『第六話・5 : 灯が尽きる前に 』
リリアの足元で、重力が一瞬だけ狂った。
(あっ……やばい)
リリアの意識が刹那に遠のき、瞳の光がふっと消えた。
胸に積もった失望の重みと共に、身体が抗うことなく膝から崩れ落ちる。
握っていた剣は乾いた音を立てて石畳に転がり、澄んだ金属音が夜を裂いて反響し、やがて虚空に溶けていく。
剣を振るう力も、希望を抱きとめる気力も、もう残っていなかった。
六翼の残光は空へと散り、焦げた大地を虚ろな輝きで覆い尽くしていた。
「リリア!」
セラフィーは駆け寄り、その身体を抱きとめた。
胸はかすかに上下している。呼吸はある。
だが、その瞼は重く閉ざされたまま、目を覚ます気配はどこにもなかった。
(……息はある……まだ生きてる……!)
胸を撫で下ろしたのも束の間、冷たい衝動がセラフィーの心に忍び込む。
(……今なら……)
(――ここで彼女の命を絶てば、この世界は救われるのではないか。)
セラフィーの指先がかすかに震える。
(……ごめん、リリア。私だって、こんなこと望んでない……
でも、もしあの力が再び暴れ出したら……
あなたを信じるよりも、世界を守ることを選ぶしか……!)
その刹那
リリアの身体を、淡い輝きが包み込んだ。
それは形を成し、幼い少女の幻影となって浮かび上がる。
まだ何も知らぬような無垢な笑み。
小さな両腕が、崩れ落ちたリリアをやさしく抱きしめる。
温もりが、セラフィーの胸にまで流れ込んでいく。
突き刺さっていた冷たい衝動は、まるで雪解けのように音もなく溶かされていった。
心臓がきしむ。
理解なんて追いつかない。ただ、涙が勝手に溢れて止まらなかった。
胸に広がる温もりは名を持たず、言葉にならず、それでも確かに“守る”と告げていた。
理屈ではなく、魂そのものが震え、祈りに抱かれているのだと悟らされた。
名を与えるなら封印かもしれない。奇跡かもしれない。
だが今のセラフィーには、そんな呼び方すらどうでもよかった。
ただ一つ、リリアを包む光が彼女を奪わせまいと必死に抗っている──その事実だけが胸を震わせた。
淡い幻影は、ただの幻ではなかった。
封じられた奥底から滲み出た、正体の掴めない力。
勇者としての剣ではなく、ただ人としての祈りが形を取り、彼女自身を抱きとめていた。
セラフィーは目を閉じ、深く息を吸った。
頬を伝う涙は止まらず、拭おうとしても次々に零れ落ちていく。
胸の奥に残っていた恐怖も迷いも、その雫と一緒にこぼれ落ちていくようだった。
「……そうね……」
震える声で呟き、唇を噛む。
「……信じるしかないのよね……リリアを……」
頬を濡らしながら、ブッくんが頁をばたばた震わせて絶叫する。
「せ、せやぁぁ!!
リリアはんは……リリアはんはワイらの仲間やろがッ!!
ここでや、ここで見捨てるとか……そんなん、ありえへんやろ!!
アカン、絶対アカン!!
捨てたらアカンのや!!
ワイらは……ワイらは最後まで一緒や言うたやろがァァ!!」
その声に、セラフィーは涙を拭うことなく、静かに頷いた。
(——急がなければならない。
今のリリアの状態は、明らかに“ただ事”ではない。)
(これは治癒魔法の領分じゃない。
命が削れているわけでも、傷があるわけでもない。
——“存在そのもの”が、壊れかけている。)
(王都へ戻る。
すぐに、専門医の手に預けなければ。)
セラフィーは迷わず両手を掲げた。
次の瞬間、大地を叩くように光が奔り、幾重もの術式紋が地表に展開されていく。
「──転移術式〈ゲート〉、起動!」
魔法陣は轟くように輝きを増し、眩い閃光が三人を包み込む。
荒れ果てた戦場は音も匂いも遠ざかり、血と炎の臭気も、黒い湖の泡立ちも――すべてが光の彼方へと置き去りにされた。
目も眩む浮遊感ののち、三人は石畳の回廊に吐き出された。
そこは王都の中央区――既に待機していた治癒師たちが駆け寄り、リリアを担架に移す。
セラフィーは息を荒げながらその背を追い、ブッくんは涙まみれの頁をばたつかせていた。
「急げ! 医療塔へ!」
治癒師の叫びとともに扉が開かれ、冷たい薬草の香りが押し寄せてくる。
──そして。
眩しさが引いたとき、そこは静謐な王都の医療塔だった。
白亜の石壁に囲まれた広間。天井からは澄んだ光が射し込み、外の喧騒から切り離されたように静まり返っている。
外ではまだ戦のざわめきが続いているはずなのに、この塔だけが世界から切り離されたように、異様な静謐に沈んでいた。
白い寝台の上に、リリアは静かに横たわっていた。
その姿は、眠り姫のように穏やかだった。
だが同時に、その静けさは安らぎではなく、まるで“永遠の眠り”へと沈んでいく前触れのように思えた。
「……リリア……」
セラフィーはシーツを握りしめ、祈るようにその顔を覗き込んだ。
隣でブッくんも、涙で湿った頁を震わせている。
医師は重く首を振った。
「……あの戦いで、彼女は文字通り“命を削った”のでしょう。
魂の芯にまで刃を刻み込んだ……普通の人間なら、とっくに死んでいるはずです。
あそこまで無理をして生き延びたこと自体が、
奇跡と呼ぶしかない――それ以上の説明は、ありません。」
セラフィーは唇を噛み、震える声を洩らす。
「……そんな……リリア……どうして……」
ブッくんも頁を濡らしながら嗚咽を漏らす。
「無茶しすぎや……この人はいつもそうや……ッ」
白い寝台の上、リリアは微動だにせず眠り続けている。
ただ、かすかな呼吸だけが、
“まだ終わっていない”と示す、唯一の徴だった。
やがてリーダー格の医師が歩み寄り、重苦しい沈黙を割るように声を落とした。
「……肉体の損傷は回復符で繋ぎとめています。だが精神は“魂位崩壊”の兆候を示しています。
魂の灯火が深い闇に沈み込み、このままでは……目覚める前に、灯が尽きる可能性が高い」
セラフィーは息を呑み、堪えきれず医師の袖を掴んだ。
「……どうにかならないんですか!? 先生……! リリアを助ける方法は……!」
医師は深く眉を寄せ、低く答える。
「応急の手は尽くしました。回復符も祈祷も、これ以上は“外側”を繕うだけ……魂そのものを救う術は、
少なくとも――この世界の“医療”には、存在しません」
医師はしばらく沈黙し、視線を床に落とした。
その間、時計の針の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……ただ一つだけ手はあります。」
「伝承にある“蒼梢の雫草”。
魂に宿る魔力の濁りを清め、深層から意識を呼び戻すとされる幻の薬草です。
王都には存在しません。北方の魔境……“霧氷の谷”でしか採れぬと言われています。本当にあるのかどうかもわかりませんが」
静寂が落ちる。
セラフィーは拳を握り、ブッくんは頁を震わせながら声を上げた。
「……探しに行くしか、あらへんやろ……! リリアはんを、見捨てるわけにいかへん!」
「霧氷の谷やろうが地獄やろうが、ワイらが行かんで誰が行くんやッ!!」
セラフィーは涙を拭わずに頷いた。
その瞳に宿った光は揺るがず、深い夜を切り裂く決意だけが残っていた。
王都の鐘が遠くで鳴り、冷たい風が頬を撫でる。
ワン太は、誰にも促されることなく、
そっと寝台の足元に伏せた。
リリアを救うための旅は、もう始まっていた──。
【第三部 完】




