22
今回も長めです。元の時間軸に戻っています。
氷でできた森の中、鮮やかな色ガラスでできたチョウチョがひらひらとレアたちの前を飛んでいる。赤、青、黄、白、紫、緑。たった一匹だけなのに、欲張りにもそれだけの色を散りばめて、私はここにいる、と全身で自己主張している。とくに左右の羽には大きく青い斑点が浮かび上がっていて、まるで後ろを見張っている両目のようだった。しかも両腕で抱えられるほどに大きい。あまりにも現実離れしている。
だが、こんなチョウチョが今のレアたちの案内人なのだ。
レアが落ちてしまったのは、全部が全部氷でできた世界だ。暗闇から抜けてつるつるの氷におしりをぶつけるまでの一瞬、レアは氷の世界の全貌を見た。切り立った氷の崖、氷でできた森、その中を横断する凍った川は同じく凍った湖に流れ込む。その湖には縦にしゅっと伸びた形のよい氷の城がある。それだけのものを目に焼き付けてから、着地の衝撃に悶絶した。
目ん玉が転げ落ちそうな痛みってこんな感じなのね。レアがおしりをさすりながら立ち上がろうとすると、ふいに頭上から影が差した。
「何をやっているんだ、へイスカネンレーア」
聞き覚えのない名前にいぶかしみながら相手を見て、レアはぎょっとした。目も鼻も口もないのっぺりとした真っ白けな顔。なんだこれは。――それがレアと〈顔ナシ王子〉との出会いだった。
「おい、へイスカネンレーア。何をぼうっとしている、行くぞ」
そして、レアは「へイスカネンレーア」になっていた。なぜなら、彼がレアをそう呼んだからだ。彼は彼女を旧知のように話しているし、問いただすより前に金色の大きな旗をレアに持たせて歩き出してしまった。そう、色ガラスのチョウチョを追いかけているのは彼の方だ。
「もっときびきび歩け。お前、それでも私の従者か。早く歩かなければ、あれを見失ってしまうではないか!」
あれ、と彼が手袋をはめた指で示したのは、色ガラスのチョウチョだった。今もひらひらと蛇行しながら氷の森を彷徨っている。針のように尖った氷の枝が道に張り出しているのに器用に避けている。
「あれについていかなければ、城には辿りつけないのだぞ。早くしなければ、城の氷姫に別の王子が求婚してしまうかもしれない!」
彼は先ほどからこの調子だ。彼はチョウチョについて城に赴き、そこにいる〈氷姫〉とやらに求婚しにいく旅の途中のようだ。ついでに従者の名前は「へイスカネンレーア」。
レアは方向音痴ではなかったので、実のところ〈顔ナシ王子〉が信じるチョウチョを疑っている。彼の目指す「城」とレアが垣間見た「城」が同じだとしたら、チョウチョはまるで逆方向に進もうとしているし、二度ほど氷の森の端らしき、開けたところに出ようとした途端に、チョウチョは再び森の中にいざなった。
なんとなく状況をつかめてきたレアは、初めて自分から物を尋ねた。彼は王子と自称していたので、念のために敬語を使う。
「どうして殿下はあのチョウチョが城に連れていくと信じていらっしゃるのですか。氷姫がそうおっしゃっていたのですか」
彼はばっと勢いよく振り向いた。顔がないので、どんな表情を浮かべているのかまるでわからない。
「いや、彼女は私の存在を知らないのだ。でも、あれが私を城に連れていく、それはわかっている。あと、お前、チョウチョとなれなれしく呼ぶものではない」
「だったら、なんとお呼びすれば?」
「ダマシチョウ」
やっぱりだまされている。
「悪いことは言いません。ダマシチョウは放っておきましょう。その方が城に早く着きますよ」
レアは森が終わるほど近くになってから声をかけていた。チョウチョはまた森の奥へと行こうとしているので、ここが説得するチャンスだった。
「なぜお前がそんなことを知っているのだ?」
王子は訝しげな声を出した。彼からすればずっと共にいた従者が妙なことを言いだしたと思ったに違いない。レアは澄ました顔で答えた。
「なんにもおかしなことはありませんよ。だって、これだけ一緒にいたのです。殿下だって、気づかないはずがないでしょう。気づいていて、わたしを試していらっしゃるんですよね? まさか、殿下ほど賢いお方が気づかないなんてことは……」
「ない」
王子が話に乗ってきた。そうですよね、とレアも合わせる。
「殿下がヒントをくださったおかげで、ようやくわたしもあのチョウチョがわたしたちを惑わせていることがわかりました。ありがとうございます」
「ふむ。当然だとも」
王子は顎に手を当てて、ふんぞり返っている。その間にもチョウチョは氷の木々の間に消えていった。さようなら、ダマシチョウ。
「ではゆくぞ、へイスカネンレーア」
〈顔ナシ王子〉は従者のなり替わりに一向に気が付いた様子もなく、レアを引き連れて森を抜ける。するとなだらかな氷の丘の向こうに、氷の城が見える。あっという間に着きそうだ。
「ふむ。相変わらず太陽も月もやってこないな」
〈顔ナシ王子〉が天を仰いだのに釣られて、彼女も空を見上げる。何もない灰色の曇天だった。上を見上げながら、ふと悲しくなる。
(わたしは、上手くやっているのよね。そうだと言って。誰も返事をしてくれないのは寂しいわ)
一人きりで放り出された今、レアは自分が今にも熱にさらされたバターのようにどろどろに溶けてしまいそうな気がしていた。理屈ではなくて、感覚で。レアがレアとして保てていたのは、〈魔法使い〉がレアとして彼女に語りかけていたためでもあったのだ。今は、自分で言い聞かせるほかない。誰かが、レア、と呼ばない限り。
風を遮るものがない丘は森の中よりも寒い。ジャケットでも誤魔化せない。体の芯まで凍り付きそうだ。でも先行する〈顔ナシ王子〉は一人だけ分厚いマントをはおって、毛皮のブーツはいかにも暖かそう。とても羨ましかった。
(足元まで覆ってくれる、フード付きのマント。一枚あれば、どんな寒い土地だってへっちゃらになる感じのやつが欲しい)
そう思いながらレアは風で飛ばされないように、しっかりとキャノチエを押さえた。ツバに挿していた羽根に触れる。すると。ばさりと布が落ちてきたような音とともに視界が急に遮られた。レアは驚いて、目の前にかかったものを取り払って、改めてそれを広げる。
「マント……」
それは表も裏も白に薄く虹色をまぶしたような不思議なマントだった。動きに合わせて、きらきらと虹色に輝く。羽根の色合いによく似ている。身につけると、レアの背丈にちょうどいい。しかも軽くて、動きやすい。ぬくぬくと体があたたまっていく。
キャノチエからは羽根がなくなっている。そんなこともあるだろう。羽根がマントに姿を変えることだって。
レアは足取りも軽く、ずんずん進む王子の後ろをちょこちょことついていく。
やがて氷で出来た石造りの立派な城門が現われ、二人の氷の門番が氷の槍を交差させて立ちふさがった。
「なにやつ!」
王子はぐっと胸を張って答えた。
「私は〈顔ナシ王子〉だ。氷姫に求婚するべく参った!」
ひそひそ。門番たちが小声で話し合い、そのうちのひとりが進み出た。
「確かに氷姫さまは婿探しをしておられるが、我々が聞くに、求婚資格はこう定められている。一つ、勇敢な王子であること。二つ、隠棲の賢者を出し抜けるほど賢いこと。三つ、氷姫さまが気に入ることだと。目も鼻も口もない者には氷姫さまが気に入るはずがない。愛を語るとき、人々は目で通じ合い、鼻で匂いを確かめ合い、口で愛の言葉を紡ぐ。氷姫さまはいったいお前のどこを見て、愛を知るのだろう。残念だがお引取りいただきたい」
はっきりとした拒絶を受けた王子は、しばらくその場から微動だにしなかった。顔は相変わらずの真っ白けで何も読み取れない。
「なるほど、よくわかった!」
王子は突如怒ったような大声を発した。口がないのにどこから出るのか。レアは思わず耳をふさぐ。
「私の決意がどれほど硬いのか、お前たちに見せてやろうではないか! おい、ヘイスカネンレーア!」
「は、はい!」
反射的に返事をして、すぐ前に出る。王子が手招きしたのだ。そのまま両肩を鷲掴みにされ、目の前ののっぺらとした白い面の圧迫感に耐えることとなった。押し殺した声で彼は言う。
「ここが正念場だ。私はこのためにお前を伴ってきたのだ、失敗は許されない。万にひとつもだ。お前の肩に私の一生がかかっている。氷姫を得られなかったら、私は氷の下で深く凍えた眠りにつく。彼女の愛が得られなかったら、私はそうするほかない。それほどの人なのだから。この際、アイデンティティーは捨てることにする」
はあ、と気の抜けた声が出る。王子の言うことがよくわからない。氷姫はよほどの美女なのだろう。そう思うことにした。おとぎ話の王子ならありがちのことだ。
王子はマントの下から奇術のようにパレットと絵筆を取り出して、レアに押し付けてくる。
「さあ、私の顔を描け! そして私をとびっきりの美男子にしてくれたまえ!」
「えーと……」
レアは絵が得意ではなかった。パレットと絵筆、それから王子ののっぺらとした顔を眺めて途方に暮れる。だが、王子は今すぐ描けと言わんばかりに顔を寄せてきた。おそるおそるレアは黒い絵の具を絵筆に付けて、カンバスとなった王子の顔に乗せた。インク壺を白い布にぶちまけたような黒い斑点がついた。もう駄目かもしれない。
「どうだ?」
幸いなことに彼には美的センスがないようだった。顔の中央に鳥のフンを付けているようなものなのに、わりと喜んでいる。
レアはなけなしの画力で精一杯王子の顔を描いた。目、鼻、口が生まれたが、所詮かかしの落書きレベルにしかならなかった。
(まぁ、いいや……)
最善を尽くしたと自分に言い聞かせ、匙を投げた。氷の門番たちは振り返った王子に現れた顔を見て、渋いものを呑み込んだ表情を浮かべた。だが何も言わないまま、やがて道を開けてくれる。
「……どうぞ。氷姫さまはこの城のもっとも高い塔の最上階にいらっしゃいます」
「ご苦労。では通してもらうぞ」
王子は堂々と中に入った。レアも続いて入る。
氷の庭木、氷の彫刻、氷の吹き抜け、氷の階段、氷の廊下に、氷の調度品。中には誰も見当たらない。それがかえって寒々しさを感じさせる。
入ってからの王子は自分のいくべき道をわかっているように迷いを見せなかった。大きな背中は頼もしい。振り向かなければ、の話だが。
「ようやくここまで来たぞ、へイスカネンレーア!」
美男子から程遠い顔になってしまった王子はいかにも浮かれ切ったようで、レアはあまりにもかわいそうに思えてきた。本当ならちゃんと美男子に描いてあげるべきだっただろう。別の王子ならともかく、この王子に恨みはない。
「花婿を求める看板とともに彼女の絵姿に一目ぼれしてしまってから幾星霜……。さまざまな苦難があったが、やっと会える! へイスカネンレーア、お前にも苦労をかけたな」
(言っていることはまともなのに、わたしのせいでこんな顔にされちゃって……)
顔でふられることがないよう祈りながら見守るほかない。落ちた先で出会ったことに何か意味があるはずなのだ。それが次の層へと降りていく道行きになるかもしれない。
廊下の突き当りの氷の扉は開いたままだった。そこから先は狭い螺旋階段が続く。窓が見当たらないまま、何段も上がる、上がる……。足音のみのるつぼに放り込まれてしまったかのよう。気味が悪かった。
螺旋階段は唐突に終わった。冷たい風が頬を撫でていくのを感じる。そちらに視線を向ければ、いままさに王子が最上階の一室に入っていこうとするところだった。レアも続こうとするが、唐突に腕を掴まれた。心までも鷲掴みにされたような心地がする。
「どうして」
どうして、と聞きたいのはレアの方だった。どうしてあなたがここにいるの。
どうやって、と聞くのは無駄なことだ。ここは彼の世界で、彼の理屈で動いている。どうやって、よりも、彼がレアの前に現れたわけを知りたかった。
「どうして君は早々に帰らなかった。ヴァルハマはどうしているんだ、きっとどこかで見ているんだろう。どうして君を帰そうとしなかったんだ。今からでも、僕が……」
「……ダ―ヴィド?」
彼はそうだとばかりに頷いた。レアは改めて婚約者を眺めた。昔の従者のような恰好をしているが、彼の言葉はレアの知るダ―ヴィドのものだった。ただ、少しばかりレアを叱るような口調になってはいるが。
(心配している? ……まさか、ね)
不思議なものだ、こんな日が来るなんて。本当は、なんてことをしでかしてくれたのよ、となじるつもりだったのに、後回しにした。
レアは素っ気なく言った。
「ヴァルハマは旅に出るんですって。もう戻らないそうよ。だから、わたしはダ―ヴィドの本心に帰してもらわなくちゃいけないの」
悔しい話だが、レアはほっとしている。旧知の人物に会ったこともあるが、今バターのように溶けてしまいそうだった「レア」が安定しようとしていた。曖昧な自己の境界線がはっきりと定まっていく。レア、と彼が呼ぶことで、レアはレアでいられる。
「レア」
彼は改まった様子で告げた。
「ダ―ヴィドの本心……〈駒〉は〈僕〉だ」
レアは疑問には思わなかった。ダ―ヴィドの世界でダ―ヴィドの姿でいられるというのなら、何にもおかしなことはない。
「でも、〈僕〉では君を帰せない」
彼が握った手に力を込める。痛い。顔をしかめると、彼は慌てて手を放す。ここでのダ―ヴィドはいつもより素直だ。
「どういうこと」
「僕の力は今不完全なんだ。僕自身の存在どころか、この世界そのものが不安定になっている。そのせいで、表の僕まで目覚めることができないんだよ」
何があったの、と尋ねると、彼は静かに言った。
「月と太陽がどちらも欠けてはならないものなのに、月は失われ、〈僕〉の半身がどこかへ行ってしまったから。それを取り戻さないことには君を帰すことができないんだ。お手上げ状態だよ」
「だったら、半身君はどこにいるの」
「わからない」
レアが半眼になると、彼は信じてくれと懇願した。
「おそらく僕も知らない空間に閉じこもっているんだ。周囲とまるっきり隔絶したんだろうね。そうじゃなかったら、君に会いに来ないはずがない」
(あいかわらず軽薄そうな言い方ね……)
レアはさっさと話を打ち切ることにした。そろそろ〈顔ナシ王子〉の行方が気になったのだ。
別の王子から離れ、そっと外から部屋の様子をうかがった。頬を冷たい風が撫でていく。
部屋にはほとんどの壁に鏡が取り付けられ、楕円形に切り取られた窓に腰かけ、外を眺めている女性がいた。軽くウェーブのかかった黒髪は背中までかかり、滝が流れるような流麗な線の入った白いドレスを身につけている。その足元に〈顔ナシ王子〉が跪いていた。
「何故!」
彼は怒鳴った。
「何故、駄目だと言うんだ!」
氷姫は顔を背けたまま、冷たい声で返した。
「どうしてわたしがお前ごときの求婚を受けないといけないのです。わたしは氷姫。誰もわたしを手に入れられない。お前も、わたしにふさわしくない」
「氷姫!」
王子はなおも食い下がっている。その様子はとても惨めだった。
「彼は、僕だ」
様子を見ているレアの肩にそっと手が置かれ、ダ―ヴィドが囁いた。
「受け入れてほしい相手に、拒絶される。……でも、君に同情してもらえるだけ、僕より幸せだよ」
「だって、あの王子さまにはちょっとかわいそうなことをしてしまったし……。でもそれにしたって、なかなか言葉のきついお姫さまね……」
ダ―ヴィドに気を取られているうちに、どん、と大きな物音がした。見ると、逆上した〈顔ナシ王子〉が壁に氷姫を押し付けている。彼女はばたばたと手足を動かして必死に抵抗している。だがそれを王子が無理やり抑えつけている。見ていたレアの体がかたかたと震えだす。
襲われて……、赤色。目の端に赤色がよぎる。違う、今は赤色じゃない。あの光景の赤は……自分自身の、赤だった。
レアはダ―ヴィドの手を強く払いのけた。パン、と派手な音がする。
怖い。誰も触ってこないで。一番嫌なのは……。
次にレアは今にも足元から崩れ落ちそうことと、体中から血の気が引いていることに気づいた。でもダ―ヴィドには、助けられたくなかったのだ。
「レア」
大げさに肩を震わせた自分がレアは嫌になった。違う、あんなのへっちゃらだもの、わたしは強い。自分に言い聞かせてきたことなのに、ダ―ヴィドを前にすると駄目だ。
ダ―ヴィドは何もしてこなかった。どうやら彼はまともな神経は持っているらしい。身に覚えがあるのなら、レアには決して触れないはずだ。
こう着状態の中。
パン。今度は別の軽い音が響く。思考を途切れさせたレアが、反射的に音の方向を向くと、王子が崩れ落ちるところが見えた。床に這いつくばって、死んだように動かない。そして、その影から現れた女性は黒光りするピストルを手に持っていた。その顔を見たレアは息が止まるほど驚いた。彼女は氷姫をよく知っている。
氷姫はめざとくレアを見つけ、睨んだ。ピストルをレアに向ける。
「あなたなんて、死んでしまえばいいのだわ」
レアはその言葉の残酷さをわかっていた。どういう気持ちで彼女がこれを言ったのか。かつて彼女自身が放った言葉なのだから。氷姫の言動はすべてレアに返ってくる。痛々しくて、見ていられない。
ふとレアの手元でかちゃり、と音がした。見れば、白銀に虹色の膜がかかったようなピストルが手に収まっていた。代わりに、マントが消えている。
レアは流れるように動いていた。なぜかそうしなければならない気がしたのだ。ピストルを両手で持ち、銃口を上げていく。氷姫に向けた。二人はまるで鏡合わせのように対峙する。
氷姫は口元を片方だけ上げて、皮肉げな微笑を漏らした。
「あなたはわたしで、わたしはあなた……」
部屋の中の鏡が反射しあって、いくつもの像が結ばれている。大勢の氷姫が、レアに視線を注いでいる。ありきたりの言葉が頭に浮かぶ。
(鏡は、容赦なく人のありのままを映すもの)
だがこの鏡は歪んでいる。それはダ―ヴィドというレンズを通して浮かび上がった鏡像で、これはレアのすべてではない。本当ならこう言うべき。――あなたはわたしで、あなたはあなた。
ダーヴィドの中のレアは、ひどく冷淡で恐ろしい女なのだ。
レアの胸はどくどくと波打ち、喉はからからに乾く。唾を飲みこんでも、まだ足りない。慣れないことに体が震えている。銃口が定まってくれない。
そこへ、もう一つの手が重なった。一瞬、大きく肩が揺れたが、それだけ。レアが思うよりもあっけなく彼はレアのスペースに入ってくる。ひたりと狙いが安定する。
撃て。ダ―ヴィドがとびきりいい声でそそのかす。命令でもされたように、レアは引き金を引いた。氷姫が……自分自身が倒れていくさまを見るのが恐ろしくて、目を瞑る。
でも、返ってきたのは鏡が割れた音だけだった。レアが目を開けた時には、氷姫も、倒れていた〈顔ナシ王子〉の姿もなく、ただぴきぴきと鏡と氷が割れていく音だけがそこかしこから聞こえてくる。城全体が揺れだした。床にも亀裂が走る。すぐにレアは宙に放り出された。細かな氷の欠片の渦に巻き込まれていく。どこからか射す光に反射してきらきらと輝いた。どこまでが鏡で、どこまでが氷だったのだろう。どちらも同じだったのかもしれない。上も下も氷だらけ。下に辛うじて、緑色が見える。
ダ―ヴィドはいなくなっていた。
彼女は手元を見た。ピストルは消えている。代わりに、両手に首飾りがかかっている。涙の形をしたオパールをはめこんだ首飾り。顔に近づければ、白色の中に虹色の粒が入っているように、次々と色を変えていった。彼女の、首飾り……。
――君が、このオパールのように多くの輝きを放つ女性になると信じているんだ。
あれを言ったのが誰か。彼女はとうとう子どものように泣きじゃくった。熱い涙の粒が零れ落ちる。呼び起こしたくない優しい記憶の残骸が、何よりも哀しかった。




