15
ダ―ヴィドが到着したのは、夕方が差し迫って、会場が室内に移されたころ。レアは早めにお暇しようかと思っていたところだった。ダ―ヴィドがいないなら、条件を満たす以前の問題だからだ。
「レア」
帰ろうとしたレアの背中に祖父の声が飛ぶ。彼は視線で今まさにホールに入ってこようとする男を示した。すらりとした背丈と、立派な体格、さらに人を惹きつける天性の華やかさが同居しているジリアクスの貴公子が穏やかな微笑を浮かべながら、左右にいる女性たちのご機嫌をとっていた。どんなに仲のいい友人でもそうしないだろうというぐらい、彼らの距離はないも等しい。女性たちは軽やかな笑い声を上げて、彼以外は見えていないとでもいうようにことあるごとに彼の顔を見上げている。
やがて何かを言ったダーヴィドは、左にいた女性をことさらに喜ばせ、ふいにその頬にキスをした。右の女性も何か言うと、今度は彼女にもキスをする。
そこへ別の女性もやってきて、ダーヴィドに話しかけた。すると、喜んでいた取り巻きの女性たちは、互いに笑い合って、傍を離れる。残った女性は周囲とは明らかに一線を画した美貌と豊満な肉体を持っていて、当然のようにダーヴィドの腕を取った。レアも何かの雑誌で見た覚えのある顔。赤みがかった金の髪と、彼に似た青い瞳。揃えば姉弟のようだが、それにしたってお似合いの二人である。
二人の仲睦まじげな様子を見たヴィルケはぼそりと零した。
「呆れるな、あんなのが王子だとは」
ヴィルケ、とヨーナスは彼を睨むが、少し肩を竦めるだけで訂正はしなかった。祖父は今度黙って婚約者を観察していたレアに血も涙もない一言を浴びせた。
「レア。行ってきなさい」
「おじい様」
レアは場所柄にふさわしい態度を取ろうと、深呼吸をして、注意深く声を潜めた。
「あれを見て、婚約やめろというのならわかるのだけれど。わたしにあそこへ割り込めと? それはなんの苦行なのよ」
「……修羅場だな」
ヴィルケの無神経さが癇に障る。レアはヴィルケの靴を爪先で踏んづけた。彼は声もなく飛び上がった。ヨーナスの睨みを受け流しながら、レアはもう一度言った。
「おじいさま。悪いことは言わないわ。可愛い孫娘のしあわせのために諦めるべきよ。今なら向こうも気づいていないし」
ヨーナスも頑固に元の話を蒸し返した。
「レア。わしとの約束を忘れるな。甘ったれたことを言っておらずに早く行け」
「あのね、おじいさま」
彼女は諦めきれずに再び祖父を説得しにかかったが、遅かった。
「ほら、殿下も気づかれているぞ」
確かにダ―ヴィドの視線は遠くレアへと投げられている。ばっちり目が合ってしまえば、レアは大人しくするほかない。王子と自分、どちらにも興味津々といった人々の目もある。レアは義務を果たすべく、自分からダ―ヴィドの元へと歩いていった。
「元気だったかい、レア」
ダ―ヴィドは他の女性と変わらぬ態度で、レアの手の甲に口づける。
「ええ、食事会ぶりですわ、殿下」
すると、彼が少し驚いたような顔をして、ひとつ頷いた。
「そうだったね。あのときはまだ春だったのに、もうそろそろ夏になるね。忙しさにかまけていたら、すっかり君にご無沙汰してしまったようだ。埋め合わせに今日ぐらいは君のエスコート役になりたかったのだが……」
彼は視線で少し離れたテーブルを示した。ヨーナスとヴィルケが何事か話している。
「君には間に合っているようだったね。結局、僕は所用が立て込んで遅れてしまったから、仕方がないと諦めよう」
「わたしのことは気にしなくても構いません」
レアは本心からそう言った。
「わたし、こういった華やかな場に気後れしてしまう質で。ひとの視線を浴びるのにも慣れておりません。婚約が公になったこの時期に、殿下と連れ立っていると緊張のあまりどうにかしてしまいそうです」
後半は建前だった。緊張しないわけではないが、どうにかするほどではない。逆に、レアはどうしたらいいのかわからないのだ。浮気性だが美形の婚約者に対して、普通の小娘がどう振舞うというのだろう。
この男はわたしのものだと喧伝する? 身の程知らずだと笑われるだけ。それともさきほどいた女性たちのように彼の関心をめいっぱい引いて、頬に口づけしてもらう? そうなったら、レアは自分を許さないだろう。本気になるだけ馬鹿を見るのは自分じゃないだろうか。
レアにはダーヴィドに夢中になっている自分が想像できない。直接対面して、まっすぐ彼の秀麗な顔立ちを見てみても、目尻が下がっているのが女にだらしのない証拠だろうと思って、一歩下がった視点で見ている。近づくのが危険だと本能が告げているのかもしれない。レアの理性がしっかり働いているということだ。
彼女はダーヴィドの隣にいた女性に注目する。扇情的な赤い口紅、熟れた果実を思わせるふっくらとした胸と小ぶりで引き締まったおしりを見るに付け、男ならずともふらりと近寄って行きたくなるような色香をまとっている。赤がゆるく三日月の孤を描く。
ダーヴィドが堂々と彼女を紹介する。
「こちらはラネ伯爵夫人だ」
「夫人と言われておりますが、夫はとうに亡くしておりますの。ダーヴィドとはよいお友達ですわ」
白の長手袋をした手がレアの手を取る。夫人も美しいひとだったが、整った仮面だけをつけて、人間らしい表情が見えてこない。レアは不思議に思った。
(しっかりとダーヴィドの腕を組んで離さないようにしている。わたしに対して嫉妬があるのかしら)
お友達はお友達でもただのお友達じゃないことは、ふたりの距離からレアはとっくに推察している。それどころか、彼が初めてゴシップ誌に載った記事は彼女とのものだったし、世間ではもっぱらラネ伯爵夫人こそがダ―ヴィドの一番の愛人だと言われている。ダ―ヴィドのキスを受けた女性たちだって、夫人がやってきたらすぐにどいたのだ。ダ―ヴィドと関係した女性の中での影響力は大きいはず。レアにも何かむき出しにしていてもおかしくなかった。
「ラネ伯爵夫人、ぶしつけな質問だろうとは思うのですが……」
レアは率直に聞いてみることにした。
「わたしはあなたと殿下が恋人関係にあると思っています。夫人にとって、わたしは邪魔な存在ではありませんか」
空気が室内ごと凍った気がした。と、いうのも、今までは多少なりともあったはずの談笑、靴音、衣擦れの音がすっと一瞬で氷に閉じ込められて、その中に入っていたわずかな気泡だけで息をしているように感じたのだ。
実はレアたちに注目していた人々はずっと多かったのかもしれない。レアは自分の不用意さを苦々しく思った。またも悪癖が出た。言うにしてももっと場所を考えるべきだったと後悔する。
ホホ、と結局夫人は上品な笑い声を上げた。許して差し上げますわ、という意味で貴婦人たちが浮かべるものだ。視界の端ではダ―ヴィドが身じろぎしたようだった。
夫人が少しだけ屈んで、レアと目線を合わせた。吸い込まれそうな青い瞳ばかりが、夫人の染まりきっていない善意を映し出している。レアの唇に向かって、小さく言葉を紡いだ。
「……わたくしと殿下は恋人ではありません。昔も今も変わることなく。確かに互いに慰め合うような間柄ではありますが、互いに互いを想いあわなければ、恋人ではありませんもの」
レアはすぐさま切り返した。
「だったら質問を変えるべきでしょうか。あなた方は、愛人関係なのですか、と」
レアは夫人と見つめ合った。彼女の穏やかな顔の下で、醜い何かがせめぎ合っている。レアはそう確信した。
「うら若き乙女がそのようなことを言ってはいけませんよ」
レアの唇に白い手袋をはめた人差し指が押し付けられる。
「乙女は純粋無垢でなければね。余計な口を差しはさまず、夫に可愛がってもらえるように、懸命に尽くさなくてはなりませんよ」
悪意の人差し指がひとからそうと知られないように、唇の下の前歯を圧迫してくる。レアは反発の眼差しで受けて立った。
「それではただのお人形でしょう。わたしでなくとも務まります。……なぜ夫人が婚約されなかったのですか。わたしには浮気する王子さまを受け入れる覚悟はございませんでしたのに。あなたが彼を手に入れればよろしかった。反対でもされましたか」
夫人は手こそ挙げなかった。微笑みすらしている。だが、歯茎が潰れ、前歯が折れるのではないかというほど人差し指に力を入れられる。レアも負けるつもりは微塵もなかったので、ふいを突くつもりで小さく口を開き、リスのように人差し指を軽く噛んだ。笑みを含んだ上目遣いで夫人を見る。夫人は今度こそ満面に驚きを浮かべて、手を引っ込めた。
レアはもっと何かを言って、夫人を動揺させたくなった。もっと、何か……真実に近づける、何か。熱に浮かされたようにそれだけを考えたくなる。
「レア」
ダ―ヴィドが恐ろしいほど冷静な声音で名を呼んだ。レアは彼の表情に一瞬気を取られた。こんな顔もできるのかと。
「彼女に失礼だ、謝りなさい」
「え、ええ……」
何の葛藤もなくレアが謝る一方で、別のことを考えている。
(互いに互いを想いあわなければ恋人でないのなら、ダ―ヴィドと夫人は違う。でも少なくとも夫人は想う合うことを望んでいるということ。それはきっと……)
レアが邪魔者ということに変わりはない。心底つまらない結論だった。空気が悪くなるところにこれ以上いたところで仕方がない。早々に退散することを決め、ヨーナスとヴィルケを探す。だが二人とも人込みの中で見つけられない。移動したようだった。
シャンデリアの明かりが室内をきらびやかに彩った。屋敷の周りはすでに闇に沈んでいる。だがどこか優しい闇なのは、今日が満月だからだろう。
「ダ―ヴィド」
少し離れたところから、アンナ・レーナがやってきた。自分の息子の姿を頭の先から爪先まで眺め、夫人とレアにも気が付いて、息子と似た笑みを浮かべた。
「ダ―ヴィド。来たなら少しぐらいわたしに顔をみせて頂戴ね。わたしにはあなたの顔を見るぐらいしか楽しみがないのだもの。モーゼスさまのほうが早く挨拶されたのよ?」
「兄上はきっちりしているから。すごく忙しそうだったんじゃない?」
「お役目があるのだから仕方がないわ。私みたいな者にも気遣ってくださって、血は争えないわ」
「僕にだって、同じ血が流れているよ」
ダ―ヴィドはからかう調子で言う。まとった空気がふと柔らかくなる。彼は母親を大切にしている。それは誰の眼にも明らかで、普通の母親思いの青年を見る分にはレアが苛立つことはない。
「そうね、あなたも優しい子よ」
この間に夫人はそっとダ―ヴィドから離れて行った。レアも機会を逃さず、軽く頭を下げて、辞去の言葉を手短に述べ、その場を離れた。
気づけば楽団が用意され、フロアの中央ではダンスが始まっている。レアが見る限り、その輪に入らないところでヴィルケはウェイターから飲み物を受け取っており、ヨーナスはなんと、孫ほど年の違う令嬢とダンスをしていた。ヨーナスのほうが令嬢より背が低いので、ダンスする姿も、カメとウサギがダンスしているようだった。ひょうきんで愉快なおとぎ話の世界だ。カメの方が鈍重。政治家ヨーナス・ハイメクンは食えない人物だと方々で称されるが、一方で茶目っ気のある人だということも知られている。なんだかんだ言って、社交界に愛されているのだ。
レアと言えば、相も変わらず不躾な視線にさらされている。レアを見て、何かひそひそ話をしているのが、妙に気になってしまう。人気のないバルコニーに避難するべきだろう。
ヴィルケのいるところまでは遠いので、レアは近くの月を見に行くことにした。