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29 月


 つまらないな。


 口にすると、しっくりきた。楽しさが上滑りしていく感覚がたまに来るのだが、つまらないと定義するとぴったりとおさまるので毎回納得したような心地になる。


 母親の誕生日パーティーに出席することには不満はない。毎年ジリアクスの名士たちの社交場となっているという事情をのぞけば。社交は嫌いではないが、たわいない言葉の応酬に気を付かなければならないので、神経が過敏になる。自分がどう思われているのか。相手の中での自分の立ち位置はどこにあるのか。彼は相手の中の自分を推し量りながら会話するために、細かい言い回しが癇に障る。だがそれを表に出すわけにはいかず、うちに溜め込む。ある許容量を越えると、つまらないと口にしはじめるというわけだ。


 しかし彼の体にぴったりとくっついている女は、彼のそんな仕組みを知らないで、さきほどまでの甘い会話の余韻も覚めた様子できりりと眉をつり上げている。


「私とダンスするのがお嫌なのですか、殿下」


 そういうことではありませんよ。彼は女の腰を引き寄せた。ひゃん、と彼女は甘ったるい声を出す。甘い会話の余韻は覚めても、身体の余韻は冷め切っていないらしい。目を合わせれば、女は共犯者めいた視線を送ってきた。彼は求めに応じて、耳元に囁きかけた。


「ただ、あなたとふたりきりで過ごしたほうがよほど有意義だ。本当は人目をはばからず、触れていたいのにね」


 ふたりの秘め事であるかのように、彼と女はくすくすと笑いあった。


 だが実際のところは知っていた。壁際には女と縁談が持ち上がっている紳士が時折、不愉快そうにぴくぴくと頬をひきつらせていて、別の男性とダンスしていたラネ夫人が、意味ありげに笑いかけている。あら、二夜続けて、その子をいただくのね――。


 女との快楽は好きだ。それまで退屈を感じようが、彼の頭を真っ白にしてくれる。彼女らは面白いように彼の下で身体をくねらせて、我を忘れる。終わってもしがみついてくるのを見ると、彼は非常に満足できたのだ。


 彼らはくるくるとステップを踏み続け、踊りの輪から抜け出した。さりげなくふたりきりになれる場所――テラスに向かう。女は彼にしだれかかり、これからの甘い期待に胸ときめかせていた。


 会場からすぐに見えないテラスの壁際で、二人は何度も濃厚なキスをしていた。互いに互いをけしかけ合って、それ以外のものは何も見ていなかった。


 本当のところは目撃者がいた。そう、彼が少し驚いてしまうような人物で、彼女は手すり近くの暗闇から現れた。さきほど会ったときと同じく、鈴蘭のように膨らんだ薄桃のドレスで。


 彼女はキスをしているふたりのところに近寄ってきて、じいっと見入っている。暗いので表情は見えなかったが、キスをしながらも目を開けていた彼は、闇よりも濃い黒の瞳と視線が絡んで、火花が散った気がした。


「あのね」


 彼女は平静な声音で切り出した。ばっと女が顔を離して、目撃者を凝視する。しかし見ていた彼女自身はそれを気にせず、首を傾げる。


「ふしだらなのはけっこうなのだけれど、場所は考えるべきだと思うの。……ほら、ここには私もいるし。どうするのかな、と眺めていたけれど、基本的にこういうのってよろしくないでしょう。うん、夢中すぎるのもよくないわ。……正直言って、良識のなさに不愉快になったわ」


 にっこりと笑った気配が伝わってくるが、そこには多分に皮肉が込められている気がした。女は気まずそうな顔をして、不安そうに彼を見る。秘め事を他人に見られたことと、彼女が彼の婚約者であることを気にしているのだ。彼は安心させるように女の肩を抱く。


 彼は年下の婚約者を世間知らずの小娘だと侮っていた。


「不愉快にさせたのなら、悪かったよ。でもね、それだけ彼女のことを愛しているんだ」


 レアは不思議そうな顔をした。もう一歩踏み込んで、二人を交互に眺める。まるで観察されているようで居心地が悪かった。


「愛って大勢に対して、同時に持てるものなの? 男女間で同じだけの愛情があるのかしら。わたしには信じられないわ。大勢に対する愛とひとりに対する愛は、絶対に重さが違ってくるはずだもの。もらっているものと同じ種類の愛を返せるもの? でも少なくともあなたはわたしが見ていると知っていてもキスをやめなかったわよね。それって、彼女の名誉が汚されるのを見逃したっていうことよね。ねえ、あなたの愛って一体何への愛なの?」


「愛は……愛だよ」


 すらすらと出てくるはずの機知に富んだ台詞が出てこない。それは薄々感じていたはずのその言葉の空虚さを突きつけられたからだ。愛は愛。父母に対する慈しみの情は、付き合ってきた女たちには抱かない。けれど彼女たちの希望を叶えてやるのも、愛のはずだ。


「答えになっていないわ」


 きっぱりと断言されて、彼はそうだね、と力なく返す。


「あなたはここにいる彼女を愛しているの?」


 駄目押しのように訊かれた言葉。何かが彼を躊躇わせた。違うだろ、と心の中の彼が叫んでいる。

 彼は言わなかった。女は耐えられなくなって、もう行きます、と呟いて逃げ去った。


 冷たい風が残った二人の間を駆け抜けていくような気がした。


「だったら君は僕を愛している?」


 明らかな逃避だが、彼女はまともに受け取った。


「いいえ。今のところまったく。あなたを好きになる気配もないの」

「じゃあ、そのうち好きになるかも」

「どうかしら。浮気なひとは好きになれないわ」

「辛辣だな。これが君の素なのかな」


 彼女は敬語で話していないことに今更気づいた様子だった。慌てているのを見るだけだと、年相応の少女らしく愛らしい。


「えっと、申し訳ございません、殿下。ついつい気安くなってしまって」

「いや。素のままでいいよ。殿下、と堅苦しく呼ぶよりダ―ヴィドと呼んでもらったほうがね。僕たちは近しい間柄だから」

「あの、ではダ―ヴィド。少しだけお願いがあるの」


 言いにくそうにお願いされる。彼はそれだけでピンと来た。


「何? 何でも買ってあげるけれど」


 レアは心底嫌そうに顔をしかめた。


「別に欲しいものなんてないわ。そうじゃなくて。あなたと話すようにって祖父から厳命されているの。だから少しだけの間、話をしてほしいの」


「わかった。では何を話そうか。君は話したいこととかある?」


 レアは静かに目を伏せた。沈黙が訪れて、会場の音楽が流れてくる。


 彼はふと思いついて、レアの両手を取って踊り始めた。慌ててステップを踏みながら彼女はダ―ヴィドを見上げた。


「どうして急に踊りだしたの」

「言葉を交わさなくとも、ロマンチックな気分になれるだろう?」

「ロマンチックはいらないのだけれど……」


 だがなんだかんだ言って手を振り払いはしなかった。彼女もこういう雰囲気には弱いのかもしれない。彼女はしばらくダ―ヴィドのリードに合わせるだけだったが、ぽつりと言う。


「月が……」


 二人は空中に浮かぶ大きな黄色い円を仰ぐ。


「今夜は、満月なんだって。それを思いだしたから、ここにいたの」

「君は月が好きなの?」

「いいえ。ただ綺麗だと……それだけの、何となくの話だわ。わたしには、気の利いた会話はできなくて」


 自信がなさそうに委縮する姿は、以前会った時を思いだした。彼女はどうして泣いたのか。


 レアは彼を見た。彼女はねだることも計算じみた行動もしない。常に一直線だ。


 ふわり、と花がほころぶように小さな微笑みも、思わず本心から出てしまったものに違いない。


「あなたのそつなく振る舞うことができるところは、すごいと思う。わたしには真似できないわ。……残念ね。あなたが誰かに一途になれるようなひとだったなら、きっと好きになれたのに」


 現れた当初、彼女は彼に対して淡白だったのに、彼に対して好きと言う。好き。どこかで浮かれている自分がいる。彼女は無意識で言ったに違いない。どんな意味の好きなのかもわかろうとしないで、平然と踊り続けている。


 いつもの自分ならここで抱きしめて、キスのひとつをしてもおかしくなかった。雰囲気に飲まれて、流されてくれるかもしれない。でも彼は身体が石になったように動けない。なんだろうか。ついさきほどまで他の女と触れ合っていた唇で彼女に触れるのが躊躇われる。月に照らされながらダンスを踊る空間に酔い続けている。今を壊さないままで、語らっていたいと思うのはなぜ。


「君にだってできるよ」


 かすれた声で言った。


「すぐにだって、できるようになるよ。君は賢いから……」


 彼女はきっと何かあれば彼を糾弾するだろう。愛について問うたように。彼女は正しい。間違っているのは、彼のほう。だからダ―ヴィドはいつか……本当に彼女を愛してしまうのだろう。


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