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レア・ハイメクンは本が好きだった。夜は父や母に読み聞かせをせがみ、二人が留守にしているときは誰でもいいからその辺にいた人――執事やメイド、庭師……果ては偶然に様子を見に来た祖父にまで頼んだ。誰かが読んでくれるまで、頑として寝ようとしなかった。続き物だったから、早く先を知りたくて。文字を覚えたのも、本を読むためで、外国語を習おうと思ったのも、本を読むため。幸いにも家には父や祖父が集めていた書物がひしめきあっていたので、幼いころは貪るように読んだ。難しい本は読めなかったが、最近の絵本などもちゃんと揃っていたので、困ることはなかった。父親は娘のためにとある程度買いそろえていたのだ。一軒隣に住むヴィヴィアンが遊びに来るとき以外は、蔵書室に好き好んで籠っていたことも多かった。家庭教師が彼女に勉強を教えていたが、レアはとにかく真面目で出された宿題はきっちりやりこみ、親や教師への礼儀は欠かさなかった。内向的ではあったが、いい子ちゃんで通っていた。やることはやっていたので、レアの過剰な読書量に対して、誰も文句を言わなかった。
十四才のレアは、人生を変えるその出来事があった日も、空気のこもった蔵書室で昔読んでいたおとぎ話を読み返していた。王子とお姫さまが出会って、結婚するというシンプルなストーリーだった。レアはどこか夢見ていた。いつか大人になったら、自分だけを見てくれる「誰か」に出会うこと。
世の中には腐って汚れている部分があるのは理解していたが、それが自分に降りかかることはない。だってわたしはその人をほんとうに一途に愛し続けるのだから。浮気なんてしないもの。
夢想したとき、少しの疑いと、たくさんの胸の高鳴りがレアの身体を優しくくるみこんだ。それは何も知らなかった彼女にとってもっとも幸せな瞬間だったに違いない。
「おまえに婚約者が出来るんだよ」
その話を持ってきたヨーナスは機嫌が良くも悪くもなかった。世間話の延長のようにレアに告げる。そのころのヨーナスはすでに首相から辞めていたものの、満足に屋敷に帰ってこないような生活をしていて、その合間を縫って、レアに会いに来ていた。
「一体、誰のこと?」
レアの視界は一瞬白に染まりかけた。婚約者。本当に? おじいさまの冗談か何か?
顔が赤らむのを抑えながら、純粋なレアは蚊の鳴くような声で尋ねた。
「ダ―ヴィド・カッパラ。ジリアクスの第二王子。彼との縁談話が今あって。もろもろに目を瞑れば、なかなか良いお相手だ」
「もろもろ」という言葉に含みがあった。レアはすぐにゴシップ誌の記事を思い出した。数か月前に載ったのは、十歳年上の未亡人との情事に関する記事だった。「ゆるせないやつ」というのが印象。私的に話したことはなかったが、公の場で挨拶することは二度三度あったぐらいの知人と言えない他人たった。
「国王陛下は婚約者を持てば、王子も落ち着くと思っていらっしゃる。少しばかり女にだらしがないかもしれないが、男の甲斐性だと思って、今だけは見逃してあげなさい。王子は社会的にも社交力があって魅力的な御仁で、紳士的だ。きっとおまえを悪いようにはしない」
レアは幼い頭なりに考えて、不安そうに尋ねた。
「それって、いつか王子さまがわたしだけを見てくれるってこと?」
ヨーナスは目を見開いて頬を膨らませた。ブルドック宰相やら、厚顔無恥な首相やらいろいろと言われていたヨーナスだったが、他の政治家に対するように断固とした口調で嘘をつくことだけは憚られた。
「そうとも」
祖父の顔を見たレアはやはり嘘だと看破した。レアは夢想するのと同じくらい現実を見ている大人びた思考を持つ一面があったのだ。口をついて出てきたのは、
「お断りしたいです」
レアはもう少しだけ夢を見ていたかったのだ。自分だけを見てくれる王子さまが現われる夢を。
(わたしはまだ十四歳じゃないの。もう少しだけ……)
すでに生来の愛くるしさで大人たちの注目を集めるヴィヴィアンでさえ、崇拝者がちらほらいても、婚約者はいなかった。同世代で婚約者がいる令嬢もまだまだ少数。だからせめてもう少しだけ、と願ったのだった。
結局その願いは叶わなかった。レアにとって大事なものは失われ、後に残ったのは不実な婚約者。世間の苦さは全部彼から与えられた。
――浮気で軽薄なダ―ヴィド。
彼の胸の内へ至る扉で今彼女は婚約者の名を、ビターチョコレートよりも苦々しく思いながら呼んでいる。
婚約してからの五年。彼女は一度も婚約してよかったと思えたことがない。冷めてぬるくなった紅茶をいやいや流し込み続け、お茶菓子の上に無遠慮にハエが止まって食べられなく仕舞ったような日々だった。
できればレアは開き直って、別の誰かに恋が出来ればよかったが、目の前に「誰か」が現われることもなく、胸がときめくこともなかった。王子は彼女だけを見ることはなく、彼女はそんな王子を好きになれなかった。冷えた空気の中でお茶会をし、彼の恋愛騒動を近くもないが遠くもない位置で見つめ続けた五年。諦め続けた五年。
――彼が生きたとして彼は幸せになれるかもしれない。でもわたしは幸せになれない……わたしはみんなからすれば滑稽な道化師なのでしょうね。
ダ―ヴィドが生きたところで、同じことを繰り返すだけなのだ。女に手を出して、飽きて別れて、忘れたころに復縁したりする。彼はいつだってレアの理解できない世界に住んでいる。本当は以前からヴィヴィアンもそこの住人だと知っていたのだ。
素敵な婚約者ね、とヴィヴィアンが熱い目でダ―ヴィドを見送った日から。
凍り付いた扉の取っ手からは小さなつららが垂れている。レアは小さな勇気を持って、えい、と力一杯扉を開けた。すうっと、風が彼女の肩を、髪を、服の裾を遠慮がちに撫でていく。おいで、と世界が手招きしている。
――でもわたしは負けないわ。わたしだけの「幸せ」をどんな形であれ……探してみせる。
後ろ向き思考の中にふいに現れる根拠のない前向き思考が彼女の持ち味。自分に笑って、ちょっぴり涙を流しながら歩くことを決めている。
後ろで扉が閉まると、ぱっと暗闇に慣れた目に鮮やかな青が焼き付いた。狂ったように真っ青だ。
足元に床はない。無。だからレアはまっさかさま。頭から落ちていく。危うくどっか行ってしまいそうになったキャノチエをしっかりとかぶり直した。ピンでしっかりと留めて、下を見た挙句、絶叫した。
「え? えぇーっ!」
彼女がいたのは青い空。叫んだら声が上に取り残されて、消えていく。
(せっかくわたしなりに悲壮な決意を固めたのに、なんなのこれ! しょっぱなからこれだと心折れるわ! 帰るわよ、わたし!)
落下して、柘榴のようにぐっちゃり地面に潰れるのではしゃれにならない。レアは焦って周囲を見渡した。
――レア、レア。
耳元で誰かが囁いていた。だが隣には誰もいない。一瞬、幻聴を考えた。
――レア。聞こえているかい? 私だ、ヴァルハマだ。
ヴァルハマ、はて誰だったか。脳裏によぎる赤と青の一対の宝石。ダ―ヴィドに化けていた〈魔法使い〉だ。
「なぜ声が?」
――手首に金の糸を巻き付けただろう。そこに私の意識を飛ばしている。君の思考も、発言もわかる。
レアの手首の金の糸は繋がって、天高く上へと続いているようだった。〈魔法使い〉は不思議なこともできるものだと感心する。おそらくその道のプロであろう〈魔法使い〉がついているというだけで筆舌しがたい安心感があった。
――言っておくが、私を頼りにしないように。
言葉を先回りするように彼はぴしゃりと言った。
――いつ切れるかわからない糸だからね。それに私自身が君を助けるわけでもない。現実の私は君のベッドの傍らで王子と君を繋いでいなくちゃならない。ほとんど君を通して、世界を見るだけの存在だ。
一度膨らんだ安堵が風船のようにへしゃげて、踏みつぶされた。
(もっと太い糸を使えばいいのに……)
ヴァルハマには伝わったはずだが、彼は何も言わなかった。
「ねえ!」
やがて風の轟音に負けない大声で叫ぶ。
「ここどこっ!」
――ダ―ヴィドの心の世界だね。
「こころのせかいってやつは、空なのっ?」
――人によっては。
何かを考えるような合間があって、ヴァルハマは場にそぐわない落ち着いた口調で言う。
――ダ―ヴィドの心がなんであれ、君は奥底を探る必要があるだろう。
「なんでっ?」
――私でさえ探れない、ダ―ヴィドの「本心」がいるからだ。彼が目覚めようとしない、彼を精神的にむしば
む何かがわかるはず。
「それって、どうやっていくのっ?」
――さあどうだろう。
「とぼけないで!」
――誰もが君のように器用に心の整理整頓ができるわけではないから。
〈魔法使い〉は役に立たない。髪が風でぐちゃぐちゃになりながら、レアはなおも落下し続けている。レアが柘榴となって、飛び散るのも時間の問題かもしれない。……いまだ、地面が見えていないが。
――そこが心の表層近くなのは間違いない。夢を見る意識の表よりも内側に近い表層だ。どうにか中に入り込んで。
「なんて無茶な!」
――でないと、永遠に落下しつづけるだろう。皮が剥がれ、肉が落ち、骨だけとなっても。
想像するだけで身震いする代物だ。早く抜け出さなければ。
レアは四肢がしっかり動くこと、自分がヴァルハマに指定された「動きやすい服装」をしていることを確かめてから、上下左右を見渡して、あっと声を上げた。
まだまだ落ちます。
誤字修正しました。




