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 気絶したヴィヴィアンを使用人たちに引き渡したあと、レアは自分の屋敷に戻ってきた。私室でさきほどまで読みかけだった本を開き、紅茶で乾いた喉を潤した。何年もの間ずっと刻まれてきた生活リズムは、婚約者の事故を聞いても揺るがない。ただ、カップを持ち上げた手がわずかに震えている。


(案外、「あんなの」でも感情は動かされるものなのね……)


 砂糖を入れて、ティースプーンでカップの中をかき回した時にできる小さな波紋程度には、ダ―ヴィドの存在を心に留めている。婚約を熱心に勧めた祖父のヨーナスは、ともに過ごせば情が移るだろう、と以前言っていた。


(確かにそう。でも、彼の恋人たちの方がよっぽど悲しむわよ。だって、私は取り乱していない。今もほとんど普通に過ごせている)


 今の彼女を見たら、ヨーナスも婚約を考え直してくれるだろう。

 ふと気配を感じて、窓の外を見る。一台の馬車が玄関先に付けられている。彼女は誰が来たのかわかっていた。ダ―ヴィドの容体を聞いたヨーナスが、レアを心配してやってきたのだ。

 執事が持ってきた知らせによると、ダ―ヴィド王子は意識不明の重体、しかも落下時に左足、右手を骨折してしまった。今も生と死の境目を彷徨っている。


 レアは王子が落下する瞬間を思い浮かべた。王宮の窓に面した廊下を歩いて、窓を見る。美しく刈り込まれた花壇は平和の象徴のよう。外には花の香りも混じった優しい空気が流れている。見事な風景画として完成された景色に暗い色が差した。一瞬のうちに、重い物体が上から下へと落ちていく。すぐあとに、どん、という嫌な音。そして死の気配がまじった沈黙。立ち上った悲鳴に我に返り、レアは窓の下を覗き込む。そこには血だまりの中に沈む王子さまがいる。馬車に轢かれた蛙を思い出すような、ぐちゃぐちゃになった身体。うつ伏せになっているのは、神様がせめて人々の思い出に美しい彼の姿のみを残せるようにと願ったからかもしれない。


 だが実際にレアはそこにいなかったし、園遊会も断った。どういう事情だったのかもわからない。

 おそらくベッドには医師と看護師と、彼を愛する恋人たちが集っている。レアには悲しむべきか、婚約者らしく女たちを追い出さなければならないのかもわかっていない。ただ、嘆きの輪に加わるつもりはなかった。


(それでもおじいさまはきっと、行けとおっしゃられるのだわ。婚約者だからって。いつだって、人の話を聞いていないのだから。そんなに王子と婚約させておきたいなら、おじいさまが王子と婚約すればいいじゃないの。おじいさまって女たらしが好みだものね! ふん)


 やけっぱちになったレアはふかふかの寝台の上に転がった。掛け布団の中にしっかりもぐって、呼ばれても気づかないふりを決め込もうとする。


(大体、もしすでにあの蜂蜜男に隠し子でもいたらどうするの? わたしに引き取って育てろって、おじいさまはおっしゃるつもりなのかしら。なに、わたしは夫に顧みてもらえず、子どもだけを押し付けられた可哀想な女なの? 自分の子どもだとしても立派に育てられるわけでもないじゃない。ヴィルケは若いのに妙に偏屈ジジイになっちゃったし、ヴィヴィアンだって、「お姫さま」が抜けないし、わたしだって、捻くれて育っちゃったのに! 極め付けは、そう! 蜂蜜男! あれを父親に持つということは、女好き気質も継承されるかもしれないわ。男の子だったら、蜂蜜男第二号の出来上がり。それだけは……それだけは阻止しなくちゃ。父親と違って、真に心優しくて、女性に一途な世の理想の男性に育ててみせるわ……! わたしの肩には女性たちの平穏がかかっているのかもしれない)


 実際、この時レアは深く考えていなかった。ただ、意識を手放すその寸前に溶けてしまった思考がある。

――どうして、ダーヴィドは落ちたのかしら。



 




 レアはベッドの中ですうすうと静かな寝息を立てて眠っている。だが堅く閉ざされていたはずの乙女の部屋の扉は無情にも開け放たれて、二つの黒い影がレアの傍に立った。一人が掛け布団をぺらりと無造作にめくって、頷いた。


「うちの孫娘だ。起こした方がよろしいかな?」


 ふむ、ともう一人は考えていたようだったが、すぐに首を振った。


「よろしいでしょう。時は一刻を争います。ご令嬢とて、このジリアクスの民。まかり間違っても国王陛下のご命令には逆らいますまい。ヨーナス殿。人払いは済んでおりますかな。――結構。ではあとは集中の妨げになりますので、貴殿もひとまず外へ。あとは手筈通りに」


 ぱたりと扉が閉まる音がこだまする。人影が一歩前に出て、折しも部屋の内部を照らした遮光に身をさらした。

 それは陰鬱な表情を浮かべた、中年の男性である。くすんだ銀の髪と赤と青のオッドアイがその身を彩り、いかにもこの世ならざる者であるかのように、生の気配がなかった。

 人は彼を「魔法使い」と呼んでいる。

 まずは楽団を前にした指揮者のように、両手を振り上げた。







 レアは浅い夢を見ていた。昔飼っていたイヌが水に溺れて死んだ時のこと、両親とバカンスに出かけた街

のホテルで迷子になったこと、初めての夜会で思い切りダンスパートナーの足をふんづけて、相手がネコのようにふぎゃ、と鳴いたこと。すべてがレアの眼前で走馬燈のように過ぎた。レアはその中では当事者であり、傍観者だった。一瞬のうちに画面の外と中とを移動し、自分の都合の良いように役柄を交換している。


 そして最後にぱっと明かりが消えた。レアは途端に暗闇の中に立ち尽くしていた。


――君は身体を動かしたいと思うとき、どんなことをする?


 頭の中でダ―ヴィドの声がした。

 すると、レアはいつものティーテーブルに座っていた。向かい側には頬杖をついているダ―ヴィド。ここは月に一度の「無意味なお茶会」だ。


――僕はそう。何でも好きだな。とくに球技やカヌーがいい。皆で協力して勝利を目指すんだ。僕一人でできることではないし、得難いものだと思うよ。

――あなたなら、何でも卒なくできるでしょうね。よろしいのではなくて?

――あれ、君のことは話してくれないの? 話してよ。

――今日はぐいぐい来るのね。変なの。

――もちろん、君の好みを聞いたうえで誘いたいのさ。

 ダ―ヴィドは内緒話をするように、声を潜めた。

――テニスって答えてくれなくちゃ、どうしようって思ってもいるけれどね!

――確かにテニスは好きよ。あなた以外のお誘いなら受けたのに、残念ね。

――だったら普通の話に切り替えよう。〈僕〉と出かけないか。ちょっと辺鄙なところに行くから動きやすい服装をしていってもらいたいのだけれど。


(動きやすい服装? 今何かあったかしら。あぁ、そういえば、テニスウェアの代わりに使っているのがあったわ)


 レアは庭の真ん中にあったクローゼットに頭を突っ込む。思い描く通りの衣装がすぐに出てきた。

――白いブラウスに、薄めの蒲公英色のジャケットに合わせた、ふくらみのある同じ色のズボン、最後に、白くて涼し気なキャノチエを頭に乗せて、と。そうね、こんな感じの服装のこと?

――そうそう。そんな感じ。似合っているよ、レア。

――でも、おかしいわ。わたし、思い出そうとしただけなのに、どうしてあなたにこんな格好を見せているのかしら。


 レアの婚約者はきょとんとして首を傾げた。


――そりゃあ、〈僕〉がみたいからに決まってるからさ。だって、君を知らないから。

――わたしを知らない? 殿下、どういう意味でそうおっしゃっているの?

――それは。


 ふわっと下から上へと風がいたずらっ子のように駆け抜けた。レアが黒い眼を細めたその先で、ダーヴィドが手を伸ばし、レアの手首に何かを巻きつけ、ちょうちょ結びにした。

 もう一度席についたダーヴィドは、変わり果てていた。銀色の髪と赤と青のオッドアイ。三十代にも五十代にもみえるつるりとした魔性の肌を持つ痩せぎすな男。世界中の不幸に取り憑かれた顔をしている。


――〈僕〉が〈私〉だったからだね。そういうものだよ、レア。君の意識に入り込ませてもらってね。今は寝ているから、そう、夢と呼ぶべきものだ。


 夢だと言われれば、そこらじゅうに漂っていたはずのレアが、はっきりと形を持った。散漫だった思考がひとつに集約され、彼女は確かに己を思い出す。


――だったら、ここにいるあなたはいったいだれ?

――私もまた、ひとつの意識だよ。ヴァルハマという名を一度は耳にしたことはないかね?


 相手は口を開いてすらいない。レアの中で声が響いている。


――ヴァルハマ……。知っているわ。国王陛下の相談役の〈魔法使い〉なんですってね。そうなの、こんな顔をしていたのね。噂に聞いた通り、変わった風貌ね。


 ヴァルハマは言われ飽きているような、皮肉げで諦めたような笑みを返した。それだけでもう、レアが蜂蜜男と呼ぶ婚約者とは似ても似つかない。


――そう、これこそが私が私である証。〈私〉以外でしかありえない存在の証。他の誰にも真似できやしない。


 それはそうだわ。レアは簡単に納得した。

 〈魔法使い〉は、魔法のように人の心を癒すことができる。この大陸では人の心に触れることができる力を持った人々を昔から民間だと慰師、国王や諸侯に特別に召抱えられた者に尊敬を込めて〈魔法使い〉と呼んでいた。それが今に数百年前からの王室の伝統として各国に残っている。


 大陸で認められている〈魔法使い〉の称号を与えられたのはわずか五人。その誰もが身体に不具合がある。手足が多すぎたり少なすぎたり、盲目だったり、聾者だったり。それと同じようにヴァルハマは色彩が狂っている。身体的欠陥こそが、それを埋め合わせる以上の力を神が与えたもうた理由であるかのように。


 そして得てして、彼らは何もできない者として多数の人々に虐げられてきた同じ不具の仲間たちを一身に背負ったかのように、容易く復讐を成し遂げた。王の寵愛を求めて争う欲深な廷臣たちよりも近く、国王の傍に侍ることが許された。孤独な権力者が求める確かなものを、彼らはその能力で与えられることができ、しかも裏切らない善き隣人だった。各国の国王は一度手に入れたら最後、与えられる安らぎが忘れられず、けっして放そうとはしなかった。


 ジリアクスの〈魔法使い〉ヴァルハマもまた、先々代から国王に仕えた。都市間を汽車で移動し、天動説が否定される時代になっても〈魔法使い〉は依然として存在する。どんなに科学が発達して古きものが消え、機械が工場で蠢く新しき時代になろうとも、彼らのもたらす癒しを果たして誰も科学的に説明することができないでいるのだから……。


――でも、どうしてご高名なヴァルハマがわたしの意識の中に? わたし、あなたのオフィスに行った覚えなんてないのに。……もしかして、押しかけ治療か何か? べつに心の病は持っていないつもりだけれど? と、いうより、会うのも初めてじゃなかったかしら。


 レアは何か思いついたように、目蓋が重たげな黒い目を大きく見開かせた。


(はっ。まさかわたしがダ―ヴィドの婚約者であることに嫉妬した誰かが彼に依頼して、どこか弱みを見つけて、わたしを陥れようとする魂胆? 陰険ね。最近噂になった相手だと、女優のパルヴァ―ラ、侍女のアーダ・パーツォ、マケラ伯爵夫人、で、ラネ伯爵夫人も入れといて……一夜の相手となるともっと数が多くなるわね。ほんと、大人の世界って汚れているわ。ま、弱みなんてないからいいけれど!)


 ふん、とレアが一人合点して鼻息を荒くしていると、ヴァルハマが口元に手を当てている。レアの質問にも応えないで、手の下の口の形はひたすらにやついている。


――〈魔法使い〉って思考も読める能力もあるのかしら。

――当たらずも遠からず、だね。ここは君の夢、意識の中だから、その中に浸っている私だって大体は読める。現実世界より感覚が鋭くなるだけさ。気持ち悪いかい?

――別に。そのぐらい大したことじゃないわ。だってそんな大したことを考えられる頭じゃないもの。恥ずかしいことは何もないわ。


 それより、とレアは礼儀正しく手を差し出した。


――お会いできて光栄だわ。ヴァルハマ。わたしはレア・ハイメクン。ようこそ、わたしの夢へ、というところかしら。


 ヴァルハマは太めの眉をひくりと動かしながら、レアの手を握る。


――どうぞ、よろしく。ヴァルハマと申します。……ところで、敬語じゃないのはわざとかね?

――夢の中だと人は大胆になれるのかもね。


 レアにとっては意趣返しのつもりだったが、相手は何も言わなかった。ところで、と話を展開する。相変わらずティーテーブルの上の紅茶は湯気を立てて、その香りはかぐわしい。レアの記憶にある通りだ。


――じつは私たちにあまり時間は残されていないのだよ。どうか、これから言うことを頼まれてはくれないかね?


 レアは顔をしかめた。晩餐会で、火の通っていない外れの肉を食べた時と同じ、生臭さに嫌気がさした顔だった。


――それ、断れるのなら全力で断りたいわ。だって、初対面なのにお願いするなんて、よっぽど変でしょ。たいてい、そういうのって、わたしじゃないとかだめだとかいう、わりとめんどうなお願いだったりするのよね……。


 〈魔法使い〉は真顔で文句の言うレアを見つめた。レアもあまりの真剣さに心折れて、すっと視線を逸らしてやり過ごそうとする。赤と青という色味の全く違う瞳に凝視されれば、これまでないほどの圧迫感だったのである。


――あなたがやらなければ人一人が死ぬのだがね。


 最高の脅し文句だわ。彼女は心の中で呟いたが、十中八九〈魔法使い〉には伝わっている。


――何なの、あなた。こんなにか弱いおとめに脅しをかけるだなんて……。嫌なオジサンだわね。一回肥溜に落ちて、反省するべき!


 レアが言えば、突然目の前にでん、とハエが飛び交う肥溜が現われた。夢とは思えないほど、鼻がひんまがりそうな匂い。ヴァルハマはそれに気づかないかのように、肥溜の向こうで飄々としていた。


――大丈夫だとも。君のずぶとさと口の悪さは私が保証する。そうじゃなければ、初対面でとうてい相手を罵倒しないだろうからねえ。ダ―ヴィドもとんだ変化球を口の中に突っ込まれた気分だったろう。

――そんなの知らない。ダ―ヴィドの話はしないで。考えたくないから。

――君は婚約者の身が気にならない?

――ならないわ。


 返事は毅然としていた。ヴァルハマは口よりも明瞭にものを言う瞳に嘘がないことを確かめて、道行の遠さを想った。


――彼の身を心配するのはわたしの仕事じゃない。わたしは彼の葬式にいったところで、求められているように泣くことができない。むしろ、よかったと微笑むことすらできる。彼の婚約者ってどうにも羨ましがられることが多いんだけれど、心労のほうが勝るわ。淑女たちの陰険な悪口のやり玉にあげられることも多いし。根暗だとか、人嫌いとか、釣り合わないとか、不美人とか。はっ、勝手に言ってやがれ、畜生!


 最後に祖父の口癖がうっかり漏れて、レアは慌てて取り繕った。


――そのぐらい、常にイライラさせられているってことよ。おまけに親切心か何かわからないけれど、常々誰かがあの蜂蜜男の情報を流してくれるから、大体の所業は筒抜け。あの人の妻だなんて、考えるだけでぞっとする。


 レアが素直に話したのは、考えがすべて読まれているだろうから、と開き直ったためだった。言葉がきついのは自分でもわかっている。そのせいで人が不愉快になったことは一度ならずともあった。


――もちろん、死んでほしいとまではいかないわ。そこまではひとでなしじゃないつもり。さすがにヴィヴィアンのことを問い詰めておきたいしね。……さすがに今回は許せないわ。


 レアの中にふつふつで一度置き去りになっていた怒りが胸元からせりあがってくる。全部まき散らしたかったが、一応目の前にいるのは赤の他人だったので、抑えた。


――ダ―ヴィドを問い詰めるには、彼は生きていなければならない。


 〈魔法使い〉は静かに告げた。威厳と親しみのこもった声音だった。赤と青の色彩が、彼の白い顔の中で浮いている。その圧倒的な力にねじ伏せられるように、レアはそうかもね、とかすれた声で囁いた。感情的だった己を抑えるように、座ってティーカップを手に取った。手首に巻かれた金の糸が目に入る。ヴァルハマに巻きつけられたものだ。絹のように滑らかな手触りだ。糸の先を辿っていけば、芝生の上をすすっと走りながら、〈魔法使い〉の着たジャケットのポケットの中に到達する。


――それは、確実に元の場所に帰れる道しるべになるものだよ。特別な糸でね、金の糸車に繋がっている。

――へえ。それはわかるけれど……もしかして、そのお願いというのはどこかに行く類のもの?


 ヴァルハマは頷くと、金色の懐中時計を取り出した。


――おや、もうこんな時間。急がないと。説明はあとで。あなたに拒否権はないのだから、もういいでしょう。

――拒否権がない……ですって! 待って、人の夢にずかずか入り込んでおきながら、そんな勝手な! 訴えるわよ!

――これが国王陛下のご命令でも?


 ひぐ、と喚いていたレアは空気を喉に詰まらせて、唸った。ジリアクスの王で、ダ―ヴィドの父……つまりは、未来の舅の機嫌を損ねるのは、レアの本意ではない。


――陛下はダ―ヴィドを愛しておられる。生きていていただきたいのだ。だが、今、ダ―ヴィドは死の淵にいる。怪我のこともあるが、なにより、生きようという気力が見られず、こんこんと眠り続けている。まるで心が死にたがっているようにね。

――死にたがっている? そんな繊細な神経があったとは思えないのだけれど。


 ヴァルハマが鋭い目でレアを射抜いた。先ほどの比にならない眼光に、レアは相手の地雷原に足を踏み入れたことを知った。猛烈に後悔した。


――彼に文句を言いたいなら、自分の足で行って、言えばいい。


 魔法使いが吐き捨てるように言うさまを見て、レアは諦めた。どちらにしても変わらない展開。もう慣れた。

 だからレアは、魔法使いがオーケストラを前にした名指揮者のように両手を振り上げるさまを眺めた。緊張感のある、優美で気品のある動き。吸い寄せられる。


 両手が振り下ろされる。すると、またも世界は暗転した。ずるりと自分が脱皮したような妙な感覚のあと、彼女は自分の体さえ見えず、辺りをふわふわと綿ぼこりのように漂っている。自分の体さえ見えなかったが、右手があるはずのところに、金糸が巻き付いている。金糸は闇の中に浮いていた。どこまで続いているのかわからないが、レアの唯一の希望に違いない。


(あーあ、どうしてこうなっちゃったんだろう……)


 巻き込まれ性分を恨みながら、ゆっくりと歩き出す。金糸を巻きながら進もうと思ったが、一歩進んでも少しもたゆまない。夢なのだから、と自らを納得させた。


(冒険は、冒険小説の中だけで十分なのに……。わたし、インドア派なんだけど。しかもなんだかダ―ヴィドを助けに行くシチュエーションなのが癪だわ。好きでもない王子さまを救いに行くだなんて、わたしって酔狂な女。話の筋としては王子と婚約者の間でロマンスがあるのが上等なのだけれど……)


 一筋の金の混じった黒の世界で、レアは苦笑いする。


(気色悪い想像ね。あの男とロマンスだなんて、こっちからゴメンよ。自分の首を絞めたくなるわ)


 現実は、ロマンス小説よりも苦い。ヴィヴィアンのように誰にでも愛される容姿を持てば、レアももう少しうぬぼれる余地があったのかもしれないが、もはやレアにも理解できないほど遠い境地だった。


(もしダ―ヴィドが目覚めたとしたら、ぜひとも今の苦労を理解してもらいたいわね。本当はあの男の首こそきゅっとニワトリみたいにしめてしまいたいけれど、死んだら意味ないものね。そうね、全国にいるダ―ヴィドの泣かせた女たちに謝りに行くお詫び行脚の旅に出てもらいましょう。それぐらいはしてもらわなきゃ、ね)


 レアは不穏なほくそえみをしながら歩く。


今回の用語で不愉快に思われる方がおられたら、お詫び申し上げます。一応、このファンタジー世界の雰囲気に合うように使っているだけですので……。ほかに良い用語がありましたら、教えていただけると幸いです。

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