【短編版】音作りならフォーリー部におまかせ!〜僕の隣で効果音作りを手伝う幼馴染たちは、なぜかマイクよりも距離が近い〜【お姉ちゃん気取りの幼馴染たち】
四月中旬。桜の淡いピンクが新緑に取って代わられ始めた頃、教室内はどこか浮き足立っていた。
今日からいよいよ、部活動の仮入部期間が始まるのだ。
「名波くんは、何か気になる部活はあるかしら?」
窓際の席で頬杖をついていた僕に、春風のように優しく上品な声が降ってきた。
振り返ると、そこにいたのは艶やかな黒髪を揺らす美少女。御堂ちはやだ。
「うーん……まだ決めてないかな。中学の頃は帰宅部だったし。御堂さんは?」
「ふふっ、私も同じよ。どこか、のんびりお茶が飲めるような素敵な部活があればいいのだけれど」
花がほころぶように微笑むちはやに、クラスの男子たちの視線がチラチラと集まっているのがわかる。容姿端麗、成績優秀、誰にでも分け隔てなく優しい、誰もが憧れる正統派のお嬢様。
……まあ、全部『外面』なんだけど。
(おい湊、お前マジで部活どうすんだよ。また一緒に帰宅部か?)
周囲に聞こえないギリギリの小声で、ちはやが悪戯っぽくジト目を向けてくる。
今でこそ可憐なお嬢様を気取っているけれど、昔から活発で、僕の肩を組んでは遠慮なく世話を焼いてくれる、男勝りで頼もしい存在だった。これが幼馴染である僕にだけ見せる、彼女の素顔だ。
(いや、高校生になったし、何か始めようかなとは思ってるんだけどさ……)
(ふーん? なら、オレが直々にしごいてやろうか? 昔みたいに、一緒にお風呂に入って汗を流すところから――)
(うん、いいよ。背中流してくれるの? ちはや、昔からシャンプー上手いし)
(ぶっ!? なっ、ば、馬鹿言ってんじゃねーよっ!?)
真顔で話を合わせると、ちはやの顔がボンッと音を立てて茹でダコのように真っ赤になった。
距離感がおかしいくせに、ちょっと攻め込まれるとすぐこれだ。
僕が息を吐いて笑いそうになった、その時だった。
「みなとぉおおおおおっ!!」
バンッ! と教室のドアが乱暴に開き、人影が弾丸のように飛び込んできた。
短めのポニーテールを振り乱し、涙目で教室を見渡すその少女は、僕の姿を捉えるなり一直線に駆け寄ってくる。
「お願い、わたしと一緒になってっ!!」
「……はい?」
静まり返る教室。
クラスメイト全員の視線が、僕と、僕の胸ぐらを掴んで縋り付く少女――笹波こより先輩に突き刺さった。
「えっと……こより先輩? 一緒になるって、その」
「お願い、あんたしかいないの! わたしを独りにしないでぇ……っ!」
「ちょ、ちょっと待ってください、笹波先輩!」
ぷるぷると震えながら泣きつくこより先輩と、パニックに陥る僕の間に、ちはやが割って入った。外面のお嬢様モードを崩さぬよう必死に笑顔を取り繕いながら、先輩の肩をガシッと掴む。
「お、落ち着いてください。名波くんが困っていますし……それに、その言い方ではまるでプロポーズみたいですよ?」
「ぷろ……っ!? ち、ちがっ、そういうんじゃなくて!!」
ちはやの言葉にはっとなったこより先輩は、ぷっくりとしたほっぺを真っ赤に染めて僕からバッと距離を取った。
小柄で可愛らしいこより先輩。学年は一つ上の高校二年生だけれど、どう見ても僕やちはやより年下に見える。
「……こほん。年上のわたしが取り乱してごめんなさい。でも、緊急事態なのよ」
誤魔化すように咳払いをして、先輩は腕を組む。必死に『威厳のある先輩』を演じようとしているが、まだ目元が少し赤いし、背伸びしているのがバレバレだ。よしよしと頭を撫でたくなる衝動をぐっと堪える。
「緊急事態って?」
「部活よ! 三年生の先輩たちが卒業しちゃって、このままじゃ部員がわたし一人になっちゃうの!」
「はあ、なるほど」
ようやく事情が呑み込めた。要するに、部員不足による廃部の危機らしい。
昔からの付き合いである僕が、こういう時に突き放せない性格だとわかっていて、真っ先に泣きついてきたというわけだ。
「……ん? で、結局その部活って何部なんです?」
僕の問いに、こより先輩はビシッと指を突き付けて宣言した。
「四の五の言わず、まずは部室に来なさい! わたしの可愛い後輩たちなら、絶対に入部したくなるはずだから!」
有無を言わさぬ勢いで僕の腕を引っ張るこより先輩。
そして、なぜか「私も付き添いますね」と、もう片方の腕にちゃっかりとしがみついてくるちはや。
こうして僕は、何の部活かもわからないまま、二人の幼馴染に両腕をホールドされて部室へと連行されることになったのだった。
◇
「……フォーリー部?」
――校舎の片隅。字の消えかかった古びたプレートの横に、「フォーリー部」という手書きの札が雑に貼られた扉を見上げ、僕は思わず首を傾げた。
なんの部活か見当もつかないまま扉を開けると、そこはカオスの海だった。
部屋の真ん中には長机とパイプ椅子。壁際の棚には、空き缶、砂の入ったペットボトル、使い古した靴、謎の金属片など、ガラクタにしか見えないものが所狭しと積み上げられている。
奥には不釣り合いなほど立派なマイクセットと、吸音材が貼られた手作りの録音ブース。その横には、黒いカーテンで仕切られた機材庫らしき狭いスペースが口を開けていた。全体的に薄暗くて、なんだか秘密基地みたいだ。
「……で、ここは一体何をする部活なの、こより。ていうか、フォーリーって?」
「えっへん! よくぞ聞いてくれました!」
腕を組み、誇らしげにふんぞり返るこより。
「フォーリーっていうのはね、映画やドラマの中で足音や衣擦れみたいな『効果音』を、いろんな道具を使って作り出す専門用語のことよ! つまりここは、学園のあらゆる『音』を創造するクリエイティブな場所なの! 放送部のラジオドラマ、演劇部の舞台効果、映画制作部の自主制作映画、ゲーム制作部の環境音……果ては個人でやってるVtuberの配信SEまで! 音に困った生徒が駆け込む、まさに学園の駆け込み寺なの!」
「駆け込み寺っていうか、なんでも屋だね」
「クリエイターと言いなさいっ!」
僕のツッコミに、ポカポカと背伸びして頭を叩いてくる。小動物みたいで全然痛くない。
「でも、すごいね。色んなところから頼りにされてるんだ」
「そ、そうでしょう? あんたたちも、わたしがいないと困っちゃうでしょ!」
えっへん、と再び胸を張るこよりだが、すぐにその勢いがしゅんと縮んだ。
「でも、優秀だった三年生が卒業しちゃって……今、わたし一人なの。このままだと廃部になっちゃう。そうしたら、みんなの依頼を受けられなくなっちゃうのよぅ……」
上目遣いで、僕の袖をきゅっと掴む。うるうるした瞳が「助けて」と訴えかけている。
……ずるい。僕がこういう顔に弱いって完全にわかってやってる。
「……はぁ。わかったよ。とりあえず、名前だけなら貸すから」
「ほんと!? やったぁ! さっすが湊、いつも頼りになるぅ!」
ぱぁっと顔を輝かせたこよりが、僕の背中にぎゅっと抱きついてくる。年上なのに、やっぱり妹みたいだ。
「ははっ、湊は相変わらずお人好しだね。無理しちゃだめだぞ?」
横で呆れたように息を吐いたのは、ちはやだ。やれやれと肩をすくめながらも、その口元は楽しそうに弧を描いている。
「ちはやだって、しっかりついて来てるじゃないか」
「湊が心配だから、オレがちゃんと見張っててやるんだよ。……というわけで、こより。私も入部させてもらうわね」
「えっ、いいの!? やったー! これであんたたち二人を入れて、最低人数の三人確保よ! 部活存続決定!」
ピースサインを掲げてピョンピョンと跳ね回るこより。
なんだかんだで、ちはやも面倒見がいい。昔から僕が何かを背負い込むと、照れ隠しに少しぶっきらぼうな態度をとりながらも、必ず隣で手伝ってくれたっけ。
なんだ、結局いつもの面子じゃないか。
呆れ半分、安心半分の溜息をついた、その時――。
「お兄ちゃん、こんな所にいた。探したんだから〜」
ふわふわとした栗色の髪を揺らしながら部室に駆け込んできたのは、僕のもう一人の幼馴染であり、中等部三年生の鈴鳴ほのかだ。
僕たちの通う学園は中高一貫校で、同じ敷地内に中等部と高等部の校舎が隣接して建っている。
そのため、放課後になればこうして中等部の生徒が高等部の棟へと足を運んでくることも、決して珍しい風景ではなかった。
そのまま躊躇いもなく僕の胸に飛び込んでくると、ぎゅっと抱きついて甘い香りを振りまく。中等部の三年生にしては発育の良すぎる柔らかい感触に、思わず心臓が跳ねた。
「ほ、ほのか。ちょっと近いってば」
「え〜、いいじゃないですか。お兄ちゃんお疲れ様です。よしよし」
僕の背中をぽんぽんと優しく叩きながら、頬をすりすりしてくるほのか。見た目は清楚で可愛らしい雰囲気なのに、僕に対する距離感だけはなぜか圧倒的な包容力、というか謎の母性に満ちている。
「ちょっ、ちょっとほのか! あんた、いきなり湊にくっつきすぎよ!」
「ええ、本当に……こほん。ほのか、中等部からわざわざここまで来たのか。湊が困ってるだろ?」
こよりが慌てて引き剥がそうとし、ちはやが呆れたようにツッコミを入れる。
ほのかは僕に抱きついたまま二人を見て、きょとんと首を傾げた。
「あれ、こよりちゃんとちはやちゃんも一緒だったんですね。みんなでこんな所で何してるんですか?」
僕たちが事情を説明すると、ほのかの目がぱぁっと輝いた。
「フォーリー部……! なんだか楽しそう! 私も参加する〜!」
「いや、ほのかは中等部だろ。高等部の部活には所属できないって」
「ふふっ、そこは心配いりません。私がいれば、中等部からも依頼を集められるよ」
ほのかは僕から離れると、えっへんと自信満々に胸を張った。
実は彼女、フワフワした見た目に反して、中等部の生徒会長を務めている。そのしっかり者のお姉さん気質と持ち前の包容力で、男女問わず生徒たちから絶大な支持を集めているのだ。
「なるほど……中等部だから正式な部員にはできないけど、手伝ってくれるなら大助かりね。あんたたちだけじゃ、ちょっと不安だったし」
こよりが腕を組んで、ふむふむと頷く。
「じゃあ決まりですね! これで毎日お兄ちゃんと一緒にお手伝いできます」
ほのかが嬉しそうに両手を合わせた、その時だった。
「会長ー! こんな所にいらっしゃったんですか!」
ドタドタと足音を立てて、部室のドアに中等部の制服を着た生徒たちが数人駆け込んできた。生徒会役員の面々だ。
「あ、みんな。どうしたの?」
「どうしたの、じゃありませんよ! 明日の生徒総会の資料、まだ確認終わってないじゃないですか!」
「あはは……そうだったね。ごめんなさい」
苦笑いするほのかを見て、役員の一人が僕に気づき、深くお辞儀をした。
「あっ、お兄ちゃんさん! いつもうちの会長がお世話になってます!」
「い、いや、別に世話なんて……」
「お兄ちゃんさんとの愛のひと時をお邪魔して申し訳ないのですが、緊急事態なんです! 会長、早く来てください!」
彼らは去年僕が中等部にいた頃から、僕とほのかが幼馴染であることを知っている。というか、なぜか「生徒会長の愛しの『お兄ちゃん』」として全校公認のような扱いになっていて、いつも生温かい目で見守られているのだ。
「え〜、もうちょっとお兄ちゃんと一緒にいたいのに〜」
名残惜しそうに僕に手を伸ばすほのかだったが、役員たちに両腕を掴まれ、ズルズルと廊下へ引きずられていく。
「それじゃあお兄ちゃん、また後でね〜! 部活のお手伝い、絶対行くからね〜!」
「お、おう。頑張れよー」
嵐のように去っていったほのかを見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
こより、ちはや、そしてほのか。
どうやら僕のフォーリー部での日々は、平穏無事とは程遠いものになりそうだ。
◇
放課後。
さっそく入り浸っている三人……こより、ちはや、ほのかと一緒に、ガラクタだらけの部室で適当な雑談をしていると、控えめなノックと共にドアが開いた。
「あの……名波くん、いる?」
顔を出したのは、クラスメイトで放送部の夢巻くるみだった。
いつも一生懸命で、中等部の頃から放送部の活動に人一倍熱心な彼女が、今は泣きそうな顔でドアの枠をぎゅっと掴んでいる。
「夢巻さん? どうしたの、そんなに慌てて」
「名波くん……っ、助けて! どうしても名波くんに頼みたいことがあって探してたの!」
必死な形相で駆け寄ってくる夢巻さん。
「中学の体育祭の時、放送用のマイクが急に断線してわたしがパニックになってたの、覚えてる? あの時、名波くんが応急処置してくれて、本当に助かったから……っ。そんな風に、また名波くんに助けてほしくて……!」
「ああ、そんなこともあったね。別にいいけど、どうしたの?」
僕が頷くと、安心したように息を吐いた夢巻さんは、身を乗り出して熱弁を振るい始めた。どうやら明日の昼休みに放送される新作ラジオドラマで、どうしても妥協できない重要なシーンがあるらしい。
「『男女が狭いロッカーに隠れて密着し、息を潜めるシーン』の音が、どうしても上手く録れないのっ!」
「密着する音?」
「そう! 追っ手から逃れて、暗くて狭いロッカーに飛び込む二人! 密着する体、重なる息遣い、静寂の中でかすかに擦れる制服の衣擦れ……そして、お互いに聞こえてしまうほど高鳴る心音! ここが一番の山場なのに、部員同士で録音しようとしても、ただのプロレスごっこみたいな音になっちゃって……!」
なるほど、確かにそれは高度な技術が要求されそうだ。ただ布を擦り合わせるだけでは出ない、独特の緊張感と距離感が必要になる。
「明日の放送なんだよね。わかった、なんとか工夫して録ってみるよ」
「ほんと!? ありがとう名波くん、恩に着るよ!」
ぱぁっと顔を輝かせる夢巻さん。昔から知っているクラスメイトが困っているのを、放っておけるわけがない。
さて、どうやって密着の音を再現しようか。衣類を二枚重ねて揉んでみるか、それとも……と僕が思考を巡らせ始めた、その時だった。
「はいはいはーいっ! フォーリー部の出番ね!」
それまで大人しくパイプ椅子に座っていたこよりが、ガタッと音を立てて立ち上がった。なぜか鼻息が荒い。
「困っている生徒を助けるのがウチの部活! その『狭いロッカーでの密着音』、私たちが完璧に再現してあげるわ!」
「えっ、でもそれって……」
「名波くん、安心してくださいね。私たちにお任せを」
ちはやも優しく微笑みながら立ち上がる。夢巻さんの前だから可憐なお嬢様モード全開だが、僕を見るその目は「面白くなってきたじゃないか」とでも言いたげにキラキラと光っている。
「お兄ちゃん、大変な依頼ですね。でも大丈夫。私がしっかりお手伝いしますからね」
ほのかまで、いつの間にやら僕の隣にぴったりと寄り添い、ふんわりと微笑んでいた。
「いや、手伝うって言っても……」
「決まってるでしょ? 『男女の密着音』なんだから、湊と私たちが実際に密着して録音するのが一番リアルじゃない!」
「なっ……」
こよりの大胆な発言に、僕の方が言葉を失ってしまう。
(湊、昔みたいに遠慮はいらないぞ? オレたちがしっかり協力してやるからな)
ちはやが、夢巻さんに聞こえない絶妙な小声で僕に耳打ちしてくる。上品な笑顔のまま、僕の脇腹を軽く肘で小突いてくる距離感は、完全にいつもの彼女だ。
「ふふっ、お兄ちゃんの心音、私がばっちり録ってあげますからね」
ほのかも完全にやる気だ。包容力たっぷりの笑顔が、今はなんだか逃げられない檻のように見えてきた。
幼馴染三人の目が、獲物を見つけたように僕をロックオンしている。
部活への初依頼。どうやらそれは、音作りの難しさよりも、ヒロインたちの暴走をどう捌くかという大きな問題と同義らしかった。
◇
夢巻さんが「期待してるからね!」と嵐のように去っていき、部室には僕たち四人だけが残された。
奥にある手作りの録音ブースに高性能マイクをセッティングし、いざ録音開始、となったわけだが……。
「密着の音ならオレに任せとけって! 昔かくれんぼしてて、一緒に狭いクローゼットに隠れた時みたいに、ぎゅーっとくっついてやるよ!」
トップバッターのちはやが、遠慮のない手つきで僕の腕をぐいっと引き寄せてきた。
外向けのお嬢様モードを完全にオフにした彼女は、幼い頃から変わらない距離感のまま密着してくる。本人はただのからかいのつもりなのだろうが、制服越しに伝わる柔らかい感触は、年頃の男子にとって普通に心臓に悪い。
「……そうだね。それじゃあ、ロッカーの息苦しさを出すために、もっと顔を近づけようか」
僕はあえて真顔を作り、彼女の肩にスッと手を回して距離を詰めた。
「は……っ!? ち、ちょっ、バカっ! 何言って……っ、近い近い近い!!」
ポンッ、と音が鳴りそうなほど、ちはやの顔が一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
引き寄せていた腕を弾かれたように離し、ブンブンと首を横に振って後ずさる。からかうのは得意なくせに、ちょっとやり返されるとすぐキャパオーバーを起こすのだ。
『きゃあああっ!? む、無理無理、顔とかそういうのはまだ……っ!』
ヘッドホンからは、高性能マイクが拾ったちはやのパニック声だけがクリアに響いていた。密着音もへったくれもない。
「……はぁ。あんたたちじゃ、全然色気が足りないのよ」
そんなちはやを呆れたように押し除け、こよりがズンッと前に出てきた。
「いい? 年上のわたしが、大人の密着音ってやつを教えてあげるわ! さあ湊、わたしの胸に飛び込んできなさい!」
自信満々に両腕を広げるこより。
大人の色気と言われても、目の前にいるのはどう見ても小動物にしか見えない先輩なのだが。とりあえず言われた通りに一歩踏み出し、そっと身を屈めて抱きしめようとした――瞬間。
ドスッ。
「ふきゅっ!?」
圧倒的な身長差のせいで、こよりの顔が僕の胸板にクリーンヒットした。
「い、痛い……っ! ちがっ、わたしがリードして包み込むはずなのに! なんであんたの胸が目の前にあるのよ!」
「いや、身長差的にどう頑張ってもそうなるでしょ。痛かった? よしよし」
「頭撫でるなバカァ! 子ども扱いすんなーっ!」
『ポカポカポカッ! ふんす、ふんす!』
ヘッドホンからは、僕の胸を叩く音と、威嚇する小動物のような鼻息がバッチリ録音されていた。緊迫感ゼロの、ただのほのぼのコントである。
「もう、二人ともお兄ちゃんを困らせちゃダメですよ」
ふわり、と甘い香りがして、ほのかが僕の手を優しく引いた。
「ふふっ、お兄ちゃんはいろいろ振り回されてお疲れですね。よしよし、私が抱っこして心音を録ってあげます。さあ、こっちへ」
有無を言わさぬ中学生らしからぬ母性で、僕は部室の隅にある年季の入ったソファーへと押し倒された。
ほのかが僕の上から覆い被さるようにして、そっと抱きついてくる。その包容力に、思わずドキッとしてしまう。
「どうですか? このまま静かにしていれば、きっと素敵な心音が……」
自信たっぷりに微笑むほのか。
確かに、これならちゃんと録れるかもしれない。僕は期待を込めてヘッドホンの音量を少し上げた。
『――ドッドッドッドッドッ!!』
直後、警報機のような爆音が耳に飛び込んできた。
まるで全力疾走した直後のような、すさまじい心拍音だ。
「えっと……ほのか? なんか、ものすごい心音が聞こえるんだけど」
「えっ? あ、あはは、お兄ちゃんったら、そんなにドキドキしちゃって。可愛いですね」
「いや、これ、マイクの位置的にほのかの心音だよ」
「…………えっ?」
ピタッと、ほのかの動きが止まった。
お姉さんぶって余裕の笑みを浮かべていた彼女の顔が、みるみるうちに沸騰したように赤くなっていく。
「ち、ちが、これはその、さっき階段を急いで登ってきたからで……っ! 決してお兄ちゃんと密着して緊張してるわけじゃ……あああっ、聞かないでぇ!」
顔を真っ赤にしてソファーから転げ落ちるほのか。
その後、僕の手元に残った録音データは、「ちはやのパニック声」「こよりのポカポカ音」「ほのかの爆鳴り心音」という、ラジオドラマには到底使えない代物だけだった。
◇
これではダメだ。
僕は改めて、夢巻さんから渡されたラジオドラマの台本に目を落とす。
追っ手から逃れ、暗く狭いロッカーに飛び込む二人。
この極限状態に必要なのは、ドタバタとしたパニック映画のノイズでもなければ、安らぎに満ちた平和な環境音でもない。求められているのは「暗くて狭い空間で、大切な人がすぐそばにいるという圧倒的な安心感」と、それに相反する「息を潜める微かな緊張」だ。
ふと、窓ガラスをポツポツと叩く音が響いた。
四月の柔らかい春の雨。その規則正しいリズムを聞いているうち、僕は思わず口を開いていた。
「……雨。なんか、思い出すね」
「思い出すって、なにがよ?」
首を傾げるこよりに、僕は窓の外から視線を戻す。
「ほら、昔さ。もっとひどい土砂降りで、すごく大きな雷が鳴った日があったでしょ。怖くて、四人でうちの押し入れに逃げ込んだ時のこと」
僕の言葉に、三人の目がふわりと見開かれた。
「あ……」
「うん……覚えてるわ」
こよりが、少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
「あの時は本当に怖かったんだから。暗くて、狭くて……雷が鳴るたびに、みんなでぎゅって身を寄せ合ってさ」
「お、オレは別に怖くなんてなかったぞ? 湊が泣きそうだったから、一緒にいてやっただけで……」
強がるちはやの声の端が、少しだけ震えている。照れ隠しのぶっきらぼうな物言いの裏に隠れた素直な感情が、あの日の幼い彼女と重なった。
「ふふっ。でも、心細かったけど……みんなの服が擦れる音が聞こえて、すごく安心したの、覚えています」
ほのかが、愛おしいものを思い出すように胸の前で両手を組んだ。
「外の音はあんなにうるさかったのに、押し入れの中だけは、みんなのドキドキする音と、古いお布団の匂いでいっぱいで……なんだか、温かかったですよね」
そう。僕たちが求めている音は、まさにその「記憶」の中にある。
ただのパニックではなく、大切な人がすぐそばにいるという、圧倒的な安心感と微かな緊張。
「……ちょっと、こっちに来て」
僕は三人を促し、部室の奥にある機材庫の黒いカーテンを開けた。マイクスタンドや予備のケーブルが置かれたその空間は、人が四人も入れば身動きが取れなくなるほど狭く、薄暗い。
「湊?」
不思議そうな顔をする三人を中心へ招き入れ、僕は二つのマイクを用意した。
一つは空間全体の音を拾うための、高性能なスタンドマイク。
そしてもう一つは、小さなピンマイクだ。僕はそれを自分のシャツの胸元――心臓の真上にテープでしっかりと固定した。
「少しだけ……あの時みたいに、じっとしてて」
二つの録音ボタンを押し、僕は機材庫のカーテンを閉めた。
光が遮断され、完全な暗闇が訪れる。
四人も入れば、どうしても肩や腕が触れ合ってしまうほどの密着具合だ。女の子たちの甘いシャンプーの香りと、機材庫のほんの少し埃っぽい空気が混ざり合う。
暗闇と静寂。
いくら幼馴染とはいえ、年頃の女の子三人とこんなに狭い空間にいるのだ。しかも、胸元には僕の心音を直接拾うためのマイクがぴったりと押し当てられている。意識すればするほど、胸の奥で心臓がドクン、ドクンと少し早く鳴り始めた。
――カサ、と。
暗闇の中で、微かな音が鳴った。
無意識のうちに伸ばされた三人の小さな手が、僕の制服の右袖、左袖、そして背中側の裾を、震える指先できゅっと掴む音。
雷に怯え、すがるように僕の服を握りしめた、あの幼い日の記憶の再演。
「……大丈夫だよ」
僕が極小の声で呟くと、三人が小さく息を呑む気配がして、それからほんの少しだけ、僕に寄りかかる力が強くなった。
スタンドマイクが拾う、擦れ合う制服の微かな衣擦れの音と、重なり合う柔らかい息遣い。
そして、胸元のマイクが拾い上げる、少しだけ緊張した僕の生々しい心音。
機材庫の中には、あの日押し入れの中で感じた「誰かがすぐそばにいる」という温かい安心感と、今の僕たちが作り出す密着の緊張感が、完璧な一つの空間として録音されていった。
――翌日の昼休み。
校内放送のスピーカーから流れてきたラジオドラマは、全校生徒が食事の手を止め、息を呑んで聞き入るほどの出来栄えだった。
暗く狭いロッカーの中。追っ手の足音が近づく緊迫感の中、主人公とヒロインが身を寄せ合うシーン。そこで流れた力強い鼓動と、怯えるように重なる微かな衣擦れの音は、その場にいる誰よりも生々しい「距離感」となって全校生徒を物語に引き込んでいた。
「名波くん、本当にありがとう! 最高の音だったよ、鳥肌が立っちゃった!」
廊下ですれ違った夢巻さんが、顔を紅潮させて僕の手を握り、何度も頭を下げていった。どうやら、僕の初仕事は大成功だったらしい。
「湊……その、なかなかやるじゃないか」
「ま、まあ、あんたにしては上出来ね」
「……お兄ちゃん、すごかったです」
いつの間にか隣に並んでいたちはや、こより、ほのかが、口々に褒めてくれる。
けれど三人の視線はどこか泳いでいて、揃ってそっぽを向いていた。
薄暗い機材庫で響いていた僕の少し早い鼓動と、すがるように服を握りしめていた自分たちの小さな手の感触。完成した放送を聞いて、あの暗闇での密着を今さら意識してしまったのだろう。
ほんのりとりんごのように染まった三人の横顔を見ながら、僕は小さく笑った。
どうやら、この騒がしくて退屈とは無縁なフォーリー部での日々は――僕の日常に、想像していたよりもずっと温かくて鮮やかな音を響かせてくれそうだ。




