11
ゼリーの層から生まれたての仔馬のようにずるりとひんやりした空気にさらされた。どん、とおしりから派手に着地する。
「い、痛い……」
おしりをさすりながら立ち上がろうとすると、片手が柔らかな芝生についた。周囲は生垣になっているようで、向こうは見渡せないほど高さがある。バラの生垣になっているようで、ぽつんぽつんと赤いバラがついている。だが気味悪いことにその花びらの重なりが不思議と人の顔に見えて、レアはそっと視線を外した。つぎに自分が落ちてきた空を見上げると、そこはきらきらとこちらにまで光が届く浅い海底のようになっていた。でもレアは普通に息が出来ている。急にエラ呼吸が可能になったということでもない。
(なんと妙な……今更だけど)
レアは歩き回ることにした。人の顔のようなバラが散らばっているほかは、手入れの行き届いた素晴らしい生垣である。ただ常に道が細くて、道がいくつもわかれているのを見る限り、迷路庭園となっているようだった。
行き止まりになって、レアは立ち止まった。手首に巻かれた金の糸の先は、空気に溶けているように見えない。
「ヴァルハマ」
少しの沈黙のあと、呼びかけた人物が頭の中で応えた。
――私だって、ここがどんなところかわからないさ。
ヴァルハマはレアの疑問を先回りした。出鼻をくじかれたレアはなおもごにょごにょと口を動かす。
「ほら……わたしとあなたじゃ、経験の差があるでしょうし、なにかわかることはあるんじゃないかしら。だってさっきは……助けてもらったもの」
ヴァルハマがいなかったら、勧められたまま食べていたかもしれない。今まで状況が状況であっただけに敬語も使わないで雑な扱い方をしていたレアだったが、ちょっと心を改めようという気分になってきた。
――べつにあらたまる必要もないがね。思考と実際の口調に差が出てしまうほうが逆に嫌な気分になるよ。
「そうなんだ」
――さきほどのことだが、君を通してここを眺めるうちに、この心の世界を形成する構造が見えてきている。君が聞いたところでやることは変わらないから、言うこともないだろうと思っていたが……。
「言って」
レアが即答すると、ふっと笑ったような気配がして、
――わかったよ。
夢の中で見た時の、不幸を背負ったような陰鬱な表情を覚えていたレアは、ヴァルハマが現実世界でどんな顔でわかったよ、と言ったのか少しだけ気になった。
ヴァルハマは淡々と続けた。
――君がここまで来た道順は、ここまでで空、海、そして今の庭園となっている。君がこの間移動するときは、いつも「下に落ちていた」。ここは地層のように何層も下から上へ積みあがっているような構造になっているというわけだ。だから、君が深奥に行くには、どれだけの層かわからないが、その分だけ下に落ちなくてはならないんだ。
ミルフィーユみたい。レアは食べられなかったスイーツを思いだしたが、すぐさま想像を振り払った。
「だったら、どこまで行ったら終わり?」
――さて……ミルフィーユほどじゃないことを祈るほかない。そこまで行くと、時間がかかりすぎる。
「ミルフィーユは困る」
さもなくば、さっくりとフォークで縦に割れてほしい。
「なにはともあれ、またさまようしかないってことよね」
ヴァルハマの返事を待たずにせかせか歩き始めた。かなりあてずっぽうだが、進まないよりはまし。
(こんなところに迷路があるだなんて、あの男らしい。ひとを迷わせといて、本音をちっとも言わないところとか。だからいつまで経っても出口にたどりつかないことになる。さすがに今回は用意してほしいけれど)
壁伝いに行けば、時間がかかろうともいずれ出られることはレアも知るところではあったが、どのくらいの規模かわからないし、ここでそんな常識が通じるとも限らない。
そのようなことを考えていたら、唐突に開けた場所に出る。生垣が円のように取り囲み、真ん中には水流さかんな噴水がある。レアは休息所だと理解した。噴水の縁がちょうど座りやすい位置にあったからだった。ちょっと休憩、と腰を下ろす。とたんに動きたくなくなった。肩にかかる重みがましたような気がする。
(なんでわたしはこんなところにいるのかしら)
なんのためにここにいるのだったか。ダーヴィドを助けるため、と言うのは簡単でも、なかなかどうして難しくて、疲れることなのだろう。こんなことは望んでいなかった。
(どうしてまたわたしを巻き込むの、ダーヴィド。死ぬなら、手の届かないところで勝手に死んでいてほしかった)
「ねえ、ヴァルハマ。……ここに連れてくるのは、わたしじゃなくてもよかったんじゃない? 陛下のご命令のことは抜きにして考えてみると。きっと、わたしより熱心になってくれる慈愛精神にあふれたひとがいるんじゃないの」
――婚約者は君しかいない。陛下は君がダーヴィドを助けられる存在だと思っておられる。
レアの口からあまりにも不敬な罵倒が出てきそうで、言葉を飲み込んだ。
「国王陛下は以前からわたしのことをかいかぶりすぎだわ。子どもがぜんぶ親の思うとおりにはならないのにね。たとえ強制できたとしても、気持ちなんておいてけぼりよ」
レアの家では祖父が絶対的君主で、父はそれに従順だった。母もその父のいうことを尊重する。ヨーナスは滅多にその強権を発動することはなかったが、家族を左右する重要な出来事の決定には彼の意志が優先される。レアがダーヴィドとの婚約を破棄できないのも、ヨーナスがそれを望まなかったからでもある。
「わたしはたぶん、ダーヴィドを取り巻く女性たちのなかで一番薄情な人間だと思う。最悪の人選じゃないかしら。たとえば彼を熱烈に愛する女性だったら、わたし以上に積極的に追いかけて、うまくいけばこのどさくさにまぎれて、ダーヴィドに永遠の愛とやらを誓わせることもできるんじゃないかしら。……なんだかイラッとする結末ね」
たくさんのひとを傷つけておきながら、自分だけしれっと幸せになる物語は、小説の中でもまっぴらだ。
「イラっとするからこれでよかった、と思っておこうかしら」
勝手に自己完結して、今度はしっかりと二本の足で立ち上がった。
「さ、行きましょう、ヴァルハ……ひゃっ」
レアは小さく悲鳴を上げて、噴水から飛びのいた。ズボンのお尻の部分がべっちょりと濡れている。
(いや、海で濡れていて、で、ここに落ちてきたときには乾いていて……また濡れた?)
内心で首をかしげていると、またお尻めがけて水が発射される。天に向かって噴き上げているはずの噴水がどうしてか意志を持っているかのようにレアのお尻を狙っている。レアは慌てて、噴水と向かい合った。
水音ばかりが響く。レアはおもむろにくるりと身体を反転させる。するとやっぱり、べっちょりとお尻が濡れる。レアが見ると、攻撃がぱたりとやむ。水鉄砲を持った子どもを相手にしているようだった。なんどか繰り返して、自分の予想の正しさを知ったレアは、噴水にお尻を向けないようにしながら、そろりそろりと背後に後退する。かさっ。背中が生垣に触れる。
「痛いじゃないのよ、あんた」
レアのものじゃない声だった。レアは生垣から少し離れて、首だけ後ろにひねった。
バラがつん、と唇をとがらせながら文句を言っていた。目も鼻も口も全部花びらだった。形作られたのは、女の顔である。
「あんた、あんたなのよ、あんた! そこの黒髪の地味な女よ!」
レアが自分を指差すと、一輪のバラは年配の女性があたりまえじゃない、と息子や娘に常識を言い聞かせるときのような顔をする。
「あんたが身体を押し付けたせいで、せっかくセットした髪型がぐちゃぐちゃになったの! おまけにあんたの体ってちくちくしていてこっちがかゆくなるの! どうしてくれるのよ!」
「えーと……わたしはどこからつっこむべきかしら」
「つっこむよりも謝って!」
「ごめんなさい」
「謝罪が軽いわ!」
「ほんとうに申し訳ないと思っているわ」
「嘘つき!」
ちゃんと謝ったのに、心外だ。レアはため息をついて、再び迷路に戻ろうとする。時間の無駄だった。
「絶対に許さないんだから、許さない!」
バラのわめいている声が遠くになっていく。
「これで終わりだなんて思わないで! わたしはどこまでもいける! このまま追いかけて……」
聞こえなくなった。
「なんなのよ、もう……謝ったのに」
そのようなことを言っているうちにまた行き止まりについた。ちょうどレアの顔の高さに赤いバラが咲いている。やっぱり人の顔のよう。注意してみる。レアは眼を瞠った。
花びらがぬるりと動いて、ちょうど開いた隙間の濃い闇が黒目のようにぎょろりと現れる。
「言ったでしょ、終わりじゃないって。わたしは受けた屈辱をけして忘れやしないわ、レア……。追いかけて、追いかけて」
狂ったようにささやいた。
――逃げろ、レア。