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 長い旅を経て、レアはちょっとだけ成長することができた。


 冬の湖を覆っていた氷が割れるように、たった一発の銃弾で氷の世界は砕け散り、新たな階層が現れた。柔らかな草地と、黒い点を中心として広がる白い点。それが何か分かる前に地面が近くなって、身構える。そして思い描いた。自分がどうやって着地するか。


 思ったように体が動く。足元で落下の勢いを殺すクッションが触れたような感じがして、体勢は崩れない。


 次の階層へ到達した彼女はこれまでと違って尻餅をつくこともなく、風に舞っていた木の葉のようにつま先から柔らかい着地を果たせたのである。


 ふう、と息をついて、頬にこべりついた涙の痕をごしごしと拭った。泣いてばかりじゃいられない。沈みそうになる心持ちを無理やり奮い立たせる。


(過ぎたことも思い出しても仕方がないわ。そんなことよりわたしは帰るの。何とかして半身君に会わなくちゃ)


 付ける気になれない首飾りは右手からぶら下げた。


 今レアにできることは前に進むこと。足元に転がった苦い思い出を踏みつけてでも、前へ。


 氷の世界と同じ灰色の空の下、緑のなだらかな丘を越えていく。すると、落下中に見えた白い点々がはっきりとした形を持って、レアの前に現れた。一度目にしたら、あれもこれもと視界いっぱいに広がって、その向こうに三角屋根がいくつも縦に重なったような不思議な黒い建物があった。あそこへ行こう。


 白い点だったものを通り過ぎようとしたとき、黒い文字が刻まれているのが見えた。立ち止まって読むうち、眉根を寄せていく。


 それはこんな文章だった。


『全世界の男の高慢な女王さまたるヴィヴィアン、愛を求めて野垂れ死に。僕をどうにかしたって、心はあげられない。君に近づいたのは君が目当てじゃない』


 真っ白な墓石にそっけない黒い文字。述べられているのは辛辣な言葉だ。

 驚いて、少し離れたところにあるほかの墓石を見る。


『ヘンリッカの香水はキツイ。僕は何度息苦しいと言いたかったことか。旦那だってそう言っていたよ。一夜だけという約束を反故した君には、落胆している』


 次も見た。


『イラ嬢の墓へ捧ぐ。僕は、君を巡って僕と彼を決闘させたかったことを知っている。乗ってやったが、知っているよ』


 さらにその次。


『劇場でもっとも気高き女優マーリア。舞台の上の君は無敵だった。だが降りた途端に君はただの女になった。地位と財産に目が眩んだつまらない女に』


 小走りに駆けながら、レアは墓石から墓石へと移動する。出てくる名前はレアが知る限り、彼が関係した女性のものだった。これは彼の本音が刻まれた墓なのだ。


(やっぱり嘘つきだったじゃないの)


 心の奥底ではいろいろ考えていたくせに、それをおくびに出さないだなんて、道理で胡散臭いと思うわけだ。


 気づけば、レアは自分の墓石を探していた。それは黒い建物の入口のすぐ傍にあった。それだけ妙に汚れていて、最後の方の文字が読めない。


『聡明なレアお嬢さん。理性的な君。決して間違わない年下の婚約者。まだ言わなくちゃならないことが残っている。それは――』


 続きを伝える気はないらしかった。指でこすってみたが、汚れは取れない。立ち上がってすぐそばに迫った建物を見上げる。近くで見れば木造の建物のようだった。昔読んだ絵本の挿絵に出てくるものと似ている。彼も読んでいたのだろうか。


 淑女の礼儀として二、三度ノックしてから木製の扉を押し開く。何十もの燭台が壁をぐるりとなぞるように空間を照らしている。中心には大きな石の台がのっていて、そこに見知らぬ茶髪の女性が両腕を組んで、死んだように横たわっていた。


 誰かしら。近寄って、上から覗き込んでも、瞼が閉じたそのひとのことがわからない。

 と、まつげが震えて、ぽっかりと彼女は目を覚ました。


「あなた、誰?」


 緑のガラス玉のような目は黒い穴のような天井を見たままだった。表情もなく、自分の顔にそっくりな無表情の仮面をつけているのではないかと思わせる。


「わたしはレア。レア・ハイメクン」

「私はマーギット。ここで死んでいるの」

「でもしゃべっているじゃない」

「いいえ。『私』は逝ってしまったわ。ダーヴィドの中でも死んじゃった」


 ダーヴィドの近くにいたマーギットと言えば、少しだけ思い当たる節があった。確か、ダーヴィドの教師をやっていた人物の娘だったはず。そして彼女はすでに現実世界で死んだ。あの辺りは世間でも話題になっていたので知っている。なんでも結婚した夫と仲が悪く、庭師と駆け落ちしたが連れ戻されて、まもなく病死している。


 ダーヴィドとどう関係したのかはわからないが、ひとり特別な場所にいることを考えると、おのずと察せられる。


「死んじゃっても、ダーヴィドの中では特別だわ。大事にされている」

「それは私を手に入れられなかったから」


 生を感じさせない声で彼女は言った。


「想われても、生きてなきゃわからないわよ。私は誰でもなくなってしまった。ここにいる私は誰かしら。そうね、死体の私なのね」

「ねえ、この先への行き方を知っている?」


 マーギットは眠る直前のように目を閉じた。


「先なんてないわ。ここが行き止まり。心の底よ。ダーヴィドは二人に別れていなくなっちゃった。月も消えちゃった。もうこの世界も終わりね」

「終わったら困るのよ。帰れないじゃない」

「私にとってはどちらも変わらず、死んでいるわ」


 しばらくねばっても、彼女は同じことを繰り返すばかりだった。らちがあかないと悟ったレアは失礼するわ、と手短に言いながら、背中を向ける。


「願ったって、意志のない私じゃ思い通りにできないわ」


 扉が閉まる直前、小さな声が響く。


 レアは墓石が立ち並ぶ草原に戻ってきた。墓石の数にうんざりする。


 もう一度、自分の墓石を眺めた。……明らかにほかのものより劣っている。それに、のあとは何なのだろう?


「どこにいるのよ、ダーヴィド」


 睨んで言っても、答えはない。しばらくじっとしていると、突然ゴゴ、と地鳴りが起きた。


 光がうっすらと消えていく。いや、違う。上空が黒に染まっていくのだ。それが、草原を飲み込んでいく。直感した、崩壊が始まっていくのを。


 タイムリミット。ダーヴィドもレアも死ぬ。


 レアは覚悟した。死ぬ覚悟じゃない。思いつきだが、それに賭ける覚悟だ。前々からそうじゃないかと思っていたことを行動に移す。


 この世界では想像力や言葉が力を持っている。意志の強い方が勝てる。肥溜めにはまればいい、とその気で言えば現れるし、マントがほしいと思えば羽根がマントになる世界。


 だからレアは願い、口にした。暗闇の中でじたばたともがいているような心地でも、一条の光が差すことを思った。天に向かって叫ぶ。


「ダーヴィドっ! 勝手に死のうとしないで! あとでいくらでも文句は聞いてあげるから、生きて! わたしは、あなたに生きていてほしい!」


 夢中になって叫びながら気づいた。ここまでレアは義務感で来たと考えていた。でもそうじゃなくて、レアの本心であったのだ。そしてそれを彼に向かって口にすることはほとんど初めてだということに。女たらしで、レアだけを見てくれなくて、どこまで嘘を吐いているかわからなくても、それでも。可愛い、と囁く彼の幸せそうな顔、レアが初めて嬉しそうに贈り物を受け取ったときの子供のように得意げな顔が離れてくれない。レアは素っ気無い振る舞いをしていても、終わりが辛いものでも、それまでの優しい記憶は確かにあった。


 足元も暗闇になった。落ちる。放り出された瞬間にかつてないほど思考が駆け巡った。


――一度終わっていたと彼女が思っていても、ダーヴィドは繋がりを絶たなかった。たとえ婚約を継続していても、必ず会う必要はなかった。ダーヴィドはたぶん、諦めていなかったのだ。レアがいつでも手を掴めるようにいつでも手を差し伸べていた。


 もしかしたら、彼は彼なりのやり方で愛していた? 大層自分勝手な愛し方で、ひどく紛らわしくて、どこまで本気かわからなくても。それは臆病者の愛だ。深く飛び込むことを恐れる愛でもある。なんだか「普通」だと思う。レアにも理解できる普通のひとの愛だった。仮にそうだったとしたら、レアは安心するだろう。そういうひとだったら、レアはきっとダーヴィドを愛せる。レアだけを見るかはわからないが、やってみるだけの価値がある。


「レア!」


 大きく力強い手が彼女の手を掴む。タイミングがいい。ダーヴィドだ。彼女は間に合ったのだ。


「こっちへ!」


 ダーヴィドが誘い、手を引いたと思ったら、あっと言う間に景色が変わる。足元が絨毯になり、足元でガタゴト、と小さく揺れている。列車の中だ。


 気づけばレアはコンパートメントに座って、車掌姿のダーヴィドを見上げていた。彼はとびっきりのいい笑顔を彼女に向けていた。


「さ、お嬢さん、切符を」


 白い手袋をした手が差し出される。レアは何かないかとあれこれ探そうとし、首飾りを絡めている右手を見た。さきほどダーヴィドに掴まれた右手。開けば、白い紙切れがある。行き先は「幸福のおもちゃ箱駅」。やっぱりよくわからない。


 車掌に見せると、頷いて切符をきってくれた。そのままどこかに行くかと思いきや、どっかりとレアの正面に座って、制帽を脱ぎ、ふうと息を吐いている。


「参ったね。どうなるかと思った」


 親しげに話しかけてくる。彼はレアの知るダーヴィドだ。


「あなた、どうしてさっきは消えたの」

「言っただろう。僕は不安定だって。ダーヴィドの本心の役割を担っていても、欠けているから存在が一定しなかった。君の前に現れては消え、知っているはずのことを忘れたりした。でも今は君が底のほうに来ているから安定したんだ。君が願ってくれたから。あいつ、僕の半身もようやく君がいることに気づいたようでね。道が開いた」

「だったら最初から呼びかけていればよかったわね」

「君が強い意志で言っていれば、ね。僕のために君が必死になるとは思っていないよ。君が死なないために、僕に生きて欲しいと言ったのはわかっている」

「違うわよ」


 レアははっきりと言った。


「自分でも意外だったけれど、そんなことじゃないわ。理屈じゃないの。落ちる瞬間に今まで抱えていたものが全部とっぱられて、本音だけが残ったの。嘘をつけないぐらい、私は理性的じゃなかった」

「君はまた思わせぶりなことを言って……」


 彼が窓の外を見るのに釣られ、レアも視線を向けた。

外で何かが動いている。耳を澄ませば、がったん、ごっとん、ギギ、と妙な音を発している。列車は薄暗闇に包まれた巨大な機械のトンネルの中にいた。あちらこちらで一際濃い影が動いたと思ったら、音も同じように飛び回る。さまざまな形をした鉄の部品が組み合わさって、軋んだ音を立てている。まるでひとつの不揃いな音楽のようだった。


「面白いね」


 彼が言った。


「小さなころの僕は機械いじりが好きだった。おもちゃもよく分解して叱られた。ヘルミサロ夫人が無理やり取り上げてからは、優雅で王族らしいことしかさせてもらえなかったけれどね」

「意外だわ」

「そう、僕は自由だと思われがちだけれど、確かにしがらみはあったんだよ……」


 ダーヴィドは窓から目を離さない。青い晴れの海のような瞳には、過ぎた過去が映っているようだった。


「僕は機械のような心を持ちたかったよ……誰かに執着するなんて、僕らしくない」


 列車は汽笛を鳴らしながら、薄闇の中をひた走る。

 車掌さえ行き先を知らない。




1月4日、加筆しました。

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