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小難しい話からスタートです。

「僕は君がいい。そのために順番が回ってくるのを待っていたんだよ」


 彼は乱れていた駒をすべて盤上に並べ直し、前列にあった黒の〈兵士〉の駒を一マス進めた。


「ほら、次は君の番だ。でも、後手が嫌ならすぐに変わることもできる。どうする?」


 レアは〈兵士〉の駒とダーヴィドとを見比べる。


「いつになく強引だけど、このままでいいわ。……えーと、ではこれで」


 レアは〈騎士〉の駒を進めた。〈騎士〉は馬に乗っていて、軽々と〈兵士〉の頭上を飛び越えることができるのだ。


 二人は夢中で駒を動かした。タマラとアンナ・レーナがそれぞれの部屋に引き上げ、オルガン奏者の音楽が止み、彼が帰った後も、なかなか勝負を切り上げることができなかった。談話室を出る前に一言二言かけられていても、レアはおざなりな返事をする。ひとつのことに集中してしまうと、レアは時間を忘れてしまうのだ。


「俺ももう寝ることにするが……レア、お前もそろそろ」

「待って、ヴィルケ。明日になればもう時間がないの。あと少しで終わるわ」

「それはどうだろうね」


 ダ―ヴィドが柔らかい声で遮った。


「僕だって、負けるつもりはないよ」


 ヴィルケが部屋に戻って、二人きりになった。レアは一旦ゲームへの思考を止めて、顔を上げる。


「ねえ、二人きりで話したいことって何かしら」

「それはまだ内緒。この勝負が終わってからにしよう」


 ダ―ヴィドの表情が先ほどよりも緩んでいる。盤の横に置いてあったワイングラスも空になっていた。でも使用人を呼び出して、もう一杯飲もうとは考えていないようだった。眠る直前のようにリラックスした表情なのだ。気の抜けた顔のまま、手に握った〈城塞〉を弄んだあと、おもむろに敵陣に突っ込ませた。


 レアは〈魔法使い〉を取り上げた。


「そうなの……だったら、早く終わらせないとね」


 レアの〈魔法使い〉がダ―ヴィドの〈城塞〉をつき壊した。かたん、と盤上で〈城塞〉の駒が倒れる。

 彼はレアの言葉に答えない代わりに、別のことを口にする。それは随分と彼らしくない真面目な話だった。


「レア、僕は〈戦争盤〉をする時、ときどき駒を人になぞらえることがあるよ。

〈戦争盤〉は戦争そのものを模したゲームで、ひとつの陣営がひとつの国でもあるからね。


たとえば、僕が〈王様〉だとしたら、君は〈王妃〉で、〈大臣〉はうちの執事、この屋敷はさながら〈城塞〉だ。


僕の父が〈王様〉だったら、〈大臣〉は首相で、〈王妃〉は僕の母、〈騎士〉や〈将軍〉は兄や僕、軍でもいい。〈兵士〉は国民だ。〈魔法使い〉はそのまま我が国にいる〈魔法使い〉に当てはまるだろうね。


たとえようはいくらでもある。


〈戦争盤〉は単純なゲームだよ。駒のひとつひとつにふさわしい役割が与えられて、決められた動き以外はしない。ルール違反になるからね。


でも現実ではそうはいかないだろう? たったひとりの人物でもいろいろな役割がある。


たとえば僕は男。父母にとっては息子で、兄からすれば弟。誰かにとっては教え子、友人、恋人、敵の役割を負っている。君に対しては婚約者であるように。そして、世間から見れば、僕は王子なんだ。


ほら、僕自身は一人でも、多くの役割を持っている。誰だってそうだ。あるひとが言っていたよ。人が生きようとしたとき、他人との関係に応じて様々なレッテルが貼られることになる。


このレッテルは結局人と人との関係を規定しているから、やがて相手に貼られたレッテルに合わせた反応に変わるんだそうだ。つまりは良くも悪くも人は求められた役割に順応するんだね。僕は男としての顔も見せれば、息子としての顔、弟としての顔も同じように持っている。無意識に仮面を付け替えているんだね。


おそらく人はずっとそうやって自分の役割を背負ってきたんだと思うよ。王族、貴族、民衆といった身分も、男は外で働き、女は家庭を守るという習慣も、結果として社会的秩序となった役割だと言えるんじゃないかな。そしてそれは数百年経った今でもある。これまで作られ、守られてきたということはきっと人にとって秩序が必要だったから。もしも、自分の役割を規定されたがっている生き物だとしたら、これからは人にとって生きにくい世の中になるよ、きっと」


「つまりそれは……これからは自分の役割が規定されない時代が来るということ? でもおかしいわ。確かに今の社会階層は変わると思う。王族、貴族、庶民だけだったところに、貴族ではないけれど、裕福な層……それこそ、わたしの家のような成金も入るわ。けれどそういう役割ができたということに過ぎないわ。たとえそこで落ちぶれたとしても、今度は庶民という役割がつくだけのこと。生きにくいとまでいかないんじゃないかしら」


 いいや、あるよ、と彼は神妙な声で告げる。先生が教え子に対するように、柔軟にレアの主張を跳ね除けた。


「男は外で働き、女は家庭を守るという〈役割〉が喪失したとしたらそうなるよ。女性が高い教育を受け、社会に進出したとしたら、今までの人との関係性は確実に変わる。男女で単純に二つに分けられていた役割の境目がわからなくなるし、他の要因でも社会はもっと複雑に、多様になる。僕たちはもう一度役割を作り直さなくちゃいけなくなるだろうね。少なくとも、これまでの秩序が形作られてきただけの時間は必要だよ。……だから僕には古い秩序が壊れるのがいいことか悪いことかわからないけれど、今すぐ女性教育をどうこうすることはないと思っている」


「ダ―ヴィド、ひとつだけ気になることがあるわ。あなたの話だと役割は人にとって大切だということがわかる。無くなること、変わっていくことを恐れているのね。だったら、もしも一人の人間の中で確固たる役割が喪失したらどうなるの」


「昔と人の仕組みが大して変わっていないとしたら、必ず無理が出てくるよ。……あまりにも多く、複雑な役割を負ってしまうと、付け替えた仮面と、自分がそうと信じていた本質の区別もつかなくなってしまう。自分がどんな仮面を持っていたかにも気づかないで、どこかにばらばらに落っことして……僕たちは何者にもなれなくなるよ」


 アイデンティティの喪失――本で読んだ言葉が頭に浮かぶ。暗闇に吸い込まれるレア、手から零れ落ちる様々な仮面がかたん、と軽い音を立てて次々と落ちていくのを想像し、心が震えた。わたしは誰? 尋ねる自分の不安定さに気づく。


「ちょっと怖い話をしてしまったな。……ほら、これで僕の勝ちだよ」


 話している間にもゲームは進んでいる。レアの白い〈王様〉に、ダ―ヴィドの黒い〈魔法使い〉が迫っていた。次の手が回ってきたら、〈魔法使い〉は〈王様〉を討ち取ってしまう。


「負けだわ」


 まさかの二連敗にレアは悔しそうにだが負けを認めた。時計を見て、深夜とも言える時間帯に眉をひそめる。ゲームも話もしてしまって、時間を随分取られてしまったのだ。


「わたしももう眠らせてもらうわね」


 差し出された手を取って立ち上がる。そのまま部屋に送られると思っていたのだが、ダ―ヴィドの手はレアをまったく違うところへと誘った。躊躇う身体に、まだ話があるんだ、と彼は押し切った。怖い話を聞かされたので、まだ一人になりたくなかったかもしれない。


 彼が連れ出したのは、欠けた月がよく見えるバルコニーだった。燭台を持たなくとも歩けてしまえるような、明るい輝きに満ちている。ここまでくると、ダ―ヴィドは振り向いた。


「君に渡したいものがある」


 そんなもの。反射的にレアは断りの文句を言おうとする。心のこもっていない贈り物にはもう飽きた。でもすぐに言わなくてよかった、と思った。


 ダ―ヴィドが取り出した小箱。そこから現れたもの。レアの黒い目は釘づけになった。


「遅くなったけれど、僕からの誕生日プレゼント。……受け取ってくれ」


 レアの両手に涙の形をしたオパールの首飾りが収まった。ミルクの中に虹色の粉がまぶしているような不思議な宝石だ。……劇場で、オペラグラスでのぞきこんでから、ずっと気になっていたのだ。


「同じものではないが、よく似た色合いの宝石で作らせたよ。少し時間はかかってしまったが、それだけの出来栄えになっていると思う」


 ダ―ヴィドは親に宝物を自慢する子どものような顔をしている。思わず零してしまったレアの嬉しそうな表情に、優雅な女たらしには似合わない、心底ほっとした様子を見せる。


「よかった。やっと当たりだ」


 この瞬間のダ―ヴィドは、レアにとってひどく魅力的に見えた。今までの何倍、いや何万倍もだ。どきどきどき……。心臓がむやみに高鳴ったのを感じ、レアは急に焦りを覚えた。なぜ焦ったのかは彼女にはわからない、でも焦った。


 ふとダ―ヴィドの青い瞳が波打つように揺れる。


「レアは、笑った顔も可愛い。……十六才の誕生日おめでとう」

「え……えーと、ありがとう。もう十六才になった後だけれど、ありがとう」


 レアはリンゴのように赤くなっている頬を自覚していたから、俯いた。ダ―ヴィドの顔を見ていられない。見てしまったら、ダ―ヴィドにも知られてしまうからだ。


「せっかくだからつけてあげるよ。貸して」


 俳優のように通った声に断る間もなく首飾りを取り上げられ、背後に回られた。夜気よりも冷たい感触が首元に触れる。慣れた仕草で付け終わったダ―ヴィドが前に回り込んで、具合を確かめるように見て、うん、と満足そうに頷いた。


「よく似合っている。君らしい。いや、もしかしたら、これから君らしくなっていくのかもね。見る角度によって煌きの色が変わるところとか、僕が君に抱いていたイメージにぴったりだ。君は、このオパールのように多くの輝きを放つ女性になるんじゃないかな」


(慣れた仕草で……)


 胸が不安げな軋みの音を立てる。夢見心地だったのに、現実に引き戻された。そう、たとえ目の前に王子さまがいたとしても、彼はレアの王子さまではなかった。遊び歩く放蕩三昧の女たらしで、レアは浮気される婚約者。ダ―ヴィドにとってはこれも遊びのひとつなのかもしれない。真面目な婚約者をからかうための。そうすると、急に悲しくなってきた。でも、表面上はおくびにも出さず、嬉しそうな顔のまま、ダ―ヴィドに部屋まで送ってもらうことにする。その間にも多くのことが頭をよぎった。主にダ―ヴィドに関する記事のことだった。一番最近目にしたものだと、レアと同い年の令嬢と密会をしたという記事だった。彼女はそれがまるで勲章でもあるかのようにインタビューの中でべらべらと話している。それがどんな夜だったのか……。


 目頭から熱いものが零れそうになるのを懸命に抑え、レアは胸元の首飾りを握りしめようとするが、上手く握れない。レアの手がわずかに震えているせいだった。


 ダ―ヴィドがレアの客室の扉を開ける。


「レア、さあ、もうおやすみ。早く中に入って……」


 そう言った彼の眼が見開かれた。驚いている、とレアは他人事のように考えた。もはや、レアはそこから何も考えていなかった。


 彼を客室の中に押し入れて、後ろ手に閉める。勢いに任せて胸元のシャツを掴んで、顔を引き寄せた。自分からキスをしようとしたわけではなかった。何もわからなかった。魔がさしたのかもしれない、酒気に酔っていたからかもしれない、女として嫉妬していたからかもしれない。とにかくダ―ヴィドをどうにかしたい。その衝動は、所有欲に近かった。手に入らないものを手に入れたい、ただそれだけの純粋な本能が、彼女を瞬間的に支配した。


 二人の視線が一瞬だけ交錯する。すぐに海のような青に引き寄せられ、レアはキスする。それがファーストキス。わけのわからないまま奪われた。


 レアはすぐにベッドに押し倒された。ダ―ヴィドは獣のように襲いかかってくる。手があらゆるところをまさぐろうと動いてくる。着ていたドレスの裾を割ってこようとしたとき、レアは無意識に身体を身じろぎさせて、下半身に走った違和感にはっとなる。霧が晴れたような生々しい感覚が見る間に立ち現われた。


「いや、待って! 待って、ダ―ヴィド! やめて、やめてちょうだい!」


 のしかかった身体を押し返そうとしても、ダ―ヴィドはぴくりとも動かず、すさまじい力でレアの抵抗を押さえつけた。


「待って待って待って! 本当にいやなの! ごめんなさい、謝るから! 謝るからもう許してええええっ!」


 頼りない照明の中でもよく見えた。破れたストッキングから白いシーツへと染み込む、細い筋の赤色。……月のものの赤だった。


 ダ―ヴィドの動きがぴたりと止まる。それから、レアを見た。今起きたことが信じられないような顔。レアは火のついたように泣きだした。幼子のようにわあわあと叫んだ。


「待って、って言ったのに……あなたなんて、死んでしまえばいいのだわ!」


 目玉がこぼれそうなほどに、ダーヴィドはレアを凝視している。その身体を突き飛ばして、ベッドの外へと這い出た。彼は面白いようにベッドに転がる。レアは脇目もふらず廊下の外へ走り出した。結っていた髪はぐしゃぐしゃに乱れ、脱ぎかけのドレスを引きずって、ほとんど裸足のままで。


 自分が信じられなくて、情けなくて、みじめだった。自業自得なのはわかっている。ただ、何が起こったのかが信じられなかった。胸に手を当てても、誰も教えてくれない。レアがとても恥ずかしい娘だという答えが返ってくるだけだ。途中から、とぼとぼと歩きだす。涙が止まってくれない。そこへ、廊下の一室の扉が開き、ヴィルケが出てきた。


「お、おま……レア! 物音がすると思ったら! 一体何があったんだよ! 無事か、おい! しっかりしろ!」


 すっとんきょうな声を出すヴィルケに、レアはようやく安心することができた。駆け寄って、乱暴に口を塞いでから、早口の小声で言う。


「お願い、一生のお願いだから、誰にもこのことは言わないで! 絶対墓まで持っていくと約束して」


 彼はこくこくと頷く。そしてすぐにレアを誰にも見つからないように部屋の中に隠す。決して外をうろついている狼に食べられないように……。


 レアはヴィルケの部屋の中でもずっと泣いていた。






 数週後、彼女は陽光ふりそそぐテラスでとある新聞の記事を読んでいた。何度も読み返したために四角に切り取られた記事の端はすりきれてぼろぼろになっている。それでも飽きずにもう一度と読む自分はなんて滑稽なのだろうと思っていた。


 記事の内容はこうだ。『おさわがせ王子にまたもやロマンスが! お相手は〈少女と国王〉での名演技でお馴染み女優の――』。写真の中ではご丁寧にも、女性がはちきれんばかりの笑顔で王子の腕にくっついていた。そして、胸元には彼女がねだったのだという大ぶりのダイヤモンドの首飾りが飾られている。「芝居の小道具よりも、彼から贈られたもののほうが何倍も大事ですわ」 記者陣に彼女はそう語り、この写真を撮られたあとにも、二人は熱烈な口づけを交わしたのだそうだ。


 末尾にはレアのことも書いてあった。『新たな浮気相手の登場に、悲劇の婚約者、レア嬢はどう太刀打ちするのかっ?』


 太刀打ちなんて、できない。そもそも同じ舞台に上がっていなかった。何度読もうとも、彼女は同じ結論を下す。


 面白かった〈少女と王様〉の芝居。レアはダ―ヴィドと観ていたのに。記憶の中で美しかったはずの女優の肌が黒ずむ。隣の席にいた彼も駄目になった。


 あの一時は燃え上がったように見えた胸の炎はいまや黒炭だけを残してどこかへ消えてしまった。離れたことで、レアは理性を取り戻していた。今はただ、どれだけ自分が愚かだっただろうか、と自分を責めるばかり。


(もうやめよう)


 ダーヴィドのことも、この苦い思い出も全部なかったことにすればいい。ダーヴィドにはレア以外にもたくさんの相手がいるから、レアひとりがどうにかなったところで何も気にしないのだ。


 びりりと音を立てて、記事が破られる。細かな紙片となって、風にさらわれた。


 このあとダーヴィドがやってくる。どうなってもいい、婚約破棄を申し出よう。肩の荷を下ろして、楽になろう。……そう大したことじゃない、レアにとっても、彼にとっても。


 彼女は無意識に胸元に手を置いていた。贈られた首飾りはそこにはない。彼女がもう二度と目にしないつもりで、机の奥深くに仕舞いこんでしまったのだ。だが、彼女の瞳の中では写真の中の女性に輝く首飾りが焼き付いていた。


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