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 レアはすぐにはっと目が覚めた。口の中に星がある。口から取り出してぽいと捨てた。一回りほど小さくなった星がころんと石床に転がっていく。そのままそれは包丁を研いでいたガミガミ女へとぶつかった。ぎろりとレアを見た。


「星を呑み込まなかったのかい?」


 レアは急に妙な心地になった。先程まではあんなに怖かったはずなのに、自分が悪者に立ち向かう勇者にでもなったように、まったく怖くなくなっていた。むしろ、やってやると言わんばかりのやる気に満ち満ちている。今ならなんでもできそうな気がする。


「うん。だって、食べられるのが嫌だったから。わたしのことは諦めてちょうだい。会いたいひとがいるの。先に進ませて」

「そんなの知りませんよ。ほら、もう一時七分。ここには〈戦争盤〉の予定が入っていたのに!」

「それこそ知らないわよ」


 ガミガミ女がどこかをつねろうとした手を避けて、レアは先に彼女の脇腹をつねった。


「痛い!」


 大げさに彼女は飛び上がった。ぴょんぴょん。カエルのようだ。……と、いうよりカエルになった。ぐにゃぐにゃとガミガミ女の体が折り曲げられて、色も形も変わった。緑色の小さなカエルだ。レアは跪いて言い聞かせた。


「自分が痛いと思ったことを人にしてしまうのはどうかと思うの。だって、相手にも痛みを感じる心があるのよ? あなたはもっと人に優しくすべき。そうしたら、あなたを邪悪だと思うひともいなくなるわよ」


 カエルはゲコゲコ啼いている。わかっているのか、いないのかどっちだろう。


「まあ、しばらくはその姿で反省しているといいと思うわ。それでもっと深いところに行く道をご存じないかしら、カエルさん」


 言うとカエルは唐突にレアのキャノチエの上に乗る。そして、すぐに飛び降りた。口に虹色の羽根をくわえている。まるでそれを振るように、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。何をしているのだろう、と思っているうちに、景色が変わっていった。小さなものが大きく、低いものが高くなっていく。カエルもレアと同じくらいの大きさになっている。違った、レアの方が小さくなっていたのだった。カエルは最後に大きく一振りすると、レアに虹色の羽根を押し付け、ぴょん、とどこかへ跳ねていってしまった。羽根はレアが触れると、しゅるしゅると小さくなったキャノチエの大きさに合うように縮んだ。不思議なものだと思うが、気にせずまたキャノチエに差しておくことにした。


 変わり果てた景色を見渡すと、石床に大玉のような星が転がり、さらに竈で火がごおごおと燃えている。カエルがレアを小さくした意図がわからないが、レアは一歩踏み出した。すると、がくん、と石床の隙間にひっかかった。石床は大きく欠けており、そこに砂が溜まっている。レアは足を抜こうとした。だが何かに引っかかってまったく抜けない。そうこうしているうちに、砂の中でレアの足首を何かが引っ張った。


「え、ちょっと……」


 何なのよ。レアは助けを求めるように手首を見て、気づく。もうレアの傍にヴァルハマがいないということを。唇を引き締めて、レアは耐えた。引っ張るなら引っ張るといい。


 さらさらという音を聞きながら、レアは砂の海に落ちていった。










 ヨーナスは約束の時間になるまでは、彫像のように椅子から動かなかった。テーブルに置かれたランプだけが頼りなくその老人の横顔を照らしている。眼をつむり、何事か考えている風情を漂わせながら、彼は言われたようにひとりきりで座っていた。


 辺りは死んだように静まり返っている。それはそうだ、この屋敷には、主人も使用人もいない……。この部屋にはヨーナスだけ。そして先ほどから物言わぬ隣室の中に、三人。彼らがこの屋敷にいることは世間には内密にされなければならなかった。レア、ダ―ヴィド、ヴァルハマ。とくにヴァルハマの名が漏れると、人々に治療を連想させてしまう。それは他の二人の体面を傷つける。〈魔法使い〉が知られても困らないが、顧客は秘匿されなければならない。妙な噂を立てられないように。


 この屋敷も国王が非公式に所有しているものの一つで、国王の個人的な面会などの目的で使われている。使用人たちも口が堅い者がほんの数人雇われていたが、今晩は全員外に出した。彼らは屋敷を出なければならない理由を知らないままだ。代わりに三人を連れたヨーナスが入った。ヴァルハマとヨーナスは二人がかりで一室の寝室にレアとダ―ヴィドを寝かせて、ヨーナスは隣室に退いた。今は番人のように寝室に続く扉を守っている。その間、彼は苦さをコーティングした大きな石を丸ごと飲み込んだ気分だった。石に触れた部分がひりひりとする。ヨーナス自身、これほどの瀬戸際に追い詰められたのは久々だった。以前の瀬戸際は大概自分で招いたもので、自身が渦中にいた。道を切り開く役目はヨーナスだった。一時はジリアクスという国のかじ取りさえ己で行っていたのだから。郊外で趣味のワインに勤しむうちに、ぬるま湯の生活に馴染んだと思っていたが、ヨーナスは辛さとともに若いころの活力に満ち満ちていくのを感じていた。上流階級の社交に出るたびに呼び起こされていた闘争心が蘇ってくるのだ。国王陛下を目にすると背筋が伸び、政治上の好敵手たちには非難と罵倒で刺激する。議会で首相専用のふかふかの赤い革張りの椅子に座りながら、貴族たちと国民の権益を天秤にかけるあの感覚。震えるほど充実した日々。


 それはヴァルハマを見たからだ。変わらない。国王を通じて知り合ったあの日のまま、この三十年ほど老いをどこかに忘れてきてしまったかのように顔の皺ひとつ見つけることのできない神秘的な存在としてヨーナスの前に現れた。深い怒りも憎しみも、喜びも楽しみも表れない表情に、時が巻き戻ったと一瞬錯覚したのだ。昔は人と違う色彩を持っていようと、彼は人間だとどこかで思っていたが、彼はやはり〈魔法使い〉なのだ。絶対的に人々を俯瞰できる上位の種族で、彼の世界は彼の持つ色彩によって美しく染め上げられた壊れない完璧な世界なのだ。そこから現実を見下ろしている彼は慈悲深くなく、微笑を浮かべることも少なかったが、その沈鬱な表情は確かに人々を見つめている証のように思えていた。彼のうちに秘めた世界の豊穣に畏怖を抱いた。いや、憧憬か。首相にまで上り詰めた彼にもわからない世界が眼前にありながらその一部になれない諦めがそうさせるのだ。だから今、不謹慎にも妙な高揚を覚えているのかもしれない。自分が国王と〈魔法使い〉の動きの一端を担っているということに。天上世界の住人になれる気がした。


 治療はいつ終わるのだろうか。〈魔法使い〉の治療のプロセスはヨーナスにもよくわからないが、きっと約束の時間になれば入っていい、ということは、それぐらいで目途が付くということか。治療を始めて、すでに三時間以上は過ぎている。約束の時間まであと少し……。


 ボーン。廊下にあった柱時計が夜中の十二時を告げると同時に、ヨーナスは立ち上がった。若者のような早歩きで扉のドアノブに手をかける。


 彼がもっとも見込んだ孫娘とその婚約者の王子の状態が気になった。危険を伴う治療だと国王は言っていたが……。


 不安は膨らんだが、もちろんヴァルハマの腕を疑っているわけではないし、ヨーナスはレアを信じている。ヨーナスの孫の中でも一番のお気に入りだからというわけじゃない。率直な言葉が過ぎて大人たちから敬遠されながらも、自分を曲げられない不器用な娘だ。心根は決して悪くないはずなのに必要以上の誤解を受けて、両親さえも扱いかねている。婚約者との仲がこじれていることを知りながら静観したのは、彼女を覆う頑丈な殻を壊れることを期待したからだ。レアに大人になってほしかった。


 ドアノブを回す。暗い室内にはやはりランプが一つきりぽつんと丸いテーブルに乗せてある。取り立てて言うこともない寝室で、奥のベッドには大きな影がある。おそらくはレアとダ―ヴィドだろう。だが、ヴァルハマはどこだ?


 ヨーナスは視線を巡らせながら、奥に向かうにつれ、あ、と声を上げ、眉をひそめた。心の中で雷が落ちるよりも激しい衝撃を受けたのに、外に示した反応がこれほどあっさりしたものだったことが可笑しかった。


 ヴァルハマが、ぴったり合わさった二台のベッドの中心線にもたれるようにしながら、眠っていた。床に投げ出された手は中途半端に切れた金色の糸を握ろうとしているようだった。最初は眠っているだけだと思った。だが、ヨーナスは直感で、彼の死を悟った。しゃがんで、ヴァルハマの手首で脈を計った。……死んでいる。


 体はぞっとするほど冷たくて、ヨーナスは〈魔法使い〉の死を認めた。その体から放たれていたはずの堅牢な城のような誇り高さが失われている。彼はすぐに眼を反らせた。もはや中身を失った物体に用はない。


 治療中に死んだのだろうか。彼は、こちらは静かに寝息を立てている孫娘と王子を眺めながら、胸の奥がすうっと冷えていくのを感じていた。失敗だ。彼は低い声で言い、部屋を出ていこうとすると、テーブルの上に手紙が二通あるのに気付く。一つはヨーナス宛、もう一つは国王宛だった。国王のものをポケットに仕舞い、自分宛のものをランプの光を頼りに読み始める。手紙の文言は短かった。



――ヨーナス殿。せめて夜が明けるまでは諦めてはいけない。決してダ―ヴィドとレアを離さないように。国王宛の手紙を渡していただけると助かります。ではごきげんよう

   ヴァルハマ



 世界の扉が閉ざされたような心地になった。



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