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回想です。
婚約は公に発表され、レアの身辺がにわかに騒がしくなっている。記者たちが屋敷をぐるっと取り囲み、今話題の婚約者を写真に収めようと待ち構え、使用人たちはそれを追い払おうと躍起になっている。レアがもっと子どもだったころに見た風景と同じだった。ただ、あのときはヨーナスの首相辞任に対するもので、レアはほとんど他人事だったという違いはある。困ったことに、今の彼女は庭にさえ出られなかった。一回出たところ、塀を乗り越えようとしていた野次馬とうっかり目が合ってしまい、追いかけられそうになったから。
そのぐらい、この騒動は熱狂的であった。理由はひとつ。世間に出回っているレアの情報がごくわずかなものしかないということ。レアは全寮制の女学校に行かず、家庭教師を付けて勉強し、公の場に立つことはほとんどなかった。写真に至っては、数年前何かの式典でヨーナスとともに掲載されたものだけ。写真写りが最悪の、ふてくされたような顔をしているやつ。それが今やレアの「顔」になって、どの新聞や雑誌を見ても、不機嫌そうなレアを見ることができる。不細工、とヴィルケに笑われたが、レアはおおいに反論した。あなたが写真に写るときも、大体こんな感じよ、と。
ヴィルケが屋敷に来たのは、寄宿学校の夏の長期休暇中だったからで、それは彼が学校に入ってからの決まり事のようなものだった。それでもこの騒がしい時にいるということは、外に出られないレアの気晴らしになるからだろう。案の定、レアを何かと構ってくる。
祖父ヨーナスも屋敷にいた。政治家を引退した彼は道楽の延長で、首都郊外でブドウ畑を経営していたが、騒ぎを起こした主要人物のひとりとして、孫娘を励まそうという気持ちがあるようで、公式発表の前々日ぐらいからこの一週間ずっと滞在している。なにかするのかと思えば、何もしていなかった。レアが部屋を覗いたときには、教本を片手にチェスに興じているぐらい暇そうだった。ガリガリと葉巻を噛み、自家製ワインをちびちびと口に含みながら、ソファに沈んでいる。久々に屋敷がタバコ臭くなった。
父ステファンは騒動が続くのをわかっていたが、仕事を続行することを宣言した。仕事に誇りを持っているので仕方がないが、さすがに近頃は疲弊した顔を見せる。母タマラはこの逆境に燃えたらしく、夫の尻を叩きつつ、家の中だけでいかに充実した時間を過ごすかに頭脳を使っている。今は料理人と新作メニューの試作に勤しんでいる。
レアと言えば、ヴィルケと話をし、ヨーナスのチェスの相手を務め、ステファンを労い、タマラたちの料理の味見役をした。ヴィヴィアンの家に気軽に遊びにいけないことだけが難点というところだが、家族が多いだけ、充実した日々を送っている。屋敷の中ばかりが、今までと何も変わらない。
公表されてから一週間が経った。レアの元に一通の招待状が届く。開いて読んだレアは、書斎で書き物をしていたヨーナスの元を訪れた。招待を受けるか否かを尋ねるためである。祖父は老眼鏡を外して、レアを見上げた。
「わしが言わずとも、返事はわかっているな。招待主がそのお方ならば、レアに拒否権はない。おとなしく贈り物を用意しておくことだ」
「この方は、どんな贈り物なら喜ばれるの?」
さあな、とヨーナスは再び眼鏡をかけなおして、書き物に集中しようとしている。レアは遮った。
「おじい様。この方とお会いになったことがあるのでしょう、少しぐらい何かヒントをください。こういう誕生日パーティーのようなものに出席したことはないのだから」
しかもただの誕生日パーティーではなかった。ジリアクスでも指折りの名士たちが集まる誕生日パーティーで、招待主には決して粗相ができない。今年で四十五歳を迎えるそのご婦人は、レアにも大きな影響を与えうる人物なのだ。
ヨーナスは少し鬱陶しそうな目をした。
「わしはおまえをちゃんとした淑女として振る舞えるように教育したはずだ、レア。幼い頃はわしの傍でいろいろ学んだだろう……上手く真意を濁す言い方や、話を望むところへと導く方法、そつのない行動ができるコツも。さらに言えば、おまえにはわし譲りのスピーチ能力と度胸がある。わしに教えられることはぜんぶすでにおまえの中だ。だからわしはなにも言わん」
(おじいさま。言いにくいんだけれど、わたしは別におじいさまから何か学んだ自覚はないわ……そりゃあ、おじいさまの演説は聞いていたけれど。聞くだけで終わっちゃったし。スピーチしたのも観客はおじいさまひとりで、それは随分前のことなのよ)
それだって、別に政治の演説でもなくて、自分の好きな本について紹介しただけ。それでもヨーナスは大げさに手を叩いて、レアを褒めてくれたことは覚えている。
「自慢の孫娘と思ってくれるのは嬉しいのだけれど、いまはこんな微妙な時期なのよ。屋敷にいれば大丈夫だけれど、外にいったら周囲の視線が気になってしまうわ」
「さまざまな国際間の修羅場をくぐり抜けたヨーナス・ハイメクンの孫娘ともあろうものが、怖いと言っているのか?」
「それとこれとは話が別なのよ」
ヨーナスとレアの視線が火花のように交差する。どちらも負けるつもりが微塵もない、強い眼光である。
「いいや、別ではない。国際間の争いは今や戦争ただ一択というわけではないぞ。政治と社交が深く関わっている。我々が広くお客様を招いて夜会をすることにしたって、ひとつの外交だ」
レアにもヨーナスのいうことが理解できたから、一瞬言葉を詰まらせた。だが、一か八かでこう言った。
「話がすり替わってしまうわね。わたしが聞きたいのはね、おじいさま。この誕生日パーティーにわたしが一人で行かなくちゃならないのかどうかということだったの」
「当たり前だ」
まだ子どもだからって、誰かが同伴してくれるのではないかという淡い期待は粉々に砕けた。
「ダ―ヴィド王子殿下がこれからはおまえをエスコートするんだ。わしらは必要ないし、わしらも行くところでも、おまえは殿下の傍にいるべきだ」
「わたし、以前の食事会ぐらいしかしゃべったことないわ。それにしたって、話が合う感じでもなかったし」
「あれはおまえがすねただけだろうに。国王陛下もいらっしゃるところで、ぐずぐず泣く者がおるか、馬鹿者」
泣いてしまったのは申し訳なかったが、嫌なものは嫌だったのである。レアにはダ―ヴィドが好きになるとは思えなかった。ダ―ヴィドにしても同じ。レアのことを好きにならない。
「おじいさまがわたしに無体な婚約を強いたからじゃない。どこをどうみて、わたしと殿下が結婚相手として合うと思ったのよ。わたしが軽薄なひとが嫌いだって、おじいさま知らなかったの? そうじゃなくても、孫娘に顔と地位だけはとても立派だけれど、女たらしな人を勧めるだなんておかしいわ。上手くいくと思っていたの?」
ヨーナスが大きく息を吸った。説教前の一呼吸。深く椅子に座り直す。
「誰でも理想の相手と結婚できるわけではない。昨今の若者たちの中には自由恋愛だの、恋愛結婚だの言っている連中もおって、大衆小説では運命の相手だとかいう夢見がちな言葉がくどくどと書き連ねられておる。確かに世の中は少しずつ変わっておろうが、実際のところ、結婚事情はさほど変わらん。家同士が損か得かの話だ。わしはおまえをこの国でもっともよい家に嫁がせたかった。運命の相手などより、そっちのほうを取る。お互いにとって最良の相手は最善とは限らんということだ。……最良の相手じゃなくとも、どうしようもなく好意を持ってしまうこともある。まずは、好きになる努力をしてみることだ、レア」
祖父の言葉を咀嚼したが、レアはそれでも反発したくなった。レアにはヨーナスが自分の思い通りにならない孫娘を説き伏せるための耳触りのいい理屈を用いたと思ったのだ。
「それだと、わたしばかりが片思いで不公平ね」
「公平とか不公平とかの問題じゃない」
ぴしゃりと言われる。レアは祖父が不機嫌になっていることを感じ取った。そろそろ退出したほうがいいのかもしれない。
「おまえはまだまだ子どもだな」
「そうよ、わたしはまだ子どもなの」
レアの脳裏には食事会で出会ったダ―ヴィドの姿があった。レアの数年後を尋ねた時、臆面もなく、僕の奥さんになっているんじゃないかな、と言った彼。……あれは彼の嘘。微塵も信じていないし、そうなるとも思っていない。冗談のようなもの。それにレアを巻き込むほどには、ダ―ヴィドはなにも考えていない。これっぽっちも、真剣じゃなかった。
「子どもには、保護者が必要なの。いざとなると頼りになる身内がいれば、頼りたい。……お願いよ、おじいさま。殿下とはそのうちちゃんとお話しするから」
ヨーナスはしばらく考えていたようだったが、仕方がないというため息とともに、
「わかった。今回わしは遠慮しようと思っていたが、挨拶をしにいこう。アンナ・レーナさまとは親戚になる間柄だからな。ただし、条件を付けよう。一つ目は大したことではないが、ヴィルケも連れていくこと。上流階級に今から顔を出しておくのも悪くないし、将来の仕事への縁になるやもしれんからな。二つ目は、レア、誕生日パーティー中に一度は殿下と二人で話してきなさい。これが守れないようなら、何が何でも殿下にエスコートを頼むがどうする」
レアは即答する。
「条件をのむわ」
招待主の名はアンナ・レーナ。ほかでもない、カネルヴァ公ダ―ヴィドの母親であり、王妃亡き後、この国でもっとも地位の高い女性のひとりとされていて……レアの姑になるかもしれないひとだった。