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「厳密に言うと、僕はダーヴィドじゃないよ。現実世界での物理的な肉体と精神を持ち合わせているわけではないし、第一、ダーヴィドの目が醒めればこの世界での記憶をなくしてしまう。そして目を瞑れば簡単に戻ってくる。もしもここでの記憶を持ったまま、同一人物として振舞うことができれば、それはもう〈慰者〉や〈魔法使い〉だね」


「ヴァルハマは駒だとも言っていたけれど」


「たぶん〈戦争盤〉からの連想だね。ここにいる僕はこの世界の持ち主であるダーヴィドの駒……世界という盤上にいるプレイヤーの分身体だよ。構成要素はダ―ヴィドそのものだけれど、記憶と環境を共有していないから、非常に近しい関係にあっても同一視はできないということだ。そもそも、こちらの世界に来た本人の駒は自分を駒だとは思わない。僕は特殊な体質だから自覚できているらしいけれど、大抵のひとは現実世界の記憶をそのまま連続する自分の記憶だと誤認しているんだ」


 ふうん、とレアは相槌をうちながら、胸に濃い灰色の霧が立ち込めるのを感じていた。深く知らない方がいい。自分の直感に素直に従った。


 天井に大きく穴が空いてしまったおもちゃ部屋には、今大きなイーゼルとキャンパスが置かれていた。ダ―ヴィドは絵の具を付けないまま、キャンバスに絵筆を滑らせている。ダ―ヴィドはレアの疑問に懇切丁寧な説明で答えながらも手を止める様子はなかった。ただ時折、真上で輝く月を見上げてはぶつぶつと小声で呟いている。長さが、とか直径が、とか。


 レアは手慰みに〈戦争盤〉の駒をいじっている。それは以前にダ―ヴィドの屋敷で使ったもので、かつて彼とも勝負したものだった。


「さっきから何をしているの」


 彼はレアを見て、いたずらっ子のように笑った。それから青い目だけ神妙な様子で伏せられる。


「君を送るのにいいものを作っているんだ。……レア、僕は嬉しかったんだ。君は僕のためにここまで冒険してくれて、僕を救ってくれた」


「買いかぶりすぎだわ。ヴァルハマの判断が正しかっただけ」


「君を選んだことは確かに功績だけれど、それだけじゃないさ。ここまで来るのには君の強い意志が必要だったんだからさ。他にも……これは実際に目で見た方が早いかな。もう少しだけ待ってて」


 彼はキャンバスの表を胸に抱えながら椅子から立ち上がった。だからレアからは何を描いたのかまだわからない。


 レアはこうしてダ―ヴィドが元気な姿で動き回るのを目の当たりにしているのだが、現実世界の彼は今のベッドの上にいる。ひどい怪我をしているはずなのだ。


「あなたがもう大丈夫といったからそうなのだろうけれど、そもそも三階から転落したのって……ただの事故なのよね」

「そうだよ」


 彼は背中を向けながらさらりと答えた。


「ふざけていたらうっかりと転んでしまったんだ。あの大きなガラスの廊下はそのうち普通の廊下になるよ。よし、レア見てて」


 ダ―ヴィドはレアを自分の傍らに立たせてから、あのキャンバスを表に向ける。絵の具を使わずに描かれたダ―ヴィドの絵は、レアの描く絵よりもはるかに写実的で力作だった。ただ、描かれたものはかなり物騒。……黒光りする大砲だ。


「一応、軍の大砲をモデルにした。そして、このキャンバスの裏を強く叩くと……」


 大砲が、立体的に絵から抜け出た。ゼリーを呑み込むよりもスムーズな動きで、レアは目を丸くする。本当に〈魔法使い〉のようだ。


「心の世界でもっとも必要なのは、意志の力だ。きちんと想像できれば想像した通りになるというわけだね。お手をどうぞ、お嬢さん」


 と、いいながら、ダ―ヴィドはレアを砲弾として大砲に詰め込み、自分もそこに収まった。大砲は現実のものよりもかなり巨大だが、それでもダ―ヴィドと二人でいるとぎゅうぎゅうになる。


「これってつまりああいうことよね……? なんというか、爆発する感じの……」

「爆発というよりかは発射という方が近いかな。暴発はしないから大丈夫」


 そういってダ―ヴィドはレアの背中に両手を回して抱き込んだ。


「これで君を送るつもりだよ。現実世界の方では結構な時間が経っているかもしれないから、最速で。カウントいくよ。三、二、一……」


「え、待って……。うううひゃあああああああっ」


 ドォーン。耳が引きちぎられるような激しい音とともに、レアたちは文字通り天に打ち上げられた。


 天井の穴を抜け、行きとは逆に、ぐんぐんと上昇する。レアは必死にダーヴィドにしがみついていたが、ダーヴィドはレアの叫び声に大笑いしている。のんきなものだ。


「やっぱり君は面白いよ! 深いところまで降りてくるような勇気をもった君が、今は子ウサギみたいに怯えているんだから! 本当の姿はどっちだろう?」


 レアはむっとして言い返した。


「どっちもわたしでしょう! こっちは必死なのにからかわないで! そもそもなんでそんなに上機嫌なの!」


 ダーヴィドはふ、と微笑んだが何も言わない。饒舌な眼が全部語っていた。君がいるから。


「それよりもレア、景色を見て。興味深いものがあるよ」


 ダーヴィドが指す方向を眼で追った。


 穴の中の子供部屋が遠ざかっていく。その穴は黒い点になって消えていくと思えば、代わりに草原が現れた。ぽつぽつと農村のような家が建っている。ヒツジやウマがいる。囲いの中へと追い詰めるイヌもいる。森の中に湖があって、その中に城があった。塔の窓からふたり分の影が手を振っている。


 森から火が出た。赤いドラゴンが湖のほとりであくびをするかのように頭を上向けている。今にも山頂に四つの脚をつけようとしているのは、黄色い羽根をもったペガサスの集団だ。


 全部が全部、上に向かうレアから過ぎる。


「そろそろ次の階層だ」


 一瞬の暗闇が視界を染め上げたと思ったら、今度は砂漠の世界の上空にいる。


 砂漠の魚がハリケーンのように渦巻いている……。そこへ一筋の水が流れ、見る見る間に川となった。魚たちは我先にと飛び込んでいく。


 そこへラクダを何頭もつないだキャラバンがやってきて、川を渡る。その間にも少しずつ砂漠にはオアシスとも言うべき小さな家々と、大きな実を付けた木々が育っていく。キャラバンにいる影たちはよろこんで実をもぎ取り、輪になって踊った。


「これが僕の再構成した新しい世界なんだ。前とは少し様子が違っているだろう? ここはとても豊かになったんだ」


 声も出せないレアに彼はようやく種明かしをしてくれた。


「君が介入してくれたから、世界の物語は良い方向へと進むことができたんだよ。もうじき、階層の区別もなくなるだろう。僕はもう、何重にも自分を隠さないだろうから。ミルフィーユじゃなくて、パンケーキのように広がっていくんだよ」


「ミルフィーユって……」


「いいたとえだろう?」


 自分の手柄のように振る舞うので、二番煎じとは言わなかった。


「そろそろ次だ」


 一旦黒色が視界いっぱいに遮ったかと思えば、今度は美しい幾何学模様を描く庭園の上を上がっていく。王宮に似た建物が建っていて、周囲にはいくつもの離宮が立ち並んでいた。


 一人の庭師が高枝ばさみで枝を選定している。その傍らには白いドレスを来た女性が空中を漂いながら、あれやこれやと指示し、一方で時折早足で歩きさっていく影がちらほらと見えた。街へと続く門から馬車が走り出す。


 今度は柔らかい感触が頭からすっぽりと覆った。まるでゼリーのよう。


「おっと、次はこれだったか」


 彼は楽しそうな声を発した。


 レアたちは海から飛び出た。


 大海の上を上っていく。一匹のカメが、仰向けの腹を見せて海流に流されている。別のところでは弦楽器を奏でる三人の男女が小舟に乗っていた。


 男のほうがレアを見た気がした。男には両腕が戻っている。


 赤毛のブタが海すれすれを低空飛行している。


 黒い列車が蛇行運転をしながら海に潜ろうとしている。


 二人はどこまでも真上へ飛んだ。


 内緒話をするように寄り添った太陽と月の狭い隙間をすり抜けて。


「これでお別れだ、レア」


 ダ―ヴィドは身体を離して、手だけ握る。


 レアは頭上を見た。空に滲む黒い穴。あそこから出ていくのだろうとおのずと察せられた。


 最後に足元を見た。


 広がっているのは、レアの知らない新しい世界だ。


 今までミルフィーユのように縦の断層で見てきたものが、すべてひとつの面でパズルのように組み合わされようとしていた。海もあれば、町や湖、城も草原もある。山も谷も滝も氷河も、全部があった。見たこともない、想像上の生き物たちが空を飛んでいる。地平線の向こうまで続いているであろう、一枚の平たい世界になった。雲がさっと足元を一瞬覆ったと思えば、大きな虹の絨毯が水面の薄布のようにゆっくりと波打った。


 レアはぼろぼろと泣いた。自分でもわからないが、レアは自分が何かを悲しんでいるのだと感じた。


「さようなら、レア」


 ダ―ヴィドの親指がレアの眦の涙を拭ったと思ったら……ぷつん、と意識が途切れた。

















――レアが消えた空を仰ぎながら、一人残された〈ダ―ヴィド〉は呟いた。


「君も自覚していたのかな、〈レア〉。ここにいた君もまた、君自身の心の世界にいた駒だってこと……。でも僕は自分をレアだと思っている君のことだって、好きなんだ。レアと〈レア〉、どっちだって、同じだとしても、僕はここに来てくれた君を選ぶんだろうね。……賢い君に自覚があったなら、聞いてみてもよかったかもしれないね……僕たちはいったい何者なのだろうってさ」


 彼の右手にはオパールの首飾りが握られている。


 もう一度会うことができたなら、と願った。


「やっぱりキスしておけばよかったよ……」




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