第271話 牙煙狒狒 《ケナヒル》
白い靄の中。
オレと麗奈と赤ちゃん。
ぴったりと身を寄せあって。
周囲は真っ白。
でも。
時空が歪む感覚がない。いつも体験してる時空転移、それじゃない。
どうしてだろう。明らかに現世の次元を超えているのに。
オレはしっかりと身構えている。額にも掌にも汗が。
何が起きるんだ? 何が襲ってくるんだ? それともこれから時空転移するのか?
赤ちゃんが幽世に呑まれるなんて。オレは寒気がする。絶対ダメだ。あんなところに。
麗奈も赤ちゃんも、必ずオレが守るぞ。
しかし、一面の白い靄の世界。これで何をどうすればいいのやら。
すると。
あれ?
白い靄の一点から、何かを感じる。気配。
麗奈も気づいたようだ。気配の方を指差す。
「あそこ。あそこに何かがいる。まだだいぶ遠いけど」
オレはじっと白い靄のその先を睨む。気配。
魔物だ。
何度も遭遇しているからだ。わかる。オレにはわかるんだ。やはり魔物。ならばする事はただ1つ。
守る。魔物なんて、絶対に麗奈と赤ちゃんに近づけてはいけない。よし。今こそヒーローのターン。
「オレが行くよ。見てくる。麗奈、赤ちゃんと一緒にいて。絶対にそこを動かないで」
振り向いたオレを麗奈の見開いた瞳がとらえる。
「ダメだよ。靄で視界が効かないのに1人で行くなんて。危ない。やめて」
「麗奈、大丈夫だよ」
オレは微笑む。
「しっかり赤ちゃんを守っていて。何、ちょっと見に行くだけだから」
「……うん……わかった。気をつけてね」
麗奈は赤ちゃんを抱きしめ、オレにしっかりとまなざしを向ける。
うぐ……
うぐぐ……
これって。キマった? 完全に……オレの男の坂道。ヒーロー街道。ヒロインを守る真の男。バッチリすぎるぜ。
ふふふ。わかっただろう。これがヒーローだ……いや、そんなこと言ってる場合じゃない。麗奈と赤ちゃんが危ないんだ。とにかく全力で戦うんだ。靄の向こうにいるのが魔物ならば。
何、ちゃっちゃと片付けて、何気ない顔してまたヒロインのところに戻ってやるさ。今回こそはビシッと決めてやるからな。
オレは微塵も迷いもなく、白い靄の中を、気配の方へと進む。
しばらく歩いた。ちょっと不安になる。後ろに、麗奈と赤ちゃんを残している。まさかオレが靄の中で迷ってる間に、麗奈たちが襲われたりとか、そんなことないよな。
心配になって足を止めた時、
目の前の靄の中から。
現れた。巨大な影が。
うご、
なんだ、なんだ、なんだ、
でかい……
身長5メートルくらい。これまでも、このくらいの大きさの魔物には散々遭遇している。でも。靄の中から急に現れたんだ。すぐ近く。もう、3メートルの距離といったところ。戦闘じゃ至近距離と言っていいくらいな。
すぐ目の前の魔物。
二本の足で立っている。また猿か? いや、ゴリラと言うのか。全身青黒く毛むくじゃら。2つの不気味な赤い瞳。二本の大きな牙。青黒く光る金属製の鎧を着て、腰の両側に二本の剣を差している。足は短いが両腕は筋肉が異様に盛り上がっている。
オレの胸がピカーっと虹色に光る。
ーー 牙煙狒狒。煙幕を巻き起こし敵に近づく。鋭い牙と強い両腕が武器 ーー
世告げの鏡登場!
うーむ。案内、相変わらず見たまんまだな。ま、隠し武器とか特殊能力はないってことでいいのかな。そういうのがあったとしても、オレのポンコツアイテムに見破れるのか疑問だけど。牙煙狒狒? 猿系魔物に見えるけど、鬼って言わないんだ。この前の白猿鬼とはまた別系統なのかね。
なんにせよ。
もう戦闘開始の間合なんだし。
「天破活剣!」
オレの右手に青白い光の炎を噴き上げる魔剣が現れる。背に翻るのは男の戦闘服、長ランだ。
よし、牙煙狒狒だっけ? デカさと力が売りと見た。一撃でぶった斬ってやるぜ。オレ素早く魔剣を構え、奴の胸に必殺の突きを喰らわせてやろうと、
ーー ここは、現世か? ーー
なんだ急に。頭に言葉が響く。世告げの鏡じゃない。これ、目の前の牙煙狒狒が喋ってるの?
微妙にタイミングを邪魔されて、オレは一旦攻撃を中止する。
「お前、自分がどこにいるのかわからないのか?」
ーー 急に呼ばれたのだ。周りの時空が歪んだ。裂け目ができた。その向こうに、小さいが強く、熱い光を見た。それが我を呼んだのだ。そして、ここに来たのだ ーー
「え?」
どういうことだろう。あ、ひょっとして。この魔物が現世に時空転移してきたのか? なるほど。やっぱりオレと麗奈が時空転移したんじゃなかったんだ。いつも時空の裂け目に落ちて幽世に行くのは現世の人間の方だけだと思ってたけど、魔物がこっちに来ることもあるんだ。確かに、ティオレとかフィセルメとかこっちに来てるしな。
今回はこいつがご来客と言うわけか。
ーー われは呼ばれたのだ。小さく強く熱い光に ーー
うん? 牙煙狒狒。まだ言っている。
呼ばれた? 誰が魔物なんて呼ぶんだろう。
小さく強く熱い光?
オレは思い当たった。
赤ちゃんだ! 麗奈の腕の中の赤ちゃん!
そうだったんだ。
捨てられた赤ちゃん。暗い中で、怖くて、誰かに来てもらいたくて、必死に泣いていた。呼んだんだ。ありったけの力で。それに麗奈が気づいた。でも、呼ぶ声が届いたのは麗奈だけじゃなかったんだ。幽世にも届いたんだ。それで魔物の時空転移を惹き起こしちゃったんだ。
すげえな。あの赤ちゃん。誰かにそばにいて欲しい、生きていたい、想い、そんなに強いんだ。
感心してる場合じゃない。
とりあえず話はわかった。ここは穏便に行こう。
「あの、あなたを呼んだ子は、無事です。もう問題解決しました。安心してください。幽世に戻って大丈夫です。後の事はきっちりオレが責任を持つんで。オレと一緒にいる子も、頼りになることに関してはオレよりも上なもんで。あはは。いや、お互い心配したけど、よかったですね。さあ、早く帰って、この靄を晴らしてください」
オレだって戦うだけじゃない。ちゃんと話し合いも試みるんだ。それもヒーロー。
だが、牙煙狒狒。赤い瞳を不気味に光らせると、
ーー 我は呼ばれた。連れて行く。連れて帰る。強く熱い光を。邪魔は許さぬ ーー
うむ。やっぱりそうなるんだ。なかなか話の通じる人っていないよね。幽世にも、現世にだって。連れて帰る? 赤ちゃんを? だめだよ。いくら寂しがってたからって。幽世なんかに行かせるわけにはいかない。
オレの気も知らず。
牙煙狒狒、グワッと口を開け、牙を剥き出しにする。襲ってきそう。
うむ。やはり。
戦うしかないようだ。




