3
〈魔法使い〉視点です。
楽団の指揮者は静かに振り上げていた両腕を下ろして、ベッド脇の椅子に座り込む。百年生きた老人が、人生の重みに耐えかねて思わずしてしまったような所作だった。ヴァルハマが見つめるのは、優しく月に照らされた黒髪の眠り姫。すうすうと平和な寝息をたてている。憎まれ口を好みそうな薄い唇も、今はぴったりと閉じられていた。
眠り姫の隣にはもう一つの影があった。月明かりに溶けそうな蜂蜜色の髪が白いシーツに無造作に投げ出され、その顔と後頭部には痛々しいほどの包帯が巻かれている。掛け布団が不自然に盛り上がっているのも、手足にはめられたギプスがあるからだ。落下による損壊を免れた肌は、血の気を失っている。横にいる婚約者の健康的に色づいた肌となんと違うことか。
王宮の侍医はすでにやるべきことを終えたと言って、首を横に振っている。彼は失われた王子の美しさを嘆いていたようだった。王子は庭に面した廊下で何かの拍子でバランスを崩し、巨大なガラスの窓から転落した。芝生の上で、普通なら死ぬはずのない怪我なのだが、一度も目覚めないし、意識が戻る兆候もない。体力の落ち切った患者の最後の眠りのようだ。さもなくば老衰だ。王子は死にたがっているとしか思えない、私にはわからないが。「心」は、お前の専門なのだからな。
ヴァルハマは瞑目して、意識を糸のように尖らせた。しゅるしゅると意識は婚約者のレア・ハイメクンに結んでおいた金の糸を伝って、本人に到達する。
彼女はぶつぶつと文句を言いながらおとなしくヴァルハマに誘導されていたようである。しびれ毒のような思考がヴァルハマに流れ込んでくる。ただ感じ取れる悪意が薄いのは、溜め込まずに口に出す性分だからだろう。社交的でないぶん、彼女は自分が思うままに発言できる自由を得ている。彼女は悪い人間にならないよう、少しばかり悪ぶっている。もう少し集中すれば、その心の世界がヴィジョンで流れ込んだ。
そこは平和な緑の庭と巨大な図書館だ。図書館には彼女の人生と彼女の読んできた本が詰まっている。歴史を感じさせる重厚な建物だが、本にも床にも塵一つなく、窓は開け放たれている。二階の窓辺にはひとりの少女が閲覧席で本を読んでいる。世界を覗き込む傍観者に気づいたのか、ふいに顔を上げて、恥ずかしげに小さく手を振ってみせた。
(持ち主が不在で寂しくなるかもしれないが、少々我慢してくれたまえよ)
ヴァルハマも手を振り返し、意識をほかに向けた。彼女の持つ反対の金の糸の先。澱んだ暗闇の先。まだ本人と繋がっていない。暗闇の中で糸はゆらゆらとして、繋がる先を探している。彼は意識を人の形に変え、糸を掴んで上へと浮上した。現実の自分と自分の意識の形をイメージして、重ね合わせる。釣竿を引き上げるように、一気に彼は現実と心との境目の水面を飛び越えた。残ったのは、体中に溜まる疲労感。
しかし彼はこれで休むわけにはいかなかった。冷え切った現実での関係とはおかまいなしに仲良く眠らされている未来の夫婦を見下ろす。その手にはレアの胸から伸びた金の糸が握られている。ベッドを回り込み、傷ついた夫の裸の胸に手を押し当てる。だが弾力があるはずの若い肌は老いのあるその拳を跳ね返すことはなく、すっぽりと覆った。泥に手を突っ込んだように、どっぷりと胸に入り込んでいく。ヴァルハマは拳の先で何か冷たいものが触れるのを感じた。ぞっとするような、氷の粒……。
彼の心は凍えているのかもしれないが、それ以上は心を熟知した〈魔法使い〉にもわからない。この冷たさも、彼が死にかけているのでなければ感じ取れないほど。
ヴァルハマは自分自身が凍える前に、金の糸を胸の中に残して、手を引き抜いた。
これで金の糸はレアの意識からレアの肉体へと飛び、ダ―ヴィドの肉体からダ―ヴィドの心へ。下準備を終えた〈魔法使い〉は、部屋のメモ帳を拝借し、最後のメッセージを書き添える。あて名は、国王にして、我が親愛なる友人へ。
元の椅子に戻ってきたヴァルハマは月を物憂げに眺めていたが、やがて眠りにつくように、目蓋を下ろした。
人と人との意識の壁を越え、ごくわずかの人間だけが到達できる世界へと飛んだ。そこは誰にでもなれて、誰にでもなれない場所。人々の心の世界に行ける入口にして、泡沫のように夢が生まれて消えていく場所だった。彼はその中で金色の糸に自らの意識を絡ませて、再びレアの元に行く。彼女の歩みは早かったようで、すでに目的へと辿りついていた。
自分の心から飛び出して、これから大いなる冒険に赴こうとする「彼女」。彼女が前にしているのは、凍り付いて動かない扉がある。彼女は金の糸が城の門扉に似たそれの中へ続いているのに気付きながら、それを睨み付けていた。
レアは思考している。
――浮気で軽薄なダ―ヴィド。彼が生きたとして彼は幸せになれるかもしれない。でもわたしは幸せになれない……わたしはみんなからすれば滑稽な道化師なのでしょうね。
ヴァルハマは同意する。彼女に聞こえない声で。
(安心するといい。道化師は独りじゃない。私も道化師だとも。二人して踊るしかないのさ。愚かで悪人になりきれない、可哀想なお嬢さん。私よりはほんの少しだけ幸せになるといい。きっと)
扉はさび付いたような音を立てて開き、一つの影を飲み込んで閉まる。この世の終わりを告げる音だった。




