第40話 触っていいよ
オレと蘭鳳院。美術館の中、見つめ合っている。
2人で裸になって、お互いをデッサン……
蘭鳳院……
うぐぐ……
まだくるか…
オレは、一呼吸ついた。
しねーよ。
おまえのことなんて、どうでもいい。
オレが、安心できないんだ。
蘭鳳院め。このおちょくり女子。
脱ぐだ裸だといえば、男子が、動転すると思ってやがるんだな。
オレもさっき……ちょっと、心臓が……だけど……あれは不意打ちを食らったからで。心の準備ができてさえいれば、おまえの攻撃なんて、なんともないぞ。
フッ、
ヒーローに、そう、何度も同じ手が通用すると思ったら、間違いだ。
二人っきりで、裸になってデッサン……だと……?
ん?
それって……もしかして……オレも脱げって?
一緒に脱いで、お互いをデッサン?
そう言ってるの?
蘭鳳院……
オレの裸見たいのか?
蘭鳳院は……
男子についてどう思ってるんだ? 男子拒否しまくりといってたけど。男子に不純な狙いって、やっぱりあるのか?
蘭鳳院がオレの裸で不純を……
ドキュッ!
うわっ、まただ。
やめろ。
波状攻撃だ。一撃耐えたら、もう一撃。試練だ。男の坂道を上るヒーローの試練。
厳しいぜ。こんなに厳しいのか。厳しい道だとは思っていたけど。想像をはるかに超えるぜ。
だいたい蘭鳳院が、どんなに狙おうと、絶対に、オレは、おまえの前で、脱ぐわけにはいかない。脱いだら、それで終わりだからだ。
諦めろ。
オレは、おまえの好きにはならない。いくらおちょくって、引っ張り回しても、オレはオレだ。そういうこと。
「蘭鳳院さん、オレも鍛えてるんで、その……身体には、自信あるけど、お見せするとか、そういう事は絶対にないから。別に女子に見せびらかしたくて、鍛えているわけじゃないんで」
きっぱり言ってやるぞ!
「え?」
蘭鳳院は、きょとん、となる。
「あ、そうか。そうだよね。私の言い方。勇希も裸になって、私がデッサンする。そんな風に受け止めたんだ。勇希、顔、真っ赤だね。変なこと、想像させちゃった。私が勇希の身体を見たがってるって思ったのね? ごめんなさい。そういうつもり、別に、なかったんだけど」
この子、人を踏みつけにすることに、一切の躊躇いを感じないらしい。
蘭鳳院は、しげしげと、オレを見つめる。瞳がキラキラしている。
オレの身体に、たった今、興味を持ったように。
「ただ、勇希なら、なんだって安心できる。そう言いたかったの。でも。勇希の身体、鍛えてる筋肉質なんだよね」
蘭鳳院が、手を伸ばす。白く細い指が、オレの左腕の二の腕に触れる。
「あっ!」
オレは、反射的に身を引いた。蘭鳳院の指が、学ランの上からだけど、オレに触れた。ビクッとなった。触るのはだめ。このまま好きにさせたら、もうどうかなっちゃいそうで。
「ダメ!」
オレは言った。なんだか、男子に触られた女子みたいだ。
蘭鳳院、慌てて手を引っ込める。
「ごめん、勝手に触られるの嫌なのね?わかった。気をつけるよ」
蘭鳳院、じっとオレを見つめる。
オレは、またまた、心臓の動悸が。
大げさだったかな。ちょっと触られたくらいで。まるっきり女子の仕草だった。変に思われたかな。でも蘭鳳院の指先が触れて、ビリッとしたんだ。なんだろう。満月にくっつかれた時とはまた違った。
目の前の蘭鳳院。
あれ。こっちへ、身を乗り出してきた。
後ろに手を組んで、背の高い体をちょっとかがめて。胸を突き出すようにしている。
なんだ?
今度はなんなんだ?
「今のお返しに」
蘭鳳院、落ち着いた口調で言った。
「私の、どこ触ってもいいよ」
ドビューン!
え? えええ?
なんだ……また……
もう……いい加減にしてよ。
波状攻撃。
終わったと思ったのに。どんどん強くなってきている。
ねえ、オレに何がしたいの?
オレの身体、ぶるぶると震える。いや、もう、ガタガタと言うべきだ。
どこを触ってもいい?
蘭鳳院、すぐ目の前。
艶やかな黒髪がさらさらと、肩の後ろまで垂れている。透き通るように白い肌。制服に包まれた、スレンダーな身体。
蘭鳳院の、お澄まし顔。冴え冴えとした、美しさ。
本当に、いったい何を……
オレの身体が、火照る。異様な炎が、体を貫き、噴き上げているような。冷や汗が、額ににじむのを、感じる。
クソッ、
なんで、こんな、お澄ましのかまってちゃんに、振り回されっぱなしなんだ?
こんなの、きっと……また、冗談だ。オレをおちょくってるだけだ。オレをからかって、ふざけて、面白がっているだけだ。
男子をオモチャにして、そんなに面白いのか。
オレたち、顔を寄せ合っている。すぐ近い距離で。
オレは、ガタガタと震えが収まらないけど、しっかり、蘭鳳院をにらみつけてやった。
負けないぞ。
蘭鳳院の瞳、オレの精一杯の目線を受けても、びくともしない。しっかりこっちを見つめている。
ねぇ、もういい加減に……こっちが、負けちゃいそうだよ……ヒーローであるオレが、負けるなんて……絶対にあってはならないんだけど。
どうしよう。落ち着くんだ。
冷静になるんだ。
えーと。今の状況。蘭鳳院が、オレに触って、お返しに触っていいよって。
うーむ。さっき、蘭鳳院は気軽にオレに触ってたよな。別に変な感じじゃなくて。蘭鳳院はオレが女子に不純感じないっての、信じてくれてる。だから、触ったお返しに、触られても、気にしない……のかな。
オレが勝手にパニックになっちゃっただけで、変に、意識することはない?
難しく考えずに、蘭鳳院の身体に、触っちゃってもいいの?
蘭鳳院の身体に触る?
その考えが、脳裏に浮かんだ瞬間、オレの身体、ゾクゾクっとする。
いや、さっきから、身体が、ガタガタガタガタ震え、冷や汗をかき、頭が完全にのぼせ上がって、もうどうなってるか、分かんない状態なんだけど、そこへまた、
蘭鳳院に……触れる……触る……この、オレが。
ああ……もう……
この前の家庭科の時、一緒に倒れ込んで蘭鳳院を抱えたけど。それとは全然違う。自分で、触ろうとして触るんだ。蘭鳳院が、そうしていいと言ってるんだ。
頭が、ぐるぐるぐるぐる回る。
熱い。
頭が、身体が……
でも……触らなきゃいけない。
絶対に。そう思った。
なんでだって?
わかんないよ。何が何だかわかんない。何が起きているのかわからない。
でも、先に進まなきゃいけない。先に進むには、一歩進むためには、とにかく蘭鳳院の言う通り、触らなきゃいけないんだ。そうするしかないんだ。ぼおっとする頭に、そんな声が、こだまする。
蘭鳳院が、今日ここに誘い出してきたんだ。そして、身体を触ったりなんだり……全部、蘭鳳院が仕組んできたんだ。何を考えてるのか、さっぱりわからないけれど……よし、蘭鳳院の誘いに乗ってやろうじゃないか。女子にビビってると思われてたまるか。
オレはヒーローだ。男だ。どんな仕掛けだって、怖くはないぞ。飛び込んでやる。
蘭鳳院に触る。
蘭鳳院は、すぐ目の前だ。ちょっと手を伸ばすだけでいい。
触るって……でも……どこを?
蘭鳳院、後ろに、手を組んで、ちょっとかがみ込んでいる。胸を突き出して。
胸。
いや、胸を触るなんてありえない。いくらなんでも……絶対ダメだ。
なるほど、蘭鳳院のやつ、オレを試しているのかな? 触らせてやると言ったら、どうするのか。どこを触るのか。どこまでも、おふざけが好きだな。
どうしよう。
すぐ目の前、蘭鳳院の顔……
肩……
胸……
腰……
スカートの下の、絶妙な曲線の、太腿……
まっすぐなラインの、細い脛……
どこを?
うぐぐ……
そんなに気軽に、触れるところなんて……あるわけない!
こうなったら、鼻でもつまんでやるか? いや、それはさすがに……
ふと、思った。
そうだ。
青い星。
右のほっぺの、下のほうに。今は見えないけれど。
よし。
右のほっぺ。そこに触ってやろう。おかしいかな? 別に問題ないさ。うん。
青い星に触る。
ゾクリ、とした。
オレの身体の震え、どんどん大きくなっていくような。
落ち着け。
オレの左手を、ちょっと伸ばす。それだけ。それだけでいいんだ。何でもない。
オレは、蘭鳳院のほっぺに触れる。本当にちょっと触れるだけだ。それでいい。
で、
「ほら、この前話した青い星、この辺に見えたんだ」
「へー、そうなんだ。私もいつか、見てみたいね」
それだけ。それで、もう終わりだ。
よし。
オレは、手を伸ばそうと-ー
うん? なんだ?
手が動かない。ピクリともしない。
なにやってるんだ。大事な時なのに。
なんで、こんなこともできないんだ。
あ、
気がついた。手汗。手のひらが、汗でびっしょりだ。
こんなんで、蘭鳳院に、触るなんて……
どうしよう。
蘭鳳院の目の前で、ハンカチを取り出して手のひらを拭いて、それから蘭鳳院に触る?
いや、さすがに、そんなのはダメだろ。
どうしよう、どうしよう、ああ……
頭がぼおっとする。
おかしい。苦しい。息が苦しい……
なんなんだ。
ねぇ……どうして……
「勇希、大丈夫?」
蘭鳳院、心配そうな声。
「顔、真っ青だったよ。さっき真っ赤だったのが、どんどん青ざめちゃって。それに震えているじゃない。すごく汗かいちゃって。あの、怖がらせちゃった?」
蘭鳳院が、手を伸ばす。蘭鳳院の、白く細い指が、オレの、右の頬に触れる。
「うわっ」
蘭鳳院の指先。それは冷たく。でも、すぐ、オレの頬は熱くなった。電流が走る。ナイフで刺されたみたいに、痛い。こういう痛さって、初めて……
蘭鳳院は、手を引っ込める。
「勇希、ごめんね、こんなに固まっちゃうなんて、思わなかったから。そうだよね。勇希は、女子に触るなんて絶対できないよね。そういうことしないよね。女子のこういうの、すごく苦手なんだよね。本当にごめんなさい。もう絶対、触ってなんて言わないから」
蘭鳳院は、にっこりした。
オレに向けられた、完璧な笑顔。オレは、ただただ、見つめるしかなかった。
少しの間、オレたちは見つめ合っていた。
少しの間……だったと思う。オレは、頭がぐるぐるぐるぐるして、時間なんてもうわかんなくなっていた。
蘭鳳院が、心配そうにオレを見つめている。
オレは、ふうっ、と息を吐いた。
やっと、自分を取り戻してきたようだ。うん。身体も動くぞ。
「あの……蘭鳳院さん、心配してくれてありがとう……オレ、べ、別に、なんともないから。なんだか美術品に囲まれたんで……ちょっと……頭がクラクラしちゃって……」
「本当?」
「うん。なんともないよ」
「そっか」
蘭鳳院は、いつものお澄まし顔で、周りを見回す。
「ここ、息苦しいのかな。ねぇ、外行ってみない? 気持ちいい春の陽気だし。外に行けば、描くものも、見つかると思うよ」
描くもの?
あ、そうか。オレたち、美術のデッサンの課題でここにいるんだっけ。もう完全に忘れてた。
外か。
そうだな。これ以上、ここで2人きりでいるのは、なんだかちょっと……
「うん。ここでいろんな作品も見たし……外に行こう」
蘭鳳院は、画板と鞄を持って、入り口のほうに向かって歩き出した。オレも、画板とスポーツバッグを持って、ついていく。
蘭鳳院の背中を見つめ見つめながら、オレは、ようやく余裕を取り戻してきた。
なんだったんだ、今のは。
なんだか……オレが、ひどい目にあわされたような気がする。
いや、本当に。オレの、心臓も……血管も……危ないところで。
蘭鳳院は、何がしたかったんだ?
結局、おちょくられたのかな?
蘭鳳院。
キサマ。
人をおちょくるにも、ほどがあるぞ。
散々おどかしたり、揺さぶったり、振り回したり、心配してくれたり……
キサマは、オレを、男を、ナメているのだ。
いつまでも、そんな態度取れると思うなよ。
美人で、背が高くて頭がいいからって、何をしてもいいわけじゃないんだぞ。
蘭鳳院麗奈。
覚悟しろ。




