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――逃げろ、レア。


「言われなくとも!」


 ヴァルハマの言葉でレアは飛ぶように駆け出した。空飛ぶブタよりも軽やかに、羽根よりは快く。緑の生垣の間をむちゃくちゃに通り抜けていく。

 行く先々のバラが眼を覚まし、口々にレアを罵る。低い声、甲高い声、かすれ声。絶えることなく前から後ろから、レアを追いかけて、追い越した。


「なんなのよ、あんた」

「美人でもないくせに」

「好きでもないくせに」

「貴族でもないくせに」

「わたしのほうがずっと愛してる」

「嫌いなら渡して」

「許さない」

「王子の妃にふさわしくない」

「どうして、あんたなの」

「殺してやりたい」

「レア・ハイメクンは死ねばいい」


 レアも負けじと言い返す。


「わたしだって、不本意だわ! 美人でもないし、あの男は好きじゃない。たしかに貴族じゃないわ! あなたの気持ちなんて知らないし、あげられるものならあげるわよ! 許さなくてもけっこうだわ! 妃にふさわしくないのもとっくに承知よ! 選ばれたわけはわたしの方が知りたいわ! わたしを殺す前に自分の身を大事にすることね! レア・ハイメクンは……っ、死にたくない!」


 迷路庭園は永遠に続いている。バラの罵倒も長く続いた。でも、段々と声が、口調が変化していく。


「あんたみたいな女は悪い生き物だ」

「ほんとうに可愛い女は、こちらにすり寄ってくるネコのような女だよ」

「おれは男慣れしていないのはゴメンだね」

「遊びだと割り切った付き合いができないと」

「結婚は感情抜きの契約じゃないか」

「つまらん女と婚約させられたものだな」

「わたしなら、遊ぶのもいやになる」

「ハズレだ、ハズレ」

「おいおいおい。この女を見て、笑えばいいのか。笑えない冗談だ」


 走っていたレアの眉がぴんと吊り上がった。


「ちょっと黙って聞いていたら!」


 レアは乱暴にそこらにあった一輪のバラを握りつぶした。はらはらと花びらが落ち、触った拍子に、指先が切れた。


「やったわね!」

「無礼な娘だ!」


 左右からバラの声が飛ぶ。レアはそれらもまたたくまに潰してしまった。手のひらにも傷が走った。


「うるさい。みんな不快だわ。いつまで経っても同じことを繰り返して」


 違う。彼らは今初めてレアに出会っただけ。レアが「みんな」と言ったのは、過去の人々だ。よってたかって、レアの心にバラのトゲを突き刺したのはこのバラじゃない。


「なにも知らないくせに、なにも聞こえてないくせに、えらそうなことばかり言わないで!」


――それはどちらかな。


 一瞬、ヴァルハマが言ったかと思った。だが、この声はヴァルハマじゃない。バラの囁きに紛れて、レアの探し人の声が響いた気がしたのだ。空耳でも、この言葉を言ったのは、ダ―ヴィドなのだろう。

 レアは一度止めた足を動かそうとして、転んだ。ローヒールの靴が蔓のようなものに引っかかっていた。


「だめな子にはお仕置きがいるわね」

 バラの声が頭上から降ってくる。レアは蔓を外そうともがいたが、それはますます運動を知らないか細い足首を締め上げた。しゅるしゅると生垣から蔓が伸びてくる。一つは自由だった左足へ、一つは蔓を外そうとした両手首へ別々に伸びた。

 大きく手足が広げられた形で、宙に浮く。両脇にいたバラが鬱蒼と笑っていた。


「あんたには自由はいらないのよ」

「なんですって」


 レアは歯噛みして、失礼なことを言うバラに向かって手を伸ばそうとしたが、痛々しいほどの力で空中に縫い止められてしまった。そのままどこかへと体ごと引きずられていく。


(ぜんぶ言いがかりじゃない……! もっと広い心を持ったらどうよ、せせこましいわ!)


 淑女らしからぬ抵抗ぶりをみせても、蔓はけっして彼女を放さない。操られなければ生きられないマリオネットになった気分だった。


「ヴァルハマ!」


 ややあって、不満そうな声が頭に響く。


――私を便利な案内人かなにかと勘違いしているようだがね、私がいつまでも君のところへ意志を飛ばせるとは限らないよ。


「わかっているわよ」


――金の糸が切れたら、私と君はそれまでだ。君はひとりで底まで行かなくてはならないし、自力で帰ってこなければならない。そして、帰す手段を持っているのは、この世界の主、ダーヴィドの本心だけだということを忘れるな。


「わかってる……と、言いたかったけれど、今初めて知る事実が混ざってるよね。わたしはどっちみち底のほうまで行かないと帰れないわけ? 引き返せないって? あなた、そんな大事なことをもっと早く言うべきじゃない!」


――海の中で世界をひっくり返るまでは、私の力を使えば戻れたかもしれないが、もうここまで来たら腹をくくるしかないだろう。


「つまり確信犯ってことよね……!」


 レアは頭を抱えたくなった。帰れる手段があったなら、間違いなく帰りたいと訴えていたのに!


「帰ったら絶対文句言いにいってやるわ!」


――残念だが、わたしはこの仕事を最後に引退するつもりでね、君が押しかけることもできないところへ雲隠れするつもりだ。文句は受け付けない。それに君もあまりに不思議なことに出会いすぎて、夢だと思って忘れてしまうかもしれない。


「ぜったい、忘れたりなんかしない。〈魔法使い〉だかなんだか知らないけれど、人を陥れちゃいけませんって誰かから教わらなかったの?」


 ヴァルハマは霧深い山脈に住む賢者のような声で返した。


――さて、親から教わったところで、何人の子どもたちがそれを守れるだろうね。


 レアはぐう、と押し黙った。


――ひとは何千年経とうともちっとも利口になれない種族だよ、レア。


「そうかもしれないけど……」


 彼女が反論しかけたとき、うつむけていた顔をふと上げる。軽快なアコーディオンの音色が彼女を誘っていた。馬が駆け、蝶が舞い、ひとが思わずダンスのステップを踏む陽気な旋律。高尚なのではなく、庶民の酒場で聞かれるような、親しみやすいが安い曲だ。


 どこからかわからないが、レアの体を縛った蔓はまっすぐそちらに向かっているようだった。一度も行き止まりにならずに、すいすいと角を曲がっていく。しかも、迷路庭園の向こうにあるものを初めて目にすることになった。ゆっくりと回っていく、風車だった。しかも新鮮な血で塗られたように、下品な赤さを持った風車である。


 アコーディオンの音はますます近くなっていく。蔓に運ばれたレアが庭園を抜けて、辿りついたのは、やはり赤い風車であった。風車の根元には、くりぬかれたような黒い横穴があった。穴の上には、〈幸福の館〉と彫られている。見るからにあやしげ。しかも、蔓はその中へとレアを引っ張っていこうとしていた。もちろん、彼女も暴れたが、自分を苦しめるだけだった。化け物が大きく口を開けているような闇の中をとうとうくぐった。

 アコーディオンの演奏がぴたりとやむ。静寂がねっとりとレアの体を這いまわった。何もない、誰も言わない。レアは耐えられないと思った。何でもいいから口走りたいという欲求がむくむくと出てくる。


「ようこそ!」


 うきうきとした甲高い声と目を射るような強い照明が彼女の意志を断ち切らせた。


「ようこそ、ようこそ、ようこそ!」


 レアは演劇の舞台のようなところに立っていた。声を上げていたのは、派手に飾りたてた左右の女たち。横顔はみんな、笑顔、笑顔、笑顔……。固まった、笑顔だった。むせるような香水の香りが急に鼻につき始める。

 観客たちは薄暗闇の中で蠢いていた。だがそれぞれに丸テーブルを囲んで、なにか愉快なことが起こるのを知っているかのように、舞台を注視している。ひときわ強いスポットライトを浴びたレアは戸惑った。いつの間にか変わっていた自分の恰好を見下ろして、また戸惑う。


(なに、このドレス、すごく裾が短くて、ペチコートが丸見えになってる。ブレスレットも首飾りもすごく無意味にジャラジャラしてる)


「〈幸福の館〉にようこそ!」


 左右にいた女たちはこの間にも観客に呼びかけていた。


「紳士の皆様方。今晩も月の見えぬ夜なのよ。けれど、月はなくとも、星のようなあたしたちがいる! 良い夢を見るために、あたしたちも精一杯ご奉仕してあげる! それに今日は特別な踊り子がいるの。彼女も皆様の寂しい夜を慰めてあげるためにここに来たわ! ――その名も、レア・ハイメクン!」

「えっ?」


 名前が呼ばれたことに反応したが、なんのことやらわからない。なのに、身体は勝手に動いた。淑女ぶった仕草で、裾を両手でつまみ、お辞儀する。彼女の意志はどこにもなかった。疑問はすぐに溶けた。

 さきほどまで彼女を縛っていた蔓が忽然と姿を消した代わりに、天井からつり下げられた細い糸がその四肢を縛っていて、無理やり動かしていたのだ。


「今晩、この新たな踊り子を買うのはいったい誰かしら! もちろん、あたしたちのことも忘れないでよね! 青々しい果実よりも、熟したもののほうが美味しいのよ! でももちろん、あたしたちの踊りを見て決めてよね!」

「では、始めましょう!」


 合図とともに、アコーディオンの演奏が始まった。続いて、ラッパとピアノが入ってくる。壁に心臓をぶつけたようなショッキングな曲だった。レアの知る限り、もっとも不徳で、猥雑で、下品な旋律。ひとに媚びていることがまるわかりで、レアが血を吐くほど嫌な気分になる。ほんとうはまんじりとも動きたくない。でも、身体は好き勝手にステップを踏むし、白いペチコートを見せつけるように、高く足を上げて、腰を振り、胸を強調するように客席に前のめりになる。なにもできないことが歯ぎしりするほど悔しくて、彼女の顔は真っ赤を通り越して、赤黒くなる。


「ほらほら、緊張しないで! 笑顔になるのよ、笑顔にね!」


 左右にいた踊り子が踊らされているレアの肩に手を回し、レアも女たちの肩に手を回された。ラッパがパァパァ、と派手に鳴るのに合わせて、右足、左足、右足、と腰より高く足が上がる。しかも示し合わせたように角度も同じで、揃った動きだった。極め付きは判を押したように同じような笑顔たちだ。


「さあさあ、あたしたちはいかが! お好きなものを召し上がれ!」


 その言葉を合図にして、テーブルについていた観客たちがだんだんと舞台へ近づいてくる。わらわらと、アリが目の前の餌を目指して、集団でやってくるように。彼らが付けているらしいコロンの匂いと、彼女たちの汗と香水の香りが気味悪く混じり、銀の弾丸よりも重くレアにのしかかってきて、逃げ出したかった。

 ひとりの観客が一番端の踊り子の手を引っ張った。きゃあ、と楽しげな声を上げた彼女は舞台を降りて、店の奥に消えていってしまう。また、ひとり、同じようにして消えていく。

 その流れが元々わかっていたかのように、演奏者の見えないアコーディオンの音色は止まない。

 両端から踊り子たちが連れて行かれた。櫛の歯が順序よく折られていくように、肩を組んでいた踊り子たちが欠けていく。


「さあ、最後はあなたの番ね」


 最後に消えていった踊り子がそう耳元で囁いた。レアはひとりきりになって、踊っている。

 観客らしき人影は見えなかった。


(誰もいなくてよかった……。だって、もしも「買われた」としたら)


 「買われる」だなんて、レアの仕事ではない。警戒した中にも、わずかな安堵が混じる。曲はフィナーレを迎え、四肢の糸は彼女に大きなジャンプとターンを繰り返させた。そして、ついに大きく胸を張ったポーズで終わる。


「終わった。終わったのよね、ヴァルハマ……」


 さきほどから不在を決め込む〈魔法使い〉に確かめるように、弾んだ息のまま尋ねた。

 だがヴァルハマが答える前に、こつこつ、とレアを追い詰めるような靴音がした。わけもわからないまま、レアの手を誰かが掴む。舞台から降ろそうとしている。


「やめて! わたしは買えないわ、売ってもない!」


 体と言葉はまるで矛盾している。レアは相手にしだれかかっていた。媚びを含めた甘えた仕草で、レアは心底嫌っているというのに。


 レアを「買おう」としたのは、シルクハットをかぶり、目鼻だけぽっかりと穴が空いている白い仮面を付けた男だった。白だけ異様に浮きだっていた。唯一自分に従順な表情と口で、拒否を訴えたが、彼はなんらレアを気に留めやしなかった。レアの手を掴んでいない方の手が、レアの頬に触れ、首に触れ、肩、腰と輪郭をなぞった。身震いするほどの悪寒が走る。


「触らないで! ぜったいいや! やめてやめてやめて!」


 と。レアの手も動く。男のシルクハットを遠くに投げ捨てて、その白い仮面に手をかけた。男の顔が現われる。不敵な笑みで、レアを挑戦的に見詰めていた。レアは反射的に泣きそうになった。


「君は覚えているかな」


 古い納屋にいるムカデが人の声を得たような、乾いた執念深さがうかがえる声だった。


「あの夜のこと。同じように君は震えて、僕を拒絶したね」

「やめて!」


 彼女はもう一度懇願した。


「あなたが覚えているとしても、その相手はわたしじゃない! あなたが泣かせたのは、わたしではなくて、べつの誰かだった!」

「君は君でしかないよ」


 前髪がかきあげられて、そのまま頭を撫でられる。レアは、彼が一時期だけしきりにそうしたがったことをぼんやりと思いだした。はて、それはいつのころだったか。胸が痛くなる。


「そして僕はそんな君を、きっと愛している」

「嘘つき」


 どんな淡い期待も壊れてしまうのだと知っていれば、レアは落胆も絶望もすることはない。レアは自分を守るために、そうしようと決めたのに彼は許さないと言いたげだ。


「君は僕のものになるんだ」


 彼はそう言って、その綺麗な顔をレアのものに近づけようとする。レアは震えながらも毅然として答えた。


「ぜったいにならないわ。あなたがわたしの身体を縛ろうとも、わたしの心は自由なのよ……ダ―ヴィド!」


 唇が触れあいそうになる一瞬。何かが切れた音がする。ぽん、と空間が割れた風船のようにはじけ飛んだ。いや違う。レアはまた落ちている。上を見れば、遠く頭上に四角い光が見えた。さきほどまでいたステージの照明の色だった。


(ああ、そうか。これは奈落なのだわ)


 レアは無意識のうちに手の甲で唇を強く押さえていた。触れていないと思っていても、心配になっている自分がいた。


「ヴァルハマ。いる?」


 手首に巻かれた頼りない糸に向かって呼びかける。


――いるよ。


 レアはどこまでヴァルハマが「見た」か、本当はものすごく知りたかった。


「さっきの話、聞いていたかもしれないけれど、なにも聞かないで」

 


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