『第二話 • 5 : 勇者、国家級ザッハを前に理性と食欲が決裂する』
その刹那──
──バキィィィィン!!
封印の扉が悲鳴を上げ、結晶の侵食に耐えきれず崩れ落ちた。
砕け散った鉄片と光の破片は、吹雪のように廊下へ乱れ飛び、
空気そのものが震え、弾け、流れを失った。
「きゃ──っ!」
セラフィーがマントを翻し、ブッくんがばたばたと頁を振り乱す。
爆風に煽られ、小さな布の影が宙を回転した。
「わっ……!」
リリアは咄嗟に腕を伸ばし、飛んできたワン太を抱きとめる。
(……やば……! 抱き心地モフモフ……いや違う今は集中しろ俺……!)
甘気の奔流が廊下を白く塗りつぶす。
視界も音もすべて溶け、世界が“甘い無音”に包まれた。
──その白が、ふっと晴れた瞬間。
世界は、まるで息をのみこんだように“止まっていた”。
床も壁も、乱れていた気流さえも、
さっきまでの混乱を忘れたように静止している。
その静止した時の中心。
そこにあったのは──
ただの菓子ではない。
《聖なるザッハトルテ》。
黒曜石の艶は光を呑み、影を孕み、
それでいて周囲の視線を強制的に吸い寄せる“甘美の重力”だった。
圧倒的で、神殿の祭壇のように荘厳で。
その場に立つだけで、膝が折れそうになるほど“格”がある。
それはもうケーキではなく──
この城の心臓であり、国家の最後の祈りそのものだった。
(……やばい。見てるだけで胃が震える……これ絶対うまい。)
その前に立ちはだかるのは、透き通る結晶の犬──いや、砂糖細工の聖獣。
カラメル色に光る牙が、床石を噛み砕くたび、甘い火花が散る。
一歩ごとに、空気の密度が上がる。
聖なるザッハトルテを前にしたその姿は、もはや“守護者”ではなく──
捕食者。
空気がひとつ、固く震えた。
「ひ、ひえぇぇぇぇっ!?
なんで犬が国宝ケーキに噛みつきに行っとんねん!!
散歩中の拾い食いやないんやぞコレぇぇ!!
ザッハトルテを“犬用ジャーキー”扱いすなやぁぁ!!」
張りつめた空気のど真ん中で、ブッくんだけが盛大に裏返り、緊張という緊張を、文字ごと粉々に吹っ飛ばした。
リリアの喉がごくりと鳴る。
(……おい待て。
守護者が“ケーキハンター”にジョブチェンジってどういう事態だよ。
国家存亡が犬の食欲で左右される世界線やめろ!!)
「……リリア」
セラフィーが横目で問いかける。
「聖獣オルフェスを止めなければ……! ザッハを食べられた瞬間、この国は──」
――床石を砕く音は、すでに“破滅のカウントダウン”だった。
「──させない!!」
リリアが地を蹴った瞬間、空気が一段階重く沈む。
甘気が凝固し、**“見えない圧の壁”**となって押し返してきた。
(……来る。これは“甘味障壁”──甘さそのものが空気を固めるタイプ……!)
「リリア、前! 甘気の濃度が急上昇してるわ!」
セラフィーが剣を構え直す。
「任せてッ!」
魔力を脚に込め、リリアは圧の層へ一直線に踏み込む。
レーヴァテイン・ゼロが光の爪痕を走らせ、
甘気の膜に“通り道の起点”となる細い切れ目を刻んだ。
「わ、ワイもやったるでぇぇ!!」
ブッくんが涙目で呪文を解き放つ。
「焦げよ! 滅びよ! 呪糖黒焔ぇぇ!!」
黒炎が切れ目へ流れ込み──
──じゅぅぅ……!
焦げ甘い香りが爆ぜ、
リリアの刻んだルートは一気に焼き広がり、まるで“突破の線”のように道が開いた。
「今だセラフィー! 一気に抜けるよ!!」
三人の力がひとつに重なる。
光、炎、祈り──その衝突は轟音となり、
聖獣の前に立ちはだかっていた“甘気の防壁”が、音を立てて粉々に砕け散った。
だが──
その破砕音が響き切るより早く、聖獣はすでに踏み込んでいた。
巨大な結晶の脚が石床を抉り、
カラメル色の牙が“あと数歩”で聖なるケーキへ届く。
空気が、甘い絶叫のように軋んだ。
その瞬間、リリアの中で ぷつん、と何かが切れた。
(……ケーキを守る? 犬を止める? そんな高尚な話じゃねぇ!
もっと単純なんだよ……!)
足元で砂糖の霧が、月光の欠片みたいにひらりと舞う。
胸の奥で――甘味への執念というより、もっと原始的な“飢え”がぱちりと火を噛んだ。
(……あの艶……あれ反則だろ。
あんなん見せられて我慢できるやつ、聖人か味覚障害だぞ!?)
(……あれを犬に横取りされるとか、絶対に許せない。
味覚とか理念とか以前に、魂が拒否する。)
「お菓子は“美味しく食べられて”こそ本望。
なら──わたしが食べて守る。
甘味を受け入れるこの身こそが、誰にも破れない結界よ。」
(……いや待て。
セリフだけ聞いたら“神聖な守護者”っぽいけど、
中身どう考えても“勇者の皮かぶった食い意地モンスター”だよな俺!?
理屈で飾ってるけど、絶対ただ食べたいだけだろこれ!!)
セラフィーの瞳が、驚きと呆れを通り越し──
わずかに、祈るような光を帯びた。
(……そう。
こういう時のリリアがいちばん強い……)
リリアは迷いなく踏み出す。
甘気が揺れ、世界が一瞬だけリリアの呼吸と重なった。
もう、誰にも止められなかった。
甘気の奥で、世界のどこかの“甘い運命の歯車”が、
かすかに──カチリ、と音を立てた。




