序章
かつて死の床にあった国王に心の平穏を与えた私に、彼の息子であった次代の国王はなんでも望みを聞くことを約束した。私はその場で答え、彼はすぐに叶えた。
目立たない街角の古いアパートメント。その中に構える私好みのこじんまりとしたオフィス。屋上には新たに温室がつくられた。透明ガラスのドームの内部には絵の具のパレットのようにカラフルな南国の植物が生い茂り、細く張り巡らされた水路に地下から水を汲み上げることでこれを維持した。そして、円の中心には白いテーブルと二つの白い椅子を置くことにした。私のための家と仕事場と庭が揃い、私はそこに移り住んだ。
こうして自ら作り上げた〈王国〉の支配者となった私は、ますます外界から遠ざかった。外からの退屈な訪問者に応対し、莫大な報酬をもらったが、外界の通貨は芸術的価値以外の何になろう。何枚もコレクションするものでなし、触れるのでさえとても億劫だ。誰がどんな手で触ったか気がしれない。きれいな金はこの世に存在を許されていないのだ。
貨幣を持つと人間は馬鹿になる。目の前にある貨幣を価値あるものと錯覚し、その材質がほんの少量の金属であることを忘れる。それは価値の代用物ではあるが、それそのものではないし、実際のところ持っているだけでは価値はない。何かと交換できて初めて価値が「認められる」。それも、取引をする両者が、交換する「物」と価値の代用物でしかない貨幣の量が釣り合っているという意識を共有していなければならない。自国の貨幣が他国で使えないのも、少なくとも一方にとって、その貨幣が無価値なのだ。
だが人間は貨幣を多く持つほどに、ゆるがないものを得た気になる。良い暮らしができる、将来は安泰だ、と満足する。どんどん溜め込む。人間同士の儚い信頼関係によりかかっていることに気づかないでいると、その金が贋物とわかったときに呆然とする。物々交換のほうが賢い手段に違いない。どんなとき、どこでも通じる。見えないものにおどらされることもなくなるだろうに。我々は貨幣という幻想に目を眩ませている。だから馬鹿になるしかない。盲信すればするほど馬鹿になるのだから、人間は年々馬鹿になっているのだろう。
温室にまばゆい夕焼けが注がれている。巨人の足跡に似た大きな葉にも細長い影ができて、私の正面に座る人物の顔へと伸びている。私が知る中でもっとも馬鹿だと考えるその男へ。彼は俗世のあらゆるものに惑わされている。
男は頬杖をつきながら、手の中の〈兵士〉の駒を弄んでいた。こつん、と時折テーブルに駒の角をぶつける辺り、自分が触れるものすべては自分のものとでも主張しているのかもしれない。だがこの〈戦争盤〉は私が用意したものだ。
「〈戦争盤〉が示すものは社会における秩序だと思うね。駒には役割、プレイヤーにはルールが与えられて、それ以外では動けない。現実世界による役割は職業だとも身分だとも捉えられるし、ルールとは法律で、破れば罰則が適用される。どんな集団でも拘束力の差こそあれ、この法則から外れたものはない。人間の本質とは社会性であることの現れだ。極論を言ってしまえば、役割なくしては生きられないということ。〈戦争盤〉は人間の本質を暗喩するゲームだ。駒を操るときだけ、プレイヤーは社会の〈駒〉である自分から解放される。つまらない自分を捨てられる。だからこそ〈戦争盤〉は広く愛好されているのだとも」
「ご自分も一つの駒だと?」
私は呆れ返った。それは悪い冗談だ。
「それならばさしずめ、〈王さま〉ですね」
「ならばお前は〈魔法使い〉だ」
彼の持ち駒である盤上の黒い〈魔法使い〉が持ち上げられ、白の〈国王〉に迫るが、白の〈兵士〉によって阻まれた。勝負の決着は後回しになる。
「違います。駒としての〈魔法使い〉は万能でも、実際はそうではございません。それに……今の私は〈王さま〉なのです」
今の私は白い〈王さま〉。黒の〈魔法使い〉ではない。
「誰が〈魔法使い〉を最強にしたかわからないね」
彼は私の言葉を黙殺する。
「他の駒が遮らない限り、無制限に縦にも横にもななめにも進む。敵陣の駒を取ればほとんどそれを自陣の駒として使えるのに、〈魔法使い〉だけは使われないで、君主を裏切らないままだから? それとも〈魔法使い〉という存在そのものが物理的力の及ばない局面をひっくり返せるから? どちらとも言えるが、そもそもボードゲームにもひとつぐらいは自分の思い通りになる駒がある方が都合がいいのかもしれない。現実世界でも同じだろう。〈将軍〉も〈大臣〉も〈王妃〉も裏切るかもしれないから、大きな力を与えるのは危険だろう。だが〈魔法使い〉は決して裏切らない、と。そんな心理が働いて、〈魔法使い〉は選ばれたのだと」
「その言葉には語弊がございます。〈魔法使い〉はプレイヤーに都合のいい駒にされたと言えるでしょう。個人の意識世界に働きかけることはできても、現実世界に直接影響を与えることができないから。抵抗しても〈王様〉には抗えないことを知っているから」
私は目を眇めて言い放つ。――この私のように。
彼は喉の奥から笑っていた。
「私の高貴な顧客のことはご存じでしょう。本来、彼らには治療は必要ないのですよ。ほんのささいな、肩のほこりを払ってやるような仕事です。あってもなくても彼らは変わりません。本当に助けを求めている人々はほとんど私の元に辿りつけません」
「どうだろう」
彼はフクロウのように首を傾げた。ぎらりと光る緑の眼は笑っていない。
「お前は謙虚すぎるね。お前の力は人類の至宝だ。なにせ、人の心を読み取れる力だろう。それも、どの国の〈魔法使い〉よりも、お前の方が強い。私の自慢だ。あとはそうだ……〈戦争盤〉も強いね。昔から一度も勝てたためしがない」
もう随分と前のことだが、私は彼とよく〈戦争盤〉をしていたことがある。彼はそのことを思いだしているのだろう。
「〈戦争盤〉は得意だっただけのことです」
「知っている。だがそれも昔のことだ。今日こそは勝てるだろう。いつもより真剣にやっている」
そうですね、と私は頷いた。だからこそ、わざわざ彼は私の楽園までやってきたのだ。事情も知りながら、私は彼との賭けに容赦なく勝つつもりだった。
「手加減はできませんよ」
「それでいい。……お前こそ、私の心を読まないでくれよ?」
彼を凝視する。彼はリラックスした表情で盤上を見ていた。さて、次は何を動かそうか、そんなことを言いたげに。
心臓が不穏な音を立てたことで、私はまだ人間なのだと間抜けなことを考える。
夜の帳がガラスのドームを覆ってからしばらく経ち、白の〈王さま〉は盤上から転がり落ちた。それどころか、テーブルから落ちても掴めなかった。木製の駒は真っ二つに砕けた。私は手を伸ばしたというのに、指先まで血の気が引いていたために思うように動かせなかったのだ。……白の〈王さま〉を追い詰めたのは、黒の〈魔法使い〉だった。これは天命なのだろうか。過ぎた望みを抱いたのはどちらだったというのだろう。
駒を取り損ねた中途半端な体勢だった私に、黒の〈王さま〉は告げた。
「あとは、最初に私が言った通りに頼む。ではな、〈魔法使い〉」
彼が席を立つ気配がする。私は口だけ素早く動かした。
「かしこまりました」
まるで〈魔法使い〉のように礼儀正しく。
次章から本格的に始まります。