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番外編九 名前をもらった宿




 西の港町カランには、名前のない宿があった。


 正確には、看板はあった。古い木板に、かすれた文字で「宿」とだけ書かれている。港へ続く坂道の途中に建ち、潮風をまともに受ける二階建て。壁は何度も塗り直されているが、海から来る湿気には勝てず、窓枠の端には白い塩の跡が浮いていた。


 旅人たちはそこを「坂の宿」と呼んだ。


 主人の名はバナージ。無口で、少し不器用な男だった。料理はうまい。値段も安い。部屋は清潔。だが、愛想がない。客が「この宿の名前は?」と聞いても、彼はたいてい「宿だ」としか答えなかった。


 だから、宿には正式な名前がなかった。


 そのことを最初に気にしたのは、家守学校第八期を修了したばかりの少女、カティアだった。


 彼女は港町の共同井戸担当として赴任する予定だったが、到着初日に嵐で足止めを食らい、坂の宿へ泊まることになった。


 雨風の中、宿の扉を開けると、カウベルが濡れた音を立てた。


「泊まれる?」


 カティアが尋ねると、奥から大柄な男が出てきた。


「一部屋なら」


「お願いします」


「食事は?」


「いただけるなら」


「魚のスープ」


「十分です」


 会話はそこで終わった。


 バナージは鍵を渡し、階段を指した。


「部屋は二階の一番奥」


 カティアは礼を言い、濡れた外套を脱いだ。その瞬間、玄関の床板が小さく軋んだ。


 疲れている。


 カティアは足を止めた。


 家守学校で学んで以来、彼女は建物の音を聞く癖がついている。扉の開く速さ、床の沈み方、階段の鳴り方、窓が風を受ける角度。声が聞こえるわけではない。だが、状態は分かる。


 この宿は、よく働いている。


 そして、少し拗ねている。


「玄関、濡らしてすみません」


 カティアが小さく言うと、床板はもう一度きしんだ。


 バナージが不審そうに見る。


「何してる」


「床に謝りました」


「床に?」


「はい」


「変な客だな」


「よく言われます」


 カティアは笑って、階段を上がった。


 二階の一番奥の部屋は狭かったが、清潔だった。寝台、机、椅子、洗面台、小さな窓。潮風のせいで窓枠は少し固いが、布団は乾いている。


 カティアは荷物を置き、記録帳を開いた。


 宿泊先、港町カラン、坂道途中の無名宿。玄関床板、湿気負荷。階段三段目、軋み。二階奥客室、寝具良好、窓枠塩害あり。


 書いてから、彼女は苦笑した。


 今日は赴任初日で、まだ勤務開始前だ。記録する義務はない。


 けれど、気づいたものを気づかなかったことにはできない。


 夕食の魚スープは、驚くほど美味しかった。


 白身魚、じゃがいも、玉ねぎ、干した香草。塩は強めだが、嵐で冷えた体にはちょうどいい。黒パンを浸して食べると、腹の底から温まる。


 食堂には他に、船乗りが二人、行商人が一人、港の倉庫番らしい老人がいた。彼らはバナージの無愛想さに慣れているらしく、勝手に水を注ぎ、勝手にパンを取っている。


 宿の食堂は、客を甘やかさない。


 だが、見捨てもしない。


 カティアはスープを一口飲み、思わず言った。


「おいしい」


 厨房の奥で、鍋がことりと鳴った。


 バナージが振り返る。


「何か」


「鍋が喜びました」


「鍋が?」


「たぶん」


 船乗りの一人が笑った。


「嬢ちゃん、家守か」


「見習いを卒業したばかりです」


「へえ。じゃあ、この宿も見てもらえよ、バナージ。最近、階段が文句言ってるぜ」


「階段は文句を言わん」


 バナージはぶっきらぼうに答えた。


 だが、その目は一瞬だけ階段へ向いた。


 気にしている。


 カティアはそれ以上言わなかった。


 押しつけてはいけない。


 家守学校で最初に叩き込まれたことだ。家は人の暮らしと結びついている。勝手に手を出せば、その人の誇りや事情まで踏み荒らすことになる。


 翌朝、嵐はまだ続いていた。


 港へ行けない。共同井戸の赴任挨拶も延期。カティアは宿で足止め二日目を迎えた。


 朝食は干し魚とパン、薄い粥。


 食堂の窓が風で鳴っている。


 カティアは食後、バナージに尋ねた。


「窓枠に布を詰めてもいいですか」


「なぜ」


「風が入りすぎています。応急処置です。費用はいただきません。私が寒いので」


 最後の一言を入れると、バナージは少し考えた。


「自分のためなら、好きにしろ」


「ありがとうございます」


 カティアは布を細く折り、窓枠の隙間に詰めた。木枠は塩で固くなっている。あとで油を差した方がいい。だが今日は応急処置だけ。


 作業が終わると、食堂の風音が少し弱くなった。


 老人の客が言った。


「おお、静かになった」


 船乗りが笑う。


「嬢ちゃん、うちの船も見てくれ」


「船は専門外です」


「家守は船は駄目か」


「船にも精霊はいると思います。でも、私はまだ勉強不足です」


 バナージは黙って魚を焼いている。


 だが、食堂の鍋がまた小さく鳴った。


 三日目、嵐はやんだ。


 カティアは本来なら宿を出る予定だった。だが、朝、階段を降りるとき、三段目が大きく軋んだ。


 危ない。


 昨日までとは音が違う。


 カティアはその場で止まった。


「バナージさん」


 呼ぶと、彼は厨房から顔を出した。


「何だ」


「階段三段目、踏まないでください」


「また階段か」


「今日は本当に危ないです」


 その直後、上階から行商人が荷物を抱えて降りてきた。


「おはようございま――」


「止まってください!」


 カティアは叫んだ。


 行商人が驚いて足を止める。彼の靴先は、問題の三段目の直前にあった。


 バナージが駆け寄り、階段下から板を覗いた。


 顔色が変わる。


 支え木にひびが入っていた。


 重い荷物を持ったまま踏めば、抜けていたかもしれない。


 行商人は青ざめた。


「助かった……」


 カティアは息を吐いた。


 階段の精霊が、疲れたように沈んでいる気配がする。


「ずっと言っていたんですね」


 小さく呟く。


 バナージはその声を聞いていた。


「言っていた?」


「軋みで。三段目は前から疲れていました。昨日までなら補修で済んだと思います。でも嵐の湿気と荷物の重さで、限界が来たんです」


 バナージは黙った。


 その沈黙は、怒りではなかった。


 何かを飲み込む沈黙だった。


「……親父が建てた宿だ」


 やがて、彼は言った。


「俺が継いだ。直しながら使ってきた。だが、金が足りないところは後回しにした。階段も、分かってた」


 カティアは何も言わなかった。


「名前をつけなかったのも、同じだ」


「同じ?」


「名前をつけたら、ちゃんとした宿みたいになる。ちゃんとした宿なら、もっと直さなきゃならん。客にも、親父にも、胸を張らなきゃならん。だから、ただの宿でよかった」


 それは、不器用な告白だった。


 カティアは階段に手を置いた。


「名前をつけるのは、立派になったからではありません」


 バナージが彼女を見る。


「これから一緒に直していくためです」


 食堂が静かになった。


 船乗りも、老人も、行商人も黙って聞いている。


「この宿は、もう十分働いています。嵐の日に人を泊めて、温かいスープを出して、濡れた外套を乾かして、坂を上ってきた人を受け止めている。名前がないままでも、ずっと宿でした」


 バナージの手が、わずかに震えた。


「でも、名前があれば呼べます。助けてほしいときも、ありがとうと言うときも」


 長い沈黙のあと、老人の客が言った。


「潮待ち亭はどうだ」


 船乗りが首を振る。


「ありきたりだな。坂上がり亭」


「それは疲れる名前です」


 カティアが真面目に言うと、船乗りたちは笑った。


 行商人が言った。


「灯待ち宿は? 嵐の日、ここの灯りを見るとほっとする」


 バナージが顔を上げた。


 食堂のランプが、小さく揺れた。


 灯りの精霊が反応している。


「灯待ち」


 バナージはその名を口の中で転がした。


「……悪くない」


 その瞬間、宿全体の空気が変わった。


 扉が軽く鳴る。窓が風を受け止める。鍋がことりと揺れる。階段はまだ痛んでいるが、どこかほっとしている。


 名前をもらったのだ。


 その日のうちに、カティアは港の職人組合へ行き、階段修理の手配をした。赴任先の共同井戸には事情を説明し、初日の挨拶を午後へずらしてもらった。


 バナージは費用の心配をしたが、カティアは首を振った。


「分割払いの制度があります。家守登録をすれば、危険箇所の緊急補修は港町の共同基金から一部補助が出ます」


「そんなものがあるのか」


「あります。使ってください。そのための制度です」


 書類を書く段になり、バナージは困った顔をした。


「字が苦手だ」


「代筆できます。ただし、内容は一つずつ確認します」


「頼む」


 カティアは書類を広げた。


 建物名の欄で、ペンが止まる。


「名前は?」


 バナージは少しだけ照れたように、食堂のランプを見た。


「灯待ち宿」


 カティアは丁寧に書いた。


 灯待ち宿。


 文字になった瞬間、ランプが明るくなった。


 数日後、新しい看板が掛かった。


 古い「宿」の板は捨てず、厨房の壁に掛けられた。働き終えた道具として、きちんと休ませるためだ。


 新しい看板には、灯待ち宿、と彫られている。


 港から坂を上る旅人は、その名を見るようになった。


 嵐の日には、看板の下のランプがいつもより明るく灯る。


 カティアは赴任先の井戸守として忙しくなったが、ときどき灯待ち宿へ寄った。階段の再点検、窓枠の塩落とし、厨房の鍋の機嫌確認。半分は仕事、半分は食事目当てである。


 ある夜、バナージが魚のスープを出しながら言った。


「客が増えた」


「良かったです」


「忙しい」


「良いことです」


「宿が、嬉しそうだ」


 カティアは顔を上げた。


 バナージは少し気まずそうに鍋を見ている。


「……そういう感じがするだけだ」


「それで十分です」


 食堂のランプが、柔らかく光った。


 カティアはスープを一口飲んだ。


 初めて泊まった夜と同じ味がする。


 けれど、宿は少し変わった。


 名前をもらい、修理され、客に呼ばれ、主人に見られるようになった。


 暮らしを守る仕事は、王宮や砦だけのものではない。


 坂道の途中の小さな宿にも、名前を待っている家がある。


 その灯りを見上げる旅人がいる。


 カティアは記録帳に書いた。


 灯待ち宿。階段修理完了。窓枠塩害、継続観察。主人、建物状態への自発的発言あり。宿名定着。客数微増。


 少し迷って、最後に一行加えた。


 嵐の日、この宿の灯りはよく見える。


 長い物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


 ミリアたちの物語は、婚約破棄の夜から始まりましたが、最後に残したかったのは断罪の勝利ではなく、温かい朝食、眠れる夜、名前を呼ばれる家、そして自分の仕事に正当な価値を見いだしていく人々の姿でした。


 派手な奇跡ではなく、毎日の手入れで世界を変える物語として楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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