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最終回です。
彼が砂糖壺から一粒摘んで琥珀色の紅茶に混ぜる仕草を見つめていた。その手つきは以前と何も変わらない。優美なものにしか触れていないような柔らかな動き。彼は洗練されている。
レアとの「無意味なお茶会」は一回だけ延期されただけで、次の約束の日時は守られた。彼女の正面の席にはダーヴィドが座っている。まだ、あちこちに包帯を巻いて、テーブルには杖が立てかけられていたけれど。左頬には目の下から顎にかけて伸びた、一生消えない傷跡がどれだけ痛々しくも、彼は来た。
思った以上に悲惨な状態に、レアは顔をしかめている。穏やかな彼の表情とは逆に、彼女はずっとこんな調子だった。
「理解できないわ、まったく……」
ぶつぶつと文句を言う。
「普通、断るべきでしょうに。ここまで来るのも大変だったはず。あなたはもっと賢いひとだと思っていたわ。わたしのほうが断ればよかった」
「なんでそうなるのかな。『わたしのためにそこまでしてくれるだなんて』と感激してくれてもいいだろう? そこが君が君たる所以だと思うけれどね。君は本音を言わないで怒るけれど、それは心配の裏返しだと僕はちゃんとわかっている」
ふふん、と鼻で笑おうとしたが、頬の傷のせいで彼の表情がひきつっている。微笑するのが精いっぱいなのだ。転落したわりに元気な王子さまらしい。いや、ふてぶてしいともいうべきか。
「あなた、本当に反省しているの?」
刺々しく言った。今日何度も繰り返している話だ。
「普段から人の気持ちをないがしろにしているから、こうやって罰が当たるんじゃないの。お情けのようにひとを口説くよりも先に怪我を治して、品行方正とまでは行かなくとも、まともになってちょうだい。残るのが頬の傷跡だけで済んだのがまだましだったのよ。その傷をいい教訓をもらったと思うことね」
「もちろんそう思っているさ」
一旦言葉を切って、甘くなった紅茶を口につける。それだけで彼の雰囲気が変わる。ゴシップ記事ではなく、公式行事で見せるような芯のある顔だ。レアが「まとも」と形容したくなるものだ。
「張り手をくらうよりももっとひどい。死が間近に迫ると走馬燈が見えるというのは、本当だった。幼いころから今に至るまであっという間だよ。嫌なものだよ、あんまりいい思い出がなかった。たとえ楽しいものだとしても、必ずと言っていいほど後悔もついていたんだ。もっとああすれば、こうすればよかった……。生きている今でももう取り戻せないものもあるけれど、僕は、僕の望む通りに人生を送りたくなった。欲しいものは欲しいと言わなくちゃ、手に入らないだろう?」
「賢明ね」
まるで別人のよう。
「発言は寒々しいけれど、意外と中身は普通だもの、あなた。とくに本能のままに女性を口説いて、飽きたらポイ捨てするところとか。世に聞く男性の典型のひとつだわ。結婚向きの男性とは思われない」
レアは皮肉を込めて告げたのは、まだ疑っていたからだった。彼の望む通りの人生というのは幾通りにも解釈ができるのだ。期待を持たせて落とすのは彼の常とう手段なのだ。
彼は青い瞳は揺るがなかった。
「いや、女性と遊ぶのはもうやめたよ」
あ、そうなの、ふうん、と言いかけた口がそのまま固まった。一度死にかけて人生観が変わったというのは、本当だったのか。
「そう決めたらすっきりしたよ。もっと早くそうしておけばよかった。事故というきっかけがなければなかなか難しかったかもしれないが。あれで今まで付き合っていた女性たちはみんな離れたから、僕の傍にいるのは婚約者である君だけになったよ」
「そんなにあっさりと別れられるものなの?」
ダ―ヴィドは内心で自嘲した。彼女は決して知ることはないだろうが、今まで付き合ってきた女性たちに彼は手紙でこう書き送った。
――もう僕はたくさんのバッグや宝石を買えなくて、誰にも知られない秘密の関係で結婚もしてあげられないし、もう指一本触れないけれど、愛してくれるのかな?
自分自身の交友関係ぐらいよく把握している。彼女たちは金銭と名誉、快楽への欲求を満たす手段として彼を求めていた。いつでも切れる打算的な関係だ。相手が本気になると、その思いが邪魔になって別れていたからだ。
それでもいい、と送ってきたのは誰もいなかった。そういうことだ。ただ、これ以上彼女に彼自身のろくでもない話を聞かせるつもりはなかった。
彼女のために、彼を転落させた人物についても伏せさせた。表面上は彼の不注意による不幸な事故で収め、彼女を苦しめる結果にならないように。……事実を明かすのは赤毛の「彼女」次第だ。
「彼女」が近づいてきたのを拒まなかったのは、レアの友人だからだ。「彼女」は彼の知らないレアの顔を知っている。敵意でも軽蔑を向ける婚約者ではなくて、穏やかな時間を過ごす友人としてのレア。彼はレアに近づきたかったのだ。
「僕にその気がないのだから仕方がないよ。それに真剣でもなかった。レア。僕はね……もうずっと難儀な恋をしているんだよ」
「知っているわ」
自分自身で即答したレアは内心首をひねっていた。「知っている」って何を?
(ああ、そうか、彼女……初恋の人のことね、きっと)
正確には世間でそう思われている女性のことだ。王子との恋に破れ、結婚相手とはうまく行かずに駆け落ちの末亡くなった悲劇の女性。こういった悲しい結末があるとなおさらに、男は長い間初恋を引きずってしまうのだろう。
そう結論づけたはずなのに、レアの胸は晴れなかった。違うでしょう、といきりたっている自分が見えるような気がする。何かが腑に落ちない。
「本当にわかっている?」
見透かされているが、レアはさあ、と曖昧な笑みで返した。
「なら、今はそれでいいよ。それよりも早く、僕は君に謝らなくてはいけない」
「一体何のこと?」
身に覚えがありすぎることもあるが、「謝る」という言葉に衝撃を受けた。彼は正面切って謝るというイメージがない人だ。
「まず一番大きいのは……君が十六才のとき、君を襲ってしまったことだ。申し訳ないことをしたと思っている。僕が浅はかだった。ごめん」
ひゅっと喉の奥が鳴った。レアは身体を強張らせながらも、じいっと彼を見た。
「どうして、いまさらになって、そんなこと」
「軽く流してはいけなかったということにやっと気づいたんだ。君の態度が変わってしまったのもそれがきっかけだったというのにね。……走馬燈の中の君は、泣いていたから。君はわけがわからなかったと思う。とても恥ずかしかったはずだ。僕がそんな君を無視してしまったから、君をずっと傷つけたままにしてしまった」
口中が渇いていたが、レアは辛うじて硬い声を出した。
「そうね……他にもあるのかしら」
「ある。僕は頼めば婚約破棄ができたけれど、そうしなかったことだよ」
それは、とレアは考えながら口を開く。
「あなたが破棄するのが嫌だったということ? なぜ?」
「君はわかってくれないの? 僕が他の女性全部と別れて、君とここにいる。……つまり、そういうことだよ。僕が難儀な恋をしているのは君なんだ、レア。僕は君を愛している」
「……『きっと』はつかないの?」
恐る恐る聞いたが、残念ながら、と爽やかに首を振る。
「それは変よ。わたし何もしていない。おかしいわ。そう、おかしいもの」
(わたしが誰かに特別に好かれるだなんて、嘘。どうせいつもの冗談に決まっている)
内心言い訳していたレアだが、少しずつ分かり始めてもいた。嘘や冗談ではなくて、この状況は本当にあるのだと。
「信じてくれないのかな。それは僕が遊んでいたから?」
傷付いたような顔をしてみせるものだから、レアは心臓が引き絞られる心地だった。ずるい、この男はわざとやっている。
「昔から君は僕からすれば特別に可愛かったのだけれどな。僕が手放したくないぐらいにね。……でもどうしても嫌なら、僕が婚約破棄できるように取り計らうこともできるよ。嫌だけれど。どうしようか」
終わりの方は、彼自身が途方に暮れているような声だった。途方に暮れているのはこっちだとレアは言いたかった。唐突にこんな選択肢を用意しているだなんて。
レアの少女時代の大半を、彼の婚約者として過ごしてきた。それ以外の生き方は許されなかったのだ。もしかしたら、寄宿学校に行くこともあったかもしれないし……他の相手を見つけていたかもしれない。婚約者でないレア。「婚約者」というレッテルでずっと見られてきたレアには想像しにくいものがある。
〈戦争盤〉の駒のようだ。一つの明快な役割に縛られて、それ以外にしか動けなかったが今、レアは自分の役割を選ぶことができるのだ。レアは駒ではなく、プレイヤーとして自分自身を規定することもできる。でもそれは鏡のように自分自身を映す鏡があってこそ。他人もまたひとつの鏡なのだ。相手が自分をどう見てくれるのか。自分自身をそうと確かめる手段は、相手の瞳に映る自分自身を見ること。相手がどの「自分」が自分自身かを決め、認めてくれる。自分自身がそうと決めた自分が相手と一致したら、幸せなことだろう。
レアは彼が療養していた間のことを思いだしていた。その時、久々にヴィルケが屋敷に滞在していて、王子の容体を聞いた彼がやめちまえ、と吐き捨てるように言っていた。
「お前、下手すれば病人の介護で一生終えちまうかもしれないだろ。そこまでする価値がどこにある? これを機に婚約なんてやめちまえよ。お前が不幸になるばかりじゃないか」
彼女は黙っていた。その通りだと思って、言い分を最後まで聞くつもりだった。
「でも婚約をやめてしまって、次にどうすると言うのよ。『前科』ありの娘をどんな人が貰ってくれるの」
「んなもん、俺がもらってやる」
ヴィルケは売り言葉に買い言葉で、軽く請け負った。
「俺たちお似合いのいい夫婦になると思うぞ」
すると、レアは簡単にヴィルケとの未来を思い描くことができた。堅実で現実的な未来だった。互いに幼いころから知っていて、気心が知れている。仲が悪いわけでもない。なぜ話が持ち上がらなかったのかというぐらい、自然な取り合わせだ。
それも悪くなかったわね。その後にこう付け加わるのだろう。――彼の見舞いに行く前だったら。
レアはベッドで眠っている彼に会いにいったことがある。虫の知らせのように、ある朝起きると、会いに行こうと決意していたのだ。そして、大きな顔の傷を見てしまった。なぜかとても悲しくなった。彼の抱えている痛みが自分にも伝播するような共感覚を覚えたのだ。レアはそれを無視することができなかった。自分にとって大切なものだと直感してしまったのだ。
ヴィルケから見たレアと、ダ―ヴィドから見たレア。レア自身はどちらが好きなのだろう。
ただ、この時のレアはヴィルケの軽い申し出に首を捻った。
「……ねえ、からかってもいいから、『可愛い』って言ってみてよ」
「は……はあっ?」
ヴィルケはすっとんきょうな声を上げて、首まで真っ赤にさせた。
「お、お前は全然可愛くはないだろ! むしろ可愛げがないじゃないか!」
「うん、まあ。それは知っているけれど……」
レアは可愛い、と口の中で唱えながら、ますます首をかしげた。そして残念な結論に達した。どうやらレアはダ―ヴィドに可愛いと言われるのが好きらしい、と。
「ダ―ヴィド」
レアは今目の前にいる相手の名を呼ぶ。彼はレアにチーズタルトを切り分ける手を止めて、驚いた顔をしていた。
「やっと僕のことを呼んでくれたね」
「なんとなく、気分だったから」
真面目な話をする前置きくらいにはなるだろう。
(婚約破棄してもらわなくちゃ)
縁談が持ち上がった時から何年もの間待ち望んでいた瞬間だった。これからどうなろうとも、一歩引いて冷静になるべきで、じっくりと検討しなくてはならない。たとえ彼がレアのことを好きだとしても、王子さまは彼女には荷が重すぎる。釣り合わないと誰もが思うはずなのだ。
それなのに、レアの身体は別人に操られたようだった。自分の中にいる誰かが、婚約破棄を願うレアの理性を押さえこんだ。そしてもう一人の素直な「彼女」が、理性が戻る前に素早く彼に囁きかけた。
――キスして。
自分の発言に呆然とする彼女の唇を呼気ごと王子さまは奪ったのだった。
次回は「おまけ」と称しまして、
キャラによるメタ発言全開の大反省会を掲載します。
作者の自己満足でありますが、よろしければご一読くださいませ。




