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27 ある患者の治療メモ3


 アーダ暦三六二〇年十の月三十二日。キツネ氏は約束の時間を大幅に過ぎてからあらわれた。扉を開いたアナグマ女史に礼を述べながらひとを魅了する笑みをたたえていた彼は、私の顔に目を留めた瞬間に真顔になった。完璧な造作の仮面を思わせる。さぞや彼に都合のいい作りになっているだろう。


「最近は時間通りに来ていたから、これは御者の怠慢かな」

「いいえ、うちの御者は優秀です。ぐずぐずと出発を引き伸ばしたのは僕のほう」


 彼はいらついた様子でどかっと椅子に座るが、それでもどこか育ちの良さが滲む。私は彼をじっくりと眺めた。彼は元々理想で固められた石膏の美男子像をそのまま人間にしたような外見をしていたが、今になってさらに憂いが加わり、世の女性たちが顔に浮かぶ苦悩を取り払ってしまいたくなるような雰囲気を醸し出していた。微動だにしないのはアナグマ女史ぐらいだろう。


 わたしたちは女史が気をきかせて持ってきた紅茶を間に向き合ったが、キツネ氏は肝心な話をしなかった。言いにくそうに、ぐずぐずとたわいない話を引き伸ばしている印象だ。

 だが。


「お願いがあります」


 突然響いた切れ味のいいナイフのような声とともに、彼は女史を一瞥した。意を汲んだ私が手で合図を送ると、部屋の外へ出ていく。それから、どうしたのかね、と改めて尋ねた。


 彼は視線を彷徨わせながら、自分の胸に右手を当てた。


「僕の心を見ていただけないでしょうか」


 その言葉に私はたいそう驚いた。彼の発言から、私はそれを望まないだろうと思っていたからだ。現に一年半以上この青年に付き合ってきて、彼が私の力を求めてきたことはこれまでなかったのだ。


「何があったのかね」


 私が慎重に問い返すと、彼は暗い顔でぽつぽつと自分の事情を明かした。彼とネコ嬢の間で起こったある事件のことを彼は赤裸々に語った。それは私が信頼されている証でもあるが、私に彼の心を読む術はなかったので、ひたすら聞き役に徹する他ない。


「解釈の仕様はいくらでもあるね」


 極めて客観的に語られた事実について、まず初めにそう告げた。彼はかすかに頷く。


「でも僕が気にしたいのはそのことじゃない。いや、彼女が何を考えているのかは知りたいと思うが、それはいつか自分の手で聞き出すべきことだろうし、彼女が僕の婚約者である以上、誰を愛そうが、彼女は僕のものだ。……問題は僕の気持ちだ。こんなことはまったくの他人であるあなたにしか話せないことなのだが……ここ数日の僕は、心臓がまるで借り物になったように重いんだ。ずっと不穏な鼓動を続けていて、変に不安になる。だから治せるものなら、治してほしい」


 彼は真剣に悩んでいるようだったので、私も覚悟を決め、きっぱりと首を振った。


「悪いけれど、君の心を私が見ることはできないよ。君はそういう体質だ」


 そうですか、と彼は椅子に深く座り込む。


「なんとなくですが、そうじゃないかと思っていました。そこそこの付き合いになってきましたからね……あなたが私の心を読めないのでは、と……。ああ、でもそうか。当代でもっとも力が強いというあなたでも、無理なんですね。とほうもない迷子になった気分ですよ」


 額を手の甲で押さえながら、彼は弱弱しく笑った。私には彼が助けを求めているのがわかったが、どうしてやることもできなかった。無力。その言葉が私に重くのしかかってくる。


「原因はわかっているんですよ。彼女の声と姿が頭から離れてくれないんです。死んでしまえばいいのに、と、我に返った僕に言い捨てて逃げて……そして、彼女は別の男に助けを求めていた……。その場で殺してしまいたかったのに、それもできずに立ちすくんで……すごく情けないでしょう、僕。嘘みたいだ、こんなにはまり込むつもりなんてなかったのに」


 彼は唇を噛みしめ、俯いた。


「月並みなことを言うようだが、その気持ちをネコ嬢に告げるべきだよ。そして許しを請うんだ。君は彼女に対して誠実に振る舞わなくては」


 誠実だって、と彼は鼻で笑った。


「僕ほど程遠い男はいないですよ! 僕はどんな女でも愛することができるし、同時に何人も愛せる! 誰か一人だけなんて、無理だ。縛られるのもごめんだ、そんなつまらない人生は送りたくない!」


 まったくの空言だと、ぴんと来た。言いながら苦しそうにしている彼だって、本当は気づいているはずだろう。彼はそうやって、自分と違う者だとして突き放そうとしている。その裏返しは劣等感だ。自分自身を卑下して、自分の価値を認めていない。


 皮肉なものだ、誰よりも自由奔放に振る舞っている彼を突き動かすのは、自分自身への自信の無さからくるものだなんて。彼はたくさんの女を愛することで、喪失した自信を取り戻そうとしているのだ。


「いいや、君は誠実にできるはずだよ」


 私は彼の眼を見て、明瞭に告げた。相手の心臓を指差した。


「私の見立てを言おう。君はごく普通の神経を持つ、ごく普通の青年なんだ。何がよくて、何が悪いかという倫理観をきちんと持っていながら、あえてそれを守っていない。だが良心はしっかりと持ち合わせているから、罪悪感を抱いている。だから君は常に葛藤しているんだよ、客観的で理性的な自分と、欲望のまま生きようとする本能的な自分とね。君は奔放な自分が嫌いなんだ。本気で愛してしまったネコ嬢にまっすぐ手を伸ばせないのも、今までの自分のやってきたことで、彼女に釣り合わないと思っていたからだ。……そしてその葛藤が最悪な形で表出した。ひどく暴力的な手段に訴えかけてね」

「……そんな馬鹿な」

「認めた方がいい。確かに君は特別な立場にいるが、君自身は平凡な男だ。ごく普通に誰かを愛せるし、愛される資格もある。誰が君の自信を喪失したのかはわからないが、君がきちんと自分を愛してやれば、君は今よりもずっと楽になれるよ。君は君自身が思っているよりもまともな男なんだ」


 私は涼しい顔で懸命に説得しながら、一方で興奮していた。彼の心の欠片を正しい形でつなぎ合わせたという勝利に酔っていた。力を使わずとも、できたのだという達成感は一時私を幸せな気分にした。だからこそ、いつも余裕を持って慎重に言葉選びをしていたはずの私が、愚かしいミスをしでかしたことを知ったときにはもう遅かった。……せめて、彼をつぶさに観察していれば、その兆候は読み取れただろうに。


「認めますよ。……僕はきっと彼女を愛してしまった。手放して、あいつにくれてやるのはごめんだとね。でも、僕に変わるつもりはない」


 彼は勢いよく立ち上がった。テーブルが膝に当たり、紅茶のカップがかたかたと揺れる。


「帰るのかね」


 私は内心驚きながらも努めて平静に尋ねた。


「ええ、面談はこれっきりで終わりです。父には僕の方から言っておくのでご心配なく。僕は至って健康的だってね。だってそうでしょう、僕は病気じゃない」

「君は彼女に振り向いてほしいとは思わないのか」


 出ていこうとしていた背中が止まり、彼は一瞬だけ迷ったような表情を見せる。だがたちまち霧のように消え失せて、彼を守るような鉄壁の笑みがはりついた。


「僕が僕じゃなくなるなんて、嫌ですよ。あなたがおっしゃる通り、僕は醜い生き方をしている。それに比べてネコ嬢は決して僕なんかに堕落させられない。僕を拒否する善良さを持っていて……彼女は僕の良心なんです。彼女は間違っている僕をきっと許さないでしょうが、それでいいんです。ですが、諦めたわけでもありません。僕が変わらないのなら、これは僕と彼女との闘いです。僕は彼女にこちら側まで降りてきてもらいたい」

「それは君がもっと苦しくなるだけだ」


 私は去ろうとする彼に素早く告げた。


「本心と反する行動は必要以上の負荷をかけることになる。ただでさえ君の立ち位置にはプレッシャーがかかるのだ。それに加え、君の体質だ。いいかね、君には元来〈慰師〉や〈魔法使い〉になれる素質があるのだよ。健常者として暮らしていく分にはいいが、もし事故で死の淵に追い詰められ、その力が目覚めることになった時、君の心で大きな葛藤があったら、力が暴走して何が起こるかわからない。後天的に〈慰師〉や〈魔法使い〉となりかけていた人々はほとんどがそうやって死んでいくんだ。私にも救いきれないかもしれない。だから君は……」

「あなたのような人でも心配してくださるんですね、ありがとうございます」


 彼はちっともありがたがっていなさそうな冷淡な口調でそう言った。


「ですが、そうなったらそうなった時ですよ。僕が死んだところで、本当に泣いてくれるのは母ぐらいのものです。父は母がいるからこそ僕を愛するでしょうが、母がいなければ邪魔なだけでしょうし、付き合ってきた女性たちにはすぐに別の相手が見つかるでしょう。ネコ嬢は……彼女だけは、わかりませんが」


 息をついた彼は、扉から消える直前にこう言い残した。


「……実はひとつだけ言っていなかったことがあるんです。以前見たアルバムがあったでしょう。その中にせっかち時計との写真が二枚ありましたよね。あれ、どうしてどちらもぎこちのない表情をしていたのか知っていますか。……彼女、僕がきちんと立っていなかったからって、尻をつねっていたんです。それ以外のときも、何度も何度もね……。魔除けのためと言って女の子の恰好も無理やりさせられて、行儀が悪いと見えないところを何度も殴ってくるんです。本当に、ひどいしつけだ」


 彼の横顔は今にも抑えきれない感情が零れ落ちそうだった。それなのに、彼の口許は何でもないことのように軽く笑っている。こうやって告白することさえ、彼は恥ずかしいと思っていたに違いない。この面談を最後にするつもりだからこそ、彼は最後の誠意を示しただろう。わたしにできることといったら、しっかりと相槌をうってやることだった。


「きっと彼女にこそ正しいしつけが必要だったのだろう」


 彼は何も言わずに扉を閉め、それから今日に至るまでわたしからのコンタクトを拒否し続けている。



――以上が、これまでに起きたことのすべてだ。私はこれから彼の父に報告書を送る。彼の体質を含めて、私に出来たことの全部を述べるつもりだ。個人に関わる部分は伏せて書こう。薄っぺらい報告でも、彼は気にすまい。彼はおそらく母親に頼まれただけなのだろうから。あぁ、本当に苛々してくる。会う頻度は減っても、最近は特に駄目だ。きっと、彼に父親の影を見たからかもしれない。若い彼と交流することで、自分の鈍りきった感性が磨かれていき、再び古傷が痛みはじめたこともあるだろう……いい加減、解放してくれ。


 窓の外では空が白みはじめたので、そろそろこの短くも異常に長い時間をかけた文章を書いていた手を止めよう。この記録をアナグマ女史の他に誰が読むかはしれないが、それは私にとってどうでもいいことだ。ただ今は女史が出勤して部屋の扉を叩くまで深く眠るのだ。何もかも忘れるほど、深く――私の心の世界に沈みこんでしまおう。



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