6
太陽がくしゃみといっしょに飛ばした鼻ちょうちん。レアの身体も巻き込んで、青い空のどこかに向かって、馬車より早く駆けた。レアはぐるぐると眼を回しそうになる。辛くてぎゅっと目を瞑る。
(流れ星だって、こんなに早くないんじゃないかしら……う、気持ち悪い)
考えることで気を紛らわせるのも無理だった。しばらく何も食べていない胃はきりきりと痛む気がしたし、頭の中は理不尽に揺さぶられている。ゆれるのと同じぐらい考え事がぼろぼろと落ちていくようで怖い。さらに身体はべたべた。
それでももう耐えられない! とレアが叫ぶまでには至らなかった。気が遠くなるほど、錐のように回転して進んでいた彼女だが、ふと風が和らいだのを感じた。
足がつく。そろそろと眼を開けると、青い空に小さな立て看板がある。
白に黒字で《不完全な空駅》。よくわからない。
立て看板は何もない空の中でふわふわと浮いている。
ブオォー。
黒い汽車だ。白い煙を吐き出しながら、駅に向かって走っている。ものすごいスピードだ。レアはあわてて駆け出した。まるで足元に透明な板が敷かれたように、軽快に足が回る。
――急ぎたまえよ。間に合わないかもしれない。
レアは頭の中のヴァルハマに怒鳴った。
「わかっているわ!」
汽車が立て看板の前に止まる。ひとりの車掌が顔を出す。彼の髪は蜂蜜色。とろけるような笑みを浮かべたレアの婚約者。
「ダーヴィド!」
ここで会ったが百年目。
わけもわからず、彼女は車掌へと手を伸ばす。ひたすら目の前しか見えなかった。今は死にかけているのだという、ダーヴィド。あと少しで、届く。だが、彼は顔を隠すように帽子のつばを押さえ、すっと身を引いた。
「君は切符をもっていないね。だったらどこにも乗せられない」
感情をすっぽりと忘れてしまった声だった。レアの知らないダーヴィド。レアだって、ダーヴィドを知っていたわけではなかった。
「さようなら、お客さん」
脇腹に衝撃が走った。何かがぶつかったのだ。レアの身体が傾いて、またもまっさかさま。
上では汽車が出発した。またどこかへ行こうとしている。ダ―ヴィドが車両に消えるのを見届けたレアは、胸がむかむかした。
「なんなの、どういうことなの、あのひと! なにさまよ!」
王子さまだということはとっくに知っている。
「これ見よがしに姿を見せて、さようならって……嫌味なの! 信じられない! 頭の中どうなってるのよ!」
――怒ってもどうにもならないよ。切符がないなら仕方がない。乗れないものは乗れないんだから。
ヴァルハマに諭されて、頭が冷える。
「乗れないものは乗れない……確かに。そこで切符を出せる人の方が珍しいわよね」
レアはさかさまになって落下しつつも、自分をそう納得付けた。
「べつに乗れなかったからと言ってどうということもないわよね。ほかにも方法があるかもしれない」
――そうとも。心の表層部分は案外入り込む隙間が多いから。
「ダ―ヴィドがあそこで出てくるとは思わなかったけれど……。ダ―ヴィドの心の世界のダ―ヴィド? あれってなんなの?」
――一番近い表現だと、「駒」と「核」。心を世界としたときに、自分が思うまま歩き回れる駒であり、その人をその人たらしめる核でもある。
レアはわからないというふうに眉をひそめた。彼女の心情が伝わったのだろう。
――私は説明下手なんだ。
初めてヴァルハマが本音を滲ませた。〈魔法使い〉というレッテルが貼ってある怪奇と神秘に満ちた箱からようやく彼本人の顔が垣間見えた。
「だったら質問を変えるわ。現実のダ―ヴィドは、ここにいるダ―ヴィドの意識は持っているの? つまり現実の彼の意識が、あんな嫌がらせをしたっていうことなのか」
――いや、影響することはあっても直接に繋がることはない。だから君がここで何をしたとしても、現実のダ―ヴィドは覚えていないだろうね。
「それならよしとするわ。ここでは何をしてもいい……。あのダ―ヴィドをぎったんぎったんにしちゃっても問題ないということ……」
レアは目の前が見渡す限りの青い海だったときのような新鮮な心地になった。
――君の思考は目まぐるしく変わる。ついていくのは大変だ。
「経験豊富な《魔法使い》さんにそう言ってもらえるなんて、わたしも捨てたものじゃないわね」
ちょっと笑ってから、そういえば、と話を切り替えた。
「さっきはいったい何にぶつかったのかしら」
駅も汽車もすでに遥か上空になっている。レアはきょろきょろと周りを見渡して……。
「わっ!」
「うわあっ?」
おどかす側の楽しげな声と、おどかされる側の間抜けな声が風で流された。
おどかした側は大きな鼻をひくひくとさせて、悪戯の成功を喜んでいるようである。
「ひとりごとばかり言ってるでござるな」
ほんの目と鼻の先には、豚の顔があった。ふっさりとした赤毛が生えた豚がレアをおどかしたのだ。くりくりとした緑の眼が光る。さらに驚くべきことに、そのブタには身体を覆えるほど大きな翼があった。
(翼の生えた豚さん……なんとメルヘンな)
レアはいっそ感心する。ダ―ヴィドの世界とは思えない。とりあえず声をかけてみることにした。
「さっきぶつかってきたってあなたなの?」
「ふふん」
自慢げに胸を張っているつもりのようだった。四足歩行のようなので、飼い主に前足を無理やり持ち上げられたイヌみたいな姿勢になっている。
「あたしは空から落とすのが役目でござる。ぴゅっひゃーと上がってきたところを、ぴゅっびゃーとアタックをかまして地上へ逆戻り。汽車に乗ってきた客も狙い撃ち。ぴゅっひゃーぴゅっひゃー!」
それからもぴゅっひゃー、と甲高い声で繰り返す。独特の言い回しらしい。レアは少し考えて口を開く。
「それでわたしもぴゅっひゃー、と」
「ぴゅっひゃーでござる!」
「そうなんだ、ぴゅっひゃーなんだ……」
「ぴゅっひゃーぴゅっひゃー!」
ブタはバカみたいにぴゅっひゃーを連呼する。
「ちなみにぴゅっひゃーされたあとはどうなるの?」
「ぴゅっひゃーのあとはどぼんでござる」
ちらりと落ちていく先を一瞥する。空よりも濃い青が広がっていた。その中にきらきらと千千に散らした光がいくつもあった。それは水面に立った飛沫の輝き。レアが落ちていこうとするのは、海だった。息を呑むほど美しい光景だったが、今のレアには青い魔物が口を開けて待ち受けているのと同じだ。
見る見る間に水面が近づいてくる。ぴゅっひゃーのあとはどぼんで、ドザエモンかもしれない。
(水死体って顔がぱんぱんに膨れ上がって容貌が見る影もないんだっけ……いやだ。こんなよくわからないところでよくわからないまま死ぬのはなしだわ!)
「どうにかどぼんじゃなくて、ちゃぽんにはできないかしら!」
「どぼんのほうがいい! どすんでもいいでござるよ」
「どすんだと地面激突でしょ! それはいや。ちゃぽんがいい、ちゃぽんちゃぽん!」
「ぴゅっひゃーでどぼん」
「ぴゅっひゃーでちゃぽんよ! せめてちゃぽんで済まさせて!」
ブタはつぶらな眼を瞬かせて、何事かを考えたようだった。
「ちゃぽんちゃぽんちゃぽん……それもよろしいな! ぴゅっひゃーとちゃぽん! 今度からそうするでござる! びゅーん!」
間抜けな掛け声とともに、ブタは大きく翼を羽ばたかせて、レアの下へと回り込んで受け止めた。赤い草地のような背中に必死でしがみつく。
「ぴゅっひゃーでちゃぽん! いい響き! あたしは好きになった!」
喜びのままくるんと空中で一回転。世界が回った心地がする。
翼の生えたブタは高度を下げて順調に水面に近づいていく。さざなみに触れるすれすれのところで、こんなことを言う。
「ちゃぽんのお礼をしなきゃ! なんだろ、なにがいいんだろ!」
今度は水を蹴り上げるような軽快なステップをする。
「どうせなら役に立つもの、味なもの。いいもので優しいもの。甘いもので元気になるもの。なんにでもなるすごいもの! ぜんぶになれるものがいいでござる! あたしの羽根を一枚あげる! ぶちっと抜いちゃって!」
レアは言われたとおり、手近なところから一枚羽根を抜き取った。純白だった羽根が抜かれた途端に、まばゆいほどの虹色に変わる。手でつまんでくるくる回すたびに羽根の中の虹色が移り変わって、レアはほうっと息をつく。
「きれいね、これ」
「レアが取ったから特別になったでござる!」
ふいに名前を呼ばれて、レアは驚く。
「わたしのことを知っているの?」
ブタはレアの口調の真似をして、
「どうして知らないと思っていたの?」
そして身体を震わせて、レアを海へ落とした。ちゃぽん、と驚くほど静かに。レアは羽根をぎゅっと握りしめて、海にただようひととなった。




