16
薄暗い廊下の壁ではぽつぽつと灯りが点っていた。水彩の暖色を滲ませたように頼りなく照らしている。赤いカーペットを踏む両足を完全に照らすには至らず、人影は深い黒となって灯りの反対側に沈む。
そこはどこかの屋敷のようだった。カーペットの色も、壁紙の柄も、ランタンに似た灯りの形も取り立てて何もない、平凡な作りの屋敷。強いて言うならば、外壁が蔦で覆われていそうな古めかしさが漂っていて、ただただまっすぐ伸びる廊下の先がわからないだけ。突き当たりはすぐそこに見えているはずなのに、まだたどり着けていない。歩くほどに突き当たりが逃げるように遠ざかっているよう。
カーペットの感触は、湿った森の土に立っているように柔らかかった。水底の岩を叩いた時のようなくぐもった靴音が聞こえた。レアの靴音のはずだった。
――どうして……わたしは歩いているのかしら。変なの。
いつでも立ち止まることはできるはずなのに、進み続けている。進み続けても何も変わらないくせに、立ち止まらない。憎らしいと思ってさえいるのに、救おうとしている。愛していないくせに、愛していると言う王子と同じくらい矛盾したことだ。
靴音は軍の訓練を受けたように規則正しく、それがレアを混乱させる。延々と自分の発する音ばかりが耳に入って、気味が悪い。まるで彼女しかその場にいないようだった。確かめようにも、レアは足元を見なかったし、振り返りもしなかった。漠然とした恐怖が渦巻く沼に突き落とされるのを避けたかったのかもしれなかった。しかし、言い知れぬ不安が口をついて出る。
「なにか、大切なことを忘れている気がする……」
ボーン。廊下の大きな古時計がちょうど天上の十二時を差して、鳴った。頭がい骨の裏にまで浸透する深い音。言葉にした不安がぷつりと途切れた。
レアは時計の前を過ぎた。
名も知らない屋敷の廊下を歩き続けていた。照明はランタンの形に似ていて、歩くのに不自由しない程度には役に立つ。とうに行き止まりに辿りついてもよいはずなのに、なんにも辿りつけない。靴音だけが、前進している証だった。
――どうして……わたしは歩いているのかしら。変なの。
いつでも立ち止まることはできるはずなのに、進み続けている。進み続けても何も変わらないくせに、立ち止まらない。憎らしいと思ってさえいるのに、救おうとしている。愛していないくせに、愛していると言う王子と同じくらい矛盾したことだ。
規則正しい自分の靴音に気味悪さを感じながらも、やはり歩いている。しかし、茫洋としていた不安が形になるにつけ、思わず呟いてしまった。
「なにか、大切なことを忘れている気がする……」
ボーン。廊下にあった古時計が鳴っている。十二時。窓も何もない廊下には、時間など何の意味もないのだが、頭の奥で音がさざなみのように広がって、思考に浸みわたっていく。不安が温かい外気にさらされたように溶けてあっという間に消えた。
古時計は後方に置いていった。
……窓のない廊下を通ったレアは、左右の壁に取りつけられた照明に注目し、次に自らの靴音の一定のリズムに気が付いた。
――どうして……わたしは歩いているのかしら。変なの。
別に歩きたくないのに歩いている。愛していないくせに、愛していると言う王子と同じくらい矛盾している。
立ち止まりたかったら立ち止まればいいのだが、レアにはその方法がわからない。安定している法則を乱すことは途方もない勇気が必要で、今レアにはわざわざ乱すほどの理由が見つからなかった。だから惰性のように歩き続けている。いつかあるはずの突き当りを目指している。だが本当はそんなものがないのではないか。なぜなら、それは……。
レアは自分の頬に手を当てて、自分の感触を確かめ、レアは呆然と呟いた。
「なにか、大切なことを忘れている気が……」
視界の端でか細い金色がかすめた。今にも幻のようにかき消えてしまいそうに頼りない金色だった。それなのに、レアは途端に安心する。言いかけの言葉が完成することはない。
ボーン。古時計の針は十二時を差していた。鈍い金属の振り子がぶんぶんと規則正しい運動を行っている。レアは思わずそれに見入ってしまった。途端にすべての記憶が戻ってくる。
振り子は、進んだり戻ったりと完璧な周期を保って同じ動作を繰り返しているのだが、レアはそれと同じだった。古時計を支点にして、レアが左右で振れていたのだろう。ボーンと時計が十二時を告げれば、後ろへと振り戻され、自分自身もリセットされる。言葉も思考も動きも判を押したように同じものを繰り返して積み重なり、頭の中にこべりついていく。理性が残してくれた違和感にも反応できないで、世界の歯車の一部となる。まるで設計されたままに動くしかない機械のように。
レアはそうなりかけていた自分がそら恐ろしかった。
いつの頃からかわからないが、振り子の周期に巻き込まれている。気づけるかどうかが抜け出すための鍵だった。そうとわかるのは、手首の金糸を思い出したのが、何十回繰り返した中での今回だけで、それに気を取られたために、時計が鳴る前の言葉が不完全になってしまったから。それだけで呪縛が解けた。
レアの服はこの世界に降り立ったときのものに戻っていた。黄色のジャケットに、ふくらみのある黄色いズボンに、白いキャノチエ。キャノチエを一度取ってみると、赤いブタからもらった虹色の羽が残ったままだった。わかる限りに身だしなみを整える。そして、ヴァルハマ、と彼の名を呼んだ。
――ようやく気づいたようで何よりだ。
待ちくたびれたような声が返ってくる。ヴァルハマは対面して話すよりも、声だけのほうが饒舌に心情を語る。
「うん。やっと気づいたの。これ、《魔法使い》にもどうにもならなかったの? 何回も繰り返していたよ
うに思うのだけれど。一体、何回?」
――三十四回だ。君がはまっていた円環は、予定調和以外のものを疎外しているくせに、それこそが円環から抜け出すのに必要だったという厄介な代物だよ。君は何度も何度も抜け出すのに失敗することでようやく、決められた言動とその回限りの不規則な言動の区別をつけられるようになったから、私の存在を気に留めることができた。すべてが無駄だったとは言わないが、早くここを抜けなければ最下層に到達するまでに夜が明けてしまうよ。
「もうそんな時間? 朝になっても起きなかったら、家族が心配するわ。……あなたがどこまでわたしの家族に事情を話したかにもよるけれど」
レアは皮肉を込めて言ったが、ヴァルハマは意にも介さない。
――これは死の淵をさまよう息子を救うために陛下がくだされたご命令だ。当然、君の家族に伝わっていると思わないかね?
「わたしだけが事情を知らされないままで?」
――よく眠っていたからね。私が直接説明すればよいと考えた。
「説明なしの強制出発だったと思うのはわたしの気のせいだとは思わないのだけれど」
――君に拒否権はなかっただろう。息子を思う親心は、時に他人の子を踏みつけにすることも厭わない。国王はとくに情が強いお方だ。最愛の女性とその息子ともなれば、なみなみならない思いを持っておられる。
レアは自分の記憶から国王の人の良い微笑みを引っ張り出しながら、ヴァルハマの言葉との印象との違いに首をひねった。
「陛下は礼儀正しい……模範的な紳士に見えたわ。少なくとも外見は」
――外見通りの中身だとは限らないことは、君も知っているだろう。優しいひとが暴力的で、凶悪そうなひとが善人という場合もある。貴族連中になると、自分を上手に装える能力が極端に高いから、君のような若い娘を誤魔化すのもわけないことだ。
ふう、とレアはひとまず息を吸って、進行方向に目を向けた。行き止まりには大きな木製の扉が見えている。今度は簡単に辿りつけそうだった。そう信じたい。
「ヴァルハマ。あの扉からどこかに行けそうだから進むけれど……。ねえ、陛下に対して何か思うことでもあるの?」
――どうして。彼は昔からの友人だが。彼は先々代の国王の時から私によくしてくれているよ。
心外だ、とまで付け加えてきそうな口調で答えられてしまった。レアは肩を竦めてみせた。
「言い方に棘があったように思っただけよ。あなたにそんなつもりがなかったのなら申し訳ないわ」
――現実世界で関わったことのない君に、私のことがわかるはずもない。
もはや昔から親しんできた親戚のように感じていたレアははっきりとしたヴァルハマの拒絶に傷つきながらも、それを抑えて頷いた。
「そうね。確かにそうだわ」
――そもそも人の心には形がない。君のいまいる世界も抽象的なもので、現実世界に現れるものじゃない。むしろ、多くの人の眼にさらされることもなく、本来他人はおろか、自分自身の心のありようもわからないはずだ。その点、人の心を推し量り、入り込んで心の病を治すことのできる《魔法使い》という存在は反則的でずるい生き物さ。触れられたくないことに無断で立ち入って暴いたところで誰も幸せにはなれまいが、私たちだけは許される。国王の傍に侍ることだけで多くの特権を得られるよ。それだけの働きをしているのだと、歴代の権力者たちは認めている。それだけ価値がある力なのだ、普通のひとびとに他者の心はわかるはずもない。ゆえに、君は私のことを理解できない。
「そんなにくどくど言わなくても、あなたのすごさはわかっているわよ」
夢の中に現れて、なんだかんだとレアを導いてくれていることぐらいはわかっている。
扉の前に来て、金属の取っ手を回す。カチャリ。今度はどんな世界が待っているのだろう。
――ではまた私は黙っているよ。ここからは君の役目だ。ダ―ヴィドを何とかしてくれ。