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――君っておせっかいだと言われないかね。


 「ふたりっきり」になったら、またヴァルハマが話しかけてくる。彼はレアが誰かと話していたりするとうんともすんとも言わない。レアがひとりだったり、ひとりでなにかを考えているときだけ、その心に空いたちょっとした隙間に割り込んでくる。邪魔されないだけマシなのか、それともすぐに離れてしまう薄情者なのかはレアにもわからなかった。ただひとりだけで放り出されるよりは何百倍も嬉しい。


「おせっかいって言うほどそんなに首を突っ込んだことはないわよ。どこからわたしをそんなふうに思ったの」


 レアには身の覚えがなかった。この時、泳ぎがお留守になったが、溺れなかった。足元に何やら弾力のある柔らかいものが当たっているような感触があって、立ち上がったような姿勢を取れたのだ。海面はレアの肩ぐらい。このまま歩いて行けるだろう。


――嫌いだと思っている婚約者のために懸命になっている。


「本当よね。なんであの蜂蜜男なんかのために必死になってるのかしら。滑稽だわ。わたし、自分をいいひとだなんてちっとも思っていないのに、こんないいひとぶった真似をして。……でも、生死がかかってるなら。きっとそれだけで理由は十分なのだわ」


――たとえ、彼が君に何をしたとしても、か。


 ヴァルハマはレアの記憶をすべて知っているのだろうか。レアの脳裏に一瞬、そんな疑問が駆けていくが、それがヴァルハマに悟られたかは定かではなかった。ヴァルハマが人の心のどこまでを把握できるかわからなかった。


「わたしはもうそんなにやわじゃない。ダ―ヴィドなんかに心動かされないわ……」


 レアは過去の幻影を振り払うように、決然とした瞳で前へずんずんと進む。人影の性別がわかる程度に近づいた。影は三つ。パラソルを差した女二人と、男一人だ。


「〈魔法使い〉っていうのは、頼まれもしなくても心を癒すのかしら」


 嫌みたらしく言ってみる。


「とっても親切さんなのね!」


――心というものは私にとっては読み解かれたくて飛び込んでくるものだ。これは否が応でもで、避けられない。しかもそのビジョンが自分にとって不快なものだったらそれを消したいと考えるだろう。〈魔法使い〉が人を癒すのは、心に勝手に入り込んでくる雑音を少しでも減らして平穏を得ようとするから。人と会うのを避け、かつ自分の身を守ろうとするなら、権力者に抱えてもらうのがいい。歴史上には美談のように語られているかもしれないがね、わたしたちと権力者の関係というのはどちらにもうまみがあってそうしているだけ。結局はわたしも自分の都合で動いている部分もある。治療だろうとそうでなかろうとも、君が気にする必要がない。あまり深く考えれば考えるだけ、君の思考が私に届きやすくなるだけだね。


「ふうん。私の思考ってどのくらい届いているの。全部筒抜け?」


 ふと不自然な沈黙が落ちた。何事かを考えているのかもしれないが、不思議と今まで感じていた安堵感が消え去った代わりに不安がやってきたような沈黙だった。レアは手首を上げた。金の糸が巻かれている。ただ海に続く、その輝きがなんだかか細いものに見えた。


――君は大体、考えていることと話していることに矛盾がないし、君が思っているほど多くのことは届いていない。もちろん、私のほうから知ろうと手を伸ばさないこともあってのことだが。


 ヴァルハマがごく普通の調子で答える。空白の時間がなかったみたいだった。声が少しだけ遠くに聞こえる。なんだか怖くなった。


――怖がっているね。


 ややあって思考に声が追いかけてきても、レアは、今度は答えなかった。


 とうとう舟で向かい合った男一人と女二人の横顔がわかるところまで来た。楽しそうに笑っている。それぞれ同じドレスを着て、同じパラソルを差している女たちは判を押したように同じ顔だった。男は外出着にジャケットだけを抜いた格好で、オールを漕いでいる。


 レアが近づくにつれて、三人は揃って彼女を見た。笑みが消えている。


「あら、溺れているわ」

「溺れているわね」

「溺れてしまったんだね」


 彼らは口々に言いながら、舟べりに掴まるレアを見下ろした。彼らからすればレアはよそ者だから仕方がないだろうが、もう少し愛想よくしてほしいものだ。


(せめて、舟の上に引き上げてくれるとか……溺れていなくても、海に投げ出されているんだから、助けてくれてもいいんじゃないかしら)


 ここまで来るのにさすがに疲れていたが、レアは気を取り直して、こんにちは、と当たり障りないあいさつを述べた。人数と同じだけの「こんにちは」が返ってきた。


「あなた方はこちらで何をしているの?」

「舟に乗っているのさ」


 男が言った。まったく印象に残らない凡人中の凡人のような顔立ちだった。


「楽しいおしゃべりもしてる。ね、イチゴ、ニゴ」


 左にいたイチゴと呼ばれた彼女がくすくすと嘘くさく笑う。


「タマゴが先か、ニワトリが先か。はたまた同時だったのか。ミルフィーユみたいなの。めくってもめくっても、変わり映えしなくて。フォークを縦に入れなくちゃ、ミルフィーユにはならない」


 ニゴはまるでカナリアがさえずるように、


「だったらガトーショコラを食べましょう」


 膝の上に、ガトーショコラののった皿がぽんと出てくる。膝の上に乗せて、優雅にフォークでひとすくい。おいしい、おいしい、と食べている。


「だったらこちらはミルフィーユ」


 イチゴのところにもミルフィーユが現われた。

 男は呆れたように言う。


「おいおい、僕の相手もしてくれよ。つまらない。お客さんもいるんだからな」


 二人の女は互いに目を合わせてから、レアの顔を覗き込もうとした。舟が揺れる。


「お嬢さん、あなたも食べられたいの、この人みたいに」


 イチゴが男を指差しながら不思議そうにそう言い、ニゴがレアの頬にそっと手のひらを滑り込ませて、


「でも見て、このほっぺた。ぷにぷにしてる。どんなに口当たりのいいブラマンジェでもこうはいかないわ。美味しそうな子よね」

「……食べられないわよ」


 会話の要領が得ないぶんだけ、不機嫌になったレアはそれだけ言った。

 女たちはそれを見て、くすくすと笑いあって、無邪気な調子で、


「なら、ミルフィーユはお好き?」

「ガトーショコラはお好き?」


 そう言って、二つの皿をレアの鼻先に突きつけた。


「お腹すいているでしょう。どうぞ」


 ニゴの言葉につられて、レアはまじまじと皿を眺める。一流のパティシエがつくったのだとわかる、芸術的なミルフィーユとガトーショコラ。レアが猛烈に空腹を感じた。ぐうぐうと鳴り始める。レアは顔を赤くした。


「やっぱりお腹がすいていたのね。召し上がれ」


 と、イチゴ。


(うぅ……確かに美味しそう。わたしも甘いもの好きだし、こんなに美味しそうなミルフィーユとガトーショコラは初めてだし。一口ぐらいもらってもいいかしら)


 舟のへりに掴まっていたはずの右手がそろそろと差し出されたケーキに伸ばされて、どちらにしようか迷い始めたその時、ヴァルハマの声が飛ぶ。


――レア、食べるな。取り込まれるぞ。


「え、なにに?」


 レアは驚いて、手を止めた。


――ここのものを口にしたら最後、君もそこの住人になるってことだよ。しかもここに来ているのは意識だけでなく、君を君たらしめる核そのものでもある。人一人に収めて置けるものじゃない。最悪、君もダ―ヴィドも壊れて死ぬ。


 レアは無言で手を引っ込めた。食べないと決めたら、すっと空腹感が消えた。


「ありがたいけれど、やめておくわ。それよりもここって海のほかに何もないのかしら」

「君がそう思うのだったら、そうじゃないかな。僕と君が見ている世界は違うから」


 男の言葉に既視感を覚えた。


 君がそう思うのだったら、そうだったんだろうね。僕と君が見ている世界は違う。


 いつだったか忘れたが、ダ―ヴィドが言っていた。自分と相手は違うのだと、人種が違う以上、決してわかりあえないのだと、レアを意地悪く突き放した。


 ダ―ヴィドはいつもかも、誰にでも優しい顔をしていたくせに、ふとした瞬間、ものすごく冷酷な一面を見せた。その境界線はいったいどこにあったのだろう……。


「そうかもね。でも、わたしは、あなたが見ている世界のことを知りたいのだけれど?」


 レアはもう一度ダ―ヴィドに尋ねられたときに返すと決めていた言葉を告げた。レアも少しだけ意地悪になってみせる。目の前の男だって、ダ―ヴィドの一部。だったら、彼と同じ答えを返すのかもしれない。


「君は僕が好きなのかい?」

「呆れた。そんなのないわね」


 レアは鼻で笑う。どうしたって、初対面のよく知らない男に好意を抱くというのか、レアにはわからない。そう簡単に、おとぎ話の展開は起こらないのだ。


「それに、目の前のご婦人がたの前で言うだなんて、どうなのかしらね」

「あら、このひととわたしたちの関係はそんなものではないわよ」

「そうよ。一方的だもの」


 イチゴとニゴがそれぞれのスイーツを口に運びながら、口を挟んだ。やがてすっかり食べ終えて、手持無沙汰のフォークを男に向かって、突き出した。


「このひとだって、わたしたちのおかしだもの」


 ニゴのあとを続けるようにイチゴが言う。


「このひとはミント色のマカロンで、この舟は焼きたてのマドレーヌ。海は、とってもきれいな青いマリンゼリーなの」

「でも、あなただけは食べられないの」


 二人声が合わさって、揃って悲しそうな顔をする。無邪気だと思ったのと同時に、無慈悲という言葉が浮かんだ。


「わたしたちはなんでも食べられるのに、あなただけは食べられないの。ひどいわ。こんなのってない」


 しくしくとニゴが泣きだした。涙がころんころん、と舟に落ちた。涙は固い玉になって、船底で転がっている。イチゴが一粒取って、口に運ぶ。幸福そうな表情が広がった。


(飴玉を食べているみたい……)


 透明なビー玉のように見えるそれは、甘いのだろうか。


「イチゴだけずるいわ。わたしだって、食べたい」

「しょうがないわね。いままで取っておいたけれど、このひと食べていいわ。その代り、ニゴはもっと泣いていてちょうだい」


 そうする、とニゴは言って、泣きながら男に手を伸ばす。


 彼は笑って、その手を取った。まるで恋人同士が互いをかき抱く瞬間のよう。でも、それは一瞬のことで、ニゴは躊躇なく男の右腕をもぎとった。腕の付け根のほうから、大口を開けてむしゃむしゃ食べた。その間にも、涙はころんころん、と船底を次々と転がって、イチゴの手で拾われていく。


 レアは総毛だって、がたがたと身体を震わせていた。シュールどころでなくて、彼女は恐かった。


「怖がることはないよ。君はもっと怖かったはずだ」


 腕をもぎとられた彼は痛みを微塵も感じていない様子で、笑っている。声までも優しい。


「僕は恐くもないし、痛くもない。きっと君より平気なんだ」


 今度は左腕をもがれた。


「ようは、僕よりもみんなみんな、おろかものだってこと! みーんな気づいてやしないんだ。みんながうすらとんかちだって、さ!」


 波が来て、ぐらぐらと舟が激しく揺れた。舟よりも激しく両腕を失った男が左右に大きく揺れて、笑顔を張りつけたまま、どぼん、と海中に沈んでいった。


「ああん! わたしのマカロンが!」


 顔中にクリームをつけたニゴが狂ったように、舟から飛び降りた。


「ニゴ、ニゴ!」


 イチゴも続けて飛び込む。三人の男女の影はあっという間になくなって、嘘のように美しい大海原に、空っぽの白い舟だけ浮かんでいる。


 悪夢に飛び起きたときのように、レアはしばらく自失していたが、思い立って舟によじ登って、ふうと息をする。


 さっきの光景が頭から離れなかった。何か話してほしいときだったが、ヴァルハマはうんともすんとも言わない。レアは急に世界でたったひとりぽっちになった気分で、膝を抱え込んだ。


(今だけ、もう少しだけでいいから、休みたい。疲れちゃったし……うん、きっとそうだもの)


 しかし、誰もレアを放っておいてはくれない。ほとんど凪いでいたような海原に、舟を中心として大きな渦が出来ていく。激しく舟が揺れて、レアが気づいたときにはもう遅い。すでに逃げることも出来ないで、ぐるぐると回って、下に向かっている。レアは必死に舟べりに張り付いた。海の中の舟はあまりにも頼りない。


 周りはすでに海の壁が出来ている。そしてその中にぐるぐると回っている三人の影があった。ひとりは両腕がなかった気がする。どれもがレアを気にすることなく、ただ前を見て竜巻の中の紙切れのようにぐるぐる回っている。ああして、彼らも食べたり、食べられたりを繰り返しているのだろう。


 気持ち悪い。


 ふわっと体が浮いて、彼女は海中に投げ出されていた。上下左右がわからない。目蓋を自然と下ろして、すべてをなりゆきに任せた。


 レアはマリンゼリーの海に吸い込まれていく。体中に触れるのは、海水というより、ぶよんぶよん、という弾力のあるなにかだったのは、彼女の気のせいだったかもしれない。



マリンゼリーの海で溺れるのもいいかもしれません。

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