28
キイイ、とブレーキの甲高い音を発したのを最後に、黒い列車は沈黙した。機械の巣が奏でる音楽も消えてしまって、外に出たレアたちの足音だけが反響している。元来た方向を振り返っても、その奥には列車の灯りが届かず、重苦しい存在感を放つ闇が広がっている。
線路の終わりには「幸福のおもちゃ箱駅」の看板が、白くぼんやりと発光していた。そして、機械の部品が互いに噛み合いながら形作られたような行き止まりの壁の下のほうに、暖色のか細い光が漏れていた。
「行こう」
ダーヴィドがレアの手を引いた。それは紳士が淑女をエスコートするものじゃない。幼友達が一緒に森を探検するように、遠慮がない。レアは大きな背中を眺めながら進む。ふたりの間でオパールの首飾りが揺れている。
白塗りの扉は鍵こそかかっていなかったが思ったよりも小さかった。レアの背丈よりも小さくて、かがまないと入れない。ダーヴィドは窮屈そうにしながら先に入り、レアが入るのを待った。
中は天井も高く、広い。宮殿の一室のように壁紙や調度は整っている。だがいろいろなものが混在して散らばっていた。カラフルなクッションや積み木に、イヌやネコのぬいぐるみ、黄色に塗られた木馬に、少女のビスクドール、列車のおもちゃ。カードもあったし、やりかけの〈戦争盤〉も見えた。さらには壊れたオルゴールが調子っぱずれな子守唄を歌っている。
だがそこには誰もいなかった。
「ここはいったいどこかしら」
ダーヴィドは答えなかった。それどころか苦々しい顔をして、部屋の奥を睨んでいる。白い天蓋付きのベッドは小さく盛り上がっている。
「いつまでこんなことをやっているんだ」
一瞬、レアに言われたのかと思ったが違う。彼の顔はベッドに向いている。
「あやうくレアまで死にかけるところだった。あと少し気づくのが遅れたらどうするつもりだった? それこそ取り返しのつかなくなっただろう! 早くこっちに出てきなさい、今すぐに!」
ここで彼は少し待ったようだが、すぐに業を煮やしたようで、行儀悪く散乱した玩具たちを足でよけながらベッドに歩み寄った。手を引かれたままだったから、レアも後ろからついていく。
目的へと到達したダーヴィドはいきなりベッドの上を剥ぎ取った。
「うわああああっ」
べろん、と生まれたての小鹿のように下から小さな影が現れた。一番早く現れたのは青い瞳だ。深い海の色をしていて、澄んでいる。そこから高く二つに結われた金の髪に、ネグリジェからすらりと伸びた手足に目がいく。とても愛らしい女の子。そんな印象だった。
レアが興味津々に眺めていると、ぱっちりと目が合った。するとみるみると切れ長の瞳が濡れていく。ひっく、としゃくり上げると少女は泣き出してしまった。
「女々しいまねはやめろ」
ダーヴィドが厳しく言うと、彼女は彼を睨みつける。大人と子供がにらみ合っている。なのにどうしてか、この二人の面差しは瓜二つだった。それこそ年齢さえ同じだったならば……。レアはぴんと来た。
「この子がダ―ヴィドの半身君なのね」
「そうだよ。こんな女の子の恰好をさせられているけれどね。子供っぽくて、我がままなんだ。勝手に僕から脱走して、月を隠してしまったんだよ。……さあ、みっともなく泣くのは終わりにして戻ってくるんだ」
「やだ」
少年はダ―ヴィドの手を振り払った。
「ダ―ヴィドがみとめないかぎり、ぼくはかえらないんだ!」
「何を認めろというんだ」
不機嫌そうなダ―ヴィドの顔に、少年の人差し指が突きつけられた。もう泣いていない。
「ダ―ヴィドがばかなんだってことさ。ばかばか、ほんとーにばかなんだよ。きづかないふりをして、どーでもいいってかおするんだ」
ほんとーはね、ほんとのほんとは、と少年がレアを向く。
「レアのことが忘れられないんだ。ほかのおんなと遊んでいたって、どこかでいつもレアじゃないっておもってる。ダ―ヴィドはむりしてる。たくさんのいいわけをしてにげているよわむしなんだ。ぼくはダ―ヴィドがみとめないぼくだけど、ダ―ヴィドにとってだいじなところだから、ぼくはぼくをまもるためににげたんだよ。だからね、ぼくはきみにいえるんだ、きみがすきだって。こいつはみとめないけれど、ぼくは月のしたではなしたときから、ずっとすきだった。……ねえ、こんなぼくだけれど、すきになって。もうなかせないから。ずっとだいじにするからさ」
まだ舌足らずな声が紡ぐ言葉はとても真摯に聞こえたが、レアは少し戸惑ってしまった。いきなりこんな告白を受けるとは思っていなかったからだ。あのダ―ヴィドがまさか……と。
ダ―ヴィドは怒りだしてもおかしくなかった。現にこれまで以上に険しい顔をして、自分の半身を見つめている。だが噛みしめた唇からちがう、という否定的な言葉は飛び出してこない。心の底から認めたくはないが、認めたくもある。そんな葛藤がうかがえる。
レアは少年の方に膝をついて視線を合わせた。
「ねえ教えて。どうして君はダ―ヴィドを死なせてしまうようなことをしてしまったの?」
丁寧にしたつもりなのだが、少年はうつむいてしまった。ふっくらとした頬に、柔らかそうな金の髪が目につく。レアは小さな子にどう接すればいいのかわからなかったが、ひとまずよしよしと頭を撫でてあげた。
「レアをなかせたから」
ごしごしと男らしく目を拭った彼はぽつりと告げた。
「ダ―ヴィドはレアをふこうにする。レアをずっとなかせたままで、ずっとしばりつけてる。レアだっていった、死んでしまえばいいって。ぼくもおもう。ダ―ヴィドはレアをはなすべきなのに、じぶんかってな好きでくるしめた。だからダ―ヴィドは死んだほうがいいんだ」
レアは言葉を詰まらせた。死んでしまえばいい――。それは軽はずみでも言ってはならなかったことだったのに、どうしてレアは間違えてしまったのだろう。墓石に刻んであったのは誇張なのだ、レアは賢明でもなんでもない。
「それは違うわ」
レアは縮こまっている小さな少年を抱きしめた。その身体は胸に抱えてこめてしまうほどか細く儚い。きっと女装など望まなかったのだろうと感じられた。
「わたしは生きていてほしいの。たしかにしょうもない人で、わたしは何度も裏切られた気分を味わってきた。……それでもね、あのひとはわたしにとって光だったわ。眩しくて、触れることはできないけれど、わたしの人生の中で一番気にしないでいられなかったのもあのひとだった。あのひとがわたしにいろいろな感情を教えてくれた。現れたときから、わたしを惹きつけて離さなかったのよ。羨望や落胆、嫉妬、歓喜ぜんぶ、あのひとと関わったことで生まれたわ。わたしはまるで小説の主人公のようにたくさんの思いを持てた。……わたしにとってはかけがえのない財産だったの。やっと気がつけたのよ。わたしはオパールの首飾りを貰ったとき確かに嬉しかった。胸がときめいたの。幸せだったの。だからあなたも自分を大切にして。あなたが死んでしまったら、泣いてしまうわ」
少年は何度もうん、と頷いた。
「レアがそういうなら……やめるよ」
レアから離れた彼は、もう女の子の恰好をしていなかった。短髪で半ズボンを履いている。彼女を安心させるように、にかっと笑った。
「だいじょうぶ。ぼくがいるかぎり、もうダ―ヴィドにわるいことはさせないから!」
それを最後に、少年は笑顔のまま跡形もなく消えた。
ダ―ヴィドは自分の具合を確かめるように胸を押さえている。
どんな気分、と尋ねると、彼は悪くないと言う。それから熱の帯びた瞳でレアを見つめてきた。
「君にキスしたい」
ダ―ヴィドが本気で言っているのがわかっていた。彼はきっと優しいキスをくれる。けれど立ち上がって首を振った。
「やめておくわ。離れがたくなっちゃうもの」
「それは……」
ダ―ヴィドは何か言いたそうにしていたが、結局口を噤む。
彼は部屋の片隅にあった古い木の箱を抱えてきた。
「ではこれで本当に最後だ。この世界に月を解放しよう」
レアはその大きさに驚いた。
「月がこんなところにおさまっているの」
「これは僕の宝箱だったんだよ。昔、大事なものはなんでもかんでもこの箱に入れておいたんだ。僕が月を隠すなら、きっとここだ」
少し自慢げなダ―ヴィドはレアに開けてごらん、と促した。レアは蓋をずらした。
すると、ものすごい勢いで、ぽーん、と真ん丸なものが上に飛び出していく。上へ、上へ。天井を突き破って消えていく。天井に開いた穴を覗き込むと、夜空を照らす小さなお月さまが見えた。
月のやつめに出会ったら、家出はやめろと言っておいてくれ――。実際のところ、家出ではなくて、伝言を言う暇もなかったけれど、世界に月が戻ったのなら、よしとしよう。顔を持ったこの世界の太陽を思いだしてくすりと口元を緩める。
レアは同じように空を仰いでいるダ―ヴィドに笑いかけた。
「あなたは月が好きだったのね」




