第6話:返却と、空白の熱
第6話:返却と、空白の熱
約束の一週間が、残酷なほどあっけなく過ぎ去った。
僕の人生で最も密度が濃く、そして最も不純で純粋な七日間。その終わりを告げる朝の空気は、皮肉なほどに澄み渡っていた。
鞄の奥、予備校のテキストよりも大切に仕舞い込まれた、白いハンカチの包み。その中に眠る銀色の腕時計は、今この瞬間も、僕の知らないリズムで時を刻み続けている。
自習室の席についても、参考書の文字は一行も頭に入ってこなかった。左手首を触れば、そこにはまだ、彼女の時計がもたらしていた「重み」の残像がこびりついている。
一週間、僕はその時計を肌身離さず持っていた。自習中は机の端に置き、彼女の香りを吸い込みながら計算問題を解いた。眠れない夜は、その秒針の音を子守唄にして、彼女の夢を見た。
この時計を返すということは、僕を支えていた彼女の体温を、自らの手で手放すということだ。
放課後。講師室へと続く廊下は、まるで処刑台へ続く道のように長く、冷たく感じられた。
窓から差し込む夕日は、一週間前と同じようにオレンジ色をしていて、それがかえって僕の焦燥を煽る。
僕は何度もハンカチの上から時計の感触を確かめ、震える指先で講師室のドアを叩いた。
「はい、どうぞ」
返ってきたのは、聞き慣れた、けれど聞くたびに胸を締め付ける、あの甘い声。
ドアを開けると、ユキさんは一番奥のデスクで、山積みのテスト用紙と格闘していた。
彼女は僕の姿を認めると、ペンを置き、ふわりと春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「あ、ダイスケくん! ちょうど今、どうしてるかなって思ってたところだよ」
彼女が左手首を掲げて見せる。そこには、僕の安っぽい黒いラバー時計がまだ巻かれていた。
細い彼女の手首で、僕の時計は所在なげに揺れている。その光景を見るだけで、僕の心臓は激しく波打った。僕の時間が、彼女の肌に触れている。その事実に、僕はどれだけ救われていただろうか。
「……ユキ先生。約束の一週間、経ちました」
僕はそう言って、丸椅子に腰を下ろした。
震える手で鞄からハンカチの包みを取り出し、机の上にそっと置く。
ユキさんは「ありがとう。本当に勉強、頑張れた?」と尋ねながら、丁寧にハンカチを広げた。
中から現れた銀色の腕時計は、夕方の蛍光灯の下で、一週間前よりもずっと深い輝きを放っているように見えた。
「はい。先生の時計があったから、一秒も無駄にできないって思えました。……本当に、ありがとうございました」
ユキさんは時計を手に取ると、愛おしそうにその風防をなぞった。
「うん。ダイスケくん、すごく綺麗にしてくれたんだね。なんだか、前よりキラキラしてる気がする」
彼女はそう言って、僕の時計を外し、自分の銀色の時計を再び左手首に巻いた。
カチッ、というバックルの閉まる音が、僕たちの「共犯関係」の終焉を告げる合図のように聞こえた。
ユキさんの手首に戻った時計。
それは本来あるべき場所に戻っただけなのに、僕は自分の内臓の一部をもぎ取られたような、猛烈な喪失感に襲われた。
彼女が時計を巻く際、わずかに袖口が捲り上がり、白い肌が露出する。その白さに、僕は目を逸らすことができなかった。
「はい、ダイスケくんのも。返却。一週間、お疲れ様」
彼女が差し出してきた僕のラバー時計。
それを受け取った瞬間、僕は息を呑んだ。
冷たいはずのゴムのベルトに、確かな熱が宿っていた。
ユキさんの体温だ。
さっきまで彼女の肌に密着していたその熱が、僕の手のひらを通じて、一気に心臓まで駆け上がってくる。
さらに、鼻腔をくすぐったのは、時計に染み付いた彼女の香りだった。
一週間、僕が彼女の時計の香りを吸い込み続けたように、僕の時計もまた、彼女の香りをたっぷりと吸い込んでいたのだ。
石鹸と、バニラと、そして彼女が放つ、抗いようのない生命の匂い。
「……先生」
「ん? なあに?」
「……寂しいです」
思わず、本音が漏れた。
ユキさんは一瞬きょとんとして、それから、困ったように眉を下げて笑った。
「もう。大げさだよ、ダイスケくん。時計がなくなっただけで、私がどこかに行っちゃうわけじゃないんだから」
彼女はそう言って、僕の頭をポン、と軽く叩いた。
子供をあやすようなその仕草。けれど、僕にとってはそれは、どんな言葉よりも残酷な「教師と生徒」の境界線だった。
僕は、彼女の指先が触れた場所に、じりじりとした熱を感じながら、必死に言葉を絞り出した。
「……次の模試で、結果出します。化学だけじゃなくて、全部。そしたら、また何かお願いしてもいいですか?」
ユキさんは、僕の真っ直ぐすぎる視線に少しだけ圧倒されたように見えた。
彼女のぱっちりとした瞳の中に、一瞬だけ、戸惑いとは違う、揺れるような光が宿った気がした。
「……そうだね。ダイスケくんが本当に頑張って、最高の結果を持ってきたら、先生、何でも一個だけお願い聞いてあげようかな」
「本当ですか」
「ふふっ、本当。だから、今はその時計と一緒に、しっかり前を向くこと。わかった?」
彼女の「ふふっ」という笑い声。その響きが、僕の体内の細胞一つひとつに染み渡っていく。
僕は自分の左手首に、返ってきたばかりの黒い時計を巻き直した。
まだ彼女の体温が残るその時計は、先ほどまでの「安物」ではなく、僕を彼女へと繋ぐ唯一の通信機のように感じられた。
講師室を出て、自習室へと戻る。
廊下を歩く僕の足取りは、不思議と力強かった。
喪失感は消えていない。けれど、それを上回るほどの「新たな熱」が、僕の中で燃え始めていた。
自習室の席に着き、僕は左手首を鼻に近づけた。
そこに残る香りを、一滴も逃さないように吸い込む。
彼女の体温、彼女の香り、そして彼女との約束。
浪人生活という暗いトンネルの中に、僕は自分だけの道標を見つけた。
この時計が刻む一秒一秒は、もう無意味な時間の浪費ではない。
それは、ユキさんという目的地へと続く、確実な一歩なのだ。
僕はペンを握りしめ、真っ白なノートに最初の文字を書き込んだ。
――待っていてください、ユキ先生。
窓の外、夜の帳が下りた予備校の空に、一番星が小さく光っていた。
僕の八ヶ月という名の時計は、今、かつてないほどの熱量を持って、未来へと進み始めた。




