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『【実録】浪人生の僕と26歳の担任。~腕時計を交換したあの日から、僕たちは終わるために恋をした~』  作者: マサキ


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第4話:銀色の相棒

第4話:銀色の相棒


 予備校の放課後というのは、昼間よりもずっと残酷な静寂に支配されている。

 自習室の空気は、受験生たちが吐き出す二酸化炭素と、焦燥感、そして消しゴムのカスが舞う独特の匂いで濁っていた。窓の外では、部活帰りであろう高校生たちの笑い声が遠く響き、それがこの閉鎖された空間にいる僕たちとの、埋めようのない隔絶を突きつけてくる。

 僕は参考書を開いたまま、ペンを動かす手が止まっていた。

 頭の中に浮かぶのは、難解な化学式ではなく、三日前の面談室で見たユキさんの微笑みだ。そして、彼女が「相棒」と呼び、お守りのように大切にしている、あの銀色の腕時計の輝き。

 僕が今つけている安っぽいラバー時計は、一秒一秒をただ「浪人生活の終わり」へと事務的に進めるだけの装置に過ぎない。けれど、彼女の手首にある時計は、彼女の人生の重みを刻んでいるように見えた。

 どうしても、もう一度あの時計を、そして彼女を近くで感じたかった。

 重苦しい自習室の空気から逃げ出すように、僕は意を決して立ち上がった。質問用のプリントを一枚手に取り、講師室へと向かう。この時間は、講師たちが一息つくタイミングだ。ユキさんがまだ残っていることを、僕は半分だけ確信し、半分だけ祈っていた。

 講師室の重いドアを開けると、コーヒーの匂いと、コピー機の熱気が混じった空気が鼻をついた。

 一番奥のデスク。そこに、少し丸めた背中で資料を整理している小さな影を見つけた。ユキさんだ。

 彼女は、講師用の大きな椅子に対してあまりに小柄で、まるで子供が背伸びをして仕事をしているように見えて、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。

「あの、ユキ先生。質問、いいですか?」

 僕が声をかけると、ユキさんは肩を少し跳ねさせて振り向き、僕の顔を見るなり、またあの柔らかい微笑みを浮かべた。

「あ、ダイスケくん! どうしたの? またマークミスして絶望した顔になっちゃった?」

「違いますよ。今日は、本当に分からないところがあったんです」

 僕が苦笑いしながらプリントを差し出すと、彼女は「ふふっ、冗談だよ」と言って、自分の椅子の隣に丸椅子を引き寄せた。

「いいよ、座って。どこが分からない?」

 促されるままに座ると、彼女との距離は三十センチもなかった。

 面談室の時よりもさらに近い。石鹸のような、そして微かにバニラのような甘い香りが、僕の理性をじわじわと麻痺させていく。

 ユキさんは僕のプリントを覗き込み、ペンを動かし始めた。

「ここはね、この公式をそのまま当てはめるんじゃなくて、電子の動きをイメージしてみて……」

 彼女の解説は丁寧だった。けれど、僕の意識はその内容よりも、動く彼女の唇や、熱心に説明する際にわずかに揺れる、白くて細い首筋に釘付けになっていた。

 そして、プリントを押さえている彼女の左手首。

 夕方の蛍光灯の下で、あの銀色の腕時計が、静かに、けれど確実に時を刻んでいた。

 

 質問が終わった後も、僕は立ち上がることができなかった。

 ユキさんが不思議そうに「ダイスケくん?」と僕の顔を覗き込む。

 僕は、握りしめた拳に力を込め、喉まで出かかった言葉を、勢い任せに吐き出した。

「先生……その、お願いがあるんです」

「お願い? 英語の単語テスト、一回休ませてとかじゃないよね?」

「違います。……先生のその時計、一週間だけ貸してくれませんか?」

 ユキさんの瞳が、驚きに大きく開かれた。

 講師室の喧騒が、一瞬だけ遠のいたような気がした。

「え……? 私の時計を?」

「はい。さっきの面談の時、お守りだって言ってたじゃないですか。……それ、僕に貸してほしいんです。先生の時計が手元にあったら、僕、今までの何倍も勉強頑張れる気がするんです。次の模試で、絶対にミスしない自信が持てる気がするんです」

 自分でも驚くほど、必死な声が出ていた。

 そんなこと、許されるはずがない。教師と生徒が私物を、しかも肌に身につけるものを貸し借りするなんて。

 けれど、僕は賭けてみたかった。この「浪人生」という不安定な立場が許す、なりふり構わない誠実さが、彼女に届くのかを。

 ユキさんは、困ったように眉を下げ、自分の手首を見つめた。

 

「そんな……私の時計なんて、男の子がつけるようなものじゃないよ? 華奢だし、ピンクゴールドも入ってるし……それに、これお気に入りだから……」

「わかってます。でも、先生の『時間』を借りていると思えば、一秒も無駄にできないって思えるんです。お願いします」

 僕は頭を下げた。視界の端で、彼女の細い指先が、時計のベルトを愛おしそうに撫でるのが見えた。

 長い沈黙が流れる。鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。

 やがて、ユキさんは小さく、けれど深い吐息をついた。

「……もう、ダイスケくんは本当に、真っ直ぐすぎるね。そんなこと言われたら、断りづらいじゃない」

 ユキさんは、困り果てたような、けれどどこか嬉しそうな微笑みを浮かべた。

 そして、細い指先で自分の腕時計のバックルを外した。

 カチッ、という小さな金属音が、静かな講師室に鮮烈に響いた。

 

「……はい。一週間だけだよ? 壊したり、失くしたりしたら、本当に怒るからね。その代わり……ダイスケくんの時計、私が預かっておく」

「え……?」

「交換、でしょ? 私だけ時間を取られちゃうのは不公平だもん。ほら、貸して」

 予想外の言葉に、僕は呆然としながらも、自分の左手首からラバー時計を外した。

 ユキさんは、僕の黒い時計を両手で受け取ると、自分の細い手首にそれを当てた。けれど、僕の時計は彼女の手首に対してあまりに大きく、ベルトの穴を一番奥にしても、まだゆるゆると遊んでしまう。

 ユキさんはそれを見て、「うわ、大きい!」とふふっと鈴を転がすような声で笑った。

「見て、ブレスレットみたい。なんか、男の子の時計って感じがする。……よし、これで一週間、ダイスケくんの時間は私が預かったからね」

 彼女の手首でぶら下がる、僕の安っぽい時計。

 それが、彼女の柔らかな肌に密着している光景を見て、僕は喉の奥が焼けるように熱くなった。

 

 今度は僕が、彼女の銀色の時計を受け取った。

 その瞬間、驚くほどの熱が手のひらに伝わってきた。

 それは、たった今まで彼女の肌に触れていた、彼女の体温そのものだった。

 冷たい金属であるはずの時計が、まるで生き物のように僕の手の中で脈打っているような気がした。

 

 案の定、ベルトは短くて僕の手首には届かない。僕はそれを無理に締めず、拳の中に握り込むようにして、手首に押し当てた。

 

 ひんやりとした金属の感触の奥に、依然として彼女の熱が残っている。

 そして、それ以上に僕を動揺させたのは、立ち上る香りだった。

 時計のベルトに染み付いた、あの石鹸とバニラの香り。

 彼女の吐息をそのまま閉じ込めたようなその香りが、僕の鼻先を掠めるたび、意識が遠のきそうになる。

「……重い。先生の時計、意外と重みを感じます」

「それはね、先生の期待の重さだよ。……約束だよ、ダイスケくん。一週間、しっかり頑張ること」

 ユキさんは、僕の心の乱れに気づく様子もなく、またあの柔らかい微笑みを浮かべて僕を見た。

 

 講師室を出て、薄暗い廊下を歩く。

 左手首には、彼女の時間が、彼女の体温が、彼女の香りが、確かに存在していた。

 自習室に戻る足取りは、先ほどとは全く違っていた。

 

 窓の外では、もうすっかり日が落ち、濃紺の夜が街を包み込もうとしている。

 僕は自分の席に座り、周囲に悟られないよう、こっそりと左手首を鼻に近づけた。

 

 暗闇の中で、銀色の秒針がチクタクと音を立てている。

 それは、僕と彼女だけが共有する、秘密の鼓動のように聞こえた。

 

 一週間。

 この銀色の相棒が、僕をどんな場所に連れて行ってくれるのか。

 浪人生という孤独な時間の代わりに、僕はユキさんという「時間」を手に入れてしまった。

 それが、僕をさらなる深みへと引きずり込んでいく予兆だとは、その時の僕はまだ、気づいていなかった。


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