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回想です。

 十六歳の秋。レアたち家族は住み慣れたアールトラハティの屋敷を離れ、拓けた田園地帯の一本径を走る馬車に乗っていた。両家の親交を深めるため、という名目でダーヴィドの持ち物である屋敷において内輪でのパーティーが行われ、彼らは招待客となっていたのである。招待状は家族全員に届けられていたが、馬車にいるのは三人のみ。父は仕事の目処がつかず、祖父は田舎からほとんど出てこなくなってしまったため、レアと母タマラ、寄宿学校に戻る直前に居合わせたヴィルケが応じることになったのだ。とくにヴィルケは女二人だけの旅では不安ということで同乗していた。朝から出発して、夕方近くに到着するということで、旅の行程は一泊二日になる予定だった。ヴィルケも学業で忙しかったし、母も夫を長くおいていけないからである。


 はじめの方こそとりとめのない話で盛り上がることもあったが、昼に休憩して走り出してからは、馬車の揺れが子守唄となって、緩慢な眠りの時間へと移行していった。たまに大きく揺れると揃って目を覚まして、互いを確認する。それが二度三度続いたところで、レアは完全に覚醒した。正面に座るヴィルケが欠伸を噛み殺しているのが見える。


「のんきに寝ていたな」

「うん。ヴィルケもね」

「俺はいい。ただの付き添いだからな。のんきなもんだ。さらに言えば、ホストは王子とアンナ・レーナさまだろ。国王陛下とお会いするわけでないだけマシだ」


 だが一方で、とヴィルケは片頬を上げた。


「レアは婚約者に会うんだからな。とびっきりのおめかしさせられて、お人形のように座ってなきゃな」

「それでお人形のようなわたしを笑うんでしょ」

「違いない」


 くく、とヴィルケは腹を押さえて笑っている。気心が知れた従兄弟とは言え、失礼なやつだとレアは憤慨する。


「ま、お前の本性は海千山千の殿下にはお見通しだろ。ころころと手のひらで転がされるのが目に見えているわな。いつも余裕そうだ」

「ダーヴィドはヴィルケのようにいつもせっぱつまっているわけではないんでしょうね。完璧なエスコートに完璧な逢瀬、完璧なプレゼント、完璧な顔の造作」


 歌うようにヴィルケが先を続けた。


「その代わりに手を出すのも早いんだな」

「出されていないわよ。あなた、母さんの前で何を言っているのよ」

「でもまだ寝てる。……それにしてもレア、ずいぶんと有名人になっているな。雑誌に登場する回数が恐ろしいことになっている。写真を見る限り、王子と上手くやっているように見えるぞ」

「それはどうもありがとう」


 レアもそれなりに好意的、非難めいたもの問わずに雑誌に目を通している。記者に追いかけられるのに慣れっこなダーヴィドはもちろんのこと、隣にいるレアもそこそこの写真うつりだ。腕を組み、連れ立って歩けば、良好な関係を築いているように見えることだろう。しかも最近はダーヴィドの女遊びの記事が減っている。「王室のプレイボーイ、年貢の収めどきか」という記事が出るほどだが、実際のところダーヴィドに変わった様子はない。王室が報道関連に圧力をかけているのだ。


 ヴィルケはこういった内情を聞いたうえで、うまく装っているな、と嫌味を言ったのだ。


「それなりの期間が過ぎたから。少しずつ慣れつつあるわ。記者だって、家を出なければ会うこともないし、わたしの後ろにおじい様がいることもわかっているから、あんまり強引な真似はしないわよ。問題はあの王子さまを相手にすることぐらい」


 レアの言葉に、ヴィルケは何を思ったのか顔をしかめた。


「困るほどしょっちゅう会っているのか」

「たまにね。あのひとが来ると一緒に大勢の記者を引き連れてくるの。いろいろ言われて疲れるわ。この間も大変だった」


 つい先日、ダーヴィドに連れられてカイピオ劇場を訪れた。巷で流行している芝居を観に行かないかと誘われたからだったが、正直言ってひとりで観る方がよかった。行きと帰りの馬車の乗降では待ち伏せていた記者たちに取り囲まれるし、せっかく話の筋は面白かったのに、隣の席のダーヴィドがちょっかいをかけてくるせいで集中できなかった。


 その後、劇場から出たところで記者のひとりがいやらしい目でじろじろと身体を眺め回しながら、ボックス席でお楽しみでしたか、と臆面もなく尋ねてきた。


(近頃の記者はマナーがなっていないのかしらね。若い娘に聞くことじゃないわ。品がない、スマートじゃない。尋ね方もなってない)


 思い出しただけで腹が立つ。その場にいたレアもその記者にくってかかろうかと一瞬考えたが、彼女をかばうようにダーヴィドが出て、ご想像にお任せしますよ、とさらりと返した。否定も肯定もしていないが、プレイボーイの彼が言うと、それがまるで事実のように見聞される。何かあったのだと思わせられる。どこまで確信犯なのかはレアにも推し量れなかったが、何も答える気にもなれなかったのでそっぽを向いていた。


「お嬢さんはご機嫌ななめかな」


 帰りの馬車で、彼はレアをにこやかにからかった。


「いいえ。あなたが紳士であることに感謝しているところ。でもこれ以上一緒に観劇するのは難しくなりそうよ。あなたが邪魔をする限りね」

「レアが可愛いからいけないんだ」

「……わたしは可愛くないわ」


 可愛いのはヴィヴィアンみたいな美少女に言うべきだろう。いつも男性たちの中心で蝶のように笑っている。レアのように小難しい本ばかりに囲まれているんじゃなくて、フリルとレース、ぬいぐるみにコロンでぎっしりのパステルカラーの世界に住んでいる。だから、レアからは一番遠い言葉だと思っている。


 これまでいろいろな美辞麗句を言われ、耐性をつけていたのに、新手の攻撃に思わず怯んでしまったのがいけなかった。いつもの君ではなく、レアと名前を呼んだのもダメだった。さらっと流しきれず、ダーヴィドは満足気な顔をした。動揺した彼女に付け入る絶好のおもちゃを手に入れたからだろう。あれからここぞというとき、彼はレアにぐっと近づいて、可愛い、と囁きかけてくるようになった。


(騙されている)


 彼女は思い出すたびに心の中でそう呟いている。


「惚れたか」


 今正面に座るヴィルケは真剣そうな口ぶりで言った。端的で簡潔な物言いを好む彼らしい直球の言葉だ。意外に心配しているのかもしれない。惚れないわよ、とすぐさま返す。


「わたしを一番に見てくれないひとに惚れたところで不毛だわ。浮気されるのは嫌いなの」


 彼は夢ばかり見るな、と罵倒しなかった。レアの周りでは彼だけが、彼女に賛同してくれる。


「そりゃ、相性最悪だろ。いつも思うが、おじい様何を考えているのだかな」

「今は今年のワインの出来栄えじゃないかしら。あぁ、実はこの間もおじい様からワインが届いていて……」


 今年のワインの出来具合を話していると、大きく馬車が揺れ、母も起きた。それから間もなく、田園の中に現れた、大きな屋敷の鉄の門扉を通り抜けていく。


 しばらく行くと、一台の馬車が通り過ぎる。ヴィルケが相手を確かめるように小窓からのぞきこみ、あっ、と驚いたような声でレアたちのほうを振り向いた。


「あの馬車……ラネ伯爵夫人が乗っているぞ」


 はっ、とレアの口が無防備に開く。信じられないのか、呆れているのか彼女自身にもわかっていない。タマラは嫌悪感たっぷりの口調で、あらいやだ、と呟いている。タマラはダ―ヴィドをあまりよく思っていない。


 レアも小窓から外を眺めた。黒塗りの馬車が遠ざかっていくのを睨む。ぽすん、と再び席に収まり、男のように腕を組む。


「お前、行儀悪いぞ」

「ほっといて。今考え事をしているの」

「一体何を」

「今からうちの屋敷に帰る方法。それっぽく向こうを納得させられるだけの理由をひねりださなくちゃ」


 そもそも出かけるのに万全な体調ではない。月のものが来ていて、あまり動きたくない上にラネ伯爵夫人の後にダーヴィドの元へ行くのも気が乗らない。


 タマラが口を挟む。


「気持ちはわかるけれど、我慢なさい。……ほら、もう着きますよ」


 馬車がとまる。レアたちが降りると、使用人たち、そしてダ―ヴィドが並んで出迎えた。


「ようこそおいでくださいました」


 ダ―ヴィドがにっこり微笑み、使用人たちに荷物を運ばせるように指示する。てきぱきと動くのを眺めていると、タマラとヴィルケに挨拶を終えた彼がレアの手を取って、手の甲にキスを贈った。


「ようこそ、レア」

「ええ、どうも。お招きありがとうございます、殿下」

「いつものようにダ―ヴィドでいいよ。僕はそう呼ばれたいな」

「そう……そうね」


 レアは動き回る使用人たちを見ていた。若い女性が何人かいるのを見て、ダ―ヴィドの愛人はそのうちの何人かしら、と考えていた。


「レア。何か気になることでも?」


 ダ―ヴィドがレアの前髪に触れ、頭を撫でられる。レアはまだ考えていたから、振り払うのも面倒だった。


「この屋敷にいるあなたの愛人の人数」


 ちょっと怒ったような声が頭上から下りてきた。


「僕は使用人に手を出すほど非常識ではないよ」

「だったら、さっきの馬車はどう? 非常識ではないかしら」


 自分で言ってから、嫉妬めいていると思う。まあいいか、と流した。


「僕は呼んでいないよ。彼女が訪ねてきただけ。少し話をして帰ったよ。……嫉妬してくれたかな」

「まさか」


 冷たく返す。彼ならそれぐらいはいいそうだと思っていた。

 彼は気にすることもなく、曖昧な微笑みを貼り付けていた。


「最近の彼女は……あまりご機嫌がよろしくないだけだ。君は気にしないでくれ。それと、レア……」


 ダ―ヴィドはレアの耳にぐっと唇を近づけて、恋人にするように囁いた。


「いつか嫉妬している君を僕に見せてくれ」


(足をふみつけてやろうかしら)


 少なくとも、母と従兄弟の目前で繰り広げる会話じゃない。母はそっと目を逸らしているし、ヴィルケは胃もたれしたように腹をさすっている。


 レアは動揺を誘うダーヴィドのやり口が好きではない。家族の前でされるのはもっと嫌だった。足を踏みつけるよりも、小さな反撃を試みる。


 好機はタマラとヴィルケが屋敷の扉に入って、まだ外にいたレアから目を離したときに訪れた。ダーヴィドの腕を引っ張り、身体が傾いて近づいた耳にお返しに吹き込んでやる。

「だったら、嫉妬しているあなたも見せてくれるのかしら」


 すぐに手を離してレアはととっ、と後ろに下がった。逃げるが勝ち。


 ダーヴィドは面食らった様子だったが、すぐに元の調子に戻る。


「君にはそう見えていないだろうけれど、僕はいつだって君の周りにいる男に嫉妬しているよ」


 お世辞がお上手、とにっこりしながら淑女のように軽く両手を合わせる。それからたちまちダーヴィドに背中を向けたのだった。



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