第3話 夕暮れの面談室
予備校の廊下は、夕食前の独特な静けさに包まれていた。
普段は騒がしいはずの廊下も、この時間帯だけは自習室に籠もる者たちの執念が壁を伝って漏れ出し、重苦しい空気が停滞している。遠くで誰かが咳き込む音が、無機質なタイル張りの床に反響して消えていった。
僕は、三番面談室と書かれたプレートの前に立ち、一度深く息を吸い込んだ。
鞄の中には、あの忌々しい成績表が入っている。化学の欄を完璧に埋めながら、科目選択のたった一箇所のマークミスで、僕のプライドは文字通り「無」に帰した。それを今から、あのユキさんの前で晒さなければならない。
情けなさと、けれどどこか心の奥で「彼女と二人きりになれる」という卑怯な期待が、僕の胸の中で複雑に絡み合っていた。
僕は二回、静かにドアを叩いた。
「はい、どうぞ」
中から聞こえてきたのは、冷え切った廊下の空気を一瞬で塗り替えるような、あの甘い声だった。
ドアを開けると、狭い面談室は夕日に染め上げられていた。窓から差し込むオレンジ色の光が、埃の粒をキラキラと反射させ、まるで映画の一シーンのような非現実的な空間を作っている。
その光の真ん中で、ユキさんがパイプ椅子に腰掛けていた。
「……失礼します」
僕は努めて平静を装い、彼女の向かい側に座った。
至近距離で対面するユキさんは、教壇に立っている時よりもずっと小柄で、その細い肩は、僕が手を伸ばせば簡単に壊れてしまいそうなほど華奢に見えた。机の上に広げられた僕の成績表。彼女はそれをじっと見つめ、細い指先で紙の端をなぞっている。その指先の爪が、清潔な桜色をしていることにまで、僕は気づいてしまった。
「ダイスケくん。……これ、どうしちゃったのかな?」
ユキさんがゆっくりと顔を上げた。ぱっちりとした瞳に、困惑と、僕を責めるのではない「心配」の色が滲んでいる。
僕は彼女の視線から逃げるように、わざと少しだけ肩をすくめて、他人事のように言った。
「あ、それ。実は、化学を解いたのに『地学』の欄をマークしちゃったんです。科目選択のところ。一箇所塗り間違えただけで、あんな点数になるんですね」
僕が自嘲気味に笑うと、ユキさんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。そして、慌てて成績表と僕の顔を交互に見比べた。
「えっ……! じゃあ、解答欄そのものは、全部化学の答えを書いたってこと?」
「はい。自己採点だと、ちゃんと化学として採点されてれば九十点はありました。だから実力的には、まあ、問題ないかなって。次は気をつけます」
僕が努めて軽やかに言い切ると、ユキさんは「はぁぁ……」と、全身の空気を全部吐き出すような大きなため息をついた。その拍子に、彼女の小さな胸が上下し、白いブラウスがかすかに揺れる。彼女は自分の胸元にそっと手を当て、心底安堵したような表情を浮かべた。
「……よかったぁ。ダイスケくん、急に勉強が手につかなくなっちゃったのかと思って、先生、本気で心配したんだから。夜も眠れなかったんだよ? 九十点も取れてたなら、もう全然オッケー! 安心したぁ」
そう言って彼女は、ふわりと、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。目が細くなり、柔らかそうな頬が緩む。その笑顔を見た瞬間、僕の胸の奥がギュッと、熱い痛みを伴って締め付けられた。
僕がマークミスをした本当の理由――試験中、彼女のふとした仕草や、その手首で刻まれる秒針の音に、意識の全てを持っていかれていたこと――を、彼女は知る由もない。その無邪気な安堵が、今の僕にはどんなご褒美よりも価値があり、そして同時に、どんな罰よりも僕の心を苛んだ。
けれど、ユキさんはすぐに講師としての顔を取り戻し、ぷくっと頬を少しだけ膨らませて僕を睨んだ。その仕草すら、計算されていない純粋な可愛らしさに溢れていて、僕は目を逸らすことができなかった。
「でもね! ダイスケくん」
彼女がぐい、と机に身を乗り出してくる。
石鹸のような、清潔な香りが一気に僕の鼻腔を満たした。
彼女の顔が、僕のすぐ目の前にあった。長い睫毛の隙間で揺れる、澄んだ瞳。鼻先に触れそうなほどの距離。僕は呼吸の仕方を忘れ、ただ石像のように固まることしかできなかった。
「本番でこれやったら、一年間の努力が全部パーになっちゃうんだよ? 浪人生にとって、一問、一箇所のミスがどれだけ重いか、ダイスケくんなら分かってるでしょ? 先生、本当に心臓に悪いから、次は絶対、絶対、指差し確認すること! 約束!」
彼女はそう言って、細くて白い人差し指を僕の鼻先に突き出した。
怒っているはずなのに、その声はどこまでも甘く、僕の鼓膜を愛おしく撫でる。
まるで、恋人にわがままを言われているような、あるいは自分だけが特別な指導を受けているような、そんな歪んだ幸福感に僕は浸っていた。
「……すみません。次は、指が折れるまで確認します」
「ふふっ、そこまでしなくていいけど。……あ、そうだ」
ユキさんは鈴を転がすような声で笑うと、満足そうに頷き、ふと思い出したように自分の左手首を返した。
窓からの西日を反射して、銀色の腕時計の風防がキラリと鋭い光を放つ。
「もうこんな時間。ダイスケくん、この後も自習室残るんでしょ? お腹空きすぎないうちに、一回休憩入れなさいね。脳みそには糖分が必要なんだから」
彼女が時計をじっと見つめるその横顔に、一瞬だけ、僕の知らない「大人の女性」の眼差しが混じった。誰かを待っているのか、あるいは過ぎ去った時間を惜しんでいるのか。講師としての彼女ではない、一人の二十六歳の女性としての、どこか遠くを見つめるような寂寥感。
その時、僕は強烈に思った。
彼女の見つめるその時計が刻んでいるのは、僕にはまだ立ち入ることのできない、彼女自身の人生の時間なのだ。
それを、少しでも僕の方へ引き寄せたい。
彼女と同じ速さで流れる時間を、この腕で感じてみたい。
そのための方法を、僕は本能的に探していた。
「先生」
「ん?」
「その時計、綺麗ですね。先生にすごく似合ってる」
僕が唐突にそう言うと、ユキさんは少し驚いたように自分の腕時計を見つめ直し、それからまた、照れたようにふふっと笑った。
「これ? うん、お気に入りなの。私の相棒っていうか、お守りみたいなものかな」
そう言って彼女は軽やかに席を立ち、成績表を僕に返してくれた。
面談室を出て行く彼女の背中を、僕はただ黙って見送った。
廊下に消えていく彼女の小さな足音。その音が聞こえなくなるまで、僕は動けなかった。
その後、自習室に戻った僕は、一文字も教科書を読み進めることができなかった。
机に広げたノートには、彼女の指先が触れた残像がこびりついている。
九十点の答案を捨てて得た、十五分間の二人きりの時間。
自分の手首にある、安っぽいデジタル時計を見る。
液晶に表示された数字は無機質に変わっていくが、僕の心は、先ほど彼女の腕時計が放った銀色の光の中に、今も取り残されたままだった。
――次の模試でも、もしマークミスをしたら、またあんな風に僕を見てくれるだろうか。
そんな愚かな考えが頭をよぎるほど、僕はもう、彼女という引力から逃げられなくなっていた。




