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20 ある患者の治療メモ1


〈治療メモあるいは覚え書き〉――患者名 優しいキツネ


 とある高貴な方のご子息。放縦な素行のため、父親の意向でやってくる。これから彼との面談の概要を示す。元になったのは私とアナグマ女史が面談中に取ったメモ。今回仮名としたのは、これまでのようなメモ程度では済まない長期の案件のため詳細な文章を残すのに真実の名を書くのがはばかられるため。本名でも構わなかったが、アナグマ女史が非常に熱心に説得してくれたので、ここでは彼女を下町のアナグマ女史と名づけておくことにしよう。


 以下、この案件に出てくる人々の名前を列挙する。ほとんどの肉親は優しいキツネの母、兄などとしておくが、そうでない人々は個別の名前を付けておく。なお、彼との面談を行った、この記録の書き手である「私」はもちろん「私」である。


 優しいキツネ。患者。

 優しいキツネの父。患者の父。

 優しいキツネの母。患者の母。

 優しいキツネの兄。患者の兄。

 夢見るネコ。

 笑うカッコウ。

 せっかち時計。

 その他大勢のヒバリたち。



 私。患者の面談の相手。

 下町のアナグマ。面談に立ち会う秘書。



 この時点の「私」が誰か述べておく。今の「私」はアーダ暦三六二〇年十一の月三日、ジリアクス首都アールトラハティの東南区マグヌスソン通り五番地、〈楽園荘〉二階の書斎にいる。夕食を取り、ベッドで読書をするように私は書斎机の上に原稿用紙を広げている。最後まで書き終わるまではここから離れるつもりはない。アナグマ女史がいない今なら誰も私を咎める者もいないだろう。そう、私はこの時点から過去を振り返るつもりだ、邪魔が来てもやめるつもりはない。


 前置きはここまでにしておき、本題に入ろう。患者が面談を一方的に打ち切ってしまった今ではなく、初めてこの患者が私のオフィスを訪れた時に戻るのだ。これは私のメモやカレンダーにも日付が残っている。アーダ暦三六一九年五の月十八日。彼は約束していた午前十時より十分ほど遅れて到着してきた。


「父から話を聞いています、はじめまして、〈私〉さん」


 彼は陰りを知らない太陽のような青年だった。私が彼からの握手に応じると、実に人のいい笑みを浮かべた。私の変わった容姿など気にも留めない様子で、不躾にこちらを見ることもしない。これは女好きするだろう。応接間で向かい合わせに座った私はざっと彼を観察したが、外見だけなら非の打ち所がない。それどころか、本来彼の抱えている問題だって、〈私〉が解決するほどのことでもなかった。ただ、女癖が悪いだけだということ。両親が異常に心配性だと片付けられなくもない。案外、年を取れば相応に落ち着くという可能性もあるのだが、「私」は彼の父からの依頼を引き受けてしまった以上、文句を言っても仕方がないことでもある。だから、最初、私は乗り気ではなかっただろう。メモには退屈しのぎにペン先で紙を叩いた後がいくつも残っている。


 だが、私は普段そうするように彼から情報を引き出そうとした。ただ単に雑談をするだけのことだが、そうすることで彼のヴィジョンが見えてくるだろうと考えたのだ。まず私が口火を切った。


「君のお父上は君に大層関心を抱いているようだ。この面談にも何と言われてきたのかね?」

「どうってこともありませんよ。身も蓋もない言い方をすれば、お前は女好きが過ぎている、異常だ、どこかへ治してもらいにいけ、ということです」


 彼はひょいとおどけたように肩をすくめてみせた。


「君は自分が女性好きだと思っている?」

「当たり前ですよ。僕は女性が好きです、間違っても男性ではありません。皆僕を遊び人だとか言うけれど、僕はいつだって一生懸命に恋愛していますよ。女性たちはそれぞれ愛すべきところを持っている。僕はそれを見つけてしまうと愛でたくなりますね。彼女たちも喜んでくれますよ。……それはそうと、〈私〉さん」

「なにかね」


 彼はぐっと息を潜めて、内緒話をするように、


「毎週僕がここに通っているってことにしてくれませんか。なにせ、僕は病気ではないから」

「私はそれでもいいが、おすすめはできないね。君が通っていないことはすぐにばれてしまうだろう。お父上は今、君に神経質になっているからね。『なにせ』、君には婚約者が出来たから」

「あぁ、彼女のことですか。そうですね、公表はまだですが、そのうち、彼女とはパーティーで会って、大いに注目を集めることになると思いますよ」


 彼は他人事のようにそう言いながら、嘆息した。


「やっぱりここに来ないというわけにはいかないですか。わかりました、行きますよ。ここで雑談していきます。それに、僕はあなたにも興味があるんです」


 彼は魅力的に片目を瞑った。……いや、実際したか覚えていないが、それぐらいはしてもおかしくなかった。女史のメモにもその直後の私の発言が残っている。


「私相手に口説かなくてもいいのだがね。優しいキツネ君、君の面談は月に一度にしておこう。君の言う通り、私と君は今、雑談するぐらいしかやることがない。と、いうよりは、私の治療のプロセスは雑談することから始まるのだよ」

「へえ、雑談からどうするんです?」


 彼の直前の発言は嘘ではなかったらしく、彼は熱心に私の言うことに耳を傾けた。それが少々意外でもあった。


 これ以降の説明は私自身のことでもあるので、割愛する。おそらく雑談から相手が心に思い浮かべるヴィジョンが私に飛び込んでくる、というような簡易的な説明しかしていないだろう。

 一通り話終わった後、最後に私はひとつ約束してくれるだろうか、と頼んだ。


「私は君の味方で、君がここで話したことは絶対に口にすることはない。だから、私には、できるだけ真実のみを口にして欲しい。嘘はいけない。答えづらかったら、何も言わなくてもいいから」


 できるだけ、と彼は答えた。できるだけ守る、と。彼は私を信用していない。必要に迫られてその席に座っていたわけではなかったので、不思議には思わなかった。


「今のところはそれで構わないよ。少なくとも、お父上が納得するまで続くだろうことは、君にも理解していてほしい。今のところ私に言えることは、君には〈魔法使い〉としての治療を施す必要性は感じられないということだ」


彼はこの説明の直後、次の約束だけして帰っていった。初回からほんの十分ほど。私が待った時間と同じぐらいだ。彼のヴィジョンはまだ飛び込んでこない。






 二回目と三回目の面談は、意図的にだが、終始同じ内容にしたため、まとめて記述する。この二回で一回分と捉えていいだろう。この二回で私が目標としたかったことは、まず優しいキツネの心から飛び出してくるあるヴィジョンを捉えることと、彼の性質について知ることである。結果は、半分失敗で、半分成功だったと言える。理由は一応後述する。


 さて、肝心の会話であるが、これは私自身が必要だと感じた部分であり、大部分は省略されている。各三十分ほど面談だが、彼はとりとめない話も多く話していたのだ。質問に答えないわけではないが、微妙に論点をずらされていたことに私は気づいた。この辺りで、彼は見た目通りの人間でないことがわかるものだが、ひとまず彼は何かを答えてくれようとしていたので必ずしも実りないものではなかった。彼自身は、自分のことを何も知られていないと思っていたかもしれないが。


 私がこの二回で得たかった情報は、彼の女性関係についてである。彼の周囲にいる女性たちについて、彼

が思っていることを尋ねてみた。もちろん、それでは不十分な部分もあり、彼にごく近しい男性についても尋ねている。人物ごとに会話あるいはメモの文章をそのまま記述する。嘘かまことかの真偽は不明。項目を立てた順番と実際に聞いた順番は必ずしも一致していない。


・優しいキツネ自身。自分のことをどう思っているか。

「僕のこと? ここに来て初めて『らしい』質問ですね。〈私〉に会っている実感が湧いてきました。もちろん、嫌いじゃありませんよ。嫌いになる理由がないじゃないですか。兄上が父上の跡を継ぐので、僕は好き勝手にやらせてもらっていますよ。現状にとくに不満があるわけじゃありません」


 家族

・優しいキツネの母。どう思っているか。

「母上は息子から見ても、綺麗なひとですよ。父上が今でもゾッコンですからね。仲も上手くいっています。僕が大人になったから、母上と会うのに制限がなくなりました。昔はなかなか父の《屋敷》から出られなかったので」

私「母上は君を愛しているというわけだね」

「ええ、そうだと信じていますよ。彼女が僕を気に掛けなかった日はありません。僕は母上に恵まれています」



・優しいキツネの父。どう思っているか。

「とにかく威厳がありますよ。叱られると怖そう。実際、僕を叱るひとは別のひとの役目だったので、彼が干渉してくることは滅多にありません。今回ぐらいじゃないですか。あなたにも申し訳ないと思っています。これは父上のわがままみたいなところがありますからね」

私「父上が母上を大事にしてきたというのなら、君もまた大事にされてきたんだろうね」

 彼は一瞬だけ、顔を緊張させたように見えた。

「そうでしょうね。他を知らないので比べようもないですが。僕は愛されていますよ」



・優しいキツネの兄。どう思っているか。

「生憎、折り合いがいい感じではないですね。僕に会うとこれでもかとばかりに説教の嵐です。年も離れているし、年上の大人として色々言いたいようです。でもちょっとばかりしつこいので、あまり長い間会うと疲れてしまいます。……これ、本人には内緒でお願いします」



 女性たち。ここからさらに優しいキツネの話の真偽が怪しくなってくる。

・初恋の女性 どんな恋愛だったか。

「夢のような女性でしたね」

私「君は過去形で語るようだね。その女性は君の近くにはいないということかな?」

「ええ。初恋ってそんなものでしょう。淡いままで終わる。〈私〉もそうだったのではないですか?」

私「はるか昔過ぎて、もうほとんど覚えていないよ。ちなみに、君の初恋はいつごろ?」

「十二、三歳ぐらいです。あ、誰かは詮索しないでください」

私「誰かというよりは、彼女とのいきさつがどうだったかのほうに興味を持っているがね」

「ただの片思いです」



・笑うカッコウ どんな仲なのか。どう思っているのか。

「世間では色々口さがないことを言っている人もいるようですが、彼女とはよき友人ですよ」

私「恋人だったことは一度もなかった? 下世話な話をするが、記事を見る限り、君たちの仲は少なくとも人目をはばかるものだったのではないかと推測されるがね。うちの秘書は優秀でね、ここにファイリングしてある。あまりいい気分ではないが、仕方がないから今から列挙していこう……。一つ目は彼女と君が熱烈なキスを交わしている写真で、そのすぐあとの君は彼女の屋敷に入って次の日の朝になっても出てこなかった。使用人が漏らした情報によると……まだ言うかね」

「本当に下世話ですね……えーと、もっと話せということですか」

私「そう。君の女性関係の中でも、彼女は特別だろう? 初めてゴシップ誌に一緒に名が載った相手でもあり、継続的に君を関係している女性だ。何年も君は彼女と付き合っている」

「彼女と僕は同志のようなものですよ。どこか通じ合っているようにも感じています。だから、一番当てはまるのが同志、という関係ですよ」

私「彼女とは寝たんだね?」

「この際はっきりお答えしますよ。……ええ、そうです。でも、彼女は恋人ではありません。彼女もあなたに聞かれたらそう言います。あなたも知っているでしょう。彼女は何人もの男を相手にしています。僕もその一人ですよ。彼女の持つ宝石は、彼女が関係した男」


 真意の読めない笑みを彼は浮かべた。


「僕らは彼女のアクセサリーというところです」



・ヒバリたち

「もちろん、愛していますよ」

「彼女は抱き心地がよくて、可愛いですよ」

「うなじに色気がありますね、ついつい手を伸ばしてしまいます」

私「全部ではないが、君の発言を今メモに取っていたのだがね、君は彼女たちに対して可愛いとか愛しているとか平気で言うのだね。そこに迷いはないかね」

「ありませんよ。彼女たち、とても喜んでくれますからね、言うだけの甲斐はあります」

私「そして言葉の見返りに彼女たちの体をいただくわけかね」

「違いますよ。僕たちはちゃんと合意の上でしています」

私「彼女たちの間に子どもができたら、どうするのかね。責任はどうする?」

「そんなことにはなりませんよ。そこは父上たちからもちゃんと言い含められています。正直言って、子どもは苦手なので」

私「では、仮に、と付けよう。仮に相手の女性に子どもができたとしたら?」


 沈黙。


「……さあ、どうだろう。その時にならないと」



・夢見るネコ どう思っているか。

「まだ、何も。彼女に関しては、僕はわかりません。そんなに会ってもいないですし。何を考えているのか、本当にわかりませんね」

私「何か、思うところでもあるのだね」

「ありませんよ、何も」



・せっかち時計 どう思っているか。

「あの人には昔から世話してもらっています。いいひとですよ……」


 歯切れが悪い様子。






 二度の面談終了。次回の面談の連絡をして去る。私は三度の面談を通して、これ以上面談を行っても決して彼の心のヴィジョンが得られないことを悟った。私がここまで意識して得ようと注意を払っていてもできなかったことは早々なかった。ここで出会えると思っていなかったが、彼はどうやら私の同類らしい。それならば、私が彼の心を覗けないことを納得するほかない。何万人に一人同士が互いに出会ったというわけだ。だが、それは今回の治療を難しくすることを意味する。私は治療計画の見直しをしなければならなかった。


 私はまず彼の父に報告をしようと手紙を書いた。だがその男は……私の手紙を無視し続けている。匙を投げるなと無言の圧力をかけている。私は自分の能力に頼ることなく、「それらしい」治療を行わなければならないのだ。この時でさえ無謀だと思ったが、今になってもやはり無謀だったと思う。……私は、自分が思っている以上に偉大な人物だと錯覚していたのだろう。私は……私は、微力しか持てない《魔法使い》なのだ。




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