チート能力を使っても、なぜか最初の町にもたどり着けない
田中樹は、いつもの帰り道で死んだ。信号が青に変わり、歩き出したその瞬間、視界の端に居眠り運転のトラックが飛び込んできた。ブレーキをかけることなく、全速力で樹の身体にぶつかる、衝突音とともに、樹の体は宙を舞った。
鈍い衝撃が全身を貫く。背中から落ちた瞬間、肺の空気がすべて押し出され、息ができない。アスファルトは冷たく硬く、まるで鉄板に叩きつけられたようだった。体が動かない。指一本も、まぶた一つも。ただ空だけが見える。夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れていく。
痛みが来ない。それが逆に恐ろしかった。体が壊れすぎて、もう感覚すら失われているのだろうか。遠くで誰かが叫んでいる。救急車を呼ぶ声。泣き叫ぶ運転手の声。でも、それらはどんどん遠ざかっていく。
死ぬのか、俺は。ここで。
恐怖が襲ってくると思った。でも、不思議なことに、樹の頭に浮かんだのは明日の英語のテストのことだった。まだ、単語を覚えていない。文法も分かっていない。どうせまた、隣の席の優等生の答案を盗み見るつもりだった。
ああ、よかった。テストを受けなくて済む。
その瞬間、樹は自分が心底情けない人間だと悟った。死の淵で考えることが、それか。母親の顔も、友人たちのことも浮かばず、ただテストから逃れられる安堵だけ。母はいつも言っていた。「あなたはできる子なのよ」。その期待に応えようと、机に向かうことは何度もあった。でも、参考書を開いても文字が頭に入らない。焦りだけが募り、結局は諦めて、カンニングという卑怯な手段に頼る。それを繰り返してきた。
樹は何者にもなれなかった。正面から努力することから、ずっと逃げてきた。
視界がぼやけていく。夕焼けの色が滲んで、まるで水彩画のように溶けていく。すべてが闇に沈んだ。
次に意識が戻ったとき、樹は柔らかな土の上に横たわっていた。頬に当たる草の感触。木々の葉擦れの音。鳥のさえずり。東京とはまったく違う匂い。湿った土と、どこか甘い花の香り。
樹は跳ね起きた。体が動く。さっきまで動かなかった手足が、何事もなかったように動く。首を回し、腕を曲げ、指を握る。どこにも痛みはない。傷一つない。
ここはどこだ。見渡す限りの森。見たこともない巨木が空を覆い、木漏れ日が幻想的な光の筋を作っている。夢か。それとも、あれか。最近の小説や漫画で流行っている、異世界転生というやつかと思った。
異世界転生ならばと、樹は半信半疑のまま、震える声で呟いた。「ステータス、オープン」
すると、目の前の空気が揺らぎ、淡い光を放つ透明な板が現れた。そこには、樹自身の能力を示す文字が浮かんでいる。名前、年齢、そしてスキル。カンニング。
樹は声を失った。死ぬ間際まで、テストのことを考えていたからか。この世界は、樹の本質を見抜いているかのように、努力から逃げ、ずるい手段に頼り続けた、卑怯な人間。それを象徴するような、救いようのないスキルを示しているように思えた。
樹は喉の奥が熱くなった。笑うべきか、泣くべきか分からない。結局、異世界に来ても、樹の本質は変わらないのか。
だが、樹には、このスキルの効果は何かわからない。試しにスキルを発動させてみる。「カンニング」。その言葉を口にした瞬間、脳に情報が流れ込んできた。まるで映画を早送りで見せられているような感覚。これから起きる出来事。巨大なモンスターとの遭遇。その凶暴な姿。でも、カンニングを使えば弱点が分かる。首の後ろの鱗のない部分を突けば倒せる。そして、村人たちに英雄として迎えられる。輝かしい未来の道筋。
でも、樹は震えていた。手が、膝が、止まらない。答えが分かっていても、怖い。あんな化け物の前に立てるわけがない。努力を避けてきた自分に、勇気なんてあるはずがない。
樹は立ち上がると、スキルが示した道とは逆方向に歩き出した。モンスターなんて見たくない。苦労して英雄にもなりたくない。ただ、楽して、生きていきたい。それだけだ。
森の中をどれくらい歩いただろうか。前方に人影が見えた。金色の髪が木漏れ日に輝いている。ドレス姿の女。年の頃は十七歳くらいだろうか。その優雅な佇まいは、まるでこの森が舞台の一幕のように見える。それくらい違和感のある存在だったのだ。
樹は立ち止まった。この異世界で初めて出会う人間かもしれない。助けを求めるべきか。それとも警戒すべきか。もしくは、これはハーレムルートなのでは?と楽観的に考える余裕もあるくらいだった。それくらい現実感がなかったのだ。
女の顔は人形のように整っていて、人形のように感情が読めなかった。そして、彼女は樹に微笑んだ。完璧な微笑み。でも、その瞳には何の温もりもなかった。
「ごきげんよう」
その声は美しかった。鐘の音のように澄んでいて、でも同時に冷たい刃のように鋭かった。樹の背筋を冷たいものが走る。
何かがおかしい。樹は無意識に一歩後ずさった。カンニングのスキルには、この女の存在など示されていなかった。完璧なはずの未来の解答に、予期せぬ空白。それが何を意味するのか。
「ようこそ、異界からいらした方。そして」
女は一歩、樹に近づいた。その足音は草を踏む音すらさせない。まるで幽霊のように。
「さようなら」
その瞬間、樹の中で何かが弾けた。逃げろ。この女は危険だ。本能が叫んでいる。
「カンニング!」
樹は喉が裂けるほどの声で叫んだ。頭の中に映像が流れ込む。数秒後の未来。目の前の女の手が動く。銀色の光。そして、自分の首から血が噴き出す光景。
恐怖で体が硬直した。足が動かない。息ができない。心臓が激しく脈打ち、全身の血が逆流するような感覚。
「今回の異世界転生者は、随分と軟弱ですね」
女が静かに首を傾げた。「わたくしの隠蔽スキル程度で、存在を感知できないなんて。もう少し骨のある相手かと期待していたのですが」
彼女の手がゆっくりと上がる。まるでスローモーションのように見えた。樹は逃げようとした。足を動かそうとした。でも、体がまったく言うことを聞かない。恐怖で金縛りにあったように、その場に縫い付けられている。
「やめろ!!」
声が震える。情けない懇願。でも、他に何ができる。「俺、何もしてない。何も悪いことしてない」
「あなたの存在そのものが、罪なのですよ」
女の声には、憎しみも怒りもなかった。ただ、事実を述べているだけ。まるで虫を払うような、淡々とした口調。
銀色の光が一閃した。
首筋に、氷のような冷たさが走った。次の瞬間、灼熱の痛みが全身を駆け巡る。声を上げようとしたが、喉から空気が漏れる音しか出ない。視界が傾く。空が回る。木々が回る。そして、地面が迫ってくる。
倒れた樹の視界の端に、女の足元が見えた。白いドレスの裾に、赤い染みが広がっていく。自分の血だ。こんなにも血が出るのか。体が冷たくなっていく。指先から感覚が消えていく。
なぜ。どうして。俺は何も悪いことしてない。ただ、生き延びようとしただけなのに。
母さんの顔が浮かんだ。「あなたはできる子なのよ」。その期待に、結局、一度も応えられず、卑怯な手段に逃げ続けた。異世界に来ても、モンスターから逃げた。そして今、何もできずに死んでいく。
俺は、何だったんだろう。何のために生まれてきたんだろう。
視界が暗くなっていく。女の姿が遠ざかる。彼女は樹を一瞥もせず、ただ静かに森の奥へと歩いていく。まるで、何事もなかったかのように。
なぜ、この女がカンニングに映らなかったのか。
答えは単純だった。カンニングは、樹が生き残るルートしか映さない。
英雄ルート。モンスターと戦い、村人に讃えられる、あの輝かしい未来。あれが、樹にとっての「正解」だった。カンニングが示す答えは、あくまで生存を前提とした未来だけだ。
この女に出会うルートは、最初から死を前提としていた。だから、映らなかった。最初から、答えとして存在しえなかった。
モンスターから逃げた時点で、樹の結末は決まっていたのだ。
田中樹という少年は、二度死んだ。もう彼が何者かになる可能性は、どこにも存在しない。
森に静寂が戻る。鳥のさえずりが再び響き始める。樹の体から流れ出た血は、土に吸い込まれ、やがて森の一部となっていく。この世界は、彼の存在を跡形もなく消化していった。
そして、金色の髪の女は歩き続ける。血で汚れたドレスの裾を気にすることもなく、優雅に、淡々と。彼女にとって、これは日常の一部に過ぎない。異世界から現れる侵入者を見つけ、排除する。それが彼女に課せられた使命だ。
彼女の名前はディテラ。この物語の、本当の主人公である。樹がなれなかった、主人公。
ディテラは公爵家の令嬢だ。
この家には、代々受け継がれてきた役目がある。異世界からの迷い人を、この地に根付く前に消すこと。
異界から訪れる者たちは、しばしばこの世界に歪みをもたらす。常識を逸した力を持つ者も珍しくない。だが、問題はそれだけではなかった。
彼らの存在は、この世界の均衡そのものを揺るがしていく。だからこそ、災いが形を持つ前に、摘まなければならない。だからこそ、公爵家はその役を担うことになった。
ディテラは幼い頃から、剣を握り、暗殺の技を叩き込まれた。遊ぶ時間も、夢を見る余裕も、そこにはなかった。ただ、訓練だけがあった。
強力なスキルを持つ者ほど、成長してからでは手遅れになる。だから、芽のうちに摘む。それが鉄則だった。感情を挟む余地はない。迷いは、死を意味する。
ディテラの人生は、今日も続く。




