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主人公登場です。
レアは王子という生き物がろくでもないことを知っている。いや正しくは、知っている王子がろくでもないのだ。すっきりと引き締まっているのは顔や体つきだけ、だらしないのは倫理観、女関係とその他もろもろ。追求されればするっと逃げる。真綿のような優しい言葉でレアの吐く毒を包んでポイ捨てする。一度でさえもまともな会話ができたためしがない。始めはやけで言葉を浴びせかけたが、やがて慣れた。すべてさらさらとした小川のごとく聞き流し、へえ、そう、とばかりに曖昧な相槌を打って。それだけでレアには結婚するまでのつかの間の平穏が手に入ったのだ。
王子はレアに無用なちょっかいは出してこないし、レアも王子に何も求めない。誠実も、覚悟も、貞操も。ゴシップ誌に多々掲載される王子の醜聞への怒りも、紅茶とともに飲み干した。月に一度だけの「無意味なお茶会」は耐えるだけ。それはいかにも女にだらしのなさそうな垂れた目尻を憎々しいと思う時間だった。
「なんなのだろうね、僕たちは。愛し合ってもいないのに、こうして会ってる。君は僕を軽蔑さえしているのに、婚約は破棄されない」
「大人の事情があるんじゃないかしら、殿下」
レアがそっけなく紅茶のカップを傾けると、王子はアツアツのホットケーキの上にある蜂蜜のようなとろける笑みを浮かべた。髪まで蜂蜜色なので、レアは内心、蜂蜜男と呼んでいる。
「僕はダーヴィドだ。君にはそう呼んでもらえると嬉しいな」
「じゃぁ、蜂蜜お……失礼。殿下、恐れ入りますが、わたし、結婚までは殿下とは節度のあるお付き合いをさせていただきたくて。だって、何が起こるかわからないでしょう?」
(結婚したって、指の一本だって触れられたくない。 性欲を満たしたいなら、たくさんいる「愛しい」女に触れればいいじゃないの)
ダ―ヴィドが何人の女と寝たのだとか、心底どうでもいい。結婚したって治らないのは百も承知だ。レアは人身御供にでも出されたのだろう。
(そうよ、そもそもうちは貴族じゃないし。親戚には侯爵と伯爵はいるけれど、うちは代々官僚の家系だもの。たぶんおじいさまが元首相でなかったら、こんな話は転がり込んでこなかったはずだわ。どうせ、あれなのよ。どっかの王族のお姫さまと結婚するはずなのに、あんまり女遊びが激しいものだから国王陛下が国外に出すのを諦めたのだわ。それで、結婚しても文句を言ってこない都合のいい女を探して、わたしに辿りついちゃったのだわ。そうに違いない!)
「僕ほど君に優しい男はいないと思うのだけれどね」
「従兄のヴィルケの方が優しいわ。ぶっきらぼうで淑女の扱い方はてんでダメだけれど、あの人は誠実の意味を知っている」
「僕は誰にでも誠実でありたいと願っているよ」
「願うだけで実がない」
レアがぴしゃりと言えば、王子はくすりと笑う。くしゃくしゃの子供のような笑み。
「でも僕は好きだよ、君のこと」
(ほら、そうやってまた誤魔化す……いつものパターンだわ。私が顔を赤くすると思っているのかしら、もう何十回も言われ飽きているのに)
「私は嫌いよ、あなたのこと」
レアにとっては決まり文句になりつつある恒例の言葉を告げながら、砂糖入れ過ぎて胸やけをするアップルパイを食べているようだと思った。
(そう。この蜂蜜男と話をすると、気持ち悪い。これほど不味い紅茶を飲む時間もないわ)
極上のお茶菓子も、手を付ける気にならない。王子は毎度美味しい美味しいと絶賛している。ダ―ヴィドはスイーツ好きである。
「あなただって、わたしとの婚約は邪魔になるでしょう。いつでも国王陛下に言っていただいて構わないわ」
「陛下は僕なんかの言葉をお聞き届けにはならないよ。それに、君の辛辣な物言いには、興味がある。間違いなく、僕の周りには来てくれないタイプの子だからね」
「伴侶に誠実さを求める女性なら、まずあなたの近くには行きたがらないでしょうね。わたしも近づきたくないもの。逃げられないから、この席にいるだけ」
「それは幸運だな」
ティーテーブルがかすかに揺れる。頭上に影が落ちたと思えば、ダ―ヴィドの顔はレアの間近にあった。
「君のような女の子がどんな恋に落ちるか、興味がある」
「そうなると、わたしは何番目の恋人になるのかしら」
「君は特別だ」
「そりゃそうでしょ。このままだとわたしはあなたの妻になってしまうのだもの。その意味で、特別ね」
レアは肩を竦めて、ダ―ヴィドの眉間を人差し指で弾いた。慣れた仕草である。まともに相手するだけ馬鹿馬鹿しいのだ。
(早く婚約破棄して、誰か別の人と結婚してくれないかしら。ラネ伯爵夫人とはもう何年もの付き合いだし、お互いに遊び人だから似合いそう。蜂蜜男は跡継ぎじゃないし、いいんじゃないの。わたし、ものすごく広い心で応援するわ。婚約破棄されるわたしの風評にはちょっとぐらい我慢してあげてもいい。おめでとう、って花ぐらい贈ってあげるわよ)
「それで、あなた今何人恋人いるの? それで何人に対して手ひどく裏切ったのかしら」
「可愛らしい顔で厳しいことを言わないでおくれ、レア」
ダ―ヴィドは少し情けなさそうな顔を作ってみせた。
「わたし、目が鋭いね、と言われるのだけれど……あなたの目って節穴よね」
「君は賢い子だ」
「あらありがとう」
レアとダ―ヴィドのやり取りには余裕があった。どちらも必死になることがない。レアにはこの関係がもっとも適切であるように思えていた。
許嫁は浮気者。本気になれば自分が損になるだけ。結婚しても、王子の浮気はそうそう治るものでもないだろう。もはや病気のようなもの。上流階級で政略結婚がいまだ盛んなジリアクスでは互いに愛人を作っても構わないという風潮が根強く残っているので、きっと王子さまは変わらない。
(実際のところ、お姫さま一人だけの王子さまなんていないのでしょうね。あれって、理想論だからみんな好きなのよ。顔だけは整っている蜂蜜男に惚れない辺り、まだわたしも捨てたものじゃないわね。情が薄いだけかもしれないけれど)
ダ―ヴィドといても、ちっともときめかない。彼も手を出してこない辺り、互いに互いを恋愛対象にしていない。いわば打算でつながった相手でしかない。割り切りがいいのだ、と数少ない友人にはよく言われている。
ダ―ヴィドはそれからどうでもいい世間話をして、帰っていった。プレゼントしてもらったネクタイピンがろくなものじゃなかった、付いた宝石が大きすぎてすぐに金具が壊れただの、父親が無理やり自分を心の病だと言って、診察の予約をしただの、王宮の園遊会に君を招きたいだのと言ったことだ。
一番目の話は、残念だったわね、と気の毒そうに言い、二番目の話は驚いたように、三番目の話は必須ではなかったので、丁重に断った。
さようなら、という言葉にこれほど安心する相手は他にない。
目を瞑れば、暗闇の向こうからうぅ、うぅ、と誰かのすすり泣きが聞こえてくる。
――うぅぅ……うわああぁぁぁ!
甲高い声だ。夢の中の彼はその声に近づこうとする。だが足元が何かに取られて、身動きができない。
――うああああぁぁん!
悲痛な声だ。一体、この声の持ち主は何に苦しんでいるのだろう。
「なんだというんだ」
ただその場に佇んでいるだけだというのに、この声を耳にするだけで、自分も彼と同じく胸がはりさけるような思いがした。彼? どうしてそんなことがわかったのだ?
彼は自分の胸を押さえる。べちょりと手が何かに濡れる。てらてらと光る赤い血がべったりと掌についていた。ぎょっとする。
――いやだいやだいやだあああぁ!
胸から流れる血は止まってくれない。気が遠くなりそうだ。なぜだ? こんな辛い喪失感を味わなければならないのか? 彼は自分が何もしていないつもりだった。
「違う、違うだろう」
彼は衝動のままに絡みついてくる闇をひきちぎって前に進もうとする。
「僕には何の後悔も、苦しみも、痛みもない。被害妄想も大概にするべきだろう!」
いい加減、泣き声にも苛々してきた。情けないから早くやめてほしい。……終わってくれ。
突如、闇の枷が消えた。彼は走り出した。走って、走って……あともう少しで着く、そう確信して叫ぶ。
「やっと捕まえられるぞ」
一歩踏み出した右足は、彼の寝ていたベッドに叩きつけられる。彼ははっと夢から醒めた。
真上に白い天蓋が見える。部屋に入る光はなく、まだまだ夜明けが遠いことを知らされる。
彼は何も着ておらず、ひどく寝汗をかいていた。気分も悪い。
隣には誰か女が横たわっている気配がするが、顔は見えない。
昨日のことを思いだそうとしたが、あまり覚えていない。一体誰だろうか。
(いや、誰でもいいな……)
彼は女を抱き寄せた。寝ていた女は無意識か、意識的にか、彼の胸に顔をすり寄せた。
女の肌は柔らかいから好きだ。彼の肌を温めてくれるなら、誰だっていい。彼にとっては誰だって同じことなのだから。
嫌な夢のことなどすぐに忘れてしまった。
園遊会はそれから一週間後のことだった。もちろんレアは参加しなかった。日なたのテラスで読書をしていると、遠くから雑誌を持った執事がせかせかとこちらへ向かっているのが見えた。ある記事を指差して、無言のまま手渡す。レアは言葉を失った。
「おさわがせダ―ヴィド王子。今度のお相手は、婚約者の友人の……呆れた。どちらも節操がないわね」
ひとまずレアは馬車に飛び乗ることにした。
馬車が辿りついたのは二軒隣の屋敷だった。門前で記者たちがたむろしている。今話題の人を取材しようとしているのだ。それを使用人たちが懸命に追い出そうとしていた。レアの馬車はその真ん中を突っ切って、門の中へ入る。
そこはレアの屋敷よりもはるかに大きい。ジリアクスの銀行王は今や大貴族並みの生活をしているのだ。
玄関の前ではちょうど別の馬車から人影が出てきた。
「ヴィヴィアン!」
レアは窓から顔を出して、叫んだ。赤い髪を垂らした小さな背中がびくりと震え、顔をびしょびしょに濡らした女がこちらを振り向いていた。
「レア……」
ヴィヴィアンは取り乱した様子で、馬車から降りたレアに抱き付いた。
「許さない許さない許さないんだから、でんか……絶対に、許さないんだからぁ!」
銀行王の娘は今やただの憐れな女となって、幼友達に縋っていた。時すでに遅し。ヴィヴィアンは裏切られた後だった。
「あたしに本気になったと思ったのに……何が悪かったの。でんか、婚約やめるって。レアと別れて、あたしと結婚するって。でもラネ伯爵夫人と熱烈なキスをしてた……」
「あぁ、そう」
レアは深く溜息をついた。
「本当に、あなたたちには呆れるわよ。私の婚約者だとわかっていて手を出したあなたも、婚約者の友人を臆面もなく弄ぶ蜂蜜男も、蜂蜜男の浮気に平然と振る舞って、いちゃいちゃしているあの未亡人にも! なんなの、人間関係を無意味にドロドロさせて、泥沼にはまり込みたいわけ? 倒錯的な状況を楽しみたいわけなの、まったく共感できないわ……! あぁ、もう、わたしを巻き込まないでちょうだい」
「レア、ごめんってば。だって、あたし、王子と結婚したかったの! 友情よりも大切だったの。それにレアは好きじゃないって言ってたし、王子も同じこと言ってたし」
(ほらね、どうせそんなことだろうと思った。相変わらずぽんぽんと女の都合のいい嘘をつくわよね、あの男)
元々読書好きのためか、変に内省的で大人びていたと思うが、ここまで捻くれたのは、ヴィヴィアンとダ―ヴィドのせいだ。彼らのせいで世の中の人間がみんな汚く見えてくる。
「ヴィヴィアンが使う友情って言葉はだいぶ薄っぺらいの、わかってる? だからわたし以外親しい友だちがみんな離れて行っちゃうんでしょ。主に恋愛のトラブルでね! それで元友達の元婚約者たちが、崇拝者となって残るんでしょう」
ヴィヴィアンがずずっと淑女らしくなく鼻水をすすった。レアがハンカチを差し出せば、ちーん、とかん
でレアの手のひらも押し付けてくる。お姫さまらしい。
「だって、あたしのこと好きだって、言ってくれたし! あぁ、でも、あたし……どうしたらいいの……」
ぶるぶると思いだしたように震えだしたヴィヴィアン。仕方なくレアはヴィヴィアンを抱きしめ、落ち着くのを待った。
「ごめんね、ごめんね、レア。あたし、もうこんなふうに慰めてくれるおともだちは、レア以外にいないのだわ、うぅ……」
だったら、その友達の婚約者を取るのをやめたらどうなの、とレアが言うと、ヴィヴィアンはますます泣き喚く。逆効果だった。レアは何でもないふうに装って、ヴィヴィアンに言い聞かせる。
「ヴィヴィアンにはもう慣れたわよ。そんなふうって思って付き合っていればなんてこともないわ。あなたが恋愛事で泣く日が来るなんて思わなかったけれど」
「あたしも思わなかったの。どうしても、欲しかったのに……手に入れられなかっただなんて……!」
「はいはい。そうよね。びっくりしたでしょう。なんにもおかしくないわ」
(わたし、文句を言いに来たのよね……なんでこんなことになったんだっけ)
一言ものを申しに来たのが、逆に慰めている。かなり理不尽な状況だ。
「レア、レア……ごめんね」
「うんうん。わかったから、まず落ち着きましょう。ごめんなさい、ヴィヴィアンの部屋に行きたいのだけれど、紅茶と……お菓子の用意をお願いできる?」
メイドが下がるのを見て、ヴィヴィアンの小さな手を取った。そのまま中に入ろうとすると、今度はレアの屋敷の執事が息せき切って走ってくる。二軒隣までそれなりの距離があるだろうに、執事は肩を弾ませて、全速力でレアの前にやってくる。
「すみません、お耳を」
頷いて、耳を向ける。ぼそぼそと執事はレアにその報告を入れた。
さっと血の気が引く。レアは思わず執事を凝視した。
「なんですって……本当に、あの王子が……三階から」
――落ちたのですって。
その言葉が紡がれる前に、ヴィヴィアンは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。ホールケーキに乗ったイチゴが、ころんと皿に落ちるのに似ていた。




