第10話:花火の音、恋の産声
第10話:花火の音、恋の産声
約束の当日。八月の湿った夜風が、祭りの熱気と人々の高揚した吐息を孕んで、重たく街を包み込んでいた。アスファルトからは昼間の太陽の残熱が立ち上り、肌にまとわりつくような不快感があるはずなのに、僕の心はその熱さえも自分の鼓動の速さを煽るスパイスのように感じていた。
僕は指定された待ち合わせ場所の時計塔の前で、何度も何度も、左手首の黒いラバー時計を確認していた。秒針が刻むチクタクという音さえも、僕を急かすかのように、あるいは焦らすかのように、いつもより鋭いリズムで鼓膜を叩く。自習室で冷房の風に吹かれながら参考書と向き合っている時とは違う、言いようのない緊張が、僕の肋骨の内側を、まるで閉じ込められた野獣が暴れるかのように激しく叩き続けていた。
人混みの向こうから、その姿が現れた瞬間、僕は肺の中の空気をすべて奪われたかのように、呼吸の仕方を忘れた。
「……あ、ダイスケくん。お待たせ。……変かな?」
そこにいたのは、いつもの予備校で見せる、あの凛とした講師用ブラウス姿ではない。深い藍色の浴衣に身を包んだ、ユキさんだった。
うなじですっきりとまとめられた髪、そこから露わになった項の、吸い込まれるような白さ。夜の闇に映える控えめな撫子の模様が、彼女の華奢な肢体を艶やかに、そして残酷なほど美しく縁取っている。普段の「先生」としての威厳や落ち着きはどこかへ消え失せ、そこには目が眩むほど純度の高い、一人の女性が立っていた。
僕は私服のTシャツにチノパンという、あまりに無頓着でガキっぽい自分の格好を、この瞬間ほど呪ったことはない。もっと背伸びをすべきだったか。いや、どんな服を着ても、今の彼女の前では僕はただの「青臭い若者」に過ぎないのかもしれない。けれど、彼女はそんな僕の、目に見えて動揺している様子を見透かしたように、ふわりと、いつもの柔らかさで微笑んだ。その微笑みひとつで、僕は彼女というブラックホールのような引力に、抗う術もなく捕らわれてしまったのだ。
「……綺麗です。すごく」
語彙を失った僕の口から漏れたのは、そんなありふれた、けれど一滴の嘘も混じらない本音だった。ユキさんは「もう、お世辞でも嬉しいよ。今日は先生じゃなくて、一人の女の子として楽しんでもいいかな?」と少し照れくさそうに笑い、僕たちは目的地へと歩き出した。
会場に近づくにつれ、人混みは増し、祭りの狂騒が二人を包み込んでいく。肩と肩が触れ合いそうな距離。いや、実際には何度も触れていた。そのたびに、僕の腕には電流が走るような刺激が伝わる。
ふとした瞬間に、ユキさんが小さく顔をしかめ、歩調を崩すのが分かった。
「……どうしたんですか?」
「ううん、大丈夫。……ちょっとね、この下駄、履き慣れてないから、足が痛くなっちゃって。先生、格好つけすぎちゃったかな」
彼女は無理に笑おうとしていたが、足元を見れば、鼻緒に擦れた繊細な肌が、痛々しく、そしてどこか官能的に赤くなっている。僕は迷わず、彼女の歩調に完全に合わせ、ぶつかりそうな人混みから彼女を庇うように、そっと隣に寄り添った。彼女の肩が僕の二の腕に触れるたび、火傷しそうなほどの熱が、浴衣の薄い布地を突き抜けて伝わってくる。
「無理しないでください。あっちに少し座れるところがありますよ。……ゆっくり行きましょう」
「ごめんね、ダイスケくん。せっかくの花火なのに、私が足引っ張っちゃって」
申し訳なさそうにする彼女が、僕の左腕に、ほんの少しだけ体重を預ける。
浴衣越しに伝わってくる、彼女の柔らかな体温。そして、あの石鹸とバニラの香り。それは自習室で時計を握りしめて感じていたものよりもずっと生々しく、湿り気を帯びて、僕の理性をじわじわと、着実に麻痺させていく。
やがて、夜空を裂いて最初の一発が打ち上がった。
漆黒の帷を切り裂き、天高く昇った光の筋が、頂点に達した一瞬の静寂の後に弾ける。
ドーン、と腹の底まで震わせる、重厚で暴力的なまでの重低音。
夜空を埋め尽くすのは、黄金色の柳が枝を垂らすようにゆっくりと崩れ落ちる大輪。かと思えば、色彩豊かな紅や翡翠の火花が、宝石箱をひっくり返したように四方八方へ飛び散る。周囲からは地鳴りのような歓声が上がり、誰もがその一瞬の輝きを追い求めて首を伸ばしていた。
けれど、僕は、夜空をほとんど見上げることができなかった。
僕の隣で、瞳を輝かせて空を見つめるユキさんの横顔。それこそが、僕にとってのこの世で唯一の、そして最高の絶景だったからだ。
大輪の火花が夜空で爆ぜるたび、その鮮烈な光が彼女の白い肌を、万華鏡のように塗り替えていく。
情熱的な紅の光が差せば、彼女の頬は禁断の果実のように艶やかに色づき、冷ややかな蒼の光が降れば、その横顔は月の女神のような静謐な美しさを帯びる。さらに金色の火の粉が舞えば、彼女の瞳の中に小さな星々がいくつも宿り、キラキラとまたたいた。
光を反射する、潤んだ瞳。驚きにわずかに開かれた、小さく震える唇。そして、花火が放つ熱風に揺れる、汗ばんだうなじの後れ毛のひとすじ。
大きな火花が閃光を放つたび、浴衣の襟元から覗く彼女の鎖骨が、妖しく陰影を描いて浮かび上がる。その細い首筋から立ち上がる、熱を帯びた「女」の香りに、僕の理性を繋ぎ止めていた細い糸が、じりじりと焼け切れていく。
空を焦がすどんな名匠の花火よりも、僕にとっては、目の前で光を浴び、呼吸し、肩を震わせる彼女の方が、何億倍も僕の心を激しく、そして狂おしく揺さぶるのだ。
一秒、一瞬たりとも、この姿を逃したくない。脳内のシャッターを何度も切り、彼女のすべてを記憶に焼き付けようと必死だった。
花火を見上げる何万という人々の影の中で、僕はただ一人、花火には目もくれず、彼女という「真実の光」を凝視し続けていた。
(好きだ……。先生じゃない、ユキさん。もう、どうしようもないくらいに、狂うほど、あなたを愛してる)
確信が、熱い塊となって喉元までせり上がってくる。胸の奥が張り裂けそうだ。
花火が終わり、興奮の余韻を引きずる群衆の喧騒から逃れるようにして歩いた。彼女の家へと続く道は、駅前の賑わいが嘘のような、死んだような静寂に満ちた住宅街の路地裏だった。
そこは街灯が等間隔に並び、淡いオレンジ色の光が、僕たちの影をアスファルトの上に長く、長く伸ばしていた。
逃げ場のないほどに重なり合う二人の影。
遠くで上がるフィナーレの残響が、胸の奥底を最後のひと振りのように揺らす。
僕は、足を止めた。
「ユキさん」
初めて、肩書きを捨てて、彼女の名前だけを呼んだ。
ユキさんはその歩みを止め、不思議そうに、けれどどこかすべてを悟ったような眼差しで、僕をゆっくりと振り返った。街灯の下、彼女の瞳には僕の姿だけが、混じりけのない純度で映り込んでいる。
僕は震える拳を握りしめ、十八歳の僕が持てる全生命力を、全存在を、たった数文字の言葉に凝縮して、彼女へと叩きつけた。
「先生じゃなくて、一人の女性として、ユキさんのことが好きです。……付き合ってください」
沈黙。
風の音さえも吸い込まれて消えたような、完璧な静寂が二人を包んだ。
ユキさんは目を見開いたまま、じっと僕を見つめていた。
彼女の脳裏に、これまでの僕たちの時間が、あの時計の温もりが、お好み焼き屋での無謀な約束が、走馬灯のように駆け巡っていたのかもしれない。彼女の胸が、浴衣の下で激しく上下しているのが分かる。
やがて、ユキさんはふっと視線を落とし、それから、これまで見たこともないような、優しくて、どこか重い覚悟を秘めた大人の女性の顔で、僕をまっすぐに見上げた。
「……いいよ」
たった三文字。
けれど、その言葉は僕のこれまでの浪人生活という名の絶望をすべて肯定し、未来のすべてを黄金色に塗り替える、魔法の響きを持っていた。
ユキさんは、少し照れたように、けれど僕の手を求めるように、小さな、震える右手を差し出した。
「本当にとんでもない生徒なんだから、ダイスケくんは。……これから、大変だよ?」
僕は舞い上がる心を必死に抑え、彼女の小さな、けれど驚くほど温かな手を、折れそうなほど強く握りしめた。
下駄の痛みも、受験の不安も、世界を覆う闇も、この瞬間だけは僕たちの敵ではなかった。
この後、彼女の家で過ごすことになる初めての夜。
それは、浪人生と講師という境界線が、完全に、そして美しく崩壊していく夜。
十八歳の僕は、握った手の確かな温もりだけを道標にして、彼女と共に、その未知なる、けれど幸福に満ちた扉を開けようとしていた。
夜空にはもう花火の残滓しか漂っていなかったが、僕の胸の中には、生涯消えることのない情熱の火花が、今この瞬間も、煌々と、そして激しく咲き乱れ続けていた。




