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回想です。
他人行儀に挨拶をしたことはあっても、個人的な話をしたのは初めてだった。
レアの婚約者になるのだという人の名は、カネルヴァ公ダ―ヴィド。ジリアクスの第二王子で、十八才。庶出ではあって、王位継承権は持たなかったが、王子としてありあまる自由と富を得ていた、華やかな世界で生きる人。すでに社交界でも若き貴公子としての呼び声も高いと聞いている。同時に彼を取り巻く恋愛事情もつねにひっきりなしに人の話題に上っていた。レアもその手の話題が好きなヴィヴィアンあたりから漏れ聞くことも多かった。あんな完璧な王子さまのお相手になってみたいわ、という羨望を含んだものであったが。十四才の割には、ヴィヴィアンはませていた。レアのような友人の前でもなかなかに熱烈なキスをできるぐらいには大人だった。
王宮の食卓についていたレアはすでに数百年生きた老婆のようにげっそりとした顔で、ホウレンソウの冷製スープに口を付けた。
(ヴィヴィアン……本当に、あなたに代わってあげてもいいわよ。わたしはもうダメ。胃が痛い。吐きそう)
理由は三つあった。一つはレアがいるのは王宮で、食卓には国王とレアの祖父と両親もいること。二つ目は、目の前に優雅にスープに手を付けているダ―ヴィドがいること。三つ目は、そのダ―ヴィドがいちいちなれなれしく話しかけてくること。
(どうか親切心があるのなら、わたしに洗面器を差し出して。今ならあらゆる意味でぶちまけられるから)
冷製スープは元々好きではなかったので、胃に入るたびにひやっと身体が冷やされている気がして、レアは慄いていた。ひたすら粗相のないように、と思いながら、ダーヴィドの空っぽの言葉を受け流す。
祖父は国王と難しい政治談義をしていたし、両親は最初のほうこそレアの方を心配そうに見ていたが、ダーヴィドがレアに積極的に話しかけているのに安心したのか、祖父と国王たちの話に集中しているようだった。誰もレアの気持ちをわかってくれない。
ふと終始明るく話していたダーヴィドが笑顔のまま声だけ潜めた。
「君はこの婚約に乗り気じゃないのかな」
「え、えっと……」
図星だったから、言葉を詰まらせる。視線を落として緑のどろどろした液体物を見た。いやいやスプーンですくっている自分がいる。
「そうですね……結婚と言っても、わたしには急に降ってわいたような話です。戸惑っていないというと、嘘になります。まだ実感もなにもなくて」
レアは建前としてそう答えた。祖父にも散々言われていたのだ、過ぎた言葉を言うことはなかれ、自分の首を絞めることになるのだと。
それはきっと正しい。レアが心のままに何かを言うと、いつも誰かを怒らせた。レアの言葉は率直すぎるのだという。
「殿下こそ、この婚約は不本意ではありませんか。わたしは殿下より四つも年下で、殿下からすれば子どもそのものでしょう」
深く追求されないうちに、相手に聞き返した。そうでもないよ、と彼は気にした風でもなく、首をかしげた。
「きっと結婚するまでには君も大人になっているからね。素敵な花嫁衣裳を着られるようになるよ」
レアは絶妙に論点をずらした王子をそっと盗み見る。
(このひとだって、婚約は不本意なことだったのだわ……そりゃ、こんなに顔がいい王子さまだもの。女のひとだって、放っておくはずがないわ)
レアは互いの気持ちの冷淡さを確かめて、胸の中の重石をそっと下ろした。自分が相手にされないだろうことはわかっていても、やはり少し落ち込む。自分に魅力がないことに落ち込むのだ。
「ちょっと、数年後だなんて想像がつきませんね。どうなっているのでしょうね」
場繋ぎのような言葉だった。でも王子はさらりとこう告げる。
「僕の隣で奥さんをしているんじゃないかな」
レアはあっけに取られたが、じわじわと羞恥心のようなものが足元から這い上がってきた。朝焼けのようにほんのり染まった顔。きりりと唇が引き結ばれる。
「ひどい」
抑えきれない唸りが口から漏れる。婚約者同士の交流の場として設けられた席で、こんなことは言いたくはなかった。裏切りを受けた敗者そのもののぶざまな一言だった。
「レア」
ヨーナスが胡乱な視線を向けていた。レアが祖父を見たとき、一緒に視界に映っていた国王や両親が驚いた顔をしていた。
なにか、と穏やかな顔をした国王が口火を切った。
「愚息が、君を泣かせるような真似をしましたか」
緑のスープにぼたぼたと涙を落としていたレアは首を振る。
「申し訳ございません。……目にゴミが入っていたようです」
ナプキンで目の端をぬぐう。正面のダ―ヴィドは不思議そうな顔をして尋ねた。
「なぜ、ひどい、と」
レアは答えを拒否するように何度も首を横に振った。言えば、自分が惨めになるような気がした。
十四才にして知ってしまったのだ。物語の中の幻想の王子さまのほうが、何万倍も誠実だということを。
(ぜったい、絶対に……わたしはこのひとに心を許しはしない。こんなひと、好きにならない。周りがどんなにこのひとに魅了されたって、わたしは、こんなずるいひとの餌食にならない)
レアは二度とダ―ヴィドのために泣きたくないと思った。