつぼみがようやく花開き始める年ごろで、世間の淑女たちはみな将来に思いを馳せて、胸躍らせているというのに、彼女はシニカルだった。物語を夢見ているのに、現実に夢を見られない。すでに婚約者がいるレアには、夢見る余地がなかったのだ。


 婚約して二年経つが、ダ―ヴィドは女遊びをやめない。たくさんの恋人がいて、たくさんの浮き名を流している。レアがその場にいようとも、甘い言葉の応酬がやむことはない。みんな好きだから、と彼は笑っている。レアには理解できなかった。ただ、体中に蛆が湧いたような凄まじい嫌悪が湧き上がってくる。


(どう考えても、幸せな結婚が思い描けないわ)


 きっと、結婚してもこんな日々が続く。レアはないがしろにされたまま。世間では「忘れられた婚約者」として通っているらしい。


 ある種の諦念が彼女を支配していた。レアにはもうこの状況を変えられる力はないのだと。すべてを諦めた彼女は、すでに熱心に婚約話を進めていた祖父に破談を願った。しかしそれを伝え聞いた先方が断ったという。王家の意向ならば、レアにはどうにもならない。手詰まりだ。


 レアの前には今度行われる公式行事への招待状が封筒に入ったまま散らばっている。王子の婚約者として公表されているために、レア個人にも多くの誘いがかけられていた。ダーヴィドと同伴しなくちゃいけないものもある。どれにも返事をしなければならないが、気乗りしなかった。塀で囲まれた自分の屋敷の中から一歩も出たくない。だから耐えかねて、レアはダーヴィドを呼び出した。


 ティーテーブルに座ったダーヴィドは何かあったのか、と優しくレアに尋ねると、彼女は決然として言い放つ。


「わたし、あなたと一緒にいたくない。いい加減、わたしを解放して」


 ダーヴィドは困ったように肩をすくめる。


「それを決めるのは僕じゃない。父上だよ。レア、君はまだ以前のことを根に持っているの。だから僕にこんな意地悪をするってこと?」

「意地悪? どうしてわたしがそんなことを? これはわたしのため。世間の喧騒にわずらわされるのはもうたくさんよ。穏やかな心を取り戻したいだけ」


 レアはそっと自分の胸を押さえて、顔を俯けた。濡れたような黒髪がひと房肩から滑り落ちた。


「できることならば、あなたに会う前に戻りたい。もうね、疲れきっているの。誰でもいい、婚約者の地位なんてあげるわ。ダーヴィド、あなたがどんな女と寝ようとも構わないけれど、もうわたしを巻き込むのはやめて。あなたを愛する女性なら、あなたへの愛を剣や盾に変えて戦うことはできるでしょ? けれどわたしには何もない……。裸で戦場に放り出されて、もう逃げられないわ」


 静かな沈黙が辺りを満たした。ダ―ヴィドが凪いだ声で言う。


「君は、とうとう僕を愛してはくれなかったようだね」


 レアが顔を上げた先には、落ち込むことも怒ることもない完璧な王子さまがいた。彼の心はどこにあるのだろう、と思わずにはいられない優しい笑み。


「でも僕はきっと君を愛している」


 レアの眼光が夜のネコのように鋭く光った。何を今更、とでも言いたげな嘲笑が顔に広がった。


「そうね、あなたの愛はバーゲンで大安売りできる代物でしょう。わたしでも買えたみたいね。……一緒にしないで」


 愛している。言うのは簡単だ。レアが知るだけでもダ―ヴィドは五人の女にそう囁いていた。ダ―ヴィドにとっての、その言葉の価値は低い。


「君はどうしてそう潔癖なのかな。素直に受け取ったらどう? 君を愛する男が目の前にいて、君に囁きかけているって。僕たちはそんな夢を共有しているんだ」

「一人の男に多数の女がいる夢にわたしも入れと? ごめんだわ。わたしはね、ダ―ヴィド。たった一人でたった一人だけのわたしを見てくれるのが一番いい。その時点で、本来ならあなたはわたしの対象外。あなたにとってもそうじゃないかしら」


 ダ―ヴィドは行儀悪く肘をついて、レアの顔を覗き込む。少しだけ楽しそうに。


「初めはそうだった。でも今は違う。君と話しているときが何よりも自分でいられる。君はいつも素直で本音を話すから、僕は僕が好きな僕でいられる。たぶん、君以上に特別な人は現れないんじゃないかな。君ほど真剣になれる女性はいないよ。だから結婚してもいいと思ったんだ」

「やめて!」


 尻尾を踏まれたイヌのような表情だった。ダ―ヴィドは稲妻のように走った怒りを見て満足する。ダ―ヴィドはレアと話すと安心するのだ。


 人を見透かす鋭く、ひたすら謎めいた黒い瞳と、黒髪を持つレア。いつまでたっても自分になびかない、変わってくれない優しい女。彼女はどれくらいダ―ヴィドの嘘に気づいているのか。騙されまいと必死で耳を塞いでいる姿は、賢いと思うと同時にとても可愛い。レアは決して気づこうとしないだろうが、ダ―ヴィドは真実、レアを「愛している」。


「僕といるのがそんなに嫌?」


 ダ―ヴィドは婚約者に逃げ道を作ってあげることにした。でも回り回って、元に戻るだけの道だ。手放してやる気はさらさらない。


「いや」


 レアは即答した。


「できることなら公式行事に出たくない。引きこもっていたい。本を読んでいた方が何倍もまし」

「だったら、僕と君の予定があまりかぶらないようにしよう。出たくないものは出なくていい。ただ絶対でなくちゃいけないものは出て。でもその代わり、君は僕のために小さなお茶会を開いて。月に一回、互いについて話し合う。これだけ守れば、あと君は何をしていても構わない。僕も必要以上に君にちょっかいをかけたりしないから、結婚前の日々を楽しめばいいよ」


 レアはあからさまに不機嫌そうに押し黙ったが、ついに首を縦に振る。


「わかったわ。そうしましょう」

「取引成立だ」


 ダ―ヴィドは手を差し出した。レアも仕方がなく握ろうと伸ばす。彼女はまんまとダ―ヴィドの罠にはまった。手を握ったついでに二人の距離が一瞬で詰まった。


「婚約者との取引成立なら、これぐらいあってしかるべきじゃないかな」


 綿あめのように柔らかい声音とともに、ダ―ヴィドはふわりと羽根が触れるような優しいキスをした。彼女のファーストキスは彼のもの。憎々し気なその表情も彼のもの。


「何か言いたげだけれど、駄目だよ。遊び人と呼ばれる僕がきちんと線引きをしてあげるんだから、なにか役得がないと……」


 ダ―ヴィドはレアに触れたその唇で、紅茶を啜った。……優雅なこのティータイムも、彼のもの。



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